【連載】中山淳雄の「推しもオタクもグローバル」第77回 100年の歴史を刻む東映京都撮影所、世界唯一無二である「時代劇」の趨勢

中山淳雄 エンタメ社会学者&Re entertainment社長
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東映京都映画撮影所、現存する映画スタジオの中では最古の域にあり、かつ2万坪を超える最大規模の撮影所である。1925年に竹藪だった太秦の地を切り拓いて阪東妻三郎が建設、1930年に松竹に譲渡されながら新興キネマ、大映、東横動画と所有が移り変わりながら、1951年当時の弱小3スタジオが統合して大借金からスタートした東映(時代劇大ブーム時代を牽引し、50年代半ばには借金返済)が70年間に渡り、保有し続けている。ほとんど映画史の黎明からこの産業を見届けている撮影所で、37年間つとめあげている高橋剣氏にインタビューを行った。

 

  

■時代劇の聖地、東映京都撮影所。日本最大規模で100年の歴史を刻む

――:自己紹介お願いします。

高橋剣と言います。1964年東京都武蔵野市生まれで、1987年の入社以来ずっと37年間この東映京都撮影所に勤務してきて、今スタジオ事業部長をしております。今の撮影所では一番の古株は私になってしまいました。

――:なかなか珍しいキャリアですよね。1925年で板東三郎プロだったこの約100年の歴史をもつ撮影所に、高橋さんはずっといらっしゃるんですね。今撮影所ってどのくらいの人数が働いているんですか?

社員でいうと40名程度ですね。俳優も美術も運送も外部の協力会社もたくさん入っているので、全体だと150名くらいがこの「撮影村」で関わっているようなサイズ感でしょうか。

――:撮影所はキャリアでいえばエリートコースじゃないんですか?岡田茂さんが東大卒で1947年に入社とともに撮影所配属、1951年に当時27歳で製作課長、その後71年に大川さんに次いでの二代目東映社長として出世コースを歩んでいきます。

岡田茂さん(1973~1993社長)の時代はそうだったかもしれませんね笑。その後の高岩淡(1993~2002社長)も京都撮影所長を経験してます。でも私の1980年代になるとそんなことは全然なくて、本社でも撮影所を経由せずに出世する人も多くなっています。私の場合は東京出身なんですが、戻り損ねてずっと京都に居着いてしまった形です。 

――:たしかに東映の全体社員が約400名ですから、もう京都撮影所には全体の1割程度なんですね。でもさきほどスタジオツアーで拝見しましたが、本当に巨大ですよね。京都の松竹撮影所や東映東京撮影所とくらべるとどのくらい大きさが違うんですか?

この撮影所は1.1万坪以上ですからね。松竹京都撮影スタジオはこの1/4くらいのサイズ、東映東京撮影所もここよりワンサイズ小さいので、おそらく日本に現存する撮影スタジオとしては最大規模のはずです。

――:基本的に「時代劇」というジャンル自体がこの数十年は右肩下がりの時代だったかと思います。今では150名サイズとのことですがピークのときはどのくらいが働いていたんですか?

1970年代だと、社員は300名、全体で500名以上はいたんじゃないですかね?正確な記憶ではないですが。※

※1960年前後の映画10億人興業時代は東映社員200名に対して臨時雇用社員2000名いた時代もあった。京都で最大この半分程度だったと想定される

――:これまで高橋さんはどのくらいの映画、テレビ番組などの映像作品に関わってこられたんですか?

昔はクレジットにそんなに載らない時代でしたからね。数えたことはないんですが・・・たぶん700~800本くらいはいくんじゃないかと思います。名前がきちんと入っているものは150本くらいですかね。

――:とんでもないボリュームですね!年20本、クレジット入りで毎年5本みたいなサイズ感ですね。実際にプロジェクトやったのに名前を載せていないということは結構あったりするんですか?

ありますよ。それこそ『13人の刺客』(2010)とかは結構頑張って色々制作に走り回ったんですが、僕の名前は載せていないですね。プロデューサーとして入れようかと言われたんですが、僕の名前出すなら撮影所の名前をでっかくしてくれ、と。カッコつけるわけじゃないですが、撮影所自体がブランドができて仕事がまわってくることが一番で、それでうちのスタッフもカメラマンももっと仕事が増えますしね。もうこの年次なので、アレオレ詐欺※しなくてももはや関係ないですからね笑。

※アレオレ詐欺:ヒット業界には付きまとう、成功タイトルで「アレ、オレが作ったんだよ」という人が何十人と出てくる事例。失敗の母は1人しかいないが、成功の母は100人いる、とも言われる。

――:やっぱり仕事上、巨匠監督の薫陶をうけてきたのですか?

深作欣二監督や工藤栄一監督とかですかね。仕事風景を拝見したり、制作管理などでもすこし関わりましたね。他にも伊藤俊也監督、中嶋貞夫監督、降旗康男監督と働いてきました。降旗さんはカッコよかったですねえ~。頭もいいしリーダーシップもありますし、同じ組に入ると46時中一緒にいますし、人としてのありようも含めてとても影響を受けました。

※深作欣二(1930-2003):日大卒業後1953年東映入社、61年『風来坊探偵 赤い谷の惨劇』でデビュー。『仁義なき戦いシリーズ』(1973~)は邦画史に残るヒットを記録。他にも『魔界転生』『蒲田行進曲』『里見八犬伝』『バトル・ロワイアル』など
※工藤栄一(1929-2000):慶應大学卒業後1952年東映入社、時代劇黄金時代を牽引し、『十三人の刺客』(1963)からはじまり『大殺陣』『影の軍団 服部半蔵』『野獣刑事(デカ)』など。
※伊藤俊也(1937~):東大卒業後1960年東映撮影所に入り、1970年『やくざ刑事シリーズ』でデビュー、『女囚さそりシリーズ』を成功させた。03年紫綬褒章受章
※中島貞夫(1934~2023):東大卒業後1960年東映入社、1964年『くノ一忍法』でデビュー。『木枯し紋次郎』や、親友の深作とともに「実録ヤクザ映画路線」を邁進した。
※降旗康男(1934~2019):東大卒業後1957年東映入社、時代劇を拒否し、現代劇を中心に展開し『地獄の掟に明日はない』『獄中の顔役』『現代やくざ 与太者の掟』など。

 

▲京都太秦映画村と隣接する京都映画撮影スタジオ

 

■時代劇の凋落の40年、テレビ向けパターン制作の20年と多様化・コスト管理の20年

――:高橋さんは、昔から映画には関わりが深かったんですか?

そうですね、中学校くらいから映画を1人でずっと観に行ってましたね。『青春の殺人者』(1974、長谷川和彦監督、ATG)とか。当時はまだ映画が「悪所」のイメージがあって。映画館に通い詰めているというのはあまり褒められるようなものじゃなかったんです。

――:実際にご自分でも撮影されたりしてたのですか?

法政大学の法学部時代ですが、8ミリで映画をとったりはしていましたね。監督もやってみたいな、と思うようになってました。それまでは中学校でサッカー部、高校でラグビー部だったので、昔からずっと映画監督になりたかった、というわけではなく、ただ映画をみるのが好きな少年でした。大学時代は年400本近くを3年間ずっと見ていたので、相当映画をみている方ではありました。

――:大学時代に映画にハマる人多かったですよね。でもその分、東宝・東映・松竹って就職活動で大人気ですよね。高学歴でとにかくセレクションが厳しいイメージがあります。

私の時代は他の会社よりずいぶん遅い就職内定だったんですよ、映画会社の面接。円高不況と言われて、まだ就職がしづらかったタイミングなんですが、幾つか建設会社などに内定をもらっているなかで漠然と映像関係の仕事はしたかったんです。テレビなどマスコミ系は受けていたのですが全滅で、1個だけ最後に受かったのが東映だったんです。

――:やっぱり学生時代に大量に映画をみていたことが評価されたんですか?

どうなんですかねーー何がひっかかったのかとか聞いたことないんですよ。1987年の東映は『火宅の人』とか『吉原炎上』、『ボクの女に手を出すな』『スケバン刑事』といった作品を出していた時期でしたね。内定者同士で観に行って、感想をかかされたりといったことはありましたね。

――:何人くらい入社されたんですか?よろしければこれまでの異動歴も伺いたいです。

1987年入社組は同期が10名でしたが、ほとんどが東京。1名が関西にいって、私1名が撮影所配属でした。

最初の3年は管理部で働き、そこから制作助手・進行主任で現場で8年くらいやって、2000年くらいからメディア・制作センター・美術センターなどの課長代理を兼任しつつ、00年代半ばに各部署の課長や事業開発をやりながら、次長・室長ときて2010年代半ばに現在のスタジオ事業部長となりました。 

――:春日太一さんが『なぜ時代劇は滅びるのか』の中で、「東映京都撮影所の企画部は1990年代に東京本社へ吸収され、プロデューサーは全て本社直属という形になった。そして、本社からの出向という立場で京都に席を置くようになった彼らは<発信者>ではなく、東京の本社やテレビ局の意向と撮影現場の事情との<調整役>という中間管理職的なポジションになってしまった」と述べています。1990年代は京都撮影所の役割が変わっていったのでしょうか?

どうなんでしょうか。わりと東映は撮影所主導で企画をしていることも多かったので独立して機能していた時期もそれなりに長かった気はしています。ただ東映でいうと最大株主であったテレビ朝日※との関係性が大きいですね。もともと東映撮影所自体が強かった時代から、東映本社-東映京都撮影所という関係性になり、21世紀に入ってからはテレビ朝日-東映-東映京都撮影所という関係性になった。

※テレビ朝日は東映の株式を06年度より11%、20年度より17%で持ち分法適応会社に、直近は約20%まで追加取得しながら保有比率を上げている。14年度より東映が33%を保有する東映アニメーションも直接15%保有し、第二株主。東映自身もまたテレビ朝日の15%を持つ、朝日新聞社に次ぐ第二株主であり、全体としてグループの関係性が強化されてきた20年と言えるだろう。

――:それはテレビ局がだんだん制作をコントロールする、という意味なのでしょうか?

いやいや、そんなことはなくて。一緒に作っているし皆がなんとか支え合った残してきた感じです。テレビ朝日自体に、昔東映や京都撮影所から派遣された人もいたくらいですからね。昔の兄弟会社のような状態が、より資本関係が強くなるなかで関係性を深めてきた、というところですかね。

――:1987年から現在までの約40年を振り返ると、どの時代が撮影所にとっては厳しかったんですか?

1999~2000年くらいですね。なかなか当たらなくなるし、制作案件が減ってくるし、テレビ向けの時代劇を定番2枠つくっていたところが1枠現代劇になってしまったんです。先ほど中山さんにもスタジオツアーでみてもらった「科捜研の女」(1999~、シーズン23まで現在も続く沢口靖子主演のサスペンスドラマ)です。 

――:たしかに、時代劇モノが中心のスタジオで、急に医療機器に囲まれたスタジオがあって驚きました。1998年、東映が歴史上、唯一赤字になった年ですね。

そうなんです、あの時は本当に大変で美術造作から装飾の仕方、スタッフのスキルセットまで、全部変えざるをえなかった。PC使ったことのない人も多かったですからね、めちゃくちゃ撮影のハードルが上がったんです。助監督やってた人間は歯も抜けるし、毛も抜けるし。昨日まで「裁きを申し渡すっ!」って御白洲を撮っていた人間が、音波がどうだのタンパク質がどうだのを全部勉強し直して、考証にあうようにとっていかないといけない。

――:撮影所って、ほとんど社員というよりは業務委託の人が多いのは、まさにそういう状態にフレキシブルに対応するためのものではないんですか?

いや、やっぱり撮影所は家族ですから。どんなに苦手だろうと、時代劇以外やったことないっていう技術者や俳優も、全員が現代劇で食えるようにコンバートしていきましたよ。それは正社員か契約かっていうのは関係なかったですね。MacやPhotoshopを習いにいかせたり、ちょっとずつ職種転換しながら撮影所のメンバーがそのままで現代劇を撮れる様になっていきました。

だからその2000年前後が一番厳しかった時代で、そこから2005年くらいまでは規模も人数も下がり続けましたが、そこで底をうってそこからはあまり変わっていない認識です。

――:どのくらい制作本数も変わってきたのでしょうか?

私が入社した1980年代はまだ忙しかった時代です。常時10本くらいは動いていて、だいたい2本が映画で8本がテレビ番組といった感じでしょうか。テレビで換算すると年300時間といったボリュームで撮っていました。それが最近だと常時1~2本という感じでしょうか。テレビ時間でも年50時間といったサイズ感だと思います。 

※『映画プロデューサーが面白い』(キネマ旬報、1998)より。東映配給作品数は年60本(1975)→年20本(1980~95)と大きく減らしていく。1960年代の栄華の時代には届かずとも。1990年代は『将軍家光の乱心』(1989)『江戸城大乱』(1992)など時代劇モノのヒット映画はまだ命脈を保っていた。京都撮影所自体の制作本数も、年80本(1960年前後)から大作主義になった1970年代を経て年10本(1980年代)→年数本(2020年前後)という形に減少してきたと想定される。

 

――:なるほど、約40年でちょうど人数も1/3~1/4になったけど、制作本数・時間は1/5~1/6くらいになったということですよね。逆にそれでもこれだけ雇用が守れており、東映自体も成長してきたというところは逆にスゴイですね。

なんとか案件を作らないと、と2003~04年くらいからは東映の撮影だけではなく、他社モノの撮影の外販などもやっていこうという動きになっていった時代です。実際に東宝撮影所などは自社撮影ではなく他社が撮影するためのスタジオ貸を中心にして発展していますからね。

――:外販でいうと前回『ラストサムライ』(2003)にも出演され、東映映画村の中村座で忍者ショーをやってきていたリー村山さんと巴里絵さんにもお話伺いました。こちらも時系列的には東映が厳しかった時代ですが、こういうハリウッド作品に場所を貸すのも撮影所とじてはブランディングの一手段だったのではないですか?

そうですね。私もこの判断には加わっていないので詳しくはわかりませんが・・・まさにこういう外資案件なども入れながら、撮影所自体も独立採算で儲けにいかないといけないですよね。実際にBBCの『The Shogun』シリーズ(2008~2009)を撮影したり、『さゆり/SAYURI』(2005、コロンビア)では京都ロケの協力と美術や衣裳の準備全般を手伝いました。

――:1974年から続く東映太秦映画村の経営、というのはこの撮影所の存続に寄与してるのでしょうか?時代劇→任侠→実録と「フォーマット化」で生き残ってきた撮影所は1970年代半ばに再び危機に陥ります。「東映は潰れても撮影所は残す」と所長の高岩氏が一部有料解放して映画村にすることで収益化。ただ2000年代の日本全国テーマパーク冬の時代で、そちらもかなり厳しかったと思いますが(2023年実績56万人)。

映画村は別セクションの管理なんです。ただ無関係とはいえないですね。最初の30年は年200万人とか来ていて、とても儲かっていました。管理主体は別でしたが、太秦映画村がなかったら早期に京都撮影所を縮小させたり、ことによってはなくなっていた可能性もあるのではないかと思います。

――:この一番東映が厳しかった時代を牽引したのが、第四代の岡田裕介さん(2002-14年社長)、第二代の岡田茂社長の息子さんですね。色々な改革をしたと聞いております。

それまで美術センターは外だしにしてコストを逃がしていたところもあったんですが、それを統合したり、とにかくコスト意識を徹底するようにしていく大改革の時代でした。『暴れん坊将軍』(1978~2002、テレビ朝日系列)とかはもう金太郎飴のように作っていたんですよ。いつものレギュラーセットがあって、毎回ちょっとずつお話を変えながら、同じパターンで撮る。これがずっと厳しかった映画制作の業界で生き残っていく方法だったんですが、2000年代以降は時代劇が飽きられて多様な撮影に耐えられるようにするしかなかった。そこで聖域なくコスト管理していくようになります。それまでがお金をかけすぎていた、ということだと思います。

――:たしかにとんでもない美術・装飾の資産だな、と感じました。「のれん」だけで何千枚あったり、「着物」ってもう何万枚みたいなサイズでした。もう大木に見えるような丸太の中がウレタンでスカスカにして誰もが身体を酷使せずに撮影できるようにしていたり。まさに垂涎の「撮影資産の宝箱」のように見えました。

映像は1つ1つがホンモノじゃないから軽くみられがちなんですよね。でも最終的な商品って「2次元の絵」じゃないですか。3次元でリアルかどうかより、2次元にしたときにどこまでリアリティもって、かつサステイナブルに製作コストに合うように作り続けられるかが大事ですよね。本物の大木で殴り合ってたら役者も制作コストも潰れちゃいますから。

ただ時代劇だけをパターンでやりすぎて、視聴者に飽きられていった。そこで大学とか政治で賄賂がからむ場面とか、ヤクザとか様々な世界観を増やすたびに、必要な美術・装飾のコストはとんでもなく跳ねあがるんです。柔軟性をもたせないと、すぐに飽きられる。

――:実際にNHK大河ドラマ以外ですともう時代劇ってなくなるのでしょうか?

2012年『水戸黄門』(1969~2012、TBSテレビ)が終わったところが民放時代劇の終わりです。もうこの20年は時代劇と聞くとプロデューサーがしかめっ面になるような時代だったんです。古臭いし、撮りづらい。ただある意味この2012年が「底」でもあります。

京都では2009年に京都ヒストリカ国際映画祭という取り組みを初めて時代劇の再活性化の取り組みをしていましたし、『るろうに剣心』(2012、ワーナーブラザーズ、興収30億)が出てくる中で“狭義の時代劇"から“広義の時代劇"のように、ちょっとアレンジが加わる様になってきました。

――:そうやって幅をもたせながら、実際この撮影所を使った大作・ヒットなどは生まれてくるのでしょうか?

『男たちの大和』(2005、東映、制作費約25億、興収51億)とかですかね。最近だと『レジェンド&バタフライ』(2023年、東映70周年記念作品、制作費20億円、興収24.4億円)などもこちらで撮ってます。

――:ほかにも高橋さん個人が関わって、印象的な作品はありますか?

『メタル侍』(2009、OVA)とかですかね。BS11で放映された時代劇なんですが、ウェブ向けエピソードで1話5分×20エピソードを創りました。一緒にやっていただいたコロンビアさんのお陰でつくれたようなもので、なんとか映像セールスとDVDでマネタイズするしかなかった完全に亜流のドラマづくりでした。京都大学の留学生を主役にして、10分100万円レベルの低予算で学生時代のように作りましたよ。ちょっと時期が早すぎましたね、5年あとからやっていたらもっと話題になったと思います。 

 

■歴史を育んできた日本と奪われてきたポーランド。「時代劇」変奏曲が一つの文化を形成してきた

――:ちょうど先週ポーランドに行かれてましたね。

ポーランドNNW映画祭というものに呼ばれました。初めてポーランドにいきました。

――:海外の映画環境と比べると、日本の時代劇ってどうなんでしょうか?

この10年海外で呼ばれることが増えてきたんです。それで色んな海外の映画を目にする機会が増えてきたんですが、日本の特別さを逆に実感するんです。例えばカンヌって2000本くらいの映画を対象にするんですけど「History」ってカテゴリーでみていくと、『ミュンヘン』(2005)とか『唐山大地震』(2010)とか歴史的な事件は出てくるんですが、「Period Drama」とか「Epic History」と言われる、時代劇モノのドラマって本当に少ないんですよ。

――:そう考えると1950年代の日本なんて「年間200本制作のうち半分が時代劇」みたいな状態って異常なレベルですね。

こんなに長く歴史を愛でている国民って他にないんです。アメリカだって200年しか歴史ありませんから。京都ヒストリカ国際映画祭の中だけでいうと、対象作品が300本くらいあって、そのうちの60作くらいをプログラミングチームが選考して映画祭での上映作品を決める。300本のなかにはもちろん歴史ものとか宗教ものもあるんですが、基本的に「7割がプロパガンダ」です。我々がどう独立を勝ち取ったのか、だったり、いかに国の英雄が輝いていたか、とか。

我々と「歴史」へのスタンスが真逆なんですよ。ずっと歴史を愛でてこれた我々と、歴史が常に他国の侵略とともにあって、歴史を奪われ続けてきたポーランドで。ロシアもインドも中国などでよく言われますが、映画ってほとんどの地域では政治的メッセージを多分に含んだ特別なメディアなんですよ。そうした中で純粋にクリエイティブな観点だけで制約なく映画を作れている国って多くはないんです。

――:そうですよね。逆に「時代劇」ってその制約を超えるためのフレームでした。1930年代に治安維持法で国の規制が強くなった時が一番時代劇モノが活性化しました。身分制があったり、幕府や執政と民間との軋轢を時代劇で描くことで当時の日本帝国に対するメタファーを伝えたと聞きます。

そうなんですよね、時代劇はドラマがつくりやすいんです。日本の特別さは中山さんの『エンタメビジネス全史』もそのあたり良く書かれてますよね。「『興行の半分以上を自国産映画で占めている国』は数えるほどしかない。インド、日本、韓国、中国である。これらは自国産もしくはアジア圏の映画が一定の割合を維持し、“多様な"映画消費がなされている国々である」と。そうした中でも、時代劇などを含めてここまで自由に制作と興行がなされた国は唯一といっていいかもしれない。

――:ありがとうございます。読んで頂いているのですね。他の国でも長くシリーズ化して、「時代劇」のような金太郎飴になったりするんでしょうか?

「第二次世界大戦下の強制収容所」なんてそのパターンですよね。かならず二枚舌の所長がでてきて、スパイが出てきて、みたいな人物類型自体もパターン化しています。そういう歴史の面白さとか豊かさってありますよね。

――:でも海外にはやっぱり時代劇、となると伝わりづらいですよね。

収容所も西部劇もその国のその時代にしかないハイコンテクストなものです。知識があれば面白いけど、他の文化には伝わりづらい。それを実際様々な監督がいろんな角度で「変奏曲」を作ってきたわけじゃないですか?ヴァンパイアものも、いろんな変奏曲で作られてますよね。その結果、我々も収容所や西部劇やヴァンパイアの世界を楽しめるようになった。いかに国特有のハイコンテクストなものを、ローコンテクスト的に語っていくか。変奏曲で多様に作り続けられるかが大事ですよね。

東映株式会社
https://www.toei.co.jp/

会社情報

会社名
東映株式会社
設立
1949年10月
代表者
代表取締役会長 多田 憲之/代表取締役社長 吉村 文雄
決算期
3月
上場区分
東証プライム
証券コード
9605
企業データを見る

会社情報

会社名
Re entertainment
設立
2021年7月
代表者
中山淳雄
直近業績
エンタメ社会学者の中山淳雄氏が海外&事業家&研究者として追求してきた経験をもとに“エンターテイメントの再現性追求”を支援するコンサルティング事業を展開している。
上場区分
未上場
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