【連載】中山淳雄の「推しもオタクもグローバル」第55回 フロンティアだけが人生:FCバルセロナ→日本サッカー協会→アジアサッカー協会→FIFA→カンボジアリーグCEOになった日本人

中山淳雄 エンタメ社会学者&Re entertainment社長
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今回のインタビューを通して、昼夜通して壮大な冒険譚を聞いたかのような恍惚感に包まれた。そもそも日本の商社出身者が、スペインMBAの後に世界トップクラブであるFCバルセロナに入社。メッシやロナウジーニョなど世界トップアスリートとの交流。その後日本サッカー協会、アジアサッカー連盟にてアジア中のサッカーリーグの改革を経て、現在はカンボジアの新生プロリーグの初代CEOになるという、およそ聞いたことのないようなキャリアステップ。アジア各国の首相・政治家・軍のトップたちとの華やかな交流の陰に、数百万円の協賛金集めにも四苦八苦し、毎日ボール・グラウンド整備 するような泥臭い起業家ストーリー。それでいてサッカーという世界一有名なスポーツで外務省・JI CA・JFにみられるような「日本がアジアの発展に寄与できる」公共性と責任の重さ。まさに壮大なインタビューとなった今回の話は日本人としてのあり方、という意味で非常に考えさせられるものとなった。

  


■カンボジアでプロリーグ結成、世界初の海外リーグCEOになった日本人

――:自己紹介からお願いいたします。

斎藤聡(さいとう さとし)と申します。カンボジアン・プレミアリーグ(CPL)のCEOをしております。カンボジア版のJリーグですね。

 


――:カンボジアのリーグのトップが日本人、とちょっとにわかに理解しがたい状態ですね!

CPL自体が2022 年3月にできたばかりです。1982年から政府省庁、軍隊、警察などのアマチュアチームを集めたリーグはあったのですが、それらを整理統合してカンボジアのサッカーレベルを上げるためにカンボジアサッカー協会の判断でCPLが結成されました。ただリーグ立ち上げ経験がある人間が国内にいないこともあり、以前から関わりのあった私がノミネートされました。

カンボジアというか、そもそも「海外のリーグのトップが日本人」自体が初めての事例だと思います。私も2021年10月に完全に拠点を移して、専任CEOとしてカンボジアで仕事をしています。


――:斎藤さんはカンボジアにどういった縁があったのでしょうか?

もともと2013年にFIFAのコンサルタントとしてカンボジアにきていたんです。当時はJFA(日本サッカー協会)にも所属しながら、「アジア諸国のサッカーレベルを上げる」という仕事に携わってました。

東南アジアはベトナム(FIFA2022ランキングで93位)とタイ(111位)とダントツの2強なんです。そこにフィリピン(134位)、マレーシア(145位)、香港(146位)、インドネシア(151位)やシンガポール(160位)と続いて、カンボジアは177位。とてもサッカーが盛んな国とはいえない状況かと思います。

ただ2023年にSea Games(東南アジア版オリンピック、1959年から隔年開催)で50年以上の歴史の中、第32回にして初めてカンボジアで開催がされることが決まったんです。それにあたってまずSea Gamesで勝てる国に、東南アジアでトップのサッカー国家にするぞというVision2030が設定され、CPLのような構想が立ち上がりました。もう10年以上前の話です。

 


――:正直人口も多いわけではなく、経済的にも豊かではないですよね。

カンボジアは人口1700万人と少ないながら、7割が30歳以下、平均年齢23歳と、いわゆる発展途上国の典型のような国です。日本が平均48歳ですから、全然違いますよね笑。いまだポルポト政権のときの負の遺産のイメージが強くて、「地雷が埋まっているんですよね!?」などと言われるんですが(現在はほとんど撤去済)、とても親日国ですし、当時のイメージとはずいぶん違うと思います。


――:思ってみたらサッカー大国のベルギー(1100万人)もクロアチア(380万人)なんて人口は圧倒的に少ないですもんね。カンボジアもサイズだけでいえばオランダ(1750万人)とほぼ同じですし。確かにサイズが大事ということはないんですね。

欧州は各国でトップリーグがあり、鍛えられる場がありますからね。だからカンボジアも単独というよりはアジア諸国全体がお互い切磋琢磨することで欧州のような強いサッカー国家が創れるのではないかと思います。

現状カンボジア代表選手の99%が国内リーグの選手ですからね。まずは国外の強いリーグで活躍できるような選手を作っていかないといけない。

――:クラブ数はどのくらいあるのでしょうか?

1部リーグが8クラブ、2部リーグが12クラブで構成されます(+女子リーグの8クラブもあります)。CPL設立前は13クラブ全部でリーグ構成していたのですが実力差がありすぎて、平気で6対0みたいな試合になるんです。見ているほうも面白くないし、拮抗する中で応援しながら選手もクラブも強くなっていく実感がもてるようにしたかった。そこで5クラブを2部リーグにとして、水準を担保したんです。


――:すごい問題が噴出しそうな動きですね。突然外国人がやってきてリーグを分ける。5チームは下にいってもらう、と。

途上国あるあるなのですが、カンボジアのサッカー協会会長が国の関係者で、憲兵隊のトップなんです。だから軍事を全部握っている最高責任者が「Satoshiの言うことならやってみよう」となったことで、全員がそれをバックアップしてくれました。実際に選手からもチームからも「試合が面白くなった」と言ってもらえ、2部に下がったクラブも必死でレベルを上げようとするようになりました。

――:収入源など大丈夫なのでしょうか?

カンボジアは国営放送しかなくて放映権という概念がありません。視聴者の“広告先としての質"も低い(モノの購入につながらない)ので、広告単価も上がりません。他国であれば一番の肝が放映権なのですが(Jリーグもタイリーグも収入の7割は放映権)、基本的にはスポンサー収入でマネジメントしていくしかありません。チケットも統一価格なので全試合固定の2ドル。一度5ドルまで上げたんですが、そうすると途端に売れなくなりました。だからCPLの意義を感じてもらい、カンボジア中の富裕層にバックアップをお願いしています。

Jリーグ前の日本もそうでしたが、政界・財界のお金持ちが個人資産で赤字出しながらクラブ運営しているというのがずっと基本だったんです。BOEUNG KET FCは環境大臣が所有してますし、SVAY RIENG FCは 警察のトップのクラブです。


――:シンガポールも海外のクラブから直接投資を呼び込んでますよね。シンガポールプレミアリーグもアルビレックス新潟シンガポールがダントツ1位だったり(2016~22年の7年間で5回優勝)。

是永大輔さんのところですよね。シンガポールは中国系、韓国系など外資を呼び込んだリーグ活性化を行ってます。


――:まさに資金源問題でいうとシンガポールは公共性の高い事業をしているクラブに公営カジノで年30億円の収入を確保していたりしていました。現在状況が変わってきているところがありますが。こういった例外的な措置が無い限り、チケットとスポンサーだけで収支を黒にするのは不可能に近いと思います。

はい、カジノはシンガポール特有の事業なので、スポーツベッティングなどへの転換がないと厳しいだろうなとは思います。


――:サッカー途上国は基本サッカービジネスは赤字ですよね。CPLはどのくらい年間運営費がかかるのでしょうか?

昨年度は約 $1.7Mでした 。このうち、Metfoneという(カンボジアにも展開する)ベトナムの通信キャリアが協賛費の大部分を出してくれて、そこに日本人がトップになったこともあり、Panasonicさん、Suzukiさん、JACCSさん、Moltenさんといった日本企業の協賛もあわせ、チケット収入を含めても年$0.9Mはショートしてしまっています。

だから資金繰りも重要な仕事です。なんで黒字にならないんだ!とも責められますしね笑。国の事業だから株式売るわけにもいきませんし、放送機材買って自分たちで映像配信するなかで広告枠を売ったり、海外のテレビ局向けの営業なども自前でやっています。


――:いや、ホントベンチャー企業の資金繰りとおんなじですね!しかも公的責任がある組織だからおいそれと潰すわけにもいかない。

お金はあるところにはあるんです。ただ今までプロダクト(試合や映像)がしっかりしていなかったので、そもそも売りようがなかった。でもこの数年でCPLはプロダクトとしては目に見えて改善しています。急激によくなっているプロダクトをもって、どうCPLの採算をあわせていくかもCEOとしての責務になります。プレッシャーがあるところにイノベーションは生まれるものです。

 

 

■サッカー漬けの学生時代、米国事業を1ドルで買い取った父のアメリカンドリーム

――:そもそもここに至るまでの斎藤さんの経歴に大変興味があるのですが、学生時代はサッカー部ですか?あと帰国子女ということで長く米国いらっしゃったんですよね?

小・中・高・大学までずっとサッカー部でやってきました。父の仕事で12歳の時にデトロイトに渡米してから高校卒業まではアメリカで、大学の時に日本の慶應大学に戻ってきました。


――:わりと海外赴任の子弟は高校時代に母親と戻ってくることが多いのですが、高校まで米国にいらっしゃったんですね。合計7年間の米国生活ですね。

1993年にちょうど慶應大学がニューヨーク(NY)校を新設したんですよね。ですので第一期生としてニューヨークで慶應に入学しています。


――:第一期生!海外の日本校といえばニューヨークの慶應かシンガポールの早稲田(1991年設立)が有名ですが、慶應は1993年からだったんですね。日本人がプラザ合意後に大挙して渡米していた時代ですから、その後設立しているんですね。

最近ですと半分くらい日本から進学する学生もいるようですが、当時だと日本からくるのは1-2人、ほぼ完全に現地の帰国子女のみの高校でした(注:慶應NY校は2000年以降日本から出願でき、毎年ほぼ全員となる100名が慶應大学に進学する)


――:第一期生ということは、高校では当初サッカー部も無かったんですか?

はい、だから作ったんですよ。当時は私にとってサッカーがアイデンティティになっていましたから。小6で米国にいった時は当然英語が話せませんから、本当に苦労しました。そうした中でも「あいつはサッカーがうまい」と言われてきたので、小・中はずっとそのコミュニティの中では自分が一番うまいプレーヤーだったんです。高校も寮生活のメンバーを募って、サッカー部を立ち上げました。


――:逆に高校までずっと米国にとけこんでいらっしゃったと思いますが、大学で日本の慶應大学に進学されたのはなぜですか?

そのまま米国の大学にいってしまうと、日本人としてのアイデンティティが揺らぐ気がしたんですよ。バブルはじけていたとは言っても、日本には憧れもありましたし、当時はまだキラキラしていたんですよ。

あとJリーグが立ち上がっていたこともあって、大学からプロになれるんじゃないかという勘違いもありました。


――:おおーーもうそんなレベルだったんですね!?プロを目指すって相当ですね。

いやいや、お恥ずかしい話、アメリカにいたことで自分のレベルを勘違いしていたんです笑。小中高とずっとサッカー1番だった人間が、慶應のソッカー部に入って1番どころか一番ビリになってしまって、レベルの違いを思い知らされました笑。米国は芝が普通なのに、日本だと土のグラウンドだったり、色々違いました。


――:確かに米国はサッカーというかアメフトなど他スポーツに中心人材奪われますもんね。斎藤さん大学時代に事業たちあげられてますよね?Warrior Lacrosse Japanという会社。

父がデトロイトで工場をもっていて、航空機の油圧機器などの仕事していたんですけど、友人の息子さんがプリンストン大学でラクロス選手をしていた関係でチタニウムを使ってラクロススティックを開発したんですよ。その頃はまだアルミ製が中心でよく折れていたので、そのチタン製スティックを輸入して販売する仕事を自分が代理店として日本でやっていました。


――:お父様は日本企業の出向で米国行かれたんですよね?何の事業をされてたのですか?

日本鉱業で今のENEOSで会社員だったので、最初はその駐在員として渡米しています。デトロイトに工場撤退のプロジェクトで期間限定で赴任したのですが、やっているうちに自分でやれば再建できると思いはじめて、工場ごと事業を買い取って自分で始めたんですよ。


――:ええ!?米国駐在員が工場ごとMBOですか!それはすごい事例ですね。

もう価格もつかなかった赤字事業なので$1で買い取ったそうです。くしゃくしゃのポケットマネーの1ドル札を出して、「これが俺が1ドルで買ったアメリカンドリームだ!」と後年も言っていました笑。そこからグリーンカードもとって、現在に至るまで両親はずっと米国にいます。


――:ほとんど聞いたことのないレベルの起業家事例ですね。僕も以前バンクーバーいたときに青木建設からMBOした岡本裕明さんの事例くらいしか聞いたことがありません 。いまの斎藤さんの働き方をみていると、その原点がお父様にあるような気がしますね。

たしかにお話していて思いましたが、今の自分の原点ってあの時の父親の背中にあったのかもしれませんね。知らず知らず影響受けていたのかも。

 

■商社での挫折、MBA留学からのFCバルセロナ初のアジア人採用、神の子メッシとの邂逅

――:大学卒業後の進路は最初どう選ばれたのですか?

伊藤忠商事に2年半いました。英語が話せて、起業も経験して、体育会系のソッカー部にも所属していた、というのがあって入社時はホントに期待されていたようです。採用のときも「お前はトップ5%だから。絶対偉くなるぞ」と声かけられたり。当時商社としては出世本丸であった飼料畜産部に配属になります。


――:そうですよね、鉄鋼とか飼料畜産とか、商社って。でも海外からきた斎藤さんに、果たしてあのカルチャーが合うのかどうか・・・

まさにご指摘の通りで、合わなかったんです。いわゆる「使えない新人」でした。穀物取引で為替の計算の帳尻なんかもかなり緻密にあわせないといけない仕事なのに、報連相もきちんとミスなく振舞う他のメンバーと違って、米国育ちの自分は数字周りがあまり得意じゃなく、ガチガチの仕事に思えました。「あいつは“外国人だから"」と、お局さんにいつも定規で叩かれるんですよ(時代ですね笑)。資料の記入ミスとか計算違いとか。

同期と合コンにいくと、アパレルや情報系やっているやつらがキラキラ見えて。自分は飼料畜産だといっても「・・・大変そうなお仕事ですね」でスッと流されてしまったり笑。


――:1997年、「商社冬の時代」につっこんでいく商社にとっては重要なターニングポイントの時代ですね。まさに穀物取引の為替トレーディングから、投資事業のほうに振り切って、現在の商社無双を創り上げたビジネスモデルチェンジのど真ん中の時代ですね。

甘えがありましたね。今となっては当たり前のことを言われていましたし、今僕が新入社員に口酸っぱく言っていることと同じなんですよ。当時は数字の大事さが気づかなかったですね。


――:退職されてMBAに留学されます。ESADEはスペインMBAトップスクールの1つですが、米国出身の斎藤さんがなぜスペインを選ばれたんですか?

米国ミシガン大学にも合格してたんですが、やっぱり「サッカーがやりたい」が強かったんですよね。ESADEはバルセロナにあるので、そのままFCバルセロナに入社するという卒業コースがありえると思ったんです。


――:なるほど、ケロッグMBAからコカ・コーラのマーケティングに入るようなものですよね。就職も見据えた入学なんですね!でも、普通そんな都合よく入れなくないですか?

ラッキーでしたね。当時FCバルセロナは4年連続でチャンピオンを逃していて、レアルマドリード黄金時代の陰で改革フェーズだったんですよ。ジョアン・ラポ ルタ会長※が役員陣を刷新して改革をしているなかで「これからはアジア市場が大事だ!」と号令をかけていたところだったので、採用ポジションが出来たんです。当時100人企業だった110年の歴史を持つバルサに初のアジア人として入社しました。2003年です。

※ジョアン・ラポルタ(Joan Laporta):バルセロナ大卒業の弁護士で2003年にデビット・ベッカム獲得を公約に掲げて(結果レアルと契約されたが)、FCバルセロナ会長に就任。ブラジルのロナウジーニョを獲得し、2004~05とリーガ・エスパニョーラ2連覇にUEFAチャンピオンズリーグ優勝などバルサを欧州で最も成功したクラブにのし上げた立役者。


――:サッカーファンからするとゴールデンチケットですね!「日本人初」じゃなくて「アジア人初」というのもスゴイです。

いい時代でした。まだグローバルなビッグクラブというよりは欧州の街 クラブだったのでロナウジーニョとかメッシがその辺で当たり前に練習してました。メッシも当時まだ16~17歳の青年で。仕事終わるといつも練習を見に行ったり、とても距離が近かったです。

そこで世界中でファンを開拓し、どうやって売上をもってくるかというマーケティングを担当したり、Jスポーツなど日本の放送局との放映権交渉などの仕事をしていました。

 

▲左手がメッシ(Lionel Messi)との写真、右手がロナウジーニョ(Ronaldinho Gaucho)との写真


――:レアルもバルサも、英国マンUなども2000年代に放映権を足掛かりにビジネスが大発展していきました。めちゃくちゃ羨ましい時代に、最高峰の舞台で仕事されてましたね。その時のクラブ改革ってどんなものだったんですか?

ラポルタ会長が役員クラスを色々な業界のトップをヘッドハンティングしてきて、エリートがひしめきあってましたね。経営コンサルとして活躍してきたフェラン・ソリアーノ※も副会長としてアサインされ、その後マンチェスターシティのCEOになっています。サンドロ・ロセル※なんかはNIKEのブラジル支社長だった人材です。そういったトップ級の人材を集めていましたが、基本的には“外国人"ではなくカタルーニャ出身なんですよね。

※フェラン・ソリアーノ(Ferran Soriano):1967年バルセロナ生まれ、ESADEのMBA
卒業。起業家・コンサルタントとして欧米10か国以上で活躍、2003~08年までバルサの副会長。現在はマンチェスター・シティのCEO。
※サンドロ・ロソル(Sandro Rosell):1964年バルセロナ生まれ、ESADEのMBA卒業のビジネスマンだったがNIKEブラジル支社長を経て、バルサに参画。復活のカギを握ったロナウジーニョをマンUとの獲得競争で勝利したのはロソルのブラジル時代の個人的な結びつきが起点だったと言われる。2010年にラポルタに代わりバルサ会長に就任。


――:なるほど~中国でいう「海亀族」ですよね。地元はバルセロナ周辺だけど海外で活躍したエリートを呼び戻して改革、というのは日本のクラブにまだ欠けている部分ですよね。バルセロナの改革はHBS(ハーバード・ビジネススクール)のケーススタディにもなっている有名な経営再建事例です。そこに関われたというのは人生の財産ですね。

 

■アジアサッカー連盟で実現したかったアジア版欧州リーグ。FIFA汚職事件に巻き込まれ、道半ばで日本に帰国

――:4年間いらっしゃったバルサを離れ、2007年に再び日本に戻られます。バルサがリーグ連覇を果たし、順調だったと思いますが、どうして帰国されたのですか?

バルサは超楽しかったんですが、やっぱり究極的にいうと「自分のクラブじゃない」んですよね。アジアは稼ぎにいく市場であって、やっぱり「本拠地」にはなりえない。だから日本でサッカービジネスに携わろうと思って帰国しました。

当時JFA(日本サッカー協会)は川淵三郎さん※の下でプロリーグ・プロジェクトをやっていたので、それは面白そうだと思って入局 します。

※川淵三郎:1936生まれ、サッカー日本代表(1958~60)から古河電工に所属し、1989年よりJFA・プロリーグ委員会委員長、その後Jリーグ初代チェアマンを経て、2002~08年までJFA第10代会長を務める。その後Bリーグ設立にも関わり、日本のスポーツ業界でリーグ構想を牽引した立役者。


――:やっぱりフロンティア好きですよね。改革の匂いあるところに斎藤現る、という感じがしてきました笑。でもMBA卒でバルサにいたような人材と給与待遇など合うのでしょうか?たぶん雰囲気も「ザ・日本企業」な会社ですよね?

給与はかなり下がりましたね笑。僕が気にしなさ過ぎたのかもしれませんが、大学院卒業だとこのレベルという既定のようなものに落とし込まれました。協会の雰囲気もお役所的な感じがあって、驚くこともいっぱいありました。

でも「あの川淵さんと働ける!」というのがあったのであまり気にはしてませんでした。


――:ほかにも海外経験者はJFAにいたのでしょうか?

いませんでしたね。80人くらいの組織でしたが、海外でのビジネス経験者は私1人しかいませんでしたし、そもそもMBAをもっている人もいなかったんじゃないかと思います。最初の面接のときに「あなたはMBAで何を学びましたか?」と質問されて、もしかしてこの人MBAって何かわかっていないんじゃないか?と思って「経営学です」と言ったら、「そうですか・・・」とそのまま何の質問もされないような感じでした。


――:当時の日本サッカー界は2006年ドイツで成果を上げられず、停滞していた時期かと思います。FIFA順位も15位(2005年末)→47位(2006年末)からしばらく30~40位をうろうろする時期でした。

2006年ドイツワールドカップは中田英寿とか中村俊輔などタレントがそろっていたのにグループリーグ敗退になって完全な低迷期でした。4年前のバルサじゃないですが、改革がさけばれている中で川淵さんは「日本だけ強くしようとしてもダメだ。普段対戦するアジア全体のレベルがあがらないと、日本自体も強くならない」ということで、アジア各国でプロリーグを作っていくプロジェクトが立ち上がっていたのです。

私は「特命担当本部」としてアサインされ、マレーシアのAFC(アジアサッカー連盟)に送られる前提で入局したんです。


――:最初JFAではどんなお仕事されていたんですか?

やっていたのは2つです。1つ目はFIFAクラブワールドカップの運営。2つ目は、今のライフワークにつながりますが、先ほどの特命担当の仕事で、アジア中にサッカープロリーグを作ること。当時アジアサッカー連盟ハマム会長 と一緒にリーグづくりです。


――:どちらもあまりに壮大な事業ですね笑。リーグというのはどう作っていくものなのでしょうか?

アジアサッカー連盟としてアジア中の48か国を全部見ていくのですが、年間200日ほど出張でアジアを飛び回り、各国の協会・リーグ・クラブを自ら出向いて視察して評価するのが仕事でした。130項目ほどのプロリーグ規定を創り、その理想に沿ってリーグもクラブも鍛え上げていくんです。ファイナンスはしっかりしているか、フルタイムのCEOがいるか、とかシーズンが何か月で区切られているか、とか。

アジアのチャンピオンズリーグも参加国が23か国ありましたが、規定に到達した10か国のみがチャンピオンズリーグにあがれるようにして、これはまさに自分が欧州で学んできたリーグのつくり方を当てはめていくような作業でした。


――:めちゃめちゃハレーションが起こりそうな仕事ですよね。去年まで出られていたのに、今年になって突然自国のチームが出られなくなる。

だから政治力が重要になるんです。いかに発言力の強い人がバックアップしてくれるかというのが大事ですね。

例えばウズベキスタンでも、チャンピオンズリーグに出るための条件ということで話すと、最初は「うちはうちのやり方でやるからいい。出たいときにリーグに出る」ということで賛同を得られませんでした。ですが、いざ出場できないとなると急に焦りだして、実際にウズベキスタン首相から命令が下ったんですよ。「このままだとうちの国は出場できない。AFC(アジアサッカー連盟)の斎藤の言うことを全部聞け!」と。そうなったら突然規定にそって全体が協調して動くようになって、最後は無事出場までこぎつけることができました。


――:首相まで出動させちゃうんですね笑。

正しいことを言うだけじゃ変わらなくて、最初はその国のメジャーなメディアに向けて発信をするうちに、メディアを通して国民やファンが動き始める。そこから全体のムードが変わってサッカー連盟やクラブも動き出す、といった傾向があって、全体の歯車をひとつずつまわしながら、全体世論を変えていく力業が必要だったりします。


――:PR・ブランド含めた活動ですね。やりがいのある仕事ですね~。

インドネシアなんかも国内リーグが2つに分かれていて、問題がいっぱい起きてました。それを統合していったりするなかで、一度スタジアムにきたときにファンが活動を聞いてくれていたのか、「AFC!AFC!」って拍手をくれたんですよ。1万を超える人たちが。 あれはホントに感動しました。いまもカンボジアでスタジアムにいくと皆が手を振ってくれて、ちゃんと認知もされている。この国のために働けているな、という手ごたえを間近で感じられるのは本当にやりがいのある仕事ですね。


――:でも2007年からAFCでのお仕事されていて、どうして再び日本に戻ることになったのですか?

2013年にいったん日本のJFAに戻ります。FIFAのゼップ・ブラッター会長が捕まってしまって、実はそこに資金提供もしていたのがAFC会長のモハメド・ハマムだった※。リーダーシップもあってスゴイ会長だったんですけど、やっぱりそういったトップが総崩れになると、各国のプロリーグ設立どころじゃないですよね。

日本のJFAもすでに川淵さん、小倉純二さん(2008~11)から田嶋幸三さん(2016~)とトップが変わっていて、日本のためにやっていることなのに、「あいつ、いまどこで何して るんだ?」みたいな見られ方もしてしまって、これはいったん日本に帰ろうとなりました。

※ゼップ・ブラッター(Joseph Blatter 1936~):スイス出身、1981年よりFIFA事務総長を経て1998~2015年まで国際サッカー連盟(FIFA)の第8代会長を務める。2015年FIFA汚職事件としてワールドカップの誘致に賄賂が発生した事件の関与者としてFIFA活動への参加が2022年まで禁じられていた。
※モハメド・ビン・ハマム(Mohammed Bin Hammam):カタール出身でFIFA理事であるとともに2002年からアジアサッカー連盟会長職にあったが、2011年FIFA会長選の嫌疑から職務停止、サッカー活動の永久資格停止処分。

 

■FIFAコンサルタントからカンボジア版プレミアリーグの設立。サッカーを通じた日本からのSocial/Economic Impact。

――:壮大なミッションでAFC各国でプロリーグを作られ、日本の仕事に気持ちとして戻れるものなのでしょうか?

そうですね。たしかに次のステップにいくべきかと悩んでいた時期でもあります。日本に戻って日本代表戦 の運営をしていました。もう国際試合の会場準備 とかゲストのアテンドとかこれまであまりやってなかった仕事ばかりで慣れなかったんですが、実はここで2年間きっちり競技 運営を経験したことが今カンボジアでも使えているので、あの時嫌々ながら色々やっていてよかったなとも思います。

マーケティング部としても日本代表の権利とは別にJYD(JFA Youth and Development Program)を作って、そのスポンサーシップ をTOYOTAに販売したりといった仕事をしていて、つくづく「世の中に売れないものはないんだな」と実感しました。スポーツって結局ファンが好きになって集まってくれるという現象に様々な広告価値やブランド価値がつくので、あとはそれをどうパッケージ化して、どのメディアが一番価値を感じてくれるかという「商品づくり」なんですよね。


――:たしかに他産業をみていても、スポーツって「チケット以外でどうやってお金を作るの?」でいうと本当に多様に様々な取り組みをしていて、お手本になります。

自分でできることを恐れずに自分の手でやるのが大事ですよね。日本に帰る同時期にAFCで働いていた友人がFIFAに転職していて、手伝ってくれというのでFIFAの仕事も並行して行っていました。アジアのサッカーリーグ構想も道半ばでしたから。

それで私自身 インドネシア・タイ・カンボジアなどを担当し、カンボジアとのつながりが深まっていくんです。そのプロセスでカンボジアのサッカー協会会長とも知り合いました。


――:それで冒頭のお話につながるんですね。そもそも「サッカーを強くする」ってどういうことなのでしょうか?

もう小さなことの積み重ねですよ。まずはちゃんとしたボールでプレイしてもらう。2年前はベトナム産のボールをリーグで使用していて、天気がいいと軽くて、雨だと重くなったり、いわゆる世界的にプレイされているような水準のものではなかった。また体が小さいカンボジア人だと個人技を磨くよりはパス回しでチーム力で勝つしかないのにそもそもグラウンドのクオリティが低かったので、良質の芝のグラウンドを整備する、とか。


――:そうした積み重ねやスポンサー・放映局の巻き込みで現在の20クラブを鍛え、どんどん大きなサイズのリーグにしていくのですね。

日本も1993年にJリーグつくったときは10クラブから始まりました。約25年たったところで今は47都道府県に56クラブにもなっています。タイも2006年に12クラブだったところから現在は50じゃきかないサイズになっています。こうした成長をみてきた経験を注入して、カンボジアで「どれだけ時計の針を早回しできるか」ということにこだわっています。

 

▲タイプレミアリーグの2006年と現在のクラブ数の推移


――:そういえばカンボジアといえば本田圭佑選手も監督に就任されてますよね。

はい、本田選手は2018年からカンボジア代表選手の実質的な監督であり、年に数回集まってのカンボジアの代表戦を指揮しています(2023年Sea Gamesを最後に退任予定)。私はそこに選手を輩出する国内リーグの統括という立ち位置ですが、よく議論しながら進めています。たとえば代表選手に若手人材育成のためリーグ戦にてUnder22の選手を必ず最低2人は90分出場させ ないといけないというルールをつくったときはクラブから強い反発があります。その分他の年齢的に上の選手枠が少なくなりますからね。クラブが1つ勝ちにいくためだけだったら、そんなルールは入れないのですが、バランスを崩さずに将来への投資ということも平行でやっていかないといけない。

今CPLの1部リーグの8クラブのうち、4クラブは外国人のGMを雇ってますし、まずはこうしたところでもレベルの底上げを図っています。


――:リーグに課する規約というのは実践的なものなのでしょうか?どうも私自身、上場企業のコンプライアンス・プロセスなどみていると、実践とは程遠いような「形をあわせるルール」になる傾向があるのでは?と思ってしますのですが。

私はもう15年もこれをやってますからね笑。「規定 」というとトップダウンの意味のないルールのように感じられるかもしれませんが、実際にやってみると産業貢献という意味ではすごい貢献実感があります。マレーシアやタイの事例をみると、この130項目にあわせて愚直に改善していくと、みるみるクラブもリーグも向上していきます。チャンピオンズリーグもどんどんレベルがあがって、クラブへの投資も活性化して経済もまわるようになっていった。自分たちが手弁当でつくってきたものが間違ってなかったんだなと思います。


――:すごい仕事だと思います。「単なる趣味のサッカーでしょ」というのはありますけど、実はサッカーというルールスポーツを通じて、国や社会が秩序だっていくプロセスに貢献しますよね。

サッカーを通じた教育みたいなところがありますよね。日常的に修練してレベルを上げていくDescipline(規律)の習慣や、フェアにプレーをするRule(規則)を守るメンタリティ、そこに世界的なプロサッカー選手というDream(夢)を与え、最終的に実現したアスリートがHero(ヒーロー)になることで目標となり、その国のブランドイメージにも貢献する。人材開発やグローバルなコミュニケーションんというビジネス機会にもつながるので、Social Impact(社会関係性的なインパクト)から始まるものですが、最終的にはEconomic Impact(経済的なインパクト)にもつながっていく。


――:以前ミャンマーのeスポーツのインタビューもしたのですが、やはり国や社会にそうしたドリームステップが欠けていることが、その国民のチャンスを棄損しているなと強く思いました。日本はこうしたソフトな貢献によって、新しい形でのFDI(海外直接投資)ということもできるんじゃないか、というのを私自身のキャラクタービジネスでも感じます。

なぜカンボジアが親日国なのかという話ですが、昔地雷撤去って日本の自衛隊の技術を提供していったんですよ。数十年前に名もなき元自衛官たちが自らの手で地雷撤去に協力していったおかげで、実はカンボジアにおける日本って非常にリスペクトされているんです。

技術提供という意味では「リーグのつくり方」「サッカーのレベルの上げ方」といったソフトな日本の経験値も十分に貴重な資源なんです。1993年Jリーグ設立以来、ワールドカップの決勝に進出したり、アジアの中では非常に先進的なサッカー大国化への事例をつくってきました。今、まさにこれまでの四半世紀日本が培ってきた知見をもって、欧州の成功失敗の事例も踏まえながら、アジア全体のサッカーレベルを底上げしていけるかどうか、という試金石のなかにこのカンボジアがあると思っています。


――:斎藤さん以外に近いことされているような人材っていらっしゃるのでしょうか?ずっとフロンティアを開拓され続けるようなお仕事をされてきましたが、誰かが継承していくような流れがあるのかをお聞きしたいです。

どうなんでしょうかね。アジア各国のスポーツ業界で活躍されている日本人は数少ないですが何人もいます。ただ日本人でなければ、確実に今後継承してくれそうなカンボジア人スタッフは何人もここカンボジア特にCPLで育ってきています。

ひとまず、今はこの3年間の試金石として、2023年5月5~17日に開催されるSea Games in Cambodiaでどこまでカンボジアのサッカー代表が成果を出せるかどうかが今は一番大事なところです。ぜひ現地にいらして、見て頂ければと思います。

会社情報

会社名
Re entertainment
設立
2021年7月
代表者
中山淳雄
直近業績
エンタメ社会学者の中山淳雄氏が海外&事業家&研究者として追求してきた経験をもとに“エンターテイメントの再現性追求”を支援するコンサルティング事業を展開している。
上場区分
未上場
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