【連載】中山淳雄の「推しもオタクもグローバル」第36回 ゆるキャラの原点「しあわせうさぎ」-アニメ化・ゲーム化した100万部の「不条理マンガ」が25年ぶりに復活した理由
『クマのプー太郎』、私自身が中学生時代、1990年代に読んでいた4コマ漫画だった。「不条理マンガ」と呼ばれるこのジャンルは、吉田戦車の『伝染るんです。』を代表に、当時、一世を風靡していた。アニメ化・ゲーム化までこぎつけた大ヒットジャンルは当時なぜ繁栄していったのか。そして暫くの時を経て、この2022年になって『クマのプー太郎』からスピンオフした「しあわせうさぎ」の新編集版が約25年ぶりに小学館から再販発売され、「ほぼ日」主催の展示会・物販が行われた 。その背景には何があるのかを伺った。それは今ある「ゆるキャラ」の原点であり、なぜ平成初期に流行したこのシュール動物キャラが、この令和初期にも受け入れられているかという時代世相の大いなる一致をみたインタビューでもある。
■建築家の道をやめてギャグ漫画家へ。吉田戦車らと「不条理ギャグ」で時代を席巻
――:漫画家の中川いさみさんです。今日はよろしくお願いいたします。「しあわせうさぎ展」すごい盛り上がりですね!
ありがとうございます。漫画家になって40年近く経ちますが、実は今回、初めての個展となりました。1991年から『ビックコミックスピリッツ』で連載していた『クマのプー太郎』から、「しあわせうさぎ」という人気キャラクターをスピンオフし、2022年小学館さんから単行本を出版しました。それを機に、また自分が60歳の還暦になった記念もあり、ほぼ日さんに「しあわせうさぎ展」を開催いただくことになりました。
▲漫画家人生で初めての中川いさみ展は2022年7月、小学館近くの神保町「HOBONICHIのTOBICHI」東京で開催された
――:漫画家はいつごろから目指されていたのでしょうか?昔から絵は得意だったのでしょうか。
大学は芝浦工業大学の建築学科に通っていました。父親も建築士だったので、その学科を選択したのですが、実は途中で設計は向いていないなと思っていたんですよ。大学3年の時に就職活動を始めている中で、漫画家になってみるのもどうかなと思って執筆・応募しはじめました。当時、秋田書店で壁村さんが編集長の時代に採用されることになって、1985年に『うわさのトラブルマン』でデビューしています(月刊誌『I'mチャンピオン』)。
――:壁村耐三さん、非常に有名な方ですよね。『週刊少年チャンピオン』2代目編集長で、横山光輝さんや水島新司さんを見出し、『ブラックジャック』など手塚治虫さんの後期作品をもちこんで100万部時代をけん引していた編集者。そんな方に見出されたのですね。
わりと漫画家になる敷居が低かった時代だったんだと思います。漫画家にならなかったら、そのまま建築家になっていたのかもしれませんね。
――:ご実家が建築会社とのことですが、漫画家になるのは、ご両親などに反対はされなかったのでしょうか?
両親も「へー、漫画家ってなれるの?」くらいでしたね。友人も似たような感じで、特にうらやましがられるようなこともなかったです。
――:建築で、絵の素養を学んだのでしょうか。
実は、建物を作るための制約のなかで、「その目的に向かって線を引き続ける」のがとにかく向いてなかったんですよ。高さも素材も制限があるなかで、これは何センチで、と細かくミクロに作り込んでいくような作業は苦手でしたね。でも「線」を描くこと自体は好きだった。線を書くのが好きなので、漫画家になったんだと思います。今思えば、確かに構造なども、建築士と通じるものはあるのかもしれませんね。
――:とはいっても漫画家はいばらの道、お金の面ですとか、苦労はされなかったのですか?
横浜の実家からかよっていましたので、実はお金が必要なかったんですよ。決して売れていたわけじゃないので、確かにお金がなかった時期もありましたが、それならそれで図書館で本読んでいればよかったですし。苦しかったという記憶はあまりないんですよね。純粋に絵を、線を描き続けるのは楽しかったですね。
――:本当に、マンガ家として肩の力が抜けていらっしゃる印象がありますね。作品にもお人柄があらわれていますが笑。1989年、デビュー4年目に『クマのプー太郎』を小学館の雑誌『ビッグコミックスピリッツ』で連載開始し、ブレークするわけですね。当時は“不条理ギャグ"として吉田戦車さんを代表に、中川いさみさん、和田ラヂヲさんなどが、一大ジャンルを形成しました。
吉田戦車とはデビューしたときから仲良かったですね。僕はオリジナリティがないんで、吉田戦車とか相原コージがやってたことを後ろからついてって、なんとなく近いものを描いてたら、売れた感じです(笑)。
――:掲載時の『ビックコミックスピリッツ』の編集長は江上英樹さんですよね。「ギャグの江上」とも言われ、相原コージの『コージ苑』、吉田戦車『伝染るんです。』これらの不条理ギャグの立役者でもありますが、江上さんからの編集・手入れみたいなものもあったんですか?
どうなんでしょうか。持ち込みしたら、江上さんが出てきたんだけれど、あまりその時はハマらなかったようで。しばらく江上さんのロッカーに原稿が放置されていたらしいです(笑)。不条理ギャグものが売れ始めた時に、そういえば似たタイプの若手がいたと思い出してもらえて、スピリッツに掲載できることになりました。特に何も言われる感じでもなくて自由でしたので、本当にやりやすかったですね。
――:ロッカーに放置されていた原稿が、まさかの復活を遂げたわけですね(笑)。中川さんはどなたかに強く影響を受けたのでしょうか。
不条理ギャグでいうと最初は吾妻ひでおさんですよね。あとは山上たつひこさん、しりあがり寿さんとか。誰かに影響を受けたというより、ギャグマンガを描いている人たちとウマが合いました。
――:そういう意味ではギャグマンガ一筋の中川さんは、こう、お会いしていても、本当に真面目でちゃんとしている、という印象がありますね。
そうですね。僕はなるべく目立たないようにずっと生きてきたタイプでしたし、そういう仕事がないかなとふらふらした結果、漫画家におさまりました、という感じです。当時はそのくらいで漫画家になる人は多かったですけど、続けるとなると難しいですよね。結果的に40年経って、描くのが本当に好きな人しか残ってないとは思います。
▲中川いさみ『しあわせうさぎ ~クマのプー太郎セレクション~』(https://www.amazon.co.jp/dp/4098613751)
■100万部突破からテナントショップ、アニメ化、ゲーム化の大ヒット
――:あの不思議な世界観はどうやって思いつくんですか?
僕は、他の漫画家さんと比べて、ものすごい絵は描けない。ネタもそんなに面白いものを作れるほうじゃない。そう考えたときに、キャラクターさえ面白いものができれば、なんとかなるんじゃないかと思ったんです。
――:たしかに、不幸っぽい顔で電柱の隙間に入ったり、他人のシャツの隙間に長耳を入れる「しあわせうさぎ」とか、つぼをなでるとにょきにょき出てくる「ロジャー」とか、なかなか特徴的なキャラが多いですよね。むしろ主人公の「くまクマのプー太郎」はどんどん影が薄くなって供養いくような。
そうなんですよ!プー太郎はむしろ狂言まわしのような役割で、彼が表に出るよりは、そこに変なのがいっぱい集まってくる世界観ですね。キャラクターの設定さえできてしまえば、勝手に動くしセリフも出て来るんですよね。
――:そもそも不条理ギャグのジャンルはなぜ動物が多いんですかね?中川さんもキャラクターが動物ばかりなのは何か理由があるのでしょうか?
僕はもともと、動物が好きなんです。家の近くに無料で入れる野毛動物園というのがあって、そこが好きでしたね。お金を使わないように生活していたという意味もありますが、動物が見たくて、そこに通い詰めていました。それで当時、就職もせずぶらぶらしている人のことを「プー太郎」と呼ぶ言葉が流行り始めて、「クマのプー太郎」をひらめきました。
ギャグのジャンルに動物が多いのは、うーん、そうですね、動物のほうが受け入れられやすいからじゃないでしょうか。どんな変なことしても、人間だったら生々しくなっちゃいますが、動物がしゃべってる時点で変だからそれ以上が気にならない。なぐりあってても、すんなりその状況を受け入れられる。
――:それは今のYouTuber、Vtuberにもいえるかもしれませんね。何かエッジがたって賛否両論わかれそうな意見も、リアルな人間のYouTuberだと問題になったりしそうですけど、アニメ絵のVtuberだとなんとなく看過される感じはしますね。
そうだと思います。キャラクターだと許しあえるんですよね。そういう世界観がいいなと思って描いていました。
――:くまクマのプー太郎が大ヒットしたときは、どんな感じなのでしょうか?人気を肌で感じる瞬間などはあったのでしょうか。
いや、、、実は本当にそういうのを感じに気づく暇もなかったですね。夢中で週刊連載を描いていましたから。1991年からだいたい5年くらい連載していたんですよ。編集者からは、どちらかというとできていないところを指摘されることのほうが多くて。
――:どのくらい売れたんですか?
1年で1冊、単行本がでます。合計5冊でシリーズ累計100万部ですね。
――:すごい!それ、今だと『ゆるキャン△』とか『ブラッククローバー』くらい売れているサイズですよ。
今みたいにネットがないので、単行本の売上くらいでしか反応がみえなかったですね。単行本の売上部数を聞いたときに、あ、人気がでてるのかな?という感じです。まあたまに手紙をいただいたり、サイン会などがあって、そういう時には読者から声をかけていただいて嬉しかったですね。お金があった時代なので、長崎とか、時には香港までサイン会で出張にいったこともありました。
――:それは1995年にアニメ化しても同じ状況なのでしょうか?フジテレビで『くまクマのプー太郎』が1995年から1年にわたって放送(視聴率も9~13%!)、1996年には小学館プロダクションから『クマのプー太郎 空はピンクだ!全員集合!!(それダメっす)』(プレイステーション)と、タカラから『クマのプー太郎 宝探しだ大入ゲームバトル!』(ゲームボーイ)が発売されます。
そうありがたいですね。視聴率もアニメ枠で上位でした。でも、そこまで人気を強く感じている、というほどでもなかったんですよね。ゲームもは、ファミ通に連載もしていたので、タダでサンプルが送られてきてプレイできてうれしいな、という感じで(笑)。
タカラは、創業家の佐藤慶太さんと親交があったんです。その縁があって、ゲーム化となりましたけど、。あと実は、アニメ化以前からクマのプー太郎のキャラクターショップ「プーハウス」というのを原宿で展開してくれていました。
――:え、専門テナントショップまであったんですか!?
もともとタカラが、原宿で「かわうそ屋」でという吉田戦車の『伝染るんです。』のテナントショップをつくってたんです。それで、同じような取り組みで、「プーハウス」も作ろうとなりました。同じく原宿での展開で数十点の展開となり大盛況でした。展示会にも当時のグッズをお持ちいただいた方も多くいらっしゃいました。
――:吉田戦車さんは不条理ギャグが流行しなくなった理由を「本来、あってもなくてもいいものを面白がれる余裕が社会になくなっていったから」とされてます。あの90年代に異常に盛り上がったジャンルはどうして一段落していくのでしょうか?
1994年に連載が終わってから「くまクマのプー太郎」も95年にアニメ化するんですが、1年で終わってしまいます。本来は夜の19時半からのゴールデンタイム放送だったのですが、野球中継の影響と例のオウム事件と重なり特番の関係で、実際の放映時間が安定しませんでした。楽しみに待っていてくれた視聴者には申し訳なかったですね。
さらに、当時って毎日のようにオウム真理教がらみの特番があって、放送がたびたび延期になったんですよ。地下鉄サリン事件があったり、不穏な事件も多くて、徐々にギャグアニメは肩身が狭い感じになっていきました。
――:なるほど。不条理ギャグは「非日常キャラ(動物たちの異世界)による日常的なシニカルギャグ(ネタはあくまで我々の生活のなかで気になる小さな日常の出来事)」という印象がありますが、あれ自体がバブルの残り香で、“小さな幸せを見つける"みたいな一瞬のムードだったのかもしれませんね。阪神大震災、オウム真理教、神戸連続殺人事件など、次の時代に進むひずみのようなタイミングの割れ目のなかで、現実がシニカルギャグの不条理さを超えて行ってしまったのかもしれませんね。
※吉田戦車(1963~):1985年『ポップアップ』(VIC出版)でデビューし、1989年から1994年まで『ビッグコミックスピリッツ』(小学館)において『伝染るんです。』を連載。不条理ギャグマンガの代表的な存在であり、妻で漫画家の伊藤理佐とともに、中川いさみとは親交が深い。
※相原コージ(1963~):1984年『アクションHERO』(双葉社)でデビューし、1985年から1988年まで『ビッグコミックスピリッツ』(小学館)において『コージ苑』を連載。妻は漫画家の両角ともえ。
※吾妻ひでお(1950~2019):1969年『月刊まんが王』(秋田書店)でデビューし、1978年『不条理日記』は当時の不条理ギャグの原点とされる。日本初のロリコン同人誌『シベール』にも1979年から同人作家で執筆し、エロ・ロリコンジャンルでも始祖のような役割を果たしている。80年代半ばから自殺未遂、失踪を繰り返し、アルコール依存症で精神病院に入院した『失踪日記』(2005)で日本漫画家協会賞大賞や文化庁メディア芸術祭マンガ部門大賞などを受賞。食道癌による闘病の末に2019年に死去。
※山上たつひこ(1947~):1965年デビュー後にギャグ漫画『がきデカ』(1974~『知週間少年チャンピオン』)で大ヒットを記録。ほかに『喜劇新思想大系』などギャグ漫画で一世を風靡する。
※しりあがり寿(1958~):多摩美術大学を卒業後キリンビールに入社し、1994年から独立。サラリーマンネタや時事ネタをシュールにパロディする『時事おやじ2000』『ゆるゆるオヤジ』などで文藝春秋漫画賞を受賞、2001年の『弥次喜多 in DEEP』(エンターブレイン)で第5回手塚治虫文化賞「マンガ優秀賞」を受賞神戸芸術工科大学特任教授、2014年には紫綬褒章受章。妻は漫画家の西家ヒバリ。
※佐藤慶太(1957~):タカラ創業者佐藤安太の次男で、開成高校・慶応大学卒業後に河田を経てタカラ入社、1996年に独立して(株)ドリームズ・カム・トゥルーを設立。1999年に第二代社長であった兄・博久が業績悪化で更迭を受け、タカラに復帰、00年にはコナミ出資後に第四代社長となる。「e-Kara」でタカラをV字回復させたのちに06年にトミーとの合併を決断、同社は2012年にすべての役職から引いている。
■編集者とミュージシャンでメジャーデビュー、アメリカ・メキシコでの北米ツアーも結構
――:でも中川さんは、一貫して政治とか社会とか、そういった部分とは距離を置いている印象はあります。
そうですね。いつまでたっても読まれるものを描きたかったんですよ。「10年後も読めるマンガ」と考えたときに、社会的なネタは古くなるから、最初から描かないようにしています。
――:雑誌のカットなど、受託のお仕事もされるんですか?またそういう自分発の作品じゃない場合ってモチベーションが落ちたりするものでしょうか。
依頼がきて女性誌『anan(アンアン)』のイラストを描いたり、などもしてました。依頼いただく限りはいつも楽しく描いてましたよ。企業広告のキャラクターを描いたこともいくつかあります。
――:いままで作風をガラッと変えてみたことなどあるのでしょうか?
もちろん、いろいろやってみました。不条理ギャグも一旦やり尽くした感じがしたし、さらに人間のリアルな笑いを描きたいなとやっていたこともあります。
小学館『月刊IKKI』で『ストラト!』(2010)という音楽実録マンガを描いていたこともあります。自分の体験をそのままエッセイ調で描いたマンガです。
――:こちら、なんだかミュージシャンとメジャーデビューもしたとお伺いしたんですが、、、!!もともと音楽はやられてたんですか?
いや、はじめてエレキギター楽器に触れました(笑)。僕(Vo, G)と、当時、小学館の社員だった江上英樹(G)さん、編集部員の佐藤祐二(B)さんと神村正樹(Dr)さん、4人でバンドを組んでいたのですが、皆でお金を出し合って作ったCDを、たまたま下北沢で会ったソニーミュージックの人に渡したら、メジャーデビューしようかという話になったんです。
――:漫画家と小学館の編集3人、しかも素人から!?そんなミラクルストーリーあるんですか!?こちらのストラト☆ダンサーズですよね。「運命論メロン」(2012)でシングルをソニーミュージックのKi/oon Musicで出されてるんですね。
最初「オタマジャクシ・ベイベ」を4000枚販売したらメジャーデビューできるという企画だったんです。それで無事達成して、メジャーデビューとなりました。
――:いや~写真を拝見しても楽しそうですね。趣味に生きている感じが素敵です。なんかお聞きしたところ、渡米してロサンゼルス(LA)でライブまで行ったとか。。。
2012、2013年と2回行ってますね。企画としてLAでギターショーに呼ばれたんですが、ついでにステージにあがって演奏もさせてもらっちゃって。その足でメキシコにもいきました。楽しかったです。
▲中川いさみ『ストラト!』(https://www.amazon.co.jp/dp/B010NPJQ7E/)
■「だいたいのことは幸せに感じられる」コロナで響いたメッセージ。ファンが再興を導くキャラクター経済圏
――:さてここからは、マネージャーさんも同席しての会話になります。今回はどういった経緯で、この再販「しあわせうさぎ」のスピンオフ版の単行本と企画展が実現したのでしょうか?
マネージャー:2021年に入って、ある企業から「しあわせうさぎ」の商品化の問い合わせがあったんです。そこでツテを辿って、ほぼ日さんにお話ししたところ、その担当者も昔からしあわせうさぎの大ファンで。そうやって、このプロジェクトが立ち上がりました。1年後の2022年夏に出版・展示会・商品化を展開させようと、この1年間は毎月1~2回集まって作戦会議をしてきました。
▲しあわせうさぎの代名詞となっている、電柱の脇に挟まる「しあわせ」で、一緒に記念撮影ができるフォトスポット。背景は、当初は白地だったが、やっぱり描きたいということになり、展示会の開始日に急遽、数時間で中川さんが描き上げた。これだけの面積をペンで、一気に描いており、修正の跡が一切ない。30年以上漫画を描き続けてきて、今なお「線を描くのが好き」という中川いさみの真骨頂である。
――:中川さんにとってなんと初の個展だとか。お話が決まった時は喜ばれたのでしょうか?
マネージャー:もちろんです。ただ60歳で初の個展ということで、色々と緊張されてはいましたね。新作もたくさん描きましたし。
――:しあわせうさぎが社会に発信しているメッセージとは、何なのでしょうか?
マネジャー:今回のお話は、コロナの影響が大きいと思います。世界全体が暗く沈んで、先が見えない。そういう世相だからこそ「だいたいのことは、幸せに感じられるんだから」という、しあわせうさぎのメッセージが、今の社会のためにも必要なんじゃないかと思って、勇気を持って進めることにしたんです。
――:たしかに、平成初期のバブル後に我々が不条理ギャグに見つけ出した「ほっこりした幸せ」が、今コロナで閉塞した時代には非常に合っている感じはします。どんな方々が今回のプロジェクトチームを構成されているのでしょう?
マネージャー:現在フリー編集者の江上元編集長と、ほぼ日の担当者さん、あとは実は漫画アプリ「ピッコマ」の社員の方で、この方も大ファンということで個人で関わってくれていまして、こうした「有志」の6名がプロジェクトの推進者になります。皆それぞれ「会社で」というより「くまクマのプー太郎が大好きで、「しあわせうさぎをもう一度見たい!」という有志が集まったチームです。
そうしてるうちに、どんどん話も大きくなって、ほぼ日さんも会社をあげてグッズを作ってくれたり、こうして展示会のスペースを作ってくれたり、最初思ってもみなかった広がりに発展しています。
――:ほぼフリーの方々がそれぞれのスキル・経験を使ってプロジェクトを組み立てていくという世界観は現在の世相に非常に合っているように感じます!この後の展開はどのようなことを考えられてますか?アニメも見れたりするのでしょうか?。
マネージャー:アニメ自体はフジテレビさんとディーンさんで制作された昔のものですので、すぐにどこかで放送・配信したりといったことは難しいのですが、グッズはこれからも色々なものを作っていきます。この10月からカレンダー、Tシャツ、アクリルスタンドなど新作グッズも展開していきますし、単行本は最新刊が2022年7月に発売された小学館さんの漫画本、また絵本も準備中です。
あと、実は連載も決まっていてビックコミックオリジナルで年末から連載開始する予定です。
▲「しあわせうさぎ展」に合わせて中川氏が筆をとった絵画。連載開始から30年以上の歴史の中で、このように絵画形式で作品が発表されるのは初めてだそう。会場で合計120作品以上が披露され、その全てが期間中に完売。中には10万円近くするプレミアムな作品も紹介されたが、熱烈なファンによって20数点の絵は完売したそう。
――:また連載されるんですね!おめでとうございます!!印象的なのは、中川さんのつぶやきに対するフォロワーの方々のコメントや、こうして展示会でもよせられているあたたかいコメントですね。
マネージャー:そうですね、私たちも大変驚いてます。こんなに多くのファンの方々がプー太郎やしあわせうさぎを大好きでいてくれたこと、スタッフ一同、本当に感激しました。
「しあわせうさぎ展」では、中川いさみが合計120点以上の新作絵画を描きあげました。時間をかけて準備してきたこれら絵も、実は会期前半にあっという間に完売してしまって。ほぼ日さんの緊急リクエストにより、追加で執筆することになりました(本インタビュー中も、展示会場横の臨時アトリエで、中川氏が絶賛追加執筆のさなかにお時間をもらっています)。
▲個展で寄せられたファンのコメント。絵画に煮詰まると、度々ここを訪れ、「よしっ!」とやる気を回復させて作業部屋臨時アトリエに戻っていく中川さん。
――:最後に中川さんにも一言、いただきたいです。
中川:キャラクターの力、というものがありますよね。モナリザだってムンクの叫びだって、皆の記憶に残るのは、背景でも作家でもなくて、強烈に残っているそのキャラクターです。海外で、キティちゃんやポケモンなど、日本のキャラクターに出会うことがあって、本当にすごいなと感動することがあります。私の作品から生まれたキャラクター達も、そんなふうに広がって、10年後20年後まで残ってくれたら、作家冥利に尽きますね。
会社情報
- 会社名
- Re entertainment
- 設立
- 2021年7月
- 代表者
- 中山淳雄
- 直近業績
- エンタメ社会学者の中山淳雄氏が海外&事業家&研究者として追求してきた経験をもとに“エンターテイメントの再現性追求”を支援するコンサルティング事業を展開している。
- 上場区分
- 未上場