【連載】中山淳雄の「推しもオタクもグローバル」第44回 ブロックバスターメーカー・天才マンガ原作者:際限ないアウトプットこそ枯渇しらずの才能の源泉

中山淳雄 エンタメ社会学者&Re entertainment社長
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マンガ原作者といえば『巨人の星』『あしたのジョー』梶原一騎、『北斗の拳』『サンクチュアリ』武論尊などが思い当たる。1作品に人生を叩き込むマンガ家とは違い「原作者」であれば複数作品に関わることが可能だ、それこそ小説家のように。ただそれでも2作・3作といったヒットを何度も生み出した原作者は稀である。それでは5作、10作とヒットを生み出し「続ける」原作者というのは存在しうるのだろうか。私の知りうる限り、樹林伸氏以上にその領域に近づいたマンガ原作者はこの半世紀において存在しなかったのではないだろうかと思う。それも数百万部のヒットではなく、数千万部の「ブロックバスター」ばかり。下記主だった作品を積み上げるだけでも累計2.5億部、しかも1,000万部越えが7作品にも及ぶ。これを生み出したブロックバスターメーカーのマンガ原作者樹林伸さんにインタビューを行った。
 

<樹林氏の主要作品一覧>
『金田一少年の事件簿』(1992~:累計1億部)
『GTO』(1997~2002:累計5,000万部)
『シュート!』(1990~96:累計5,000万部)
『Get Backers 奪還屋 ゲットバッカーズ』(1999~2007:累計1,800万部)
『神の雫』(2004~14:累計1,500万部)
『エリアの騎士』(2006~17:累計1,300万部)
『サイコメトラーEIJI』(1996~2000:累計1,200万部)


 

■就職浪人中のライター体験が変えた「視点」と「書く力」 

――:自己紹介からお願いいたします。

樹林伸(きばやし しん)と申します。講談社『週刊少年マガジン』の編集者を経て、ここ20年は独立してマンガ原作者・小説家・脚本家をやっております。手がけてきた作品は『シュート!』『GTO』『金田一少年の事件簿』などで、独立後ですと『BLOODY MONDAY』『神の雫』など。あとはフジテレビの『HERO』の脚本や、これから出るものですとHuluドラマ『神の雫』の脚本をやったり、最近ですとNetflix新作アニメ『レディ・ナポレオン』原作もやっております。

――:お会いできて光栄です。マンガ原作者ってどういうことをする仕事なのでしょうか。

そうですね、やることはいっぱいありますし、一緒に組む相手によっても違いますが、一般的に設定やプロット・ストーリーを考案する人間ですね。いわゆるマンガの脚本みたいなものでしょうか。


――:そもそもどんな方がこの仕事に至るのか興味ありまして。生い立ちからお聞きしてもよろしいでしょうか?どんなご家庭に育つんですか?

東京都出身で、父親は武蔵野市にあった油圧機メーカーの2代目経営者で、本当に遊びまくっているような人でした話がめちゃくちゃ面白い親父で、やれ宇宙人をみてきた話だったり、ネーミングセンスがあって色んなあだ名つけたりしていたり、毎日ゲラゲラ笑って暮らしておりました。絵もうまいんですよ。


――:樹林さんご自身も中学校で画家を、高校でミュージシャンを目指していたという記事を拝見しました。絵もかかれるんですか?

そうそう、結構素人ながらわりとうまいほうだと思いますよ。(携帯をゴソゴソ)コレ、見てみます?これ、娘を描いたんですけど。あと、この安達哲さんの絵の背景も僕が描いたりしてるんです。


 

▲樹林さんが描いた娘の姿と、編集者をしていたときに間に合わなくて手伝った安達哲『ホワイトアルバム』の背景


――:め・・・っちゃくちゃ上手いじゃないですか!?これ、どこかでならってたんですか?

いや、スクールや部活に通ったことはないんですよ。わりと見様見真似で。父もそうでしたし、うちの姉(樹林ゆう子※)も絵うまいんですよ。昔漫画家目指してて、マーガレットで賞もとったくらいで。

※樹林ゆう子:ノンフィクション作家、『すぐやる課をつくった男 - マツモトキヨシ伝』(1996年6月、小学館)『起業家たちの闘魂 - 時代の風を読んだ独創ビジネス』(1996年4月、日本実業出版社)などの執筆を手掛け、弟樹林伸とは「亜樹直」という共同名でマンガ原作者をしている。手掛けた作品は『神の雫』『サイコドクター』など。


――:お話もつくれるし、絵もかけるし、で樹林さんご自身がそのままマンガ家になれそうですよね。

いや、でもマンガ家って見て描ける絵のうまさとは違うんですよ。想像のなかから取り出してくる絵なので。絵がうまい人間と、人を惹きつけるマンガ作画ができる人間はちょっと違いますよね。


――:ご実家の事業を継ぐ、という選択肢もあったのでしょうか?

ないことはなかったですね。ただ絵、音楽、物書きと表現することが好きだった自分にとって、油圧機メーカーを継ぐのはどうなのかなというのがありまして。継いでいたとしても、どこかで事業転換していかないと続いてなかったでしょうね、現在は廃業しています。


――:早稲田大学政経学部に入学されます。勉強はできるほうだったんですか?

いや、遊んでばっかりだったので、勉強は高3の2学期になってから頑張ったんです。高3の冬くらいに『でる単』(青春出版社『試験にでる英単語』で日本三大英単語集と言われた)を初めて知ったんですよ。え、試験に出る単語ってこれに全部入っているの?と衝撃でした。でももっと衝撃だったのは、肝心の『でる単』の単語がほとんど知らなかった笑。

そのとき「勉強ってこういうことなんだ!」と思ったんですよね。網羅的になんでも知っていることが大事じゃなくて、特化してそれに対策をして知識を深めていく。そこから勉強のやり方を覚えて、1浪して大学に入りました。


――:馬力ですね。1年半で結果出すのはもう「才能」だと思います。大学4年でストレートに講談社に入社されたんですか?

いや、就職浪人です。1年目はマスコミをねらっていたんですが、どこも受からなかったんですよ。講談社はもちろん、テレビや広告代理店などメディア系いろいろ受けたんですけど、全滅でした。やっぱりクリエイティブな仕事につきたかったので、単位落として留年して、来年もう一回受験することにしたんです。


――:就職できなくて、小説家になると宣言したらお母さまが爆笑していたエピソードも記事で拝見しました。

母親は専業主婦でテレビばっかりみてたけど、まあ放任主義で楽天的な人でした。就活失敗して失意のどん底にいた僕は、駅前の本屋にフラフラ立ち寄って手に取った小説に「江戸川乱歩賞受賞作!」とあって、そこに賞の募集広告がのっていたんです。その足で文房具屋にいって原稿用紙500枚買いこんで、「留年させてくれ、今日から小説書くから」って言ったら母は爆笑でした。「ブ、ファファファファッ!好きにしなさい。人間、なんとか生きていけるものよ」って。


――:いやーお父様もそうですが、そのご両親あっての樹林さん、というのがよくわかるお話です。その就職浪人中はどんなことをされてたんですか?

姉がフリーライターをやっていたので、小説家目指したのもあってライターの仕事を紹介してもらったんです。サンケイ出版(1987年に扶桑社と合併)でした。これが性に合って当時はネットもないのでありとあらゆる新聞・雑誌に目を通すんですよ。スポーツ誌も含めて当時発行されていたもので読んでないものはなかったんじゃないか、くらい網羅的に。そうすると各媒体でかなり重複も多いなか、何が関心事とされていてどんな切り口が求められているかが見えてくるんですよ。そこからテーマを決めてどんどん記事を書いていきました。これがすごく性に合ってたんですよね。


――:そんなに合ってたんですね。それまでモノを書いたりといった経験は?

あんまりなかったですね。それこそ小説も就活失敗したあとに初めて書いたんですが、かきあげてみたら原稿用紙380枚(約15万字)。書くのが好きだったんですよね。


――:そんなセミプロみたいなライター生活をしていて、実際に2回目の就活はどうだったんですか?

びっくりするくらい、ほとんど受かりましたね笑。もうなんでもこたえられるんですよ、面接の質問にも。当然ですよね、こちらはセミプロのように毎日メディア漬けの毎日だったから。1年前に色々緊張していたのがウソのように、出版社いくたびにその会社の特徴とかメディアの感想まで話して、ポンポン内定がでました。一般企業も受けていて、それこそ当時就活人気No.1だった最大手通信会社とかも通りましたね。ただ行きたかった講談社受かったので、その時点で就活をやめて、無事1987年に就職します。


――:なんとも濃密な半年間ですね。もともとの素養なんでしょうけれど、適度なプレッシャーのなかで、適切な職に就くと、そんな短期間で「確変」できるものなんですね。

 

 

 

■天井知らずのヒットの嵐:『シュート!』『MMR』『GTO』『金田一』『サイコメトラー』 

――:入社1年目のときに、小説で受賞してますよね?そのままやっぱり小説家に、とはならなかったのですか?

はい、就活時代に描きためていたものが小さなものでしたけど受賞しました。副業ができない時代でしたから、上司に呼び出されて「編集者でいくのか小説家になるのか選んで」と言われました。実は内定者の同期で、もう1人別の小説賞をもらっていた人間もいたんですけど、彼の場合は講談社入るのやめて作家の道を選んでいるんですよ(彼のその後は知らない・・・)。でも僕の場合は編集者の仕事も始まっていたので、面白かったんですよね。悪くない仕事だな、学ぶことも多いし、このまましばらくやってみよう、となりました。


――:講談社ってそういう人が出やすい会社なんですかね?佐渡島さんなんかも含めて、非常にクリエイティブな人が多い印象です。

そうですね、3年先輩でいとうせいこうさんなんかもいましたしね(1984年講談社入社、3年で退社してフリーランスになってから88年処女小説の『ノーライフキング』は三島由紀夫賞・野間文芸新人賞候補作にもなった。2013年『想像ラジオ』は芥川龍之介賞の候補にもなり、第35回野間文芸新人賞を受賞)。


――:最初から『週刊少年マガジン』配属ですね。どんな作品を担当したんですか?

「物語を一緒に作ったり企画を出す仕事」って出版社のなかでもそんなに多いわけじゃないんですよね。どちらかというと制作進行とか管理的な仕事も多くて。そういうなかではマンガってそれができる仕事だったので、希望していたマンガ編集に最初から配属してもらいました。

編集部でも最初はお手伝い的な仕事なんですが、1カ月半くらいしたときに出会ったのが安達哲さんでした。一緒にネーム(絵コンテ)を考えて『卒業アルバム』でマガジン新人賞を受賞、それをきっかけにつくったのが『ホワイトアルバム』(1988年連載)でした。


――:1年目で新人マンガ家と新人編集者でデビュー連載までもっていくのですね!人気は出たのでしょうか?

それが、ほぼ最下位からのスタートでした。3-4週目には「12週で打ち切り」が決まっていたので、それはもう悔しくて。それまでのネームを全てボツにして1週間くらい安達さんの仕事場に通い詰めて、プロットを全部作り直したんです。シリアスな展開にラブコメ要素も入れたりと色々工夫をしていると、(14週まで打ち切りを延長させてもらい)11週目には7位、12週目には2位まで上がりました。最終週で1位までもっていったことがマンガ原作者としての最初の成功体験で、そこからは本格的にマンガのプロットを手掛けるようになりました。自分で物語をつくって結果を出す、という快感を最初に与えてくれた経験でした。

――:樹林さんのようにストーリーのディティールまでかきあげる編集ってほとんどいないと思うのですが、マンガ家さんとの相性ってどうなのでしょうか?自分でお話つくりたいという作家も多いかと思いますが。

僕が担当していた作家さんはほとんど自分が見つけてきたのもあり、あちらも僕のことを知っている状態から始まることが多いので、役割についてはそんなにもめたことはないですね。


――:『GTO』藤沢とおるさんも樹林さんが同人誌作家の時代に発掘されてますよね?

ある同人誌で1枚絵のイラストかいていたのが藤沢さんで、絵がとてもうまかったのですぐに紹介してもらったんですよね。最初に安達さんのアシスタントで入ってもらいながら、『艶姿純情BOY』(1989-90連載)を出し、それが『湘南純愛組!』(1990-96連載)『GTO』(1997-2002連載)につながっていきます。


――:樹林さんの最初の大ヒット作でいうと、1990年の大島司さんの『シュート』でしょうか?

そうですね、『シュート!』(1990-96連載)は累計5,000万部いきましたね。

――:そして1992年にさとうふみやさんと『金田一少年の事件簿』(1992-連載)を立ち上げます。数字だけでいうと、これが樹林さんの人生最大のヒット作、ということになるんでしょうか?マンガ界では最初のミステリー作品ですかね。

累計1億部ですからね。もともとミステリーは小説では読まれてますし、テレビ番組でも人気ジャンルだった。絶対にマンガでも流行る、とは思っていたんですよね。金田一以前にはミステリーもののマンガはなかったと記憶してます。


――:最初から反響があるものなんでしょうか?

売れるマンガってもう最初から1位なんですよ。金田一も1話目からトップでしたし、他のものもそうですね。ヒットする感覚って1話目出した時には、もう感じてますよね。

『ホワイトアルバム』とか例外はたまにありますけどね。捲土重来型もあるにはあります。

――:でも週次であのミステリーを考えていくという作業は地獄そうですね。

まさにそれがマンガでミステリーものがなかった理由なんだなと実感しました。毎週毎週ミステリーのトリックまで考えるのは狂気の沙汰でしたね。ただその分、小説では出せない、空間的なものを見せながらトリックを解説していく「マンガでしかできないミステリー」ができました。
もう一つチャレンジだったのは「トリックが分かっているコミックが売れるかどうか」という点でしたね。皆雑誌のほうでお話は全部読んじゃっているわけですし、雑誌で人気でもコミックで売れなきゃ仕方ないだろう、とそれも敬遠されていた理由でした。ただ結果的には、杞憂でしたね。コミックも全然売れました。


――:ここからミステリーというジャンルが「発明」されるわけですよね。あの、個人的には実は僕も高校時代に石垣ゆうき『MMRマガジンミステリー調査班』(1990-99連載)好きだったんですよ。そのまま登場するリーダー役のキバヤシさんががいつもとんでもないこと言って、「な、な、なんだってー!?」の送りコマで次回につながる感じとか。

あれ、僕は出たくなかったんですけどね笑。まあ流行ったからいいかなと思って。でもああいう世紀末思想って、面白いんですよ。一番読まれている年齢を調査したんですけど、実は小6、中3,高3、大学4年という区切りのタイミングの年齢だけ異様に読まれているんです。世の中滅びちまえって人間が思うタイミングって決まっているんだな、と思いました笑。受験が近づいてプレッシャーの中にいるときに、ああいうノストラダムスとか陰謀論とかに影響されやすいんですよ。あんなグラフ、他のマンガでは見たことないですね。


――:僕もMMRハマったの、まさに浪人時代でした笑。滅びちまえっていう深層心理が働いていたのは否めないですね。末法思想でいうと諌山創さんの『進撃の巨人』(2009-21連載)なんかもまさにそうかもしれないですね

あれも2011年東日本大震災後のタイミングで跳ねましたよね。世相として何か危機的なことが起こったりしたタイミングって、これまでと全然違うものが読まれるんです。まあ直後だとさすがに生々しいっていうので、ちょっと時期をおいてから、というパターンが多いですけどね。


――:進撃の編集者、川窪慎太郎さんも第12代マガジン編集長なりましたよね。接点はあったんですか?

独立後でしたけど僕も講談社に出入りしていたので、新人の時によく会いましたよ。(川窪氏は2006年講談社入社)


――:進撃も不思議なヒットでしたよね。最初にあの絵とストーリーをもってイケると判断した川窪さんは凄いです。

進撃は集英社では落とされているんですよね。一応あの時、僕も川窪から読まされてるんですよ。実は僕はイケると思ってました笑、本当に。あの独特の感性が凄くて、誰も見たことのない世界を描いている。続きが読んでみたくなったんですよ。

でも「まあ10万部とかまではもっていけるんじゃないか?」みたいなもんで、あんな世界的ヒットになるとは想像できませんでしたけど。


――:今もマガジンで活躍されている編集者は結構ご一緒にされてたりしたんですか?

前に編集長(第11代:2017~22)だった栗田宏俊(1994年入社)は僕が指導社員だったりしましたね。その前の今アメリカにいっている菅原喜一郎(第10代:2013~17)も一緒にやってました。(中山の『推しエコノミー』書評帯をみながら)佐渡島庸平くん(2002~12年講談社在籍)も優秀でしたねえ。こうしてみると結構つながってますよね。


――:面倒見よさそうですよね。樹林さんしゃべりやすいですし。

そうそう、こう見えて実は結構面倒見はいいんですよ笑。命令するのは苦手だけど。

 

 

■原作4作品の同時連載。狂気の仕事術でジャンプを抜いて世界一のマンガ週刊誌を生み出す 

――:先日まさに同じ時期に『週刊少年ジャンプ』の編集長だった鳥嶋和彦さんにインタビューする機会がありましたが、樹林さんはまさに反対側で講談社『週刊少年マガジン』が抜いていく、この週刊マンガ史黄金時代の立役者ですね。

鳥嶋さん!尊敬すべき編集者の先輩です。いやー、当時はほんと鬼のように仕事してました。


――:どのくらい作品を抱えてたんですか?

一番多いときで5本でしたね。『シュート!』『GTO』『金田一少年』『サイコメトラーEiji』に、そこに一瞬だけ『GetBackers-奪還屋-』まで入ってましたね。


――:週刊連載を5本って、、、しかも「原作者」なわけですよね?普通は編集者は何作品担当するものなんですか?

普通は1本か2本なんですよね・・・『GTO』だけは原作までは手掛けず普通の編集者としての仕事でしたけど、それ以外はお話作りまで全部自分でやっていました。


――:あと途中で小説家もやってますよね?『金田一少年の事件簿』はマンガ原作の樹林さんが、そのまま作家として1994年から2001年まで8巻のノベライズ全部書きあげています。

いや、ホントめちゃくちゃですよね?いいからお前がやれって無茶ぶりされて、ほぼ連日連勤でず――っと働いてました。ヒットするとご褒美の有給&旅行もあるんですが、それもお前が休まないとみんな休みづらいからといって、そんな中でも1週間とか休暇旅行いってましたよ。


――:プレッシャーもすごかったんじゃないでしょうか?1960年代にマガジンはサンデーを抜いてトップでしたが、70年代にジャンプに抜かれてからは20年以上、ずっと「日本一」ひいては「世界一」が悲願だったわけですよね。

当時編集長の五十嵐隆夫(1966年入社、1986~97年第6代週刊少年マガジン編集長)と僕でコンビのようにやってましたね。確かに毎週毎週部数をにらめっこしながら、ジャンプに追いつけ追い越せでやってました。1日かけてアイデア考えて、そこにストーリーつけて、ネームを作っては直し。人気アンケートのトップ5作品のうち4作品が自分の担当、みたいな状況でしたからね。狂気の沙汰です。


――:これは逆に普通に会社員として機能しているものなんでしょうか?

いや、してなかったですね笑。まともに会社いかず、毎日毎日お話考えていたので、伝票かかない経費精算もしない郵送物も机に溜まりまくっていた。見かねた後輩が全部やってくれて僕はハンコ押すだけ、とか作家との制作進行みたいなものは後輩に任せてしまったり、僕が書いたプロットを「樹林の字が読める人」が社内で待機していてそれを書き起こしして作画につないでもらったり。

 

――:そして1998年に420万部に到達、ジャンプ398万部を抜き去って、数十年かぶりにマガジンが最高部数に返り咲くわけですよね。樹林さんは間違いなくその第一功労者でしたでしょうし、普通でいうとマガジン編集長になって、その後局長→役員となっていきますよね?樹林さんはそのコースにはのらなかったんですか?

編集長の話もありましたね。でもそういうの、興味なかったんですよ。命令して誰かにやらせるのが好きじゃない。もともとジャンプに勝とう!という気持ちでギリギリ頑張ってきていたので、ちょうど結果がでたあとの1999年のタイミングで講談社を辞めました。


――:よく講談社も手放しましたよね。普通なにがなんでも辞めさせないですよね?

まあ色々言われはしましたけどね。冗談ですけど当時の役員から「もしジャンプの作品やったら家に火つけるからね(笑)」とか笑。ただ、そのくらい壮絶なライバル関係の雑誌ではあったので、辞めてからも実は集英社さんとはお仕事したことはないんですよ。火つけられちゃいますから笑。


――:原作者として独立したあとは生活は変わるものでしょうか?

そんなに変わらないんですよね。もともと週1-2回しか会社いってなかったし、担当していた連載の原作者としての仕事はそのまま続いていたので。


――:もともとお仕事の幅はすごかったですが、この2000年以降も手広いですよね。ドラマ『HERO』の脚本なんかも書かれてますが、こちらはどうやって始まるんですか?

フジテレビの大多亮(おおたとおる)さんから依頼があったんですよ。「キムタクのドラマやるんだけど、プロットつくってくんない?」って。もともとフジテレビでGTOのドラマとかもやっていたので初めてではなかったんですが。

※大多亮(1958~):フジテレビジョン常務取締役。1977年フジテレビ入社後、トレンディドラマというジャンルを確立したプロデューサーの1人で『東京ラブストーリー』や『HERO』など視聴率30%を超えるヒットドラマを多数手がけてきた。

 

■ハリウッド映画化された『神の雫』、ワイン文化を日本に広めてナイトの称号を奪還! 

――:気になるご経歴としては2013年からDeNAでマンガボックスの編集長やってますよね?

あれは大変だった!!こういった編集長ポジションの話は結構頂いていたんですが、全部お断りしていたんですよ。ただそのときDeNAがイケイケの時代で、これだけ大きな資本をもった会社が根気強く投資していけるなら、と覚悟決めて編集長を引き受けました。独立してからちゃんと会社に所属したのはこれが初めてでしたね。


――:編集長ってどんなことをするんですか?

もう全てですよね。マンガ家探して、編集者探して(8人の編集者を抱えた)、それぞれと条件交渉して、自分で書いた原作も全部提供して、本当に毎日毎日忙殺されてました。それでも雑誌づくりって文化づくりなので時間かかるんですよ。5年は最低でも投資フェーズで我慢してほしいと言ったんですが、さすがにそれは難しくて最低3年間は、となりました。


――:マンガボックス、先鋭的だったんですよね。2013年のマンガアプリはNHNのComicoとDeNAのマンガボックスしかなかった時代に、ちょっと遅れてセプテーニのGANMA!で参入した話を以前、中川さんにもお聞きしましたhttps://gamebiz.jp/news/348873 。

そう、だったんですよね。半年で300万DLされるし「ヤバいくらいの手応え」はあったんですが、やっぱりKPIが・・・


――:中山もDeNAにいたのですんごく理解できます。やはりTechとコンサルの会社で、かつゲームで大当たりしてたから、すべてをKPIで「改善」していく方向にいってしまうんですよね・・・

いやー、KPI、KPI、KPIでしたね。しゃかりきにやって、3年目で安江亮太さんに編集長のバトンを渡しました。


――:そして独立後の作品でいうと、やはり象徴的なのは2007年からのオキモト・シュウさん『神の雫』(累計1,000万部)ですよね。ワインブームの火付け役にもなり、マンガの枠を超えた波及効果が印象的でした。

もともと姉がワインが好きで「この味わいはまるで泉のようだ」とか言葉遊びしてたんですが、もしやこれってマンガにできるのでは?と思って始めた作品です。


――:フランスで樹林さん、ナイトの称号まで与えられてますよね?

フランスで200万部売りましたからね。日本でワイン普及に貢献した功績でボジョレーワイン騎士団から「騎士号」を頂戴しました。


――:あと楽しみなのは2023年に放映されるHuluドラマ「神の雫/Drops of God」ですよね。山下智久さん初の海外主演ドラマでハリウッドのスタジオで制作ですよね。

いや、すごかったです。これは本当に。制作はレジェンダリーテレビジョン(『パシフィックリム』)なんですが、製作費は日本の10倍じゃきかない、2桁違いますよ。脚本にもとんでもないお金をかけている。撮影に立ち会ってみると、それも納得で、5分のシーンにも1時間どころじゃない時間をかける。あらゆるシーンで納得いくものを際限なく様々なカットでとっていく。大量にとりためた映像をあつめて、編集だけで1年以上かけてますからね。それはお金もかかるし、凄いものができるわと思いました。ティザーもみただけで震えましたよ。


――:そういえば樹林さんは名前を毎回変えるのも特徴的ですよね。金田一は天樹征丸でしたけど、『神の雫』は亜樹直でしたよね。まるで生涯93回引っ越しして30回名前を変えた葛飾北斎のような。こちらはどんな意味があるんですか?

新人作家と新人原作者で名前がまったくない者同士で、ゼロからマンガだけの評価で成功したいんですよね。新しい名前のほうが、逆に有利なんですよ、以前つくった作品の偏見から入られないので。色のついてないところから成功させたいと繰り返すうちに、増えちゃいましたね。

 

<樹林氏の原作名>
樹林伸(きばやししん)『金田一少年の事件簿』ほか小説・ドラマ脚本
亜樹 直(あぎ ただし)『神の雫』
安童 夕馬(あんどう ゆうま)『サイコメトラーEIJI』『クニミツの政』『シバトラ』
青樹 佑夜(あおき ゆうや)『GetBackers-奪還屋-』
天樹 征丸(あまぎ せいまる)『金田一少年の事件簿』『探偵学園Q』
有森 丈時(ありもり じょうじ)『アソボット戦記五九』
伊賀 大晃(いがの ひろあき)『エリアの騎士』
龍門 諒(りゅうもん りょう)『BLOODY MONDAY』


――:やっぱり1つのテーマも何年も連載していると飽きたりとか、その時の興味が強く反映されてしまったりしますよね。

それはありますね。その時の興味によって、つくるものもどんどん変わっていきます。『神の雫』のときはワインでしたし、『クニミツの政』のときはすごく政治に興味があったんですよね。それでクニミツを政治家秘書にしてしまいました。残念なことに15年前のあのときから、政治に関しては全く変わってないのですが笑


――:そうですよね。2001~05年の連載は、ちょうど森喜朗首相~小泉純一郎首相の時代でしょうか。

なんとなくこなしているけど同じような間違いがずっと続いている国ですよね。僕自身は権力志向がないのでじゃあ自分が政治家になるという選択肢はないのですが。

 

■日本唯一の職業「マンガ原作者」、アウトプットし続けることで枯渇することのない才能の泉 

――:原作者ってほかの国にない職業ですよね。他の原作者の方とお付き合いってあったりするんですか?

マンガ文化ありきで、出来上がった職業ですよね。絵を描く才能とストーリーを創る才能は全然違う。そこにキャラクターをどうつくっていくかもまた別。マンガ家にあまりにいろんな役割を背負わせすぎた結果、そうした中できちんとストーリー部分に特化した人間も必要、ということで生まれてきました。原作者の祖でいうと梶原一騎さんですかね。他の原作者の方とはあんまりお付き合いはないんですよね、残念なことに。


――:どんな人間が才能ある原作者になれるんでしょうか?

人と会うのが好きなヤツが向いてますよね。人と会わなくなると、どんどんズレていくんですよ。これは編集者も同じです。


――:どうしたら日本は原作者をもっとうまれる国にはなるのでしょうか?

いや、いっぱいいっぱいですよ。このくらいで十分。これ以上は量として増やしても仕方人じゃないですかね?才能って集中して集まるものじゃなくて、散在するもの。選択肢としては小説家だってあるし映画監督だってあるしゲームクリエイターもいるじゃないですか。マンガにだけそういう才能が集中するべき話でもないです。テレビとかだと最近不足しちゃっているかもしれないですね笑。

――:あとノーベル賞受賞者にも言われていることですが、有名になる人間の共通点って才能などもそうですけど、明確に「体力」が大事だと。長寿な人間はより長い時間がチャンスとして与えられます。その意味ではこの激務をずっと続けてこらえた樹林さんは、明らかに体力がものすごいんじゃないかと感じました。

確かに病気は全くないですね笑。好きなことやってるからかな。でも、ちょっとペース落とそうと思ったときはありますよ。恵広史さん『BLOODY MONDAY』(2007~12連載)くらいから、ちょっと仕事のペースを落とそうかなと思いました。ちょうど50歳前後あたりですかね。


――:そう思った直後にマンガボックス編集長もされてましたけどね笑。いままで作られた作品のなかで「自分のなかの一番」ってあったりするものでしょうか?

いや~選べないな~。金田一もサイコメトラーもBLOODY MONDAYも、色々ありますね。最後まで自分でまとまって描き切れたという意味では、朝基まさしさん『シバトラ』(07-09連載)かもしれないですし、あと月山可也さん『エリアの騎士』(06-13連載)も終わらせ方良かったんですよね。大ヒットまでいかなかったけど『東京エイティーズ』もきれいな終わらせ方ができた。『奪還屋』と『神の雫』の場合は、終了の1年前から終了告知させてもらってたんですよ。それで準備していたプロットにあわせて、きちんと段階を踏んで終幕までもっていけた。作品の作り手としてはそういうのは理想的ですよね。


――:あとこれだけ複数で、しかも並行して連載を続けられてきて、樹林さんはアイデアが枯渇することってないんでしょうか?

人間って枯渇することはないんですよ。常に出し続けていれば、その分どんどんインプットするんですよ。僕の場合はワインの話なんてそうなのだれど、自分が知ったことはどんどん人と話すんです。話すことで知識を定着させています。そうやってしゃべりきると知識になって、また新たにインプットいれたくなる。これを繰り返してると、実はアイデアが出てこない、ということは無いんですよね。


――:最後に将来的に樹林さんがやりたいことって?

映画つくりたいんですよね。ちょっとお話いただいたこともあるんですけど、やはり数か月スケジュールをあけなければいけない映画監督の仕事ってハードルが重すぎて、難しかったんですけど。


――:すでに作品はいくつも映画化されてますよね?

実は原作が他のフォーマットに落とし込まれた時に、ちょっと違うなと感じることも実は多いんですよ。ドラマだと「原作よりも良くなったな!」と思えることが少なくて。どんなに視聴率が高くても「うーん、何か違うんだよなあ」と思ってしまっていて。マンガだとそれはないんですよね、かなり細かい設定まで打ち合わせできます。それと同じようなレベルで、やはり自分が指揮をとって映画をつくってみたいなというのは夢でありますね。ハリウッドくらいお金と時間かければ、それはできると思います。


――:Hulu、Netflixときて、次はどこでしょうかね!でもこうした稀有な日本の原作者が海外の配信大手と組んで大作をつくっていくという方向性はすごく期待が高まります。来年の『神の雫』と『レディ・ナポレオン』、大変楽しみにしております!

 

会社情報

会社名
Re entertainment
設立
2021年7月
代表者
中山淳雄
直近業績
エンタメ社会学者の中山淳雄氏が海外&事業家&研究者として追求してきた経験をもとに“エンターテイメントの再現性追求”を支援するコンサルティング事業を展開している。
上場区分
未上場
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