【連載】中山淳雄の「推しもオタクもグローバル」第39回 『初音ミク』15年のキセキ:ネットとボカロとアニメを融合させた声の楽器

中山淳雄 エンタメ社会学者&Re entertainment社長
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2007年8月に生まれた初音ミクは、ニコニコ動画というプラットフォームにのって爆発的に普及したキャラクターである。だがおよそ他一般の「キャラクター」と一緒にしてしまってよいのかという呵責もある。なぜなら初音ミクの楽曲も、初音ミクのイラストも何万・何十万と存在するからだ。そしてまた初音ミクを通じて育ったボカロPは米津玄師からまふまふ、YOASOBIに至るまで現在の音楽業界を牽引する一大勢力になっている。この初音ミク15年を改めて振り返ることで、ボカロという“異質な"キャラクタービジネスについて考えてみたい。今回は北海道・札幌を拠点とするクリプトン・フューチャー・メディア社に話を伺った。
※「VOCALOID(ボーカロイド)」および「ボカロ」はヤマハ株式会社の登録商標となっている


 

■北海道の音源ソフト商社が発見した「ボカロ」という異色のキャラクタービジネス

――:自己紹介からお願いいたします。

伊藤博之と申します。1995年にクリプトン・フューチャー・メディア(以後CFM)を立ち上げ、DTM(デスクトップミュージック)といってPCで音楽を作るソフトを販売してきまして、2007年から初音ミクを展開してきました。

――:あの初音ミクの生みの親となるCFMさんに直接お話伺う機会で大変興奮しております。伊藤さんは最初どうして起業されたのでしょうか?

私は北海道大学工学部の職員で、公務員だったんですよ。当時ってPCやインターネットのファシリティは大学の研究室が一番充実していたんです。それでエンジニアだった私はネットに触れるようになっていて、同時に中学時代からエレキギター弾いて音楽も自分で作っていたので、80年代後半から個人事業として音を販売していたんです。


――:え、当時ってまだCDがようやく出始めた時期ですよね。どうやって売るんですか?

雑誌なんですよ。米国の専門誌「Keyboard」※で雑誌に「日本の音、買いませんか?」で個人広告を出してみて、連絡があったらカタログ資料を郵送し、その後FAXで発注があったら音楽をいれたフロッピーディスクを送っていました。1分くらいの音源が入った1枚を5~6ドルで売ってました。
※Keyboard:1975年創刊で2017年に紙媒体としては発刊を終了している。音楽哲学や音楽理論、ハーモニクスを取り扱い、オーディオギア、PCハードウェア・ソフトウェアの広告なども掲載されていた。


――:デジタルなはずの音楽が、あらゆる手段がアナログによってカバーされていたんですね笑。それが創業にもつながるんですね。

はい、ネットが普及すればこういう手間が全部なくなって、瞬時でデータが送れるじゃん!と思って、1995年にクリプトンを創業することになります(前述の“音の輸出"個人事業は1992年ごろに円高で収支が合わずにやめている)。ちなみに「クリプトン・フューチャー・メディア」という会社名は、特に何かにちなんだり、深い意味がある名前ではないです。検索にひっかかりやすいように乱数の組み合わせでつくった会社名です。


――:名前気になってました笑。CFMはどんなビジネスから始められるんですか?

基本的には音楽制作ソフトウェアの卸です。当時音楽制作ソフトはほとんど海外メーカーが出していたので、受注を受けて海外からソフトCDを何十枚も箱に入れて送ってもらって、それを販売するソフトウェア商社ですね。「初音ミク」のイメージが強いCFMですが、この祖業は現在も続けていて100個以上のブランドを扱ってます。

音楽制作ソフトというのは、PCで音楽を“打ち込んでいく"にあたって、ギター・ベースとかドラムとか、果ては効果音から動物の鳴き声まで、一つ一つの収録された音の素材を組み合わせながら1曲全体を作っていくためのものですね。音自体は数千万種類ありますから、それらをつなぎ合わせてシンセサイザー曲やオーケストラ曲のようなものまで作れるんです。


――:なるほど、「初音ミク」は1枚買ってそれ以上は不要。なんでも歌わせられる、みたいな感じでしたが、当時はどんどん買い集めて、ソフトのコレクションでよりリッチな音楽を作っていったんですね。でもそんな感じで「音楽を作る人」って市場はずいぶん限られてますよね?

マーケットは非常に限定的でしたね。コンピュータで音楽を作る人に限られていたので、楽曲制作者やドラマの制作者などもいましたが、それでも数万人くらいの市場だったのではないかと思います。渋谷のYAMAHAショップとか小売店にもおいてもらっていたので、皆そういうところで触れて、少しずつ購入者が増えていきます。

転機は携帯電話ですね。着メロ・着うたが出来てきて、(再生するためのCDやデッキではなく)「音」を購入する人が爆発的に増えた。いままでアナログで弾いて、歌って、収録してとやってきた「音」を、デジタルに変換するニーズが爆発的に増えて、着メロ用にコンバートしたいというニーズが急増しました。私自身がエンジニアなので、公式サイトを作ってそれらを販売したり、音を探す検索エンジンを作ったり、QRコードでそれを再生できるサイトを作ったりと展開していきました。放送局や映画会社、ゲーム制作会社など取引先も100社以上になりましたね。

 
――:それが初音ミクの登場前夜、という感じですね。数ある楽器のなかで「声」という人間の音声を売っていくソフトはDTMのなかでは比較的後発だったかと思います。CFMの場合は2004年発売のMEIKOでしょうか。

ヤマハさんが2000年ごろから研究されていて、03年に「VOCALOID」を発表し、翌年の2004年頭から音声合成のパッケージ製品が発売されるんです。ではその音声合成エンジンを使って商品化しようと考えたのがMEIKOです。

当時ヤマハミュージックコミュニケーションズに所属していた拝郷メイコさん(シンガーソングライター、2001年にデビュー)の声を収録して、パッケージにはイラストが得意な当社社員にキャラクターの絵を描いてもらいました。これが世界初の日本語音声合成ソフトでした(MEIKOに先駆けて約半年前の04年3月に英語版のボカロ「LEON」「LOLA」が出ているが、そちらはMEIKOほどの数には達しなかった様子)。


――:まだまだキャラクタービジネスというよりは、ボカロソフトにキャラ絵をつけてみた、という試験的な取り組みだったのかと思います。MEIKOの後に男性バージョンでKAITOも2006年に発売されますが、それぞれどのくらいの売上本数だったのでしょうか?初音ミクで爆発しますよね。

当時の音楽制作ソフトは日本国内では平均100本といった売上で、1,000本売れたらヒットという業界でした。そうした中でMEIKOが3,000本でかなり優秀な結果を残しました。KAITOは500本ほどです。2007年8月に出た初音ミクはヤマハさんの「VOCALOID2」という次のバージョンで作った3種類目の歌声合成ソフトウェアでしたが、1週間で1万本、半年で3万本に到達することになります。

MEIKOもKAITOも「キャラクタービジネスをしよう」と始めたわけでもなく、声の音源ソフトを分かりやすく伝えるためにキャラクターを加えたものでした。
 

▲CFMが発売した初期の歌声合成ソフトウェア、右からMEIKO、KAITO、初音ミク


――:この1~2万円の音源ソフトを100本売って数百万円、といった商売の積み上げがDTM業界だったんですね。でも初音ミクからは「キャラクタービジネス」を意識した作り方になるんですよね?

MEIKOもKAITOもプロのシンガーを起用して、ボーカル音源として売っていましたが、初音ミクでは、「声優」さんの声で製品を作りました。アニメも声優も全く土地勘がなかった中で、東京で飛び込みでアポを取り付けて事務所さんをまわり、アーツビジョン社さんの声優500人のサンプルボイスを延々聞かせていただき、藤田咲さんの声を選ばさせていただきました。

肉声でもなければ100%の合成音声でもない、未来からきた初めての音、ということで「初音ミク」が誕生したわけです。イラストレーターもネットで探してKEIさんにお願いしました。このあたりをやったのが、こちらにいる佐々木プロデューサーです(後述)。


――:最初はセーラー服だったり、ポニーテールだったりと試行錯誤の末に、DTM第一世代のシンセサイザー機器のデザインを取り入れることに決められます。最終的に1983年発売のヤマハ「DX7」を取り入れたお話も、こちらの記事で展開されています。


 

■通常ヒット作の30倍売れた初音ミク、ニコ動・SEGA、先行者達が生み出したブルーオーシャン 

――:初音ミクの普及はドワンゴのニコニコ動画(2006年・以下ニコ動)無しには語れませんが、どのくらい連動していた企画だったのでしょうか?

最初はニコ動のことは知りませんでした。2006年12月くらいに初音ミクの企画を考え始めたんですが、ちょうどその頃、2年前に出ていたMEIKOがもう一度ぽつぽつ売れ始めたんですよ。後からもう一度売れ始めることって滅多にないのですが、なんでだろうねと社内で話していたら、どうやらニコニコ動画というサイトがあってMEIKOの動画が話題になっている、と。こういう“いじられ方"はもともと想定していなかったんですが、少しそうした動きもみながら「VOCALOID2 初音ミク」を2007年8月31日に発売します。

 
――:初音ミクの登場はニコ動にとっても衝撃でした。06年末にリリースしたときはYouTubeの動画を勝手に使っていたこのサービスは、07年2月にはアクセス規制をされて動画が全部見れなくなります。それを9日間という短期間で自前の動画共有を立ち上げて、なんとかユーザーを散逸させずに再生に向かいます。ニコ動も当時は数千人もいなかった月525円のプレミアム課金者ですが、初音ミクの登場とともに急増し、07年末に16万人にまで増えます。というのもCFMの初音ミクソフトを発売して、1週間もたたずに“あの"ネギをもったIevan Polkkaの歌が大爆発し、この数か月だけでも下記3タイトルのようなヒット作が生まれているからです。


●「初音ミクに「Ievan Polkka」を歌わせてみた」(9月4日)…ネギを片手に海外の民謡を歌わせたこの作品こそほとんどの人が初音ミクを最初に知った楽曲だったのではないかと思います
●iKa_mo(鶴田加茂)「みくみくにしてあげる♪【してやんよ】」(9月20日)…1週間で50万回再生、12年には1000万回再生
●ryo (supercell)「初音ミク が オリジナル曲を歌ってくれたよ「メルト」』(12月7日)


――:1週間で1万本、これが初音ミク楽曲を作っていたユニーク数といえると思いますが、半年後には3万本に到達します。千本でヒットという業界でしたから、初音ミクは通常のヒット基準の30倍ですね。もともと日本全体でも最大10万人と言われたDTMユーザーでしたが、業界全体が「初音ミク」で底上げされた格好ですね。

想像を絶する反響にCFMが発売元として何をやるべきかを決める必要があったんですが、同じような事業をしている会社が存在しなかったんです。ハローキティやドラえもんのようなIPビジネスはAll rights reservedでライセンスアウトをしていく。でも初音ミクはあくまでソフトであり、ユーザーが曲を作ったり、YouTubeやニコ動などで展開してくれて初めてキャラクターが生きるんです。「使ってもらう」ことができないと意味がない。

ユーザーが制作する作品は「動画」です。動画は音楽だけでは成立せず、何らかのビジュアルが必要です。だから初音ミクの場合、公式のイラストは3種類発注して公開しておりましたが、時々は別のイラストを発注しなきゃね、とも社内で話していた。ところが、あっという間にネットのファンが二次創作で創られた初音ミクが何百種類も派生していったんです。

 

▲CFM社から当時出されていた3種類の初音ミク「公式絵」


――:そうですよね。「二次利用」という言葉はそれまでほぼ海賊版を意味し、作品側からみれば何のメリットもなかった。それが初音ミク以後、はじめて「ユーザー自身が作品世界を広げる」という肯定的な側面が「発明」されました。

普通のIPビジネスのように権利を守るより、このムーブメントを絶やさないことが大事だと思って、コンテンツ投稿サイト『piapro(ピアプロ)』を作り、「氏名表記が必要か」「改変OKか」などを選択して投稿しておく場所を作りました。作品を利用したらコメント欄で御礼を書き入れる。同じ2007年の12月です。もう秋には「勝手にイラスト使われた!」とかクレームが殺到していたので、ここから使う限りは問題ないですよという公式のサイトを急遽作る必要がありました。

皆をつなげる場所を作ろうとしたんです。無断じゃなく、使ったら報告もしあって、広げたい人はそこに掲載すればいいし使われたくなければのせなければいい。そうこうしているうちにいざこざが減っていきました。


――:この時期はすべてが手探りですよね。ピアプロはリリース後3か月で会員は5万人、投稿もイラスト1.7万件、音楽2.5千件と際限なく広がります。これがキャラクターライセンスの歴史をがらりと構造転換させてしまいました。ちなみに2008年4月にグッドスマイルカンパニーさんから「ねんどろいど初音ミク」が(2日間で1万体即完売でした!)、09年7月にセガから『初音ミク-Project DIVA-』が発売されます。こうした商品化はどうスタートするんですか?

どちらも早かったですが、セガさんなんかはもう発売後1か月のTGS(東京ゲームショー)ですよ。8月31日に発売したんですが、その9月25日にTGSの会場から突然電話があって、すごい興奮したおじさんが後ろでガヤガヤしすぎて聞こえない中で、何か叫んでるんですよ。

「あのー!セガって言うんですけどー!!」。それが林誠司さんでした。もともとマクロスとかSFが好きな人だったので、初音ミクをみて「『うる星やつら』のラムちゃんに似ている!」と思ったみたいなんですよね。ニコ動での大騒ぎも見ていて、ラムとセーラームーンの合体のようにミクが見えて、これは売れる!ゲーム化したい!というお話でした。


――:会場から離れてから電話すればいいのに・・・笑。あの1か月でゲーム化の提案までもってきたのはセガの凄さですね!!ゲーム化は結果としてどうだったのでしょうか?

人気ありましたね。結構売れていたようです(DIVAシリーズとしての累計250万本)。ただこの15年本当に色々なことがありまして、ファンの方々もDTMからボカロPからテック系の人まで入り乱れ、特に初音ミクの周辺はよく炎上している領域でもあったので、普通のゲーム作りの観点からでいうと「扱いにくいコンテンツ」という位置づけもあったようなんですよね。


――:2007年は怒涛の一言だったのではないでしょうか?

問い合わせはひっきりなしでしたね。毎日仕事を片付けて、22時くらいに皆で集まって、今日あった問い合わせの読み合わせ、みたいなことをしていました。


 

■音楽ライブビジネスへの転換、世界で唯一無二のボカロP量産市場「日本」 

――:それまでにCFMは10年以上音楽制作ソフトを売ってきましたが、初音ミクの以前と以後でがらりと景色が変わったのではないでしょうか?

初音ミク前の段階で社員20名くらいの会社でしたかね。そこから徐々に増えていって現在が120名。徐々に増えてきましたけど、やはりやる事業が結構変わりましたので、サイズとしてはだいぶ異なりますよね。

現在に至るまでCFMがやっている音楽関連のビジネスは主に3つです。祖業であるソフトウェアビジネスに加えてキャラクタービジネス、そして音楽ライブビジネスです。


――:この音楽ライブビジネスについてお聞きしたいです。最初はセガが主催だったところをみると、ゲーム販促のための音楽イベントだったんですよね。

はい、2009年からのセガDIVAシリーズが、ほぼ毎年リリースされていきました(毎シリーズ20万本程度の売上本数)。初期のコンサートなどのイベントは基本的にその販促としてセガさんが主催されていました。ただ、求められる頻度も上がっていき、海外などへの展開も必要になってくるなかで、原作元である弊社としてコンサート事業を手掛けていく必要に直面し、2013年横浜アリーナから『初音ミク「マジカルミライ」』(以下「マジカルミライ」)がCFM主催の定時開催されるイベントとなりました。


――:先日私も「マジカルミライ」に参加させていただきましたが、幕張メッセは満員。鏡リンレンが踊りながら歌うと、音程もブレないしかなり激しい動きもできますし、「人間」にはできないパフォーマンスなんだと改めて感動しました。2022年は8月にインテックス大阪、9月に幕張メッセ、23年2月には初の札幌文化芸術劇場 hitaruでの3拠点開催ですよね。

13年からの9年間で累計30万人のお客様にきていただきました。SAPPOROもぜひ期待していただければと思います。


――:ちなみに話変わりますが、この2013年に伊藤社長が藍綬褒章を受章されています。このくらいのご年齢で勲章授与って結構珍しいと思うのですが・・・何かビジネス影響などあるものなのでしょうか?

勲章って省庁ごとの推薦枠があるみたいなんですよ。国交省だったり総務省だったり。その年に経産省から「新産業としてのボカロPやイラストレーター・クリエイターを作った」という名目でCFMが受賞対象となりました。まあ、あまりそれで何かが変わる、という感じではないですよ。


――:初音ミクから1年、2007年12月に鏡音リン・レンの発売、09年1月に巡音ルカの発売と、この6キャラが現在に至るまでのCFMを構成する「IPキャラ」となり、ライブでも6人それぞれの演出がされています。ここでいったん発売が止まり、他にキャラクターを作らなくなったのは、なぜでしょうか?

1人1人つくっていくコストや手間が結構あるんですよ。まだまだ先はわかりませんが、一旦現状はこの6人でという感じです。


――:海外への広がりもお聞きしたいです。わりと初期の海外ライブ展開は早かった印象です。

海外での初の単独ライブは、2011年にアメリカで開催されたAnime Expo2011で行った「MIKUNOPOLIS in LOS ANGELES」です。

2014年から初音ミクの世界ツアーシリーズとして「HATSUNE MIKU EXPO」を展開していて、現在までに世界30都市で合計68公演開催しています(2021はクラウドファンディングで6,000万円を集め、「HATSUNE MIKU EXPO 2021 online」として開催した)。2017年からは中国におけるライブイベント「MIKU WITH YOU」がはじまりました。


――:「HATSUNE MIKU EXPO」はメキシコでも開催されてますよね!2016年にブシロードの仕事でいったときに、こんなところまで初音ミクのライブの形跡が、、、とあって驚きました。

はい。私自身も行ったんですが、2016年はメキシコシティとモンテレイの2か所で開催しました。あのときはブシロード・メキシコの五藤雅之さんにお世話になりました。


――:基本的に初音ミクって最初はニコ動から広まったものですよね?どうやって海外には広がっていったのでしょうか?

YouTubeにも初音ミクの作品が多数載っていたようですね。また日本でコンサートもやるようになっていたのでその映像がどんどん流れていったようです。ファンが切望していたのもあり、海外公演という我々としてもチャレンジな事業となり、2011年のMIKUNOPOLISでは5,000人満席でした。


――:音源ソフトとしてはいつごろ海外に出ていったのでしょうか?ボカロPってまだまだ日本だけのカルチャーですよね。

2013年に初音ミクの英語音源が出来て、その後MEIKOや他キャラの音源の英語化ソフトも出していきます。


――:音源ソフトとしては日本の6-7年遅れで展開されていくのですね。それでもボカロPが海外から生まれない理由はあるのでしょうか?

英語版も中国語版も出していて、少しずつ増えている感触はあります。ただやはりボカロって日本カルチャーと相性良いのかもしれません。

YMOで浸透したシンセサイザー音楽があり、そこにゲーム音楽で慣れ親しんだ層が、デジタル音で作曲をすることに違和感がなくなった。アニメもあるので、キャラクター化されるものも受容される。こういった組み合わせの上にボカロとボカロPの文化がニコ動の普及もあって広がったということがあり、海外でも同じレベルで浸透するかというとハードルがあるなと思います。


――:そうしたなかでもキャラクターとしての初音ミクの海外展開はとどまるところを知りません。コラボ実績だけでもこれだけの世界的なアーティストやエンターテイメントとのコラボも展開されていきます。

□レディ・ガガのコンサートツアーで初音ミクがオープニング・アクト(2014)
□世界的シンセサイザーアーティスト冨田勲「イーハトーヴ交響曲」に初音ミクをソリストとして起用(2012~)
□安室奈美恵のアルバム「_genic」で収録曲「B Who I Want 2 B feat. HATSUNE MIKU」のMVに初音ミクが共演(2015)
□超歌舞伎『今昔饗宴千本桜』で新作舞台化、クールジャパン大賞受賞(2016)
□渋谷慶一郎手掛ける世界初のボーカロイドオペラ『THE END』(2013)、初音ミクのファッションを手掛けたのはマーク・ジェイコブス


――:果てはアートの世界にも浸透していっています。

□六本木森美術館「『LOVE展』アートにみる愛のかたちーシャガールから草間弥生、初音ミクまで」(2013)
□アメリカ・ロサンゼルスでHATSUNE MIKU DREAMS OF ELECTRIC SHEEP開催、58作品が展示(2015)
□アーティスト集団「BCL」が金沢21世紀美術館で展示会「Ghost in the Cell:細胞の中の幽霊」(2015)


 

■プロセカとは何だったのか?ボカロと声優がまじりあった2020年のキセキ

――:ちょっとこちらからは伊藤社長とともに初音ミクの誕生から現在に至るまで普及に尽力されてきた佐々木プロデューサー(初音ミク開発プロデューサー)にもお話伺います。2005年に入社されてから一貫してこのポジションにいらっしゃいました。佐々木さんは、ボカロPのムーブメントが何だったととらえてますか?

佐々木:1980~90年代からDTMをやっていた人たちってYMOを聞いていたり、クラブミュージックが好きだったんですよ。歌謡曲やJPOPの流行がマスをとらえていた時代に、「アンチテーゼ」としてこうしたPCベースのDTMカルチャーがあったようにも思います。アーティストを育成するとはいいながら大手事務所のプッシュ力がなければメディアには出られない。音楽の内容ももちろん大事だけれど、ルックスやコミュニケーション力などタレント性も含めたトータルパラメーターで勝負しないと「ミュージシャン」になれなかった時代です。

そういうなかで「音楽だけ」を突き詰めようという人たちがこの領域に集まったんじゃないかと思ってます。

 
――:確かに歌番組の座席は事務所ごとのポジションの取り合いによって成り立っていて、「歌手になる」≒「大手事務所に所属する」になってしまっていたこの時代、実は歌は一つの商材に過ぎず「タレントになること」が優先されていた時代だとも言えます。CFMはそういう意味ではレーベル・事務所的な立ち位置からは一線おいてますね。

佐:なるべく企業としての意図が働かないようにしてきた、という点がありますね。ボカロPがJASRACに楽曲登録したときにも「なぜニコ動コンテンツが金儲けに走るんだ!?」という炎上騒ぎになりました。ニコ動というよりは2ちゃんねるのナード文化からの影響が大きかったかもしれません。


――:個人的にはボカロPのステータスをあげてくれたのが、米津玄師(ハチ)だと思うんですよ。2009年から「ハチ」としてボカロPで活躍してきて、有名になってきたのは本名を出し始めた2012年、メジャーデビューの13年から徐々に一般的に知名度があがっていき、ボカロPとして初めてNHK紅白歌合戦に出場した2018年は、初音ミクも紅白に初出場しています。

佐:ハチさん達はアンチの熱量はすごかったんですよ。当時特にカリスマ性が強かったボカロP、例えばKemuさんとか謎のやっかみも含めてアンチが多かったんです。

ボカロ文化って常にそういう「危うさ」があったんですよ。安心できない感じで、いつどこにネガティブや嫉妬があるかわからない。初音ミクも「みんなの初音ミク」であって制作元だからって好きなように扱うとあっという間に炎上してしまいます。私自身もプロデューサーとして動いたというよりは、皆の遊び場を作り支える役割を担ったように思います。


――:確かに・・・ハチさん自身も「ボカロ界隈はクズたちの受け皿として機能していた、僕もその一員だった」と表現しています< https://natalie.mu/music/pp/hachi_ryo/page/2> 。一般的な意味での「クズ」というよりも、セクシャルマイノリティだったり、保健室登校の天才児だったり、社会の常道から外れていた人たちが優越意識もコンプレックスも含めて表現の場としての2ちゃんねる、ニコ動、ボカロを主戦場としてきた、そんな印象があります。でもハチさんの「マトリョシカ」(2013)はとてもよかったです。あのあたりで初音ミクが単なる萌えキャラから脱皮した印象あります。

佐:そうです、当時の同人オタク文化やKawaiiの文化からミクがはみ出していったのは、こうした異色のボカロPが新しい表現を取り入れていったからだと思います。


――:でもそんなボカロとボカロPがなぜこんなに大衆化し、そして2020年9月リリースのアプリゲーム「プロジェクトセカイ カラフルステージ! feat. 初音ミク」のような大ヒット作品になったのかについて知りたいです。

佐:コロナの影響は大きいと思います。YouTubeを日常的に見て、Tiktokで聞いた曲で遊ぶ時代になった。ボカロ曲も「歌ってみた」で流行しましたから、「聞き親しんだ曲が実際にプレイできる」、とプロセカにも多くのユーザーが入ってくれました。


――:最初のゲーム開発は、いままで家庭用ゲームも作ってきたセガさんでしたよね?

佐:はい、1-2年くらいセガ社内で企画検討が行われました。。しかし、先述のようにボカロの領域は取り扱いが難しく、最終的にはセガ社としての単独での開発は断念したという報告があったんです。それなら他に開発できるところを探さないといけないねという話になりました。


――:それでCyberAgent社の開発会社CraftEggで『バンドリ! ガールズバンドパーティ!(ガルパ)』に携わっていた近藤裕一郎さんが出てくるわけですね(同サイバーのグループ内でColorful Palette という新会社を設立してプロセカを開発・運営している)。あれだけガルパでヒットを飛ばした人が、今度はプロセカで再び大ヒットを飛ばして、業界的には驚きでした。そもそもボカロ6キャラだけでなく、他にも4キャラからなる5つのグループもあり、不思議な世界観でした。

佐:そうですね。特に人間の歌を混ぜることにはかなりの葛藤が有りました。もともと「原曲」と「歌ってみた」の間には大きな分断がありましたし、原曲への強いリスペクトがある人たち、歌ってみたを批判的に捉える人たちが一定数はいらっしゃったんですよね。プロセカが公式的に声優とボカロを一緒に扱ったら、この分断が解けるんじゃないかという思いもありました。近藤さんたちはこのような状況を客観的に分析して様々な提案をしてくれました。

最初から枠組みなどが決まっていたわけではなく、登場するキャラクターや歌唱の有無など多岐にわたり意見を出し合いながら今の形になりました。「歌ってみた」文化もボカロも声優文化も、音ゲーまで混然一体となって、誰もが入れるゲームとして成立したように思います。


――:2020年9月のリリースからまたたくまに月間ユーザーは200万を超えたのは、それまでの音ゲーアプリとは違って「男性も女性も」気軽に入ってくる、セクシャルニュートラルなアプリゲームで、業界的には革命的な売上・ユーザー数だと言えます。21年末からは海外版も出ており、そこからユーザー数も倍増。プロセカによって初音ミクの世界展開がぐんぐん広がっています。CFM社内でも新たな転機になっているんじゃないですか?

佐:いえ、売上などお金の流れはあまり意識しないようにしてますね。確かにプロセカによってライセンス収入はずいぶんあがりましたし、会社としては盤石になってきています。でもそれを意識した動きをしてしまうと、「ユーザーの遊び場を作る」というCFMが守り続けてきたコンセプト自体が崩れてしまう可能性もあります。純粋に良い音楽やクリエイティブを応援するということを大切にしながらこれからも仕事を続けたいです。


 

■30万人規模のボカロPを生み出し、ネット世界を一般に受容させた初音ミク 

――:それまでのDTMユーザーとボカロPは混ざらなかったのでしょうか?

伊:実際にはボカロのほうにこなかったユーザーが大半でしょうね。純粋に「音」「PC・テクノロジー」を追求していたDTMユーザーたちには萌え的要素のある初音ミクが受け入れられなかった。DTM業界では一笑に付されて、雑誌での紹介も断られたりしました。

あと、そもそもなんですけど、DTMユーザー向けのMac PCバージョンで出していないんですよ。MEIKOから初音ミクまで、ソフトはすべてWindowsバージョンなんです。


――:え?そうなんですか?PCのクリエイター向けでMacがないって致命的なのでは、、、?それはなぜなんですか?

伊:当時の技術力もありましたね。結果的にはそれが「新しいDTM層であるボカロP」を生み出すことになりましたが。あとからMac版も出してますが、結局初音ミクではじめて音を作り始めたという人のほうが大半なのではないかと思います。


――:ボカロPの生まれ年を追っていくと、ika_mo(1986)、じん(1990)、まふまふ(1991)、米津玄師ことハチ(1991)、Neru(1992)、YOASOBIのAyase(1994)とほぼほぼこの年齢層のカタマリなんですよね。ゆとり世代教育の功罪の「功」は個人的には「ボカロP」なんじゃないかと個人的には思います。ニコ動は2014年をピークに売上もプレミアム課金者も減らしています。ボカロPも減っているのでしょうか?

伊:いや、弊社はソフトで登録いただいているのでボカロPの全数を把握はできているんですよ。それでいうと、減っていないんです。ソフトもバージョンアップしたものがコンスタントに売れ続けていますし、消費財じゃないので一度買ったユーザーさんにはそのままずっと使い続けて頂いています。

中高生で曲を作りたくなったというユーザーも含めて、毎年何十万人ものボカロPが曲を作り続けてくれています。特にこの2年はコロナの影響があって、バンドが組みづらくなったんです。その代わりにボカロで作曲しようという人はむしろ増加傾向にありますね。


――:CFMの歌声合成ソフトウェアを使用したボカロPのような作り手はどのくらいいるのでしょうか?

伊:現在言えるのは6キャラのソフトの累計売上が28万本、というところです。

純粋に音楽をつくろうという文化が広がって欲しいと思ってます。もう聞かれなくなってしまった10数年前の曲であっても、「歌ってみた」を通して純粋にそれが好きになって、アーカイブでも聞き続けてほしい。


――:CFMだけでも約30万人のボカロP、以前のDTMユーザーから考えると3倍規模になったということですね。最後に、初音ミクがもたらしたものは何だったのかというところについてお聞きしたいです。

伊:ボカロはボカロとして1つの「楽器」だったんだろうなと思ってます。1970年代もフォークギターという誰もが入りやすい楽器が普及してニューミュージックブームがありました。それと同じように初音ミクの楽曲作成ソフトが2007年から普及したことで「音楽を作ること」自体が身近になって、多くのクリエイターを生み出すことができました。

以前は音楽というのは大きな会社がでっかくプロモーションを打って、いかにCDでミリオンセラーを出すかというのが当たり前だった。でも「音楽の未来ってこういうものじゃないはずだ」、というものが私の中にはありました。


――:思ってみると、マス向けCD音楽時代は「計画的陳腐化」が横行しすぎた気がします。毎週のように音楽番組ではヒットチャートが列をなし、「今のトレンドはコレ」と数か月ごとにガラッとトップ10が変わる。皆CD買って新しい曲をカラオケで歌い、また新しいのを覚えて、をどんどん繰り返していた。それは音楽を楽しむというよりは、ときおり「流行に乗っている」という記号のために、音楽とCDとタレント知識を駆使していたようにも思えます。

佐:ボカロ文化の流れやプロセカはそうした「計画的陳腐化」とは真逆のアプローチですね。急かされるように大量の音楽を消費することにフラストレーションをためていた人々が、そのアンチテーゼとして「音楽を楽しむ」ことをボカロ制作やプロセカでのプレイを通して確立させていったようにも思えます。


――:そういう意味では、この15年間で2チャンネル→ニコ動と「逃げ場としてのカウンターカルチャー≒ネット」だったものが膾炙して、プロセカのように声優・アニメなど違う方向からきた文化とまじりあうことで「自分らしく振るまえる空間としてのネット」になって、はじめて一般に広がったといえるのかもしれません。

佐:そうですね。ミクが生まれる以前から、生まれてからの最初期はネットで動画をみること自体がマニアックでした。ネットが新しい文化の実験場から発信地となっていく中で、カオスな部分も多く、故に可能性があったのだと感じます。企業が関わることはイレギュラーであり、招かれざる客であったようにも感じてました。なによりネットらしい場の空気を乱さないことが大事で、温度感の調整をしないと危険な「ネットの恐ろしさ」がありました。

プロセカは、その時代がある程度過ぎ去ったから実現できたようにも思えます。皆が自分の思い思いの初音ミクを作り、様々な使い方が試されて受け手側もそれを楽しむようなかたちでミクは消費もされていきました。でもまだ試されていない新たな可能性も残っていると思います。

このように初音ミクは15年の間にクリエイターとファン、企業の間で何度もセッションが繰り広げられたその結果として今の形におさまっているんです。


――:初音ミクというキャラクター化を通じて、その脱皮を通じてネット空間自体が寛容性や受容性をあげてきた―それが初音ミクの最大の功績なのかもしれません。ボカロPはマス消費社会へのカウンターカルチャーだったのかもしれませんが、結果的には今この5年で急激に音楽シーンのマジョリティをとるようになってきている。15年の成熟が、いろんなものをニュートラルにしています。これがCFMが目指すべき世界といってもいいのでしょうか?

伊:草の根のクリエイターであってもちょっとした投稿サイト経由で世界中から注目を集めたり、突然スターダムにのることができる。そんな夢をみながら、一般の普通の人たちが息を吸って生活をするのと同じくらいの温度感で気軽に曲をつくる。そういう世界にしていきたいですね。
 

▲左からCFM社の伊藤博之社長、佐々木渉プロデューサー

会社情報

会社名
Re entertainment
設立
2021年7月
代表者
中山淳雄
直近業績
エンタメ社会学者の中山淳雄氏が海外&事業家&研究者として追求してきた経験をもとに“エンターテイメントの再現性追求”を支援するコンサルティング事業を展開している。
上場区分
未上場
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