【連載】中山淳雄の「推しもオタクもグローバル」第78回 審美眼高きオタクエリートが辿り着いたIP開発「原作者」の道:イシイジロウ

中山淳雄 エンタメ社会学者&Re entertainment社長
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イシイジロウ氏は「原作者」としてマンガ、アニメ、ゲームに育てられた最初の世代に位置するといってよいかもしれない。中学・高校の多感な時期を富野由悠季、宮崎駿、西崎義展の3人に強く影響を受け、ストーリーとIPの黎明期に「物語とキャラクターをゼロから生み出すこと」に強い執着を覚えた。PCゲーム会社、リクルート、CCC、チュンソフト、レベルファイブと旬な成長企業を渡り歩き、様々な賞を総なめにしてきたその足取りは華々しいものの、「いいもの作るんだけど、大ヒット作には届かない」という呪いに多くの挫折も味わう。原作者として生きる道はトップ1%ですら大ヒットへの劣等感を抱える、囚われの道でもある。ゲーム、アニメ、実写、舞台、そして体験型エンタメと様々なIP開発を手掛けた末にイシイ氏がみた「IP開発の境地」とは。

  

  

■世界トップのゲームメーカーに呼ばれた日本人の世界観原作者

――:自己紹介お願いします。

イシイジロウです。チュンソフトやレベルファイブでゲームのディレクターをやってきて、2014年から独立してゲームデザイナーに加えて、アニメやゲームの原作者、脚本家、映画監督、作詞家などをやっております。

――:イシイさんとは『IPのつくりかたとひろげかた』(2020)、『ストーリーのつくりかたとひろげかた』(2021、星海社)の2冊の著書が縁で、お会いしました。あちらは初めて書いた書籍ですか?

はい。初めての単著です。もともとFGOを作っていた当時のディライト・ワークスの宣伝プロデューサーから「イシイさん、ストーリーとか物語づくりってどうすればいいか、現場に向けて講演してくれないか」という依頼から始まったんです。それをちょうどコロナ禍前の2019年に月1回ずつくらいで半年かけて全6回の講演をしました。そこで出てきたのがあのストーリーIP、キャラクターIP、世界観IPという3つの区分けです。

――:あの3区分ってそれぞれはちょっとずつ語られているようで、きっちり定義されたのは初めて見ました。あれってイシイさんオリジナルなんですか?

はい、オリジナルというか、講演用に資料づくりしている時に閃いたんです。あれは漫画家でもアニメ監督でもなくて「ゲームクリエイター」だから辿り着いた結論だと思います。原作モノ、オリジナルモノが混在するゲーム開発者の視点から、どんな作品だったら100年続くんだろう、また漫画やアニメ、ゲーム全てで成功可能なんだろうと考えていったら「ストーリーIP/キャラクターIPを最終的に世界観IPに昇華できれば良いのかもしれない」ということに気づきました。

例えば「ストーリー」IPでは、漫画からアニメ化だけでも修正・改変の難しさがありますね。さらに舞台演劇化となるとどの部分をどの程度まで修正・改変すれば「舞台としても感動するストーリー」になるかの別のロジックがあり、さらに難易度が上がります。「キャラクター」IPでも、マンガと映像とゲームそれぞれでその特性で映えるキャラクター性が違ったりします。

そうした上で「世界観」IPというのは世界市場では『スター・ウォーズ』や『M.C.U.』国内市場では『ガンダムシリーズ』や『Fateシリーズ』などストーリーやキャラクターだけに縛られず、世界観だけが共通していてその派生のさせ方に説得力があれば、新しいキャラ・ストーリーを作っても納得感がある。ファンもついてくる。また、映画とゲームでキャラクターやストーリーを変えても確固たる世界観で繋がっていればブレがない。正直100年続く作品かつ、メディアミックスに耐えうるIPというのは「世界観」というところまで昇華していないと厳しい。

――:なるほど、確かにソードアートオンラインでいうところのキリト・アスナが出なくても、VRで閉じ込められる世界観があれば別主人公の『ガンゲイルオンライン』ができるのと同じロジックですね。全6回はどのような講演内容だったんですか?

こんな感じでした。

1 主人公・ストーリーとは何か:3幕構成・感情曲線など
2 3幕構成のあり方:セットアップと主人公
3  アイアンマン』における12のビートのケーススタディ(SAVE THE CATの法則)
4 『君の名は。』ケーススタディ:感情曲線分析
5 Marvel Cinematic Universe:IPとしてのマーベル映画シリーズ分析

前半から中盤まではストーリー、キャラのつくり方だったんですが、この5回目のタイミングで急にIPとして深堀りして考える事になったんです。なぜMCUがヒットしたのかを考えた時に、最初のストーリーがいいとか、そこで生まれるキャラクターへの愛着やブランドが強い、というのもあるんですが、やっぱりメディアをまたいだ時に共通できる「世界観」自体をIP化させたんだ、ということに『宇宙戦艦ヤマト』や『機動戦士ガンダム』などととの対比もあわせて気づいたんですよ。それで最終回を下記のようにしました。

6 RemakeとRebootからどう世界観IPを抽出するか

これをロックダウンのタイミングで一気に書籍として書き上げたんです。

――:すべてのIPが世界観IPをゴールとすべき、ということなのでしょうか?

いや、ドラえもんのようにキャラクターだけが残って100年続く可能性のものもあります。実際にシャーロックホームズや007などは既に100年続くキャラクターIPだと思います。しかしストーリーとキャラクターだけで成立しているIPはメディアミックスしにくいんです。あくまで「漫画用のストーリーとキャラクター」「アニメ用のストーリーとキャラクター」「ゲーム用のストーリーとキャラクター」それぞれがうまくいく要素というのは微妙に異なっていますから。世界観の様な共通基盤のようなものにのっからないと、作品は続かない、というのが僕なりの結論です。

特に世界観が確立していればメディアのフォーマットに寄らずに、その世界観をベースに生み出される新しいキャラ、新しいストーリーでも勝負ができます。

――:確かにゲームってストーリーほとんどなくて、キャラもいっぱい出てても、世界観さえ作りこみあれば、全然成立しちゃいますよね。

そうなんです。だから逆にゲームからのアニメ化や漫画化は難しい。『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』はそこをうまく攻略して、マリオの世界観のどこを強調して、徹底的にストーリーを作り込んだ。ブルックリンの兄弟配管工の設定をあそこまで掘り下げるとは思っていませんでした。

僕が『モンスターストライク』のアニメ化に参加した時に、当時プロデューサーの木村弘毅さん(現Mixi代表取締役)と議論したところは「モンスターのキャラを主人公に立てると危険」という点なんです。モンストは何千とモンスターがいてその中でプレイヤーの推しモンスターがそれぞれに存在する中で平等性も担保しないといけない。でも主人公モンスター不在だとアニメストーリーとしては導入が難しい、だからモンスター以外に人間の主人公をストーリーの案内役としてたてて誰でもが入りやすい作りにしたんです。ポケモンの主人公サトシの重要性に習ったと言った方がわかりやすいかもしれません。

――:『ポケモン』も赤・緑の最初のゲームの時はモンスターは全部平等の扱いで、「ピカチュウ」がピックアップされたのは1998年アニメ化からでした。このストーリー/キャラ/世界観はメディアミックス、トランスメディアストーリーテリング研究者の立命館中村彰憲先生も評価されてたくらいだし、アカデミックにみても革新的な考え方だったんだと思います。

対談もしましたよね、中山さんもご一緒に。(2021年8月CEDEC講演「キャラクター経済圏とIPクリエーションの視点から望む、ニューノーマル時代におけるメディアミックスの新パラダイム」)

――:しかしやっぱりアウトプット機会って大事ですね。問われて初めて考える、という。先月(2023年9月)に中国深圳のテンセント本社に呼ばれて講演されてましたね!正直、日本人のゲームクリエイターでこんな公式に呼ばれているのをはじめて見ました。

そうですね、僕も遂に中国、というか世界トップのゲームメーカーにこんな形で招待されるようになったかと感慨深かったです。講演内容の詳細は伝えられないのですが、IPの作り方(ストーリー、キャラクター、世界観IP)に関するのもので、現地のゲームプロデューサーとのディスカッションは非常に刺激的な体験になりました。実は昨年のリモート講演に続いての二回目の講演なのです。前回の内容が好評で、今回は同じ内容を現地に来て講演してくれと言われて驚きました。

 

■ヤマト・ガンダム・YMO、審美眼を持った中高時代、飛び級でアニメ部長に

――:そもそもイシイさんが「原作者」という非常に不安定な職業を目指すにいたったヒストリーをお聞きしたいんです。生まれとか。

1967年の神戸生まれで、小中高時代はいわゆる「オタク」でした。まだオタクという言葉が生まれる前ですが。今振り返ると3人のクリエイターに心を奪われて育ったことに気づきます。富野由悠季(1941~、『機動戦士ガンダム』総監督)、宮崎駿(1941~、スタジオジブリ作品監督)、西崎義展(1934~2010、『宇宙戦艦ヤマト』プロデューサー)。

――:おおー、まさに3人が出てきた1970年代の黄金時代に少年期だったんですね。

3歳の時に東宝チャンピオン祭りに連れて行ってもらって、ゴジラ映画が目当てだったんですが、併映だった『パンダコパンダ』(1972)にすごく惹きつけられました。帰ってきたら『パンダコパンダ』が面白かった記憶しかなかったですね。何度も観れたわけじゃないんですよ。ビデオもないし、テレビでの放送もそんなに多くなかったと思います。劇場で観た『パンダコパンダ』とその続編の『雨降りサーカス』(1973)を鮮明に覚えていて大人になってからも16mmの自主上映イベントとかに通っていました。次に影響を受けたのが『海のトリトン』(1972、TVアニメ)と『ワンサくん』(1973、TVアニメ)なんです。

――:ワンサくん!西崎さんが三和銀行(三和の名前をもじってワンサ)にとりいった政治案件とも聞くんですが・・・笑

『ワンサくん』は母親探しの普通に良いお話なんですが、最終話は一種のメタフィクションなんですよ。最終話で探していたお母さんと再会するんですが、死んじゃうんですよ。ボロボロに痩せこけた野良犬になった状態で再会したお母さんの死で絶望的な気持ちで終わるんですが、そのあとお母さんがスクッと立ち上がってそこからエンディングのミュージカルを踊るんです。今までの物語は全て舞台劇だったというオチですね。その衝撃を感動のままに、西宮の三和銀行夙川支店に駆け込み口座を作ってワンサくんの貯金箱をもらいました。

――:あーなるほど、悲劇を悲劇として終わらせるんじゃなくて、読者に「これは作り物だから」と「幕」を見せることできちんと心の整理をつけさせるんですね。

救われたんですよ。当時は『フランダースの犬』とか悲しく終わっていく物語も多かったんだかで、それを良い意味で裏切った演出を見せてくれたことで。

西崎義典さんと富野由悠季さんが組んだ『海のトリトン』も主人公側のトリトン族が実は過去オリンポス族を亡ぼしていた加害者側だったという事がわかる最終回なんですよね。今まで信じていた正義と悪がひっくり返るという、というその後のガンダムにつながる勧善懲悪でない複雑な物語にハマる原体験でしたね。

――:ちょうど小中学生の多感な時期に、煽情的な体験をされたんですね。

小学校4-5年の時に『劇場版銀河鉄道999(スリーナイン)』や『さらば宇宙戦艦ヤマト』を観て感動し、次にそのアンチテーゼとして『機動戦士ガンダム』と出会うんですが、当時ニュータイプ(人類進化)的な物語は竹宮恵子さんの『地球へ・・・』が先行して流行っていたんですよ。なのでその設定自身には衝撃はなかったのですが、安彦さんの作画の新しさ含めた総合力に心打たれました。余談ですが、先日『地球へ・・・』を読み返したのですが、終盤がまんま漫画版『風の谷のナウシカ』だったのが驚きでした。『地球へ・・・』は改めて偉大な作品だと思いました。

小学校でヤマト、中学校でガンダムなんですが、実は中学ぐらいになると「お前まだそんなTVマンガの見てるのかよ」というムードになるんです。

――:アニメは子供のものでしたもんね。『コロコロ』のように中学校にあがると急にバカにされました。

皆は松田聖子や中森明菜などのアイドル、金八先生など実写ドラマのほうに夢中だったんですけど、実はある日に大逆転が起きたんです。ガンダムがプラモで大ブームになって、バカにしていた人たちが手のひらを反すんです。

「イシイ、お前ガンダム詳しかったよな?ガンプラどこで売ってるの?」と一躍注目されるようになって。まぁムサイくらいなら手に入るんじゃないとテキトーに流したりして。当時はガンプラもブーム前から購入していたので、地元の玩具ショップとも仲良くなっていて「ジロウ、リックドムの1/144の新しいの来週入るよ!」とか教えてもらえるような関係だったので、ブーム中もガンプラ入手で困ったことなかったです。その経験で、なんだ「世の中ってひっくり変えるんだ」と思いました。

――:なるほど、イシイさんはそういう「趣味の成長階段」みたいなものは上らなかったんですか?

ずっとオタク的だったんですよね。世の中の流行からは距離を置いていました。音楽もYMOなどシンセサイザーミュージックが好きで、クラスで僕1人だけ聞いているような状態だったんですが、これもあとから「世の中がひっくりかえった」ように詳しく教えてくれ教えてくれと言われる様になった。だから中学生ながらいっぱしに審美眼ち先見性に自信をもったのが原体験なんだと思います。自分は人より先を見ているんだ!と。

――:部活などには所属していたんですか?

中1のときはスペースコロニーの模型を作りたくて物理部で、中3のときはガンプラ作るために工作部ですね。高校はアニメーション部ですね。同好会でなくて部なんですよ。

――:ガッチガチのオタクロード進んでますね笑

市立西宮高校だったんですが、中3のときに文化祭を見学にいって先輩とオタク談義をしていたら、スカウトされまして。「うちの高校入ったら、ぜひアニメ同好会にきてくれ!」と。そんな流れでアニメ同好会に入りました。そして1年目の文化祭で当時は珍しかったアニメビデオエアチェック上映会をしたんです。学校では用意できないから自宅のテレビとビデオデッキをリヤカーで学校にもっていきました。オタク仲間たちからレアなビデオ、例えば「うる星やつら」の放映第一話とかを借りて。そこでエルマガジンという情報誌に上映会を文化祭でやるよという告知を載せたら、入場者数でアニメ同好会が全校ナンバーワン記録の大盛況になってしまって。兵庫県中からオタクが押し寄せて、その結果アニメ同好会が晴れてアニメーション部に昇格しました。

その功績もあったのか、高校1年で飛び級で初代部長になりました。

 

■19歳でシナリオ・イラストすべて自作のPCゲーム出すも挫折。リクルートからCCCへ

――:アニメ同好会での実績がエグすぎるw完全にエリート新入ですね!

1980年前後の話ですね。『機動戦士ガンダム』(1979)『ルパン三世 カリオストロの城』(1979)と『伝説巨神イデオン』(1980)に夢中でした。その他に実はサンリオアニメが好きだったんですよ。『シリウスの伝説』(1981)などの作品がディズニーの最高傑作と言われる『ファンタジア』(1940)に追いつけ追い越せという志の高さに心躍らせていました。そう、『伝説巨神イデオン』(1980)と『シリウスの伝説』(1981)はすぎやまこういち先生の音楽ですよね。だから『ドラゴンクエスト』の音楽がすぎやま先生ふだと発表された時も、通ぶって「おお、イデオンとシリウスのすぎやま先生を選んだのか。流石センスがいいな」とか言ってました笑。

――:審美眼!!先をいってますね。そのままアニメ街道を突き進むんですか?

自分が好きだったのは宮崎駿・高畑勲・辻信太郎などディズニーに対抗できるような志の高い作品を作るクリエイターだったんですよ。でも世界で通用するはずだった彼らが興行的には不振で、特に宮崎さんとかは業界からはちょっと干されていた。『マクロス』(1982)が出てきたあたりから、アニメ全体がなんかマニアックなオタク作品中心なっているような気がして、なんとなくアニメから距離を置くようになるんです。「マニアックなオタク作品つくる金で、宮崎駿に新作映画を作らせろ!」と思ったり。その頃は大阪芸大からDAICON FILMで岡田斗司夫や庵野秀明が出てくるタイミングですね。

――:岡田さんも庵野さんも、もう当時からすでに有名だったんですか?

はい、彼らは年齢的に3-4つ上なんですが、当時すでに岡田さんは名前がよく聞こえてきていました。庵野さんは名前自体というより大阪芸大にスゴイ学生アニメーターがいるという話はよく聞いてました。大学時代の短編アニメが同人誌に取り上げられていたりしていましたし。

――:押井守さんについてはどう見ていたのですか?

「ビューティルルドリーマー」については原作原理主義だったので受け入れられなかったです。でもそんな状態で『天使のたまご』の映画祭上映会で上映中の押井さんのお相手はした事がありました。その後『機動警察パトレイバー the movie』(1988)『機動警察パトレイバー2 the Movie』(19898)もよく観てもいないのに否定して。後年リバイバル上映で観て、押井さんスゴイじゃないか!と、心からゴメンナサイしました。そういう、モノを斜めにみていた感じが、もはや10代のくせに老害オタクのようになっていましたね笑。

――:18歳の老害オタク笑。結構嗜好としてはニッチ寄りなんですかね。

不器用な人のほうが好きなんですよね。『進撃の巨人』や『鬼滅の刃』なんかも最初は原作の絵の評価が少し低かったですが、そこでキャラクターデザインをリファインしたアニメで大ヒットした。でもそういうマスにアダプトしていない作家さんも「届かないことがまた個性であり価値である」と思っちゃうんです。『鬼滅の刃』の吾峠先生の作品は初期短編集が一番好きだったりしますし。そう言えばヤマトもガンダムも初回テレビ放送では打ち切りになった作品ですしね。

――:大学には進学されるんですか?

映像系の大学に行きたかったんですが、家庭事情で難しくて、まずは学費を貯めようと思って。そこで求人情報誌で見かけたのがデータウェストという関西のゲーム会社で、ゲームのイラストレーターをアルバイトで募集していたんです。そしたらゲームの新規企画も募集していて、イシイくんシナリオも書けるの?じゃあ企画から考えてと言われ、2タイトルを企画しました。そのうちの一作が「イミテーションシティ」というADVゲームとして発売されました。19歳の時でした。


▲イシイ氏が19歳の時(1986年)に制作した『IMITATION CITY』の取扱説明書。ストーリー及び設定のテキストおよびイラストは全てイシイ氏が執筆した。

 

――:それはスゴイですね!バイトなのにゲーム出しちゃったんですか?

はい、アルバイトなのに自分で全部シナリオ書いて、全部絵も描いて、1本完成してしまった。PC-8800(NEC)とFM-7(富士通)のPCプラットフォームでしたね。でもその結果、「もう二度とゲームなんて作らない」という気持ちになりました。アニメも映画も好きだったけど、ゲームは当時1枚の絵を動かすのに7.5秒もかかって制約が大きすぎて、アニメや映画に比べてやりたい演出が全然追いついていないことがショックでした。

それに自分が描いたジャケットの絵も、宣伝担当がこっちのほうが売れると勝手に差し替えられちゃって出されたんですよ。「これは僕の作品じゃない!こんな状態で店頭に並ぶなんて許せない」と会議で泣いた記憶があります。

――:19歳で自分のゲーム1本出せたことでも十分な気がしますが、やはり長年オタクの最先端だったことでのプライドも強かったんですかね。

「大人」の理屈で色々言われて、言い返せず説得もしきれなかった自分にも腹が立ってしましたね。当時流行していた田島照久さん風の英語タイポグラフィーデザインを自分で作って、これならカッコいい!受ける!と思っていたものを、説得・納得させられなかったというのがトラウマになりましたね。

それで内容だけ作るんじゃだめなんだ!外側の広告宣伝も理解できるようにならないと、と思ってリクルート大阪支社の門をたたくんです。

――:だいぶ方向性を変えましたね!求人広告のクリエイティブ制作ってことですよね?

求人広告は各営業所で営業して、そのまま営業所社内で広告デザインつくってたんですよ。「新規レストランオープン、調理スタッフ募集!」みたいなやつですね。そこで入社3カ月で広告デザインで新人賞をとるんです。リクルート全国全営業所での新人賞です。

――:すごいですね!

続けて何度か全国賞も受賞して、そこで少し自信を取り戻しました。自分は才能があるんじゃないか?戦えるんじゃないか?と、PCゲーム制作でガックリしていたところで勇気づけられたんです。それに、当時のリクルートには、「伝説のクリエイター」というのがいたんです。サカグチケンさんといって、関西リクルートで賞をとりまくった上に東京に転勤し、そのまま独立してブルーハーツやアナーキー、BUCK-TICKなどのジャケットデザインなどを手がけた方です。その人をモデルケースとして、自分も東京を目指さねばと思ったんです。

――:ただその後はCCC(カルチュアコンビニエンスクラブ)に転職されるんですよね?

営業所のクライアントだったんですよ。1983年に大阪府枚方市で増田宗昭さんが創業して1985年からフランチャイズ展開を始めたばかりの時期でした。TSUTAYA本社の広告センスも凄くよくて、そこに魅せられて店舗のプロモーションとか全国キャンペーンを推進している広告宣伝部に所属しました。

でもゲームも作った事あるし、リクルートで全国賞の実績もあるから、僕もまあとにかく生意気だったわけですよ。あまり上司のいう事も聞かず、好き勝手仕事をしていたら増田社長が、面白い奴がいるらしいなと目をつけられ、結果的に社長室付の広報担当になりました。

 

■宮崎駿・庵野秀明に履歴書送付も東京行きを断念。日経グループのPCゲーム初ヒット

――:おおー創業者の増田さんご本人!イシイさん、CCCでだいぶ目立ってたんですね。

面白かったですよ。アルバイトのマニュアルをインタラクティブな映像にしろ、と言われて、CDROM(CD-i)で作成したり。しかも映画のパロディ満載のモノを作って怒られたり。

――:CCC自体は非常にクリエイティブな会社でしたよね。書店・小売から始まった会社とは思えない。

でも個人的には、キツかった事があるんです。店舗研修すると何万本もの映画に囲まれるじゃないですか?、その時「なんでここに俺の作品がないんだ!?」って居た堪れなくなって。まあそれでも増田社長に面白がられましたし、Macを自由に使えてオーサリングしてメニューを作ったり、ゲームっぽい作品を作ったり。映画的な映像に凝ってみたり。でもそうやっているうちに「俺はもっと自分の映像のセンスを生かせるところにいかないと!」と焦ってくるんです。それで東京のある3社に履歴書を送るんです。

――:いろいろ栄転・成功しているようで、クリエイターとしての悩みは深かったんですね。やっぱりジブリですか?

25歳のとき(1992年)でしたが「スタジオジブリ宮崎駿様」「サンライズ富野由悠季様」「ガイナックス庵野秀明様」、この3通の履歴書を用意して、郵送しました。そのまま東京に押しかけていくんですが。サンライズは富野さんは出てこず人事担当の方が出てこられました。「よくこういうの来るんだよね」と。もしオリジナルを作りたいならバンダイさんにいったほうがいいよと言われました(その後、サンライズはバンダイに買収される)。庵野さんは直接会ってくれたんですが、ホント一切しゃべらなくて。僕の作品ファイルをパラパラ興味深そうにみてくれたんだけど、人事担当者に希望年収は?と聞かれてリクルートからCCCで当時比較的高かった給与を話した途端・・・パタンとスケッチブックを閉られた記憶が。たぶん水準が全然違ったんだと思います。

最後はスタジオジブリですが、今は募集をしていないという事で、代わりに徳間書店の尾形英夫さん(1978~86『アニメージュ』初代編集長、後任が鈴木敏夫氏)が会ってくれたんです。それで「イシイくん、面白いね。面倒見てあげるから、東京きなよ」と誘ってもらったんです。

――:え!あの鈴木敏夫さんの上司の尾形さんですよね!?おおーまさかのオファー。それでジブリに入るんですか?

いや、辞めると伝えたら、増田さんが「お前のために会社つくってやるから、やってみろ」と引き止められて。社長というわけじゃないんですが、専用の部屋に新調のMacを置かせてもらい、蔦屋電子出版という会社を立ち上げました。そこで『スペースシップワーロック』(1991年Mac用ゲーム。「インタラクティブムービーの元祖」と言われる)という作品に出会ったのです。あ、これなら昔夢見ていた映画と勝負できるようなゲームが出来るかも!と興奮したんです。しかしやはり自社のための映像作品やインタラクティブ作品を作る事に飽きてくるんです。

――:まあ、まだ20代半ばですもんね。それは妥当な判断ともいえますね。

結局2年経ったら、やはり東京に出ないとダメだと思うようになって。日経新聞グループの日経ビデオバンクという制作会社に転職しました。様々な企業案件の制作を受ける会社だったのですが、ある日、社長から自社でCD-ROMの出版をしようと思っていると呼び出されまして、日経グループらしきくインタラクティブな辞書とか旅行記でも作ろうかという話だったのですが、これはチャンスだと思って「社長!ゲームを作りましょう!ゲームの方が売れます!」とプレゼンしたんです。

――:日経グループをけしかけてゲーム作り!?それものすごい説得力=プロデュース力ですね!

そこで2本のPCゲーム作品を立ち上げました。『MA-RI-A 人形館の呪い』と『Little Lovers』(1997)で、後者は『リトルコンピューターピープル』(1985、アクティビジョン、小人の箱庭ゲーム)と『アクアゾーン』(1993、飼育ゲーム)のアイディアを組み合わせたような作品で、この『Little Lovers』がスマッシュヒットしてPCゲーム雑誌ログインのランキングにも入ったんですよ。売上はたしか1.5万本くらいだったと思いますが、当時のPCとしてはなかなかで『信長の野望』や『大戦略』に挟まれて第二位になったんです。

もしかしたら自分たちはゲームでも通用するのではと思って、当時勢いを伸ばしていたプレステで作りたい!と、新規に2ラインの企画を立ち上げるんです。それが失敗でした。当然ながらコンシューマゲームの開発は自社では無理なので開発会社に委託してディレクションをやるんですがが・・・ぜんぜん出来上がらないのですよ。技術がないところと組んだらゲームコンセプトやデザインがあってもどうにも無理なんだ、というほどのバグが出たりもして。『宇宙戦艦ヤマト』の沖田十三の「この艦では勝てない」が脳裏に浮かびました。最後はもう出すしかないというところまで追い詰められてリリースしたんですが、結果鳴かず飛ばず。当時31歳でしたけど、これは本当に自分の経験不足にガックリしました。

 

■チュンソフト時代の大成。『金八』『428』でファミ通殿堂入り、ゲーム賞受賞するも“無冠の帝王"

――:日経での挫折が、どう次につながってくるんですか?

日経ビデオバンクもちょうどその2本が失敗したタイミングで社長が変わり、ゲーム案件をやらなくなったんです。そのタイミングで初めて生粋のゲーム会社、チュンソフトに入社します。2000年の事でした。

――:チュンソフト※はゲームメーカーですよね?それまでのリクルート、CCC、日経ビデオバンクというイシイさんの異色の経験はどう評価されるんですか?

PCゲームとPSで4タイトルをリリースしていましたので実績も出来ていた。ディレクター経験者ということで普通に採用してもらいましたね。当時のチュンソフトはドラクエからはもう外れて久しかったですが、『トルネコの大冒険』(1993)や『風来のシレン2』(1995)でローグライクのゲームを“発明"し、『弟切草』(1992)も『かまいたちの夜』(1994)等サウンドノベルという新しいジャンルも開拓していて、これは日経グループのときに挫折した「開発力の限界」を越えられるはずだ!とワクワクしてました。

※チュンソフト(現在のスパイク・チュンソフト):1984年中村光一氏が設立し、『ドラゴンクエスト』(1986)から『ドラゴンクエストV 天空の花嫁』(1992)のプログラミングを担っていたことで知られる。

――:それでもいきなりゲーム業界新参者の外部者がゲーム責任者、みたいにはなれませんよね?

元々はあるタイトルの続編のディレクター候補として入社したのですが、その企画がなくなってしまったんです。そこでいきなり社内浪人の危機でした。やってきたチャンスが全社員フラットの社内企画コンペ。前職でのディレクター経験等は全くアドバンテージにならず企画内容だけを判断される事になったんです。その社内企画コンペを勝ち抜いた作品が『3年B組金八先生 伝説の教壇に立て!』で、結果的に2004年にPS2でリリースされます。これがキャリアの分岐点ですね。この作品を作れなかったら僕はもうディレクターとしては浮上しなかったかもしれないですね。結果、第9回「CESA GAME AWARDS」優秀賞を受賞し、ファミ通クロスレビューでもプラチナ評価を頂くんです※。これには中村光一さんもビックリで。

※ファミ通クロスレビューで35~40点を獲得し、プラチナ殿堂入りした作品。『どうぶつの森』『逆転裁判2』『鬼武者』『キングダム・ハーツ』『グランツーリスモ』『原神』など層々たる作品が入っている。ゲームのプロが評価をするため、業界内でのステータスになるものだった。またCESA GAME AWARDS優秀賞(現在の日本ゲーム大賞)はスパイクチュンソフトとしては今作が初受賞だった。


▲『3年B組金八先生 伝説の教壇に立て!』の社内コンペ企画書。企画書の仮タイトルは『ガッコウ』。ファミ通の緊急特報を模した企画書はシンプルに2ページで構成されていて、イシイの広告宣伝職時代のノウハウが詰まっている。

 

――:リクルートの新人賞もですけど、いきなりやってのけるのがスゴイですね!19歳でPCゲーム、30歳でPCゲーム2本とやったけど、ついに37歳で業界トップ賞をとるPSゲームを出したんですね!

前回のディレクターとしての失敗経験もあって、作り方を変えたのも大きかったです。脚本を自分では極力書かないようにして、細部に拘り過ぎて自分がボトルネックにならないようにしたんです。自分が脚本を含めて100%作ってしまうとどうしても客観性が薄くなるとも感じていて、結果ディレクションに徹して他人があげてきたものを組み合わせながら創れるようになりました。まあディレクターとしては当たり前のことなんですが、そのくらい20~30代前半の時期はクリエイターとしての全部自分でやるとういう自我が強かった。笑。

そうすると全体のバランスに目が届くようになって、『Little Lover』では苦労した作画も、ジブリで『猫の恩返し』やっていたスタッフを集め、チュンソフト内に作画机を並べてアニメスタジオと同じ環境を作る事により、質の高いアニメを作れたり。それまでのアニメ知識・映像知識を総動員して創り上げた快作でした。

――:チュンソフトはやはりレベルが高かったですか?あと、『金八』は売上はどのくらいだったんですか?

まさにそれで、社内にはオタクしかいなかったですし、本当に1人1人のクリエイティブに対する真摯さは素晴らしかったです。「僕は、もっと早く、こういう会社にきておけばよかった!」と思えるくらい、このチュンソフト時代がクリエイターとしてはじめて幸せだなと思えた時間でした。ただ・・・『3年B組金八先生 伝説の教壇に立て!』の売上本数は伸びなくて10万本いかないくらいでした。

――:なるほど、それでもスゴイ数字ではありますが、プラチナやAWARDを取ったの割には数字が伸びなかったんですね。

これが後々に枷になるんです。「いいもの作るんだけど、大ヒット作には届かない」という評価が僕にとってちょっとした呪いになってくるんです。

――:たぶんその後ですよね、『428』をやったの。

はい、チュンソフトへいろいろチャンスをもらってありがとうという気持ちも込めて、最高の作品を作ろうと思ったプロジェクトでした。サウンドノベルで最高の評価とヒットを目指そうと。実は『428』の手前にディレクターでなく、初めてプロデューサーの立場で『忌火起草』(2007年の『弟切草』の続編的作品)開発しました。『3年B組金八先生 伝説の教壇に立て!』『忌火起草』とスタッフが熟成された状態で『428』が開発できた事もすごく運が良かったと思います。当時撮影現場で御法川実役の北上史欧さんに自信満々にこう言って行ったそうです。「このゲームの勝ちは決まってます、あとはどこまで勝てるかが課題です」と。あとで言われて、確かに言っていたかもと。そのくらい自信がありました。笑。

――:すごい自信!

そのくらい僕が、というよりは組んだチームが最高の布陣だった。過去チュンソフトの最高作はファミ通クロスで38点をとった『不思議のダンジョン2風来のシレン』でした。『金八』は35点、今回は最高点の38点に並ぶのが目標でした。パブリッシャーであるセガの宣伝Pから(リリース直前に)「イシイさん、ちょっと(受注)本数厳しいです。これでファミ通で40点満点でもとってくれたら、奇跡が起こるのになーーー!」って言われて、自分でも「いやいや、流石にそれは無理でしょ!」といっていたくらいのスコアですから。

過去40点満点にいったタイトルって『ゼルダの伝説 時のオカリナ』(1998)、『ファイナルファンタジーXII』(2006)とか『メタルギア・ソリッド4』(2008)ですよ。

――:そしたら、まさかの・・・

40点満点だったんですよ、(当時)史上9本目として。『428 〜封鎖された渋谷で〜』(2008)はその後、「日本ゲーム大賞2008」フィーチャー部門、「日本ゲーム大賞2009」優秀賞も受賞します。ちょうどファミ通の取材で渋谷のロケ地巡り中、ハチ公の裏にいた時に知らせを受けて、担当のファミ通記者さんで「イシイさん!40点ですよ!」って。

僕としては全てが報われた瞬間・・・だったはずなんですがまたこの作品も売れなかったんです。初年度10万本に達しなくて(当時の9本のなかでは唯一2桁万本に未達)もはやトラウマ級ですよ。業界的にこんなミラクルおこったら凄いことになるって言われるラインを越えたのに、それでもマスのユーザーにアダプトしなかった。

――:まさに勝負で勝って試合に負けた、的な・・・。なんだか勝負は勝ち続けているだけに“無冠の帝王"のようです。

その通りですよね。ただ、この作品でずっと外様だった僕は、ゲーム業界で認められた気がしました。それこそ満点を何作品もだしてきたソラの桜井政博さん(代表作『星のカービィ』『大乱闘スマッシュブラザーズシリーズ』)から「『428』はボタンの配置がいいですね、感覚的にこうやろうと思ったらその通りの操作になっていて、インターフェースが素晴らしいです」と二人だけの時に褒めていただいて。そこを褒められたのが一番の嬉しかったかもしれないです。ストーリーがいいとか演出がいいとかよりも、ゲームデザイナーとしては「インターフェースがいい」という言われたのが一番うれしかった。


▲左から桜井政博氏(『星のカービィ』『大乱闘スマッシュブラザーズ』)、イシイジロウ氏、小高和剛氏(『ダンガンロンパ シリーズ』『超探偵事件簿レインコード』)、外山圭一郎氏(『サイレントヒル』『SIRENシリーズ』『Gravity Dazeシリーズ』)、神谷英樹氏(『Devil May Cry』『 Viewtiful Joe』『大神』『 BAYONETTA(ベヨネッタ)』)。写真外の審査員には飯田和敏氏(『アクアノートの休日』『アナグラのうた-消えた博士と残された装置』)、巧舟氏(『逆転裁判』『ゴースト トリック』『大逆転裁判』)ヨコオタロウ氏(『ドラッグオンドラグーンシリーズ』『ニーアシリーズ』『SINoALICE』)がいる。

※この翌年から日本を代表するトップクリエイターがプロの視点で「創造性」や「斬新性」を基準に評価し、最も優れた作品を 1 つ選出するというコンセプトの「日本ゲームデザイナーズ大賞」が設立、イシイはその第一回から審査員として名を連ねることとなった。写真は日本ゲームデザイナーズ大賞2023の審査員懇親会。

 

■ファミ通プラチナ殿堂入り3作目。勝負に勝つが試合で勝てないトラウマを独立して払拭

――:その後レベルファイブに所属されます。

受賞パーティーで日野晃博さんに誘われるんです。「すごかった!続編作らないの?」と。チュンソフトでは本数が達しなかった事もありますし、他作品のライン優先度もあって2は出しにくかった。「だったらうちで同じ様な作品をレベルファイブつくっちゃうよ」と。

――:さすがの日野さんですね。しかしドラクエ5までやっていたチュンソフトから、ドラクエ8から担当したレベルファイブにいくのは、なんだか複雑な事情になりそうな・・・

そこは中村さんと日野さんで話し合いをしていただきました。ただ僕としてはチュンソフトの最高峰のチームをつくってもらったのに、レビューも殿堂入りだったのに、本数が届かなかった。どうすればいいか本当にわからなくなっていたところで『レイトン教授』『イナズマイレブン』と数々ヒットさせていた日野さんから声がかかった。ここなら、トラウマをなんとかできるかもしれない、とレベルファイブの東京オフィスに勤務をはじめます。

――:それがレベルファイブが所属した理由だったんですね。

そして満を持して『タイムトラベラーズ』(2012)をリリースします。『428』の20年後の世界を描いています。阪神淡路大震災をテーマにした東京消滅というフィクションで、ただ、これを作っている間に2011年、東日本大震災が起きちゃうんです。出せないかもしれなかった、危ない状態です。

加えて日野さんに指摘を受けたことがあったんです。『428』は40点を取ったから売れなかったのではないか、と。レベルファイブの作品は40点まで取らずとも大ヒットしていたんです。自分の感性通りに作るより、マスに受ける作品を作らなければならないのではないか。

そうやって色んな悩みを抱えながら、着地点としては『428』オール10点に対して、マスファン受けも加味したオール9点で36点。プラチナ殿堂入りはするし、自分としては今度こそ!という出来でした。―まさか。それでも数字が厳しかったんですね。

はい、まさに狙い通りにやって、それでも手ごたえがある数字が創れなかった。「もう僕にはヒットゲームは作れないんじゃないか?」という感覚になりました。そんなタイミングでアニメ原作や脚本の話が舞い込んだんです。でもアニメって実際に制作が始まるのは企画から3年後だったりするじゃないですか?「3年後にイシイの工数をあけていいかどうかなんて保障できないよ」と日野さんにも言われて、まあ常識的に自分が上司でもそうだなと。でも色々と挑戦してみたい。それでも前回チュンソフトを辞めた反省もあって、迷惑かける時期にはやめられてないと思っていました。

しばらくいて、ちょうど妖怪ウォッチの大ヒットがあり、もう今なら会社には迷惑かからないだろうと思い、2014年に独立したんです。アニメ原作や脚本案件などちょっと新しいことをやってみようと。

――:1990~2000年代とずっとゲームを作ってこられましたが、そこではじめて原点のアニメに戻るんですね。

やっぱり原体験があるのでアニメや実写作品を創りたいというのがあるんですよね。当時はゲームをやってきた人たちが、そのインタラクティブな世界観設計の経験をもって、逆にストーリー中心のアニメ世界に進出して活躍していっていたんです。Typemoonの奈須きのこさん(1973~、Type-Moon創業、『空の境界』『Fate/stay night』など)、ニトロプラスの虚淵玄さん(1972~ニトロプラス取締役、『Fate/Zero』『魔法少女まどか☆マギカ』など)とか。

――:完全に「原作者として個人で活躍する人」って他にいらっしゃるんですか?

皆、会社には所属してるんですよね。昔、広井王子さん(1954~『サクラ大戦』シリーズなど)もいましたが、彼もレッドカンパニーという会社がありましたしね。確かに個人としての独立というのは、あまり事例がないかもしれないですね。

やっぱり僕自身が組織にはちょっと向いていないんですよ。レベルファイブで最終的には東京オフィスのゼネラルマネージャーになって組織とか人事やるようになっていたんですが、やればやるほど自分にはそういうのは合わないな、と思っていた。まぁ正直自分の面倒をみるだけで精いっぱいだ、と。

――:独立して、その後の8年間はいかがでしたか?

「なんでもっと早くやらなかったんだろう」というくらい楽しいし、自由ですね。やりたいと思ったことはすぐにできるし、結果的にずっと夢だったアニメも(2015年YouTube配信アニメ『モンスターストライク』のストーリー・プロジェクト構成担当、2016年『フブキ・ブランキ』のシリーズ構成・脚本)、映画も(2014年『UNDER THE DOG』を米国クラファンで1.2万人から最高額87万ドル集めて2018年公開)、実写映画も(『女流棋士の春』監督)、ボードゲームも(フィギュアボードゲーム『ドラゴンギアス』原作)、脱出や謎解きゲーム(Inside Theater Vol.1『SECRET CASINO』脚本、NHK謎解きLIVE『CATSと蘇ったモリアーティ』原作)、スマホゲーム(DMM『文豪のアルケミスト』世界観監修)、コンシューマーゲーム(『新サクラ大戦』ストーリー構成、日本ゲーム大賞2019フィーチャー部門賞)に舞台演劇まで(『龍よ、狼と踊れ』原作、観劇型人狼イベント『アルティメット人狼』主宰)まで、いままで考えもしなかった広がりを持つようになりました。経験値としては独立してからのほうがずいぶんあがった気がします。

――:逆に独立した立場でゲームや作品を作ることの課題はありますか?

大きいプロジェクトを動かそうとしたときには、やはり外部柄のアプローチは難しいですね。「組織を使うエネルギー」ってやはりとてつもなくパワーが必要なんです。全体予算・人事のリスクも張らないとけませんし。そこには外部からだと簡単にアクセスできない。パートナーになる会社内のプロデューサーかディレクターが、組織の経営資源を使うことを担保し続けてくれて、リスクを持って一蓮托生できる状態があってはじめて実現できる。特に『新サクラ大戦』ではその難しさを痛感しました。

――:外部の原作者と内部のプロデューサーでうまくいっている実例ってあるんですかね?

少ないですけど、『ニーア』シリーズのヨコオタロウさん(1970~、原作者)と齋藤陽介さん(1970~、スクウェア・エニックスプロデューサー)の関係性とかは羨ましいですね。うまく機能しているように見えます。外部にいながら、作品の責任者のような形でしっかり成立している。

――:7周年を迎えられる『文豪とアルケミスト』についてはどうですか?

『文豪とアルケミスト』はIPの作り方を一番実現できているタイトルかもしれません。2.5次元の舞台化も次回で7作目を数えますし、TVアニメ化も大変好評でした。運営型ゲームで7周年というのもかなり珍しいレベルですよね。これが独立後の代表作と言っても良いかもしれません。


▲『文豪とアルケミスト』7周年記念放送での記念写真。左から音楽担当の坂本英城氏。世界観監修のイシイジロウ氏、プロデューサーの谷口晃平氏。

 

――:過去の作品で心残りがあったりとか、こうしておけばよかった後悔とかあります?

『金八』も『428』も『タイムトラベラーズ』も、実は自分自身のディレクターとしての才能よりも圧倒的によい作品ができたと思ってるんです。結局あのとき一緒にやってくれたチームの面々が優秀であの完成度が出せた。それを商業的ヒット作にもっていけなかったことは責任を感じるんですが、クオリティとしては今振り返っても満足してるんです。それってやっぱり最初の宮崎駿やYMOが好きだったところに根底の部分でつながっているのかもしれません。どこかで僕は「売れたら勝ちだ」とは思っていないところがある。

宮崎駿監督であれば『ルパン三世 カリオストロの城』、新海誠監督であれば『秒速5センチメートル』が最高の作品で、それが一番その人を表して、その人の筋肉というか本質がそのまま表れているような作品に見えるんです。その後に出した作品は、やっぱりマスへのアダプトのために様々な外部の意見を取り入れて、ぜい肉のような表現もついてしまっている気がします。そして売れるために再生産を続けている作品が、大成功していたとしても一番良かった、とは心の底では思えない自分がいます。

――:分かります。それは同時に売れる作品が残る作品にならないということも同じですよね。逆にヒットしていないけど話題としてずっと上っている作品もある。

結局、突き詰めた自分の感性がプロダクトに表れるのでしょうね。でも様々なメディアで作品を作ってきて見えてきた事もあります。

例えば、舞台演劇ってやっぱり役者さんの肉体が主体だなと思うんですよ。台本を書き込んでいても、作品が浮かび上がる瞬間って稽古場だったりするんですよね。逆にゲームは世界観や奥行まで自分の頭の中ですべて設計しなければならない。そこに素材として演技を乗せていくというイメージで作る。

ゲーム、アニメ、実写、舞台、そして体験型エンタメと全てのクリエイティブに参加して初めて見えてきた地平みたいなモノがある気がします。その全てにどの様に自分の感性を刷り込んでいくのがベストなのか。まだまだ勉強中な気がします。

――:やっぱりまだまだゲームは作りたいんですか?まだやっていないけど手掛けたいこととか。

あとやっていないことは小説とかオリジナル漫画原作くらいですかね。あ、可能なら実写映画の長編にも挑戦してみたいですね。新しいことにチャレンジすることは今でも楽しいです。50代後半になっても、毎月毎月知らないことを覚えていっている気がします。幾つになっても、成長に対する貪欲さは大切にしていきたいですね。

でも最近は本当に個人の感性を突き詰めるコアなプロジェクトと並行して、パブリッシャー時代にやっていた様な大型プロジェクトのディレクションにも再挑戦したいという気持ちが戻ってきました。それには先ほどいったように、社内側で経営資源を使いながら僕のクリエイティビティも生かしてくれる強力なパートナーが必要なんですが。自著の『IPの作り方』をさらに実践・証明するにも、ぜひそういうお話あれば!

会社情報

会社名
Re entertainment
設立
2021年7月
代表者
中山淳雄
直近業績
エンタメ社会学者の中山淳雄氏が海外&事業家&研究者として追求してきた経験をもとに“エンターテイメントの再現性追求”を支援するコンサルティング事業を展開している。
上場区分
未上場
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