【連載】中山淳雄の「推しもオタクもグローバル」第80回 『ベルセルク』継承-高校時代以来の無二の親友三浦建太郎、その意思を継ぐ漫画家森恒二
白泉社ヤングアニマルで連載中の『ベルセルク』、その壮大なファンタジー物語は42巻合計で6000万部(以下続刊)、『ハイキュー!!』に次いで歴代漫画コミックスで売上部数34位という位置にある。白泉社としては青年向けコミックス歴代No.1の販売数作品であり、まさに物語が終局に向かおうという段階で33年にわたって連載を続けてきた三浦建太郎氏が、志半ばに逝去したのが2021年の話だった。訃報から1年、作者不在のなかで奇跡の復活を遂げる。それまで兄弟かライバルかのように40年間連れ添ってきた無二の親友であり漫画家でもある森恒二氏が監修を引き受け、弟子たちが連載を最後まで続ける覚悟をもち、漫画史で過去事例のない「描き継ぎ(別の原作者がたって物語を完結に導く)」という事象が起きた。これまで傑作ながら作者の早逝により完結をみなかった作品も多くある。『ベルセルク』ではなぜそれが可能だったのか、本当にそれは完結するのか、森氏にインタビューを行った。
【目次】
■『進撃』越えの米国トップ7位の人気作。親友のバトンを継いで完結編へ
■フィジカルの天才と美術の天才の邂逅。対照的なオタク2人が切磋琢磨してプロ漫画家へ
■高校・大学時代に森グリフィスと三浦ガッツで結成した“鷹の団"、強敵をなぎ倒す爽快感
■高名な小説家のアドバイスから生まれた“黄金時代"。ベルセルクが一大叙述史に進化
■自らの体験と向き合い、見出したストリートファイトと総合格闘・プロレス、中邑真輔との出会い
■三浦と漫画はセットだった。失ったけれども再び生きる力をもらった描き継ぎ作業
■『進撃』越えの米国トップ7位の人気作。親友のバトンを継いで完結編へ
――:自己紹介からお願いします。
森恒二(もり こうじ)です。漫画家です。『ホーリーランド』『自殺島』『無法島』などをヤングアニマルで連載してきて、現在は『創世のタイガ』『D.ダイバー』を連載しています。
――:『ベルセルク』は三浦建太郎先生が2021年5月に亡くなられてから、森先生が監修を引き継がれて連載を再開しました。
2022年6月に再開しました。そこからもう1年半近く経ちますが、いまだに不思議な体験をしているかのようです。私と三浦は高校同級生の時代からの友人で、もう40年以上も漫画家を目指すところから一緒にやってきました。『ベルセルク』の終わり方も全部聞いていたのは唯一僕だけでしたので、それを思い出しながら、元白泉社編集者の島田さんと、黒崎チーフと3人で、三浦が考えていた構想を掘り起こしながら、連載を続けています。
――:でもそんなに克明に話を聞いているってどういう感じなんですか?お二人ともそれぞれ連載漫画をもっている多忙な連載漫画家なわけですよね?
我々はある意味ちょっと普通の関係じゃなかった。高校時代からもう何十年も10日をあけずに連絡もとりあうし、根詰まるとお互いしょっちゅうそれぞれの連載の話をしていた。電話口でも次こんな展開で、ガッツがこうやってさ・・・みたいな寸劇を始めるので、もうハンズフリーにして2-3時間描きながらしゃべっているような間柄でした。だからこそ彼の訃報を耳にしたときに、信じられなかった。今もそう思えなくて、ふっと顔を出すんじゃないかという気になります。
――:でも話を知っていることと、それをマンガ作品としておとしこむのは別次元の苦労がありますよね?ご自分でも『タイガ』の連載がありながら、どうしてそれを引き受けようとされたんですか?
悩みました。というか僕自身が、訃報のあと呆然としてしまって自分のマンガも手に付かなかった。数か月間機能してない中で、いつか小説かムック本のような形でなにかベルセルクの構想はどこかで公にしないと、とは思ってました。「漫画連載の再開」という選択肢は当時全く考えてませんでしたね。
でも三浦と連載を続けてきたスタジオ我画の弟子たちが「絶筆した回の原稿を最後まで描くので見て欲しい」というんです。内心無理だろうなと思っていたんですが、実はその364話は(21年9月のヤングアニマル18号に掲載)どこまでが三浦でどこからが弟子たちの作業なのかわからないくらいの完成度でした。必死の力と言うのは時に人を奇跡的に向上させます。「自分たちにその後の連載も続けさせてくれないか」という相談も受け、もしかしたら完結までもっていけるかもしれないという想いが、初めて湧いてきたんです。
――:森先生も大変な決断だったと思いますが。
30代半ばくらいに年間何十日も徹夜するようなすごい忙しいときがあって、僕も病院送りになったりしてました。だから冗談で、お互いに「何かあったら続きはよろしくな」みたいなことを言ってましたね。まさか本当にそんなことになるとは思わなかったんですけど、やらないと「お前がいて、なんなんだ!」って三浦、相当怒ると思うんですよ。最終回を皆さんにお伝えするの、すごく楽しみにしていたから。三浦と自分の恩師である白泉社の島田取締役(当時)も「やるなら会社は全力で支える」というので、それで連載を再開しました。
――:こうやって作品を誰かが引き継いだって過去白泉社や他の出版社でも実例ってあるのでしょうか?
編集者:いえ、聞いたことないです。たぶん初めての事例だと思います。
――:私が驚いたのは2022年の北米漫画売上において『ベルセルク』が80万部で7位にランクインしたことです。もともとトップ20には入る人気漫画でしたが『チェンソーマン』『鬼滅の刃』『呪術廻戦』『僕のヒーローアカデミア』『SPY×FAMILY』とジャンプのトップ5作に次いで『花子くん』と『ベルセルク』が入ってきている。『進撃の巨人』『ONE PIECE』『Dragon Ball』よりも売り上げている。
編集者:はい、実はいま海外で非常に結果が出ています。三浦先生のニュースを聞いて、それは本当に残念なことではあるのですが、逆にもともとファンだった人たちがもう一度手にとる機会になっている、という状態です。
――:再開に対してどのくらい反響はあったんですか?
いや、もう毎日のように熱いDMが届いてますよ。半分は海外からのファンで英語だけじゃなくて、スペイン語とか色々来ますね。最近でいうとアラビア語で結構中東から色んな反響をいただくことが増えてきてますね。
――:いや、ベルセルク、海外ファンの熱望が凄いんですよ。僕自身も2021年11月にコロナ禍でしたけど、三浦先生への追悼メッセージボードにとても驚きました。
▲2021年11月ニューヨーク最大のアニメイベント「アニメNYC」での三浦建太郎氏への追悼メッセージ
■フィジカルの天才と美術の天才の邂逅。対照的なオタク2人が切磋琢磨してプロ漫画家へ
――:森先生は中山がブシロード時代に木谷高明さんとプロレスを観に行った縁で繋がりました。体格も半端なくて、とても漫画家には見えなかったんですが・・・昔からですか?
僕は身体的にすごく恵まれていて、中学校も全国大会にいくようなリトルリーグに所属してました。親も、他の兄弟は勉強できるからお前はスポーツを徹底しろという感じでした。身長は180cmあったし、垂直飛びも93cm飛べたんです。握力も86kgくらいあって、とにかくあらゆる数値がとびぬけてました。三浦と一緒に日大の芸術学部に進学するんですが、そこで教授たちに囲まれて体育学部への転部を薦められる、特別スカウトがくるくらい漫画より本当はスポーツのほうが向いていたんでしょうね。
――:完全な肉体エリートだったんですね!?
外側はそうなんですが、中身はオタクだったんです笑。中学から漫画家になりたくて、高校は日大附属の美術科に入学しました。そこでも親からは漫画なんてやめろと口酸っぱく言われ続けていました。野球をやめるといったときには毎日反省文書かされるくらいだったんです。だから家で漫画を描いていると怒られちゃうんですよ。そうはいっても喫茶店にいく金もない。だから仕方なく、いつもゲームセンターのビデオゲームコーナーにお金だけ筐体にいくらか積んでおいて、そこでゲームの灯を頼りにカリカリ描いてたんです。
――:え、ゲーセンで漫画描きって、1980年前後だと不良のたまり場みたいな時代ですよね?
はい、そうなんです。もう19時こえると不良のたまり場でした。不良がガサッとその100円を盗ってくるんですよ。それで僕も困って、「お金返してくださいっ!」って。そしたら裏口に連れていかれました。
――:しかしその不良も不良で、よくそんな巨体の森さんにコナかけましたね。
いや、野球部やめたばかりで僕も坊主頭、身体はデカいけどケンカなんてしたことないんです。そのときもビビりまくってて、でも大事なお金だから取り返そうとしたら・・・ボコボコにしちゃうんですよ、その不良を。不良ってこんなに弱いのか!というのと同時に、逆に喧嘩が楽しくなっちゃって、そこから髪も伸ばし始めたりちょっとアウトローになっていきました。高校は荒れている時期でしたね。親に認められていなかったこともあり。
――:目覚めの瞬間ですね!闘いに臨んで初めて自分の強さを自覚する。
そう、気の弱そうな坊主頭の野球部が、圧倒的な理不尽を前にして高校デビューですよ。そうした時に、同じクラスで漫画家を目指していた三浦と仲良くなりました。彼は美大をでたご両親のもとで育って自分用にデザイナーみたいな立派な机をもっていて、本当に羨ましかった。家に入り浸っているうちにあちらの両親が「森君、漫画かきたいならウチで住んだら?」って。
――:そう、高校で一緒に住んでいた、という話を聞きました。よく高校の単なる友達を住まわせましたね!?
あとで聞いたら、僕が当時親とどんどん関係が悪化してたので見るに見かねた、という理由だったようです。不良のたまり場みたいなゲーセンで毎日漫画を描いている、しょっちゅうケンカして痣をつくってくる。親とは険悪になる中でケンカの強さも折り紙付き、「いつか森くんは親をやりかねない」と思ったみたいなんですよね笑。それで自宅に受け入れてくれて、僕は三浦家にオバQみたいに週に何日かは泊まりにいって漫画を描き、たまには自分の家に帰っての繰り返しでした。
うちの親もそんなことはさせられない!と迎えにくるんですが、三浦くんのご両親は「いいんです!いいんです!仕事の手伝いもさせてますから」と追い返してくれていたみたいで。僕の大恩人なんです、三浦家は。あれがなければ漫画家になっていなかったですよ。
――:よくそんなタイプの違う三浦さんと仲良くなりましたね。三浦さんは「思えば僕にとって、森くんの存在は大きかったですね。彼はまるでジャニーズの歌の主人公のような、ちょっと悪くて喧嘩もして女の子にもモテる人でした・・・眩しかったですね。だから、森くんと普通に友達でいるのって難しかったんですよ。眩しすぎて彼より下になってしまうか、離れてしまうかしかない。だけど僕はどちらも悔しかったので、なんとか踏み止まろうとしました。そこで僕の武器がマンガしかなかったので、とにかくマンガを描きまくろうと。」と語ってました。
それ、当時は全然知らなくて大人になってから聞かされました。それどころか、僕こそ三浦に憧れてましたよ。彼はもう最初からとんでもなく絵がうまかった。世が世ならミケランジェロみたいになってたんじゃないかと思うくらい、天才でした。日大時代に「5本足の事務椅子を斜め下から描け」という課題が出るんです。みんな頭のなかでこねくり回しながら1時間くらいウンウン唸って描くんですけど、三浦は10分くらいでさらさらっと。もう脳の仕組みが違うんだと思いました。
――:高校時代に一緒に合作で漫画をつくってたんですよね。
一緒に描いて『週刊少年サンデー』の漫画賞最終選考までいきました。僕が下描きとキャラクターを担当して三浦が背景やメカを担当した。でも合作はそのときくらいですね。僕はホントにつらかった。才能が10倍ある人間と並んで仕事をするって常に自分のダメさをみせつけられるんですよね。
――:それ、竹宮恵子先生が萩尾望都先生と1970年に“大泉サロン"で同棲してたけど、目の前で圧倒的な才能を見せつけられて、つらくてつらくて2年で解消した話を彷彿としますね。でもそもそもタイプの違う2人がなぜ仲良くなったんですか?
本当に気が合ってたんですよ。高1の時に、「森ちゃん、漫画描いてるんだよね?週末森ちゃんのところ遊びに行くから」ってそんなに仲良くない時から声かけてきて。それでお互いの絵を見せ合うんですが、彼の絵があまりに上手くて衝撃を受けるんです。僕はまだ描きあがってないからって最後まで見せませんでした。恥ずかしくて見せられなかった。
――:すごく分かります。
後から聞いたら三浦も三浦で衝撃だったみたいで。僕はかなり読書をするほうだったので(三浦はほとんど本を読まないんです)、部屋にある一面の本棚をみて愕然としてるんです。「森ちゃん、これ・・・全部読んだの?」と。
僕も原稿みせられてガクブルしていた悔しさがあったから「うん、まあ・・・これで半分くらいかな」とかマウントとっちゃって。本当はそれで全部なのに笑。でもその時に貸した小説が平井和正先生の『幻魔大戦』(1979)で、その後三浦はSF小説にドはまりしてどんどん読むようになっちゃったんですよね。栗本薫先生とか。「あー敵に塩をおくっちゃったなー」と悔しさを覚えました。
――:それでSF漫画の方向にどんどん進むんですね。三浦さんも三浦さんで、破天荒でドラマティックな人生を送る森さんにコンプレックスをもっていたと語ってました。
三浦のお父さんが結構乱暴な人でね。僕の目の前で三浦を罵倒するんですよ。「お前は絵はうまいかもしれないが、面白い話は描けない。面白い話をかくのは森くんのような人生を生きている奴だっ!」って。
――:煽る、煽る笑。お互いが意識して、お互いがライバル視しながら、文字通り切磋琢磨して漫画家を目指したんですね。
性質が違うから、正面からぶつかったことはほとんどないですからね。それがよかったのかもしれません。
■高校・大学時代に森グリフィスと三浦ガッツで結成した“鷹の団"、強敵をなぎ倒す爽快感
――:喧嘩したり不良に囲まれる森さんを、三浦さんは怖くなかったんですかね?
実は三浦って暴力に慣れてるんですよ。お父さんがなかなか剛腕な人で、閉じこもった妹の部屋をぶち抜くもんだから、屋根裏に割れたドアが何枚も重なってました笑。そういう経験もしてきているから実は修羅場も怖がらないんですよ。僕と三浦で一緒に古本屋にいったときに、すでに僕も顔が割れてて有名になってるから敵対する不良グループに囲まれたことがあったんです。
でもなんだか三浦はそういうときにワクワクしててね。「森ちゃん、すごいことになったね!?」みたいに目をキラキラさせてて。路地裏に連れていかれて4人に囲まれて流石にこれはマズいな、と思ったんですが、最初に三浦が率先して1人を抑えつけたんですよね。その間に僕が2人をワンパンで沈めて、最後の1人が逃げ帰って、撃退しました。「なかなか見事なもんだよね!」と、その時の三浦は本当に楽しそうでね。
――:なんかそれまるっきりガッツとグリフィスじゃないですか!?三浦さんも「(森さんがグリフィスの)モデルなんですよ。でも僕がガッツのときもあれば、グリフィスのときもある。結構入れ替わるんですよね。男の人間関係でよくあるパターンだと思います」と認められてます。
そうなんです。僕らだけじゃなくて、登場キャラクターがだいたい実在の人物だってご存じですか?
――:え、そうなんですか!?
その後の話ですけど、日大で学部対抗の柔道大会があったんですよ。芸術学部なんて普段はほとんど出ないのに、僕がこんなガタイだし、三浦もセットで呼ばれて学部代表として出場したことがあったんです。その時に出場した5人が、森、三浦とジュドーとコルカスとリッケルト。顔もあのまんま。
嫉妬深くて女好きなコルカスと、便利屋のリッケルトは当然勝てないもんだから、僕と三浦とジュドーで3勝するしかなかった。ジュドーは高校からの付き合いで、その時まで知らなかったんですが昔柔道やってたもんで、奴の器用さもあって勝てちゃったんですよ。それで3勝して、優勝こそしなかったけど体育学部のスゴイ奴らのなかで芸術学部としてはかなりいいところまでいったんです。
――:鷹の団は日芸の即席柔道チームだったんですね笑。皆、自分がモデルになってるって知ってるんですか?
クレーム言ってきましたよ。特にコルカスが笑。「俺はこんなんじゃねえ!」って。いやいや、お前こんなもんだよ(笑)って三浦と笑ってました。
――:当時中学生だった僕の衝撃は、蝕の時のキャスカでしたね。親友だったはずのグリフィスに目の前でレイプされて、なんというか身体がムズムズしました。あれで男子高校生は「ネトラレ」に目覚めたんじゃないかと思います。
あれはちょっと元ネタあるんですよ。永井豪先生の『凄ノ王』(1979)で主人公の目の前で憧れだった美剣千草先輩が悪魔にレイプされちゃうんですよね。あれのアレンジで、ガッツの目と片腕をつぶされながらというのはオリジナルです。最初に黒の剣士の登場時から、あれは蝕のときにやられる傷という想定で作っていました。
――:4人の不良グループといい、武道大会といい、なんか三浦さんが『ベルセルク』で描いてきたストーリーや描写は、彼自身が感動したり興奮した体験がそのまま反映されてるんですね。仲間で凶悪なもの、脅威なるものを撃退するというストーリーが一番三浦さんを突き動かし続けた原体験だったんだと感じます。
セリフも我々が2人で高校時代に話していた内容からとられてるものが多いんですよ。僕が大好きな話の1つに「夢のかがり火」があります。あのバラバラな仲間同士が一瞬だけでも目標を共有し、達成し、酒盛りをする。あれも高校の文化祭のときの話ですよ。皆が後夜祭でワイワイやっているところから距離をおいて僕とか三浦は「俺は剣(ペン)を振る。誰のためでもない、自分自身のために。俺の一瞬の火花を、弾き出すために……」とかやってたわけです笑。皆の輪に入る安心感や嬉しさはあっても、最後の一線で自分はどこかで孤独な戦いを続けないといけない。
――:グリフィスのセリフも森さんが実際に言ったセリフからとっていると聞きました笑。
いや、恥ずかしいんですよアレ。これお前、俺が高校のときに自分に酔って言ってたヤツじゃねえか、ふざけるな、勝手に使うなよ!って。「俺は俺の国を手に入れる」とか、ね。
――:日常生活でああいったセリフが出てくること自体が凄いですよ。流石漫画家、日常のなかにドラマを妄想する力がありますよね。
■高名な小説家のアドバイスから生まれた“黄金時代"。ベルセルクが一大叙述史に進化
――:でも高校でいいところまでいって、そのあと日大の芸術学部に2人で進学するわけですよね?もう漫画家へのビクトリーロードのようなキャリアですが。
我々はスランプに入る時期も一緒でした。16歳で奨励賞もとって担当もついていた天才三浦が、大学に入っても連載が一本もとれなかったんです。あのころ美大で学んでリアルな人間の実写に近づいていったことが逆に漫画からは遠ざかってしまう。顔が大人っぽすぎるとか色々編集に言われて直しているうちに、ぐしゃぐしゃになって自分の描くスタイルがおかしくなっていた。一作だけSF系作品で増刊号にのりましたが、人気は最下位で終わってます。
なんか、そういう時期ってあるんですよね。結構早いうちに目をつけられるんだけど、上がってきた作品をみるともう一息足りない、みたいな。テーマが見つかってなかったですね、あの頃の三浦は。
――:森さんはどういうスランプだったんですか?
僕は大学2年の時に挫折して漫画を描かなくなりました。20~27歳までは漫画はやめてイラストレーターの仕事をしていたので、本当に2人とも真っ暗な時代でしたよ。
でもその後、三浦はデビューとなって、僕のことなんてお構いなしにしょっちゅう連絡してくるんですよ。森ちゃんこれどう思う?とか、ストーリー手伝ってくれない?って。酷ですよね、もう漫画やめようと思っている人間に、週もあけずにいつも漫画のことを聞いてくるわけだから。「そんなの俺に聞くなよ!」って最初は怒ってたんですが。
――:三浦先生、森先生に戻ってきてほしかったんでしょうね。
そうですね。でも漫画描けとは一度も言わなかったですね。27でまた舞い戻って僕が描き始めたとき「どうせ戻ってくると思ったよ」って言ってましたね。
――:実際に1988年で22歳大学在学中に三浦さんは短編『ベルセルク』を『コミコミ』に投稿、89年から『月刊アニマルハウス』で連載開始します(1992年以降『ヤングアニマル』)
その時も色々相談受けましたね。最初は全然ウケなかったんですよ、『ベルセルク』。三浦って弱点が明確にあって、どんなテーマも結局同じ話になっちゃうんです。女の子が襲われて強い奴が突然現れてぶったおす。もうその形でしか描けない。あとSF・ファンタジーのテーマだけなんですよね。現代モノって1作くらいしか描いたことないんじゃないかな。三浦もそこにコンプレックスがありました。
『ベルセルク』初期も最初荷馬車で襲われた女の子が魔にとりつかれて暴れている話で、僕も腐っていた時期だから酷評するんですよ。「これいつものパターンだよ。結局女の子と知り合って暴れて助けた話じゃん。全然話題になってないし、『無限の住人』のがよっぽど面白いよ」って。その時は三浦も結構怒って「お前は描いてもいないのになんだよ!」って。まあケンカになるんですが、その後もやっぱり次の話が思いつかないって相談の電話がくるんですが。
――:ベルセルクの転機はどこだったんですか?
実は当時の日芸の先輩に、のちに高名な小説家になられる方がいたんですよ。僕も直接知っている人の中でもとりわけ知性が物凄く高い方で、三浦も僕も悩んでいる中で先輩がどうやってストーリーを書いているかを聞いたんです。それで先輩が言っていたのは「デッサンのように状況を筆写する」ということでした。常に状況を映画のカメラのようにイメージしているんだ、と。遠距離から俯瞰でみていって、『午後のキャンパスカフェが賑わう中で窓際にたたずむ森君の手元にはカフェオレが・・・』みたいな具合でどんどん寄りの絵をイメージしていって、それを言葉にしていくということでした。それは今でも漫画を描く時に役立ってますね。映画的にビジュアルを考え、それを言葉に変換していく。とにかくそれを量をこなしていく。
それで三浦にその話を使ってアドバイスしたんですよ。「一回なんでも漫画にするんじゃなくて、感動したこととかを言葉でメモ書きにしていくのがいいんじゃないか?友達に出会ったときの感想とか思い出とか」。それが実は結構なブレークスルーとなって、三浦が『ベルセルク』で「黄金時代」(3~12巻、鷹の団の青春時代)に進んでいくきっかけになりました。
――:まるで合作のように影響を与えあってますね・・・「黄金時代」はまさに三浦先生が感動した青春時代がそのまま詰め込まれたんですね。
最初は黄金時代も1巻分くらいでさらっと終わる予定だったんです。それがそのあと三浦が確変して、あんなにも一大長編になっていきました。『ベルセルク』の人気がでてきたのも、鷹の団が出てきてからなんですよね。
――:あの真に迫る鷹の団の物語がなかったら『ベルセルク』はここまでの名作にはなっていなかったでしょうね。そのきっかけがあの有名な小説家で、森さんを経由しての「自分の原体験の深堀りだった」というのは非常に面白いお話です。いつごろから、この物語のゴールの構想は決めていたんですか?
もう30年以上前、連載初期のほうで既に結末はまとめていました。いつものように相談したいと呼び出され、「蝕をやらないといけない」と三浦が言うんです。もうそりゃあ大仕事だなと思いましたが、まさかそのまま1週間もほぼ軟禁された状態で2人で最終話までの構想を完成させられたのは予想外でした。もちろんその後も色んな話が紡がれているので少しずつ改変されたところはありますが、基本的に最初に定めたゴール自体は今もブレていないですね。今、着々とそこに向かって進んでいます。
――:いつも、森さんと三浦さんで寸劇をしながら話のシミュレーションをしていたと聞きました。あのアクションシーンもやっぱり共同で決めていくんですか?
はい、ガッツの剣戟は基本的に僕がバーベルの10Kgシャフトを使ってシミュレーションした結果です。グリフィスに雪山で戦闘するときも、ガッツは踏み込みが基本3メートルで、すごい頑張って4メートルなんです(三浦がやると2メートルだったんですが笑)。20年以上前から設定は明確に決まっていました。
妖精塔が崩落するときもキャスカを連れてグリフィスが飛び去るシーンを三浦がやって、僕が奪われたガッツ役です。三浦が飛び立つシーンを演じて、僕が倒れ込んで剣に身体をもたれかかるシーンをやる。ドラゴン殺し(ガッツの大剣)もここでは縦じゃなくて横に倒れるな、とか。
――:「それは剣と言うにはあまりにも大きすぎた。大きく分厚く重たくそして大雑把すぎたそれは正に鉄塊だった」ですよね。まさかバーベルのシャフトだったとは笑。
■自らの体験と向き合い、見出したストリートファイトと総合格闘・プロレス、中邑真輔との出会い
――:森先生も2000年、34歳のときに同じ『ヤングアニマル』で『ホーリーランド』の連載を開始されます。
『ホーリーランド』も三浦が考えたようなもんなんです。連載がとれずうまくいかなかったときに、編集者から言われてたんですよ。「森さんの話は面白いんだけど、どうしても漫画が面白くない」と。
それで三浦が言うんですよ、森ちゃんの暴れてた頃の話を書きなよって。でも自分のような主人公はダメだって。森ちゃんのままの主人公だと『ビーバップハイスクール』とか『高校鉄拳伝タフ』になっちゃう。そうじゃなくて、ストリートでもかぼそくて弱い奴がのし上がれるような話を書くんだって。僕も僕で自分自身の体験を書くのは恥ずかしかった。でも言われたんですよ。「恥ずかしいことから描けよ!俺だってそうやったんだから!」って。
――:確かに三浦さんが森さんとの実体験を『ベルセルク』にしていったように、森さんもまた荒れていたストリート時代を『ホーリーランド』に結晶化させていきます。登場人物も実在の人物が多いと聞きます。柔道に倒された話とか、路上のカリスマとか。
そうですね。まさに実体験を描いていきました。路上のカリスマはすごくインパクト受けた方で、実在の方です。頭がよくてイケメンでスポーツも万能で。思ってみたら、僕の青春時代の衝撃は三浦とその方でしたね。
――:漫画家が本来もっている内向性と森さんや三浦さんの世界がちょっと結びつかないですね。
浦も子供の時はすごい快闊でプロレスごっこも大好き、みたいなタイプだったんですよ。それがお父さんが引っ越し好きで転校転校を繰り返すうちに友達が減って内向的になっていって、荒れていた中学時代が最悪の思い出だったみたいなんです。勉強もできなくなるしヤンキーに目をつけられて殴られたりといった経験があった後、高校で僕と出会ってるんですよね。だから余計にこうした暴力的な世界に憧れたんじゃないかと思います。
――:森先生はどうして現在もキックボクシングやプロレスと関わりがあるんですか?
まあ身体がこんな感じなので、大学時代もその後もキックボクシングが趣味でいつも新宿のスポーツセンターに通ってました。妻(漫画家のあっきぅ先生)もキックが趣味だったので、付き合い始めた時にそのトレーニング先のバイトがプロの格闘家だったんですよね。それで蹴りが出来てないよ、とかアドバイスしているうちに半分コーチ役で通うようになりました。総合系ってまだはしりだったから、ちゃんと教えている人がすくなくて、皆実践の出げいこで覚えるみたいな状態だったんですよね。
その彼が行っていたのが有名な道場で、そこに中邑真輔もキックの練習にきてたんです。もう新日本プロレスで活躍してたけど、キックの先生ってタイ出身者で身長が足りないケースが多いから、ちゃんとガタイある人に習いたいと。それで真輔のミットを持ち始めたんです。
――:米国WWEで活躍されている中邑真輔選手※ですよね!クネクネ前?
クネクネ前ですね笑。ミットをもって、一緒に真輔と練習するようになって「そんなんじゃミルコに勝てないぞ!」とかやってたんですよ(ミルコ・クロコップ、元祖プロレスハンターと呼ばれ、実現はしなかったがプロレス凋落期の2000年代前半に中邑真輔VSミルコ戦が計画されていた)。その頃にあかほりさとるさん※との紹介もあって木谷高明さん※にも出会いました。だから木谷さんともブロッコリー時代からの付き合いなんですよ。
※中邑真輔:1980年生まれ、青山学院時代に全日本学生レスリングメダリストで2002年新日本プロレス入門、2003年IWGPヘビー級王座となりデビュー最速・最年少(現在も破られていない)で王座戴冠。2013・14年とプロレス大賞年間最高試合賞を受賞し、2016年から渡米、世界最大のプロレス団体WWEで活躍し、アントニオ猪木やジャイアント馬場でもなしえなかったWWE世界ヘビー級王座に挑戦中(2023年10月も寸前で獲得ならず)。プロレス界の大谷翔平のような存在。
※あかほりさとる:日本のライトノベル作家、『NG騎士ラムネ&40』『爆れつハンター』など1990年代のメディアミックス作品を多く輩出し、アニメ界のコムロと呼ばれた。詳細は『オタク成金』(2009、講談社)より。
※木谷高明:ブロッコリー、ブシロードを創業したオタク業界の連続起業家。2012年に新日本プロレスリングを子会社化し、V字回復を達成したプロレス界の仕掛け人。
――:それでいつも1.4のときにあかほりさんと木谷さんと新日を一緒に観ているんですね!
たまにプロレスとか、2016年に「キックスロード」でブシロードがキックの世界にも出た時にもアドバイザーで入る様になってました。
木谷さんがプロレスやりたいんですよね、というのでどこか小さい団体を買ったりするのかなと思ってたら「新日本プロレス、どう思います?」って。いきなり日本トップの団体を買収するのかよと驚きました。
――:漫画家でプロレス・格闘史をこんな経営サイドにまで入っている人いないですよ!よく「漫画家界最強は誰だ!?」みたいなWeb記事をみたことがあるんですが、そこでいつも名前があがっているのが『刃牙』の板垣恵介先生か、森先生だと。
いやー板垣先生も60越えてますしね、僕ももう50過ぎてますから。もうそういった勝負は難しいですよ、実際笑。
――:それでもよくFacebookであっきぅさんが挙げる森先生の体躯の写真に、僕はいつも衝撃を受けてますよ。50代の身体とは思えない。
僕はオタクだからトレーニングきらい、スクワットもきらいなんです。それでも試合をすると、極真の世界大会に出ていたりとかボクシングでインターハイにいっていたような選手にも、闘い負けしないんですよ。こないだ練習終わって高田馬場シェーキーズで飲みながら一人の選手が泣きながら管を巻いたんです。「毎日毎日こんなに練習してるのに、ボコボコにされる。お前(森先生)みたいなやつはジョーダンじゃない!ジョーダンじゃない!!ろくに練習もしてないのにゴリラみたいな身体しやがって」って。
その瞬間分かったんです。こいつは俺だ!三浦の倍も頑張って追いつこうともがいてももがいても、漫画では絶対に勝てなかった一線がありました。これが残酷なまでの、才能の世界ですよね。
――:森さんがオタクじゃなくて、普通にスポーツの世界にいってたら普通にオリンピック選手とか、一角の選手になってましたよね・・・
僕もそう思います笑。
■三浦と漫画はセットだった。失ったけれども再び生きる力をもらった描き継ぎ作業
――:ここまでお聞きして、三浦さんと森さんの絆が家族以上のものであることを強く感じます。どちらかが欠けていたら『ベルセルク』も『ホーリーランド』も生まれていなかった。訃報に際して森さんが非常にダメージを受けていたというのもFacebookごしにも拝見していました・・・。
実はお恥ずかしながら、三浦の訃報を聞いてから僕自身がマンガを描けなくなっちゃったんです。描く気力がもう湧かなくなっていて、僕は漫画家になりたいから漫画をかいていたんじゃなくて、三浦がいたから描いていたんじゃないかと。漫画=三浦だったんです。2021年は身体も激やせして体重も85Kgから73Kgまで落ちちゃって。完全に「ケンちゃんダイエット」ですよ笑。
僕自身ちょっと驚いたんですが、体質まで変わっちゃったんです。もともと僕は熱っぽくて体温も高かったんですが、急に寒がりになって体温も下がっていた。冷え性になっていて、なんか今年の冬は妙に冷えるなと思ったら、さかのぼると三浦の件がきっかけでそこから体質がガラッと変わっていた。
――:自分で気づかないものですよね。その衝撃の大きさたるや、すさまじいですね。
最後に三浦と話したのって「森ちゃん、なんで『マンダロリアン』観てないんだ!1年も放置しやがって。話せねぇだろ! いい加減にしろよ!」なんですよ。そこから懇切丁寧にDisney+にどう入るかを指導されて。あれが最後の会話になって、そうだそうだ、言われてた映画みないとと手に取ったら・・・震えちゃって見れないんですよ。落涙もするし。自分でも信じられないくらい、三浦が好きだったスターウォーズ自体がトラウマになっていて、たぶん身体が拒否反応を示してしまっている。もうこれからも観れないでしょうね。
――:もう三浦さんが森さん自身の中身を構成していた部分がかなり大きかったんですね。半身がもがれたかのようなお話です。
そんな感じだったので、『ベルセルク』の再開で一番救われたのは僕なんです。ベルセルクの連載を再開しよう、となってから初めて『創世のタイガ』にも着手できるようになりました。だから、半分自分のためにやってるんです。
――:『ベルセルク』の連載は、あとどのくらい続くのでしょうか?
まだ明言はできませんが、あと何年、あと何冊で完結させられるかという目星はもうたっています。それでもまだ絵にしてみると話のつじつまが合わないところがある。そこで皆で推測したり、議論したりしながら、原作を固めていくんです。
三浦の空いた穴を埋めるのは大変ですが、逆に僕自身がまだまだ発見があるんですよ。「まだこんな仕掛けを!?」と。毎回聞かされていた僕自身が驚くくらいですから、あの当時そこまで考えていた三浦に脱帽ですよ。
――:聖書解読のようですね。
ホントにそんな感じです。でも解読とはいえ、物凄く難しいことやってますよ。たまにTwitterで文句めいたこと言われるんですよね。「どうせ、『ベルセルク』を森が好き勝手やりたいから、あとから継ぎ足しして描いているんだろ?」って。絶対に無理です。僕の能力ではベルセルクは絶対に創れないし、描けない。SFって特殊技能なんですよ。
いまも毎日のように三浦にマウントをとられているような気分になるんですよね。「どうだ、森ちゃん。どうだ、森ちゃん。俺のほうが考えてるだろう?」って。
――:確かに、暴力性という共通テーマはありながら、時代考証から設定から森先生の作品と三浦先生の作品の違いもありますよね。よく苦手なテーマ・時代でありながら、引き受けましたね。
やっぱり「責任」というのが大きいですよ。生前三浦は「最終回までのストーリーは森ちゃん以外誰にも話していない」と言っていたんです。だから僕が手をとめればこの物語は終わってしまう。
そして最後に彼が残した364話は、まさにこれから久々に人間の姿であらわれキャスカを連れ去ろうとするグリフィスに、ガッツが剣を振り下ろすハイライトの直前だったんです。もうとんでもないところで作品を残してくれたな!?という感じですよ。
――:最終話、今の流れで僕は想像もつかないんですが。ゴッドハンドは絶望的に強いですし、ガッツは常に無力感と挫折感のなかでどんどん闇が濃くなっていくような印象もあります。
めっちゃくちゃ期待してください。最終回までの仕掛けはホント凄いですよ、ビックリしますから。いまだ難問もいっぱいあるし、三浦が決め切っていないかったところがある。入れたほうがいいのか入れないほうがいいのか、相談中のエピソードと前後つなげながら毎日頭を悩ませてますよ。
以前『D.ダイバー』(2023~)で僕が話してた時に、突然三浦が「あー繋がった!これ、ちょっともらうわ!」って言ってた中身を、最近発見したんですよね。もう神か悪魔か、と思うほど、あんなちょっと思いつきで話しているのにすべてのピースが埋まって、整合性がとれて全体像があらわになってくる。三浦、お前はどんだけ恐ろしい奴なんだ!と何度も思わされました。
――:森先生は漫画家としてこの先に考えていることはあるのでしょうか?
もう今の僕としては『創世のタイガ』、『ベルセルク』そして『モリちゃんケンちゃん』(森先生と三浦先生のエピソードを書き綴った漫画)、この3つを終わらせることしか考えてないです。
もうこの1年は毎日のように三浦を思い出しますし、彼の作品とばかり向き合っているからしょっちゅう夢にも出てきます。だから本当にこの世からいなくなったとは僕自身が信じられないんですよ。むしろ、いなくなったと思わないようにしたい。そういう妄想力こそ、漫画家の得意技ですからね。いつか天国で会って、酒を飲みながら「とんでもないもの、残してくれたな!」って文句いってやりたいですよ笑。ちゃんと全部やり遂げてね。
▲『ベルセルク』第365話-三浦先生早逝後、弟子たちで完成させた2022年6月の連載
森恒二氏最新作『D.ダイバー』待望のコミックス1巻が11月29日(水)に発売!
ヤングアニマルWebでは同じく連載中の『創世のタイガ』をはじめ、森恒二氏の過去作も無料公開中(一部課金あり)!
会社情報
- 会社名
- Re entertainment
- 設立
- 2021年7月
- 代表者
- 中山淳雄
- 直近業績
- エンタメ社会学者の中山淳雄氏が海外&事業家&研究者として追求してきた経験をもとに“エンターテイメントの再現性追求”を支援するコンサルティング事業を展開している。
- 上場区分
- 未上場