【連載】中山淳雄の「推しもオタクもグローバル」第79回 アート界のダ・ヴィンチから劉備玄徳へ:情報化時代の芸術文化を先導するスタートバーン

中山淳雄 エンタメ社会学者&Re entertainment社長
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アート界でいえば猪子寿之のチームラボ、真鍋大度のライゾマティクスなどがよく名前にあがる。デジタルを使ったアートは、価値観の変容を象徴し、それを社会的な運動の域にまで昇華させている。そうした企業と並び称される施井泰平のスタートバーンは一風変わっている。トップが圧倒的な創造性を発露するプロダクトがあるわけでも、マスに知られるサービスを持つわけでもない。だが、この業界においてアート向けのBtoBインフラとしてそこらかしこで名前があがり、直近では集英社からトヨタ、プロ野球球団に至るまで名だたる大企業との協業も旺盛に広がっている。聞けば「ブロックチェーン」「Web3」といった言葉が普及してくる10年以上前に、二次流通の仕組みを特許化している。一体この「謎の企業」スタートバーンがどんな仕組みでまわっているのか、インタビュー行った。

   

 

 

■アイデンティティ形成期に海外にいた「存在の不安」をアートが埋めた

――:自己紹介お願いします。

施井泰平(しいたいへい)といいます。1977年生まれで、ブロックチェーンを使ったアート価値を支えるスタートバーンという会社を経営しています。

――:施井さんはアーティストであり、起業家でもあります。いつごろからアーティストを目指していたんですか?

中学校くらいだったと思います。

――:施井さん、かなり面白い一族で生まれ育ってますよね?

父方と母方の祖父がどちらも発明家なんですよね。父方の発明家のほうは当時特許をとらなかったことで発明が乗っ取られるといった事件もあり、その後あまり形として残っていません。母方は京都嵐山にある山崎精機研究所といって1953年に簡易水分検知器の発明して以降水に関わる様々な発明品を出しております。海軍時代には人間魚雷「回天」からの直前脱出装置を発明して国賊呼ばわりされてチームから外された経験を持ちます。その祖父の叔父(施井の大叔父)も同じく自身の発明から起業したオイレス工業株式会社の創業者であったり、たしかに一族としてはちょっと珍しい人は多いかもしれません。

でも父は普通にサラリーマンだったので、中学校あがるまでは「(ちょっとだけ海外駐在も経験した)中流家庭で育った」くらいの認識でした。自分が小学校上がる前にロサンゼルスに駐在となって6年間いましたが、戻ってから父は外資系企業にヘッドハンティングされて社長になったので、そこからは多少羽振りもよくなっていましたが。

――:幼少をアメリカで過ごしたということは施井さんの性格形成にもかなり大きな影響を与えたんじゃないかと思います。

それはあると思います。日本って単一民族だから「他者」に鈍感なんですよね。アメリカだと、とにかく「お前は何者か」という問いに答え続ける必要がありました。でもどちらかというと、日本に戻ってからのほうが大変でした。

日本生まれ日本育ちがストレス度Cとすると、アメリカ生まれアメリカ育ちがストレス度B、アメリカ生まれ日本育ちがストレス度Aで、僕の生まれは東京ですが、Aに近い感じなんです。「他者ばかり」のアメリカで自我を形成したあとに、「他者を排除する」日本社会でずっと違和感を抱えて過ごすんです。

――:具体的にはどういうところが大変なんですか?

ずっと「違和感」みたいなものが払しょくできないんですよね。6~10歳のアイデンティティ形成期にアメリカにいて、ちょっといじめっぽいことがあったり、まずそこで日本人として舐められないようにする苦労がありました。そういった環境から日本に帰ってみると、今度はこっちはこっちで「ガイジン」扱いですよ。アメリカンジョーク言ってみろよ!とかからかわれたり。

アーティストになりたいというのも、実はその経験が大きいと思うんです。アートって自分が揺らいでいるときにこそ影響が大きいんです。「自分の存在が不安で揺らいでいるときに、スタンドアローンで成立しているアートの“確かさ"みたいなものに共感して、そこに同化していく」みたいな体験が、僕にもありました。

――:それ、めっちゃ分かります。僕も元上司でリクルートの海外役員やっていた方いるんですが、ボストン勤務時代にツライ仕事経験して、そこでボストン美術館でアートに魅せられて、帰国してから経営者の仕事全部やめて、アート・コレクターに変貌していました。

すごい事例ですね。まさにそういう形で、大人になってもアイデンティティは揺らぐし、そういう不安なときに心の穴を埋めるものとしてアートってあると思うんです。

ルネサンスの文化革命がなぜ起こったのかというと、ちょうど15世紀に宗教の揺らぎや教会権力の揺らぎがあったじゃないですか。

――:黒死病で1/3くらい死んじゃったり。大変革の時期でしたよね。世界的寒冷化で不作という自然環境の激変も含め、まさに揺らぎまくっていた15世紀は日本も応仁の乱がおこり、室町・東山文化が全国に広がっていきます。

そうそう。個人単位でいっても、やっぱり留学とか転勤ってやっぱりアイデンティティが揺らぐんです。それで影響を受けた人がアートにハマっていく。僕が日本でそのまま生まれ育っていたら普通にオタクとして育ってそのままだった可能性が高いです。

そういう育ちだったからこそ高校時代に、自分のアイデンティフィケーションを確立させないと思って、もう一度アメリカに1年ほど交換留学していたりしたんですけど。

――:アート系は何か賞をとったり、先生に手ほどき受けたりといった経験はあったんですか?

全然。学校も普通の進学校です(渋谷幕張高校)。美術の予備校には通いましたけどね。それで東京藝大を目指すんですけど、1年目は落ちてそのまま多摩美術大学に入り、仮面浪人してもう1回受けたけどそちらも落ちてしまって。

――:予備校はどうだったんですか?

もう美大の予備校って「幼稚園」みたいなんですよ。普通に友達と溜まっていたら、そこに全力でスライディングして飛び込んでくるやつとか。そういうのも含めて、本人のやりたいことにまっすぐな人間が多いですよね。

――:まさにそういう人の巣窟としての「東京藝大」って、もうトンデモナイですよね。試験問題も、正直何のセレクションになるのかさっぱりみたいな問題出ますよね。

僕の時は両国国技館で5千人くらいの受験生が土俵の真ん中にあるモチーフ1つを凝視したり、あとは渡された鏡で、「絵を書け。」というお題だけだったりします。それで8時間かけて必死に書き上げるんです。わけわからないですよね。それでもアーティストとして生きる時ってなにも確たるものがないから、やっぱり最終的には学歴が効くんですよ。僕もそれだから東京藝大には入らないと!というのがありました。2回落ちたのは挫折体験ですね。

逆に僕は学科ができたので(受験に必要な国語と英語は美大受験生の中でトップクラス)、私大の美大だったら現役でも受かるよと言われて。それで学科で受かったと思われたくないから私大は現役の時には受けなかったんです。

 

 

■友人作らずバイトもしない多摩美のダヴィンチ、焦る卒業後に発明したブロックチェーン構想で特許獲得

――:前回Cekaiの加藤晃央さんにインタビューしました。美大の中で生きる、ということは毎回才能との競争があって、過酷だということを考えさせられました。

彼らは僕の6年下ですけど、有名な天才でした。中山さんが書いていたように、彼は早々と「自分にアーティストとしての才はない」とサポート側のほうに振り切っていたようですが、そうした能力の見極めも含めて天才ですよ。その点、僕は本当に大学時代ダメダメだったんです。

――:1997~2001年の大学時代はどんなことされてたんですか?

僕は今もなんですが、ダヴィンチのようなアーティストになりたかったんですよ。

――:え、あのレオナルド・ダ・ヴィンチですか・・・!?

はい笑。だから常に100年後に自分がダヴィンチになっている感覚から、逆算で今の自分を評価して作りこんできたんです。高校の留学だって、100年後のために高校留学くらいはしておかなきゃって。でも東京藝大にはいけなかったし、当時同期の奴らなんかとつるんでいられるか!俺はこんなところじゃなくて世界一を目指すんだ!という焦りで、アート関連の友達も作りませんでした。バイトすらほとんどしてないんですよ。「ダヴィンチがバイトなんてするか!?」って。

――:そうですね笑、ダヴィンチは確かにバイトはしない!笑

めっちゃくちゃ嫌なやつだったと思います。かといって、作品の学内評価も全然なんです。これ、僕の卒業制作なんです。なんだか分かります?コンビニのおでんの上に、ガムつけてるんですよ、「桜田ファミリー(建設中)」。ガム嚙みすぎて歯がとけたんですけど。でも落第だったらまだカッコいいですよ?尖りすぎて落第になるかAになるかとかじゃなくて、「評価B」。ビミョーな評価で通過して、卒業です。そういうのも含めて、完全にカラ廻っていた学生時代でしたね。

 

当時イケている同期は、入選・受賞などしながらギャラリーとつながったりしている。でも美大の恐ろしい所って、大学を卒業してしまうとそういうボーナスステージから切り離されて、本当に「ただの人」になるんです。この4年間でそれなりの成果をみせて、ネットワーク広げるべきときに、僕はほとんど成果を上げられませんでした。

――:世界一を目指す、という高すぎる目標と現実の乖離でかなり自責に苛まれそうです。

2001年の卒業後にプログラミングに集中しました。あと60年アーティストを続ける前提で、今のままだとマズい。いまさら絵をかいたり工作をつくっても凄い奴には追いつけない。ちょうどネットバブルの時代だったのもあり、大学4年間で何の成果もあげられない劣等生だったからこそ、振り切って表現手段としてウェブサイトつくったりプログラマーとしての勉強をしていられたんです。

――:それは画期的なピボットでしたね。帰国子女×アーティスト×プログラマーというステータスが、今の施井さんの強みを形成していると思います。

それでも全然食えなくて、ずっと実家暮らしですよ。2013年に起業する30代半ばまで、僕はずっと独身実家暮らしだったんです。心配する母親が翻訳バイトとか新聞切り抜き持ってくるんですが、そういうのも全部断ってました。「ダヴィンチが英語翻訳なんてするか!?」って笑。プログラマーとしても仕事をとるのもうまかったわけじゃなくて、10万円で3個ウェブサイトつくるとか、とんでもないたたき売りして。労働集約的に働いていて、とにかく貧困に窮していた20代でしたね。

――:プログラミングを覚えて、どんなプロジェクトをしていたんですか?

俳句プロジェクトで現代版の自由律俳句「ネオ自由律」をインターネット上で公募し展開する「天下泰平プロジェクト」をやってました。言葉の制約をすべてなくして自由に俳句をつくる、それを毎月僕が評価して賞を与えていくような。それを最終的には広島市の現代美術館とか森美術館美術館に展示できたんですが、それでもアクセスもほとんどこない。

――:こういうプロジェクトってゴールはどこにあるんですか?そこに市場があるわけでもなく、マネタイズのモデルもない。とりあえず人を動かして、一個のトレンドが出来ればアーティストとしての勝ち、みたいなものがあるんですか?

いや、集まれば勝ちというわけでもないんですよ。だから・・・「自分は一体何をやっているんだろう」と、絶望的な気持ちになりますね笑。

そのころ、自分の活動を2つに分けるんです。一つ目は美術館での作品発表として現代美術家としての活動、二つ目は美術家の社会的インフラをつくる社会実装の活動に。

――:後者の活動がまさに2006年に特許をとられたやつですね?

「コンピュータネットワークを使って、二次流通時に原作者に還元ができる仕組み」で特許をとりました。

――:これが本当に慧眼ですよね。まだビットコインもない、ブロックチェーンという言葉もないときに、まさにブロックチェーン的な発想を特許化している。

父の教えが大きかったですね。「発明したら特許をとれ」と口酸っぱく言われてましたからね、その特許を奪われた祖父の後悔を父が受け継いでいたので。大学卒業して5年たって、たんなる素浪人のような生活をしていた人間が、発明をしたというので日本どころか米国特許まで申請していたわけですから。

――:この画期的な特許で、芽はでたんですか?

その当時は誰にも言っていない「サブマリン特許」ですよ。僕もそれをどう実現するかの構想があったわけじゃないですし。2015年にイーサリアムが出てきたときは「きたー!」って思いましたけど。

最初に花開いたのは実はインフラ側じゃなくて、アーティスト側の活動なんです。「IT」という作品で村上隆さんが主宰する「GEISAI#9」で安藤忠雄賞をもらって、そのまま安藤さんに買ってもらったんです。コンピュータを一切使わずにコンピュータの世界を感じさせるみたいな手法をとったものです。

本の背表紙を切り取ってキャンバスに並べていったんですが、ITによって紙や情報を扱うメディアにおいてモノが不要になっていくと言われていましたが、本はまさにそのようなモノの象徴的な存在で、ちょっと背表紙がとれただけで本質的な価値はかわらなくても機能が失われたかのように見られる知的財産です。その知的財産の著作物すら、情報化時代のなかでは変容を強いられる。それでも残るモノの価値とは何かとか、情報の時代においてアートの価値はモノとコンセプトどちらにあるかというような「問いを残す」ことが作品を作るきっかけでした。これはその2年後くらいにくる「自炊ブーム」を象徴することにもなりましたし、最近のデジタルアートNFTへの問いにも繋がっていく作品だったように思います。

  

■借金&アーティスト引退の危機からの34歳で東大院生に。東大内での起業。

――:2001年に大学卒業され、2006年は飛躍の年だったのですね。「it」の安藤忠雄賞と、特許の獲得。アーティストとしても成功し、その後は引く手あまたになるんですか?

幾つか賞をもらうようになると色々作品つくってくれというオファーもいただくようになりましたね。ギャラリーもついてくれるようになりました。NYにも作品展示にいって、チームラボと並べて飾られました。アーティストとしてはある程度認められた立場に初めてなりました。

――:ギャラリーがつくといっても芸能事務所と同様に、売り込みはしてくれるだけで、固定給などがあるわけではないですよね?

完全に売れたベースのもので、あちらが50%、作家が50%で配分がある、というだけですね。だからそれは安定への保障ではないです。美術展とかギャラリー空間で小さく発表しているだけだと限界がありますよね

――:この2007年以降はどんな活動をされていくんですか?悲願だった東京藝大にも非常勤講師で就任されますよね?

全く売れなかったわけじゃないですが、それでも食うにはとても足りないレベルです。その後は秋葉原で友人のカレー屋(現:秋葉原カリガリ)、ディアステージやDJ BARのMOGRAの立ち上げを手伝ったりしていました。ずっとアーティストやってると内装とかデザイン、自前でできちゃうから便利に使っていただきました。

藝大の講師は、もともと知っている先生がNYでの僕の活動を見ていて、東京藝大でテクノロジーとアートについての授業を新設したから公募に参加しないかと声をかけてくれたんです。アーティストでテクノロジーわかる人間、本当に少なかったので。あの、行きたくていけなかった東京藝大に講師として入りなおした時には、感慨深かったですね。

――:施井さんの次の転機はどこですか?

2011年の東日本大震災です。当時34歳で一番落ち込んでいた時期です。特許で考えた二次流通の仕組みをなんとか社会実装したくて、数百万円借金してインドに依頼したらそのまま持ち逃げされた。それまでやっていたプロジェクトからもハシゴを外されるようなことがあり、もうほんとにアーティストを目指すのをやめてしまおうと思っていた時期です。

でも地震のあとに、東大で起業家をインキュベーションする仕組みを見つけて、ぜひそれを最後の頼みとしてやりたかったんですが、サイトがみれない。学内関係者限定とか書いてある。それでなんとか東大にもぐりこむ方法はないかと探り、学際情報学府で修士に入学するんです。

――:さらっといいますが、修士とはいえ、東大は普通に入試もありますよね?よく色々活動しながら勉強しましたね?

金はなかったですが、時間だけはいっぱいありましたから笑。試験対策はひたすら書かされる受験ということを聞き、漢字を主に頑張りました。最後まで色彩の「彩」を逆に書いてたりとか、めちゃくちゃだったんですが。英語やプログラミングはまあまあ出来たたのと、ちょうど哲学とか出るんですが、アーティストの中二病こじらせた奴らって近現代の哲学とか思想が大好きなんですよ。そういう相性の良さもあって、うまく合格できました。それで2013年の1年目で単位獲り終わって、2014年にスタートバーンを起業するんです。

――:ちょっと不思議だったんですが、21歳から34歳まで実家暮らしで定職がなかったり、そこから突然大学院にいくとか、親ってどのくらい寛容だったんですか?

ラッキーなことにJICAの仕事などで両親ともベトナムにいってたりしたんですよ。でも恥ずかしかったのもあって、受験票は一人暮らしの弟の家に届くようにして見つからないようにはしてました。受かるまで親に言ってなかったくらいなので、それなりにプレッシャーを受けてましたし、恥ずかしさは僕もありましたよ。

――:このあたりから社会インフラ実装としての活動もスタートされているんですね。それって既存のアート販売のチャネルではできないことだったんですか?

もともと美術館もギャラリーもオークションハウスも、アートのインフラだったんですよね。そこで売り出してあげることで作品と作家を世に出して、キュレーターや批評家と一緒にスターを作っていくような制度となっていった。でも情報化時代になってYouTubeやTwitterがそれを民主化してしまった。制度って、マニュアル化するとダメになりますよね。だから僕がやっていることは、そのマニュアル化された既存ルートのアップデート手段なんです。

――:制度に切れ目を入れるのって常に「外部」ですよね。ちょっと違う視点で最近F1を研究してたんですが、最初フランス・ドイツの「大陸系」のものだったF1が、徐々にイギリスが対立するなかで改革を推進し、そのうちにアメリカという資本をもったところを“餌"のようにしてF1全体が大陸:英:米で対立しながら大きくなっていく。常に制度に「外部」の誤差を入れ込みながら、進化させていくことが重要だなと。

それはアートも同じですね。印象主義ってフランス発祥のものだったんですが、意図的にアメリカに売り込んでバリューを上げていったんです。200年しか歴史のないアメリカがコンプレックスも含めて買いあさり、アートを国策にしていった。フランス生まれでアメリカに移民したデュシャンが現代美術の父と言われるようになったのにも必然性があります。

そういう意味では中国のアートの動きも面白いですよ。中国人が今アート界で色んなタブーを侵しているんです。プライマリー(作家からの一次流通)からオークションからめたりとか。財力があって市場形成力もある、そういった「外部」の革新に対してコンサバな西洋が過剰反応しながら少しずつ変容していくんです。

▲左から施井泰平氏(スタートバーン代表取締役CEO)と渡辺有紗氏(執行役員)

 

■時代が後からついてきた。東大ベンチャー16億調達、ブロックチェーン技術の価値流通インフラ屋

――:2014年に東大内でスタートバーンを起業しても、すぐに資金調達したり、社員増やしたりという感じではなかったんですか?

そうですね、最初の4年は自分のお金だけで、役員も自分1人でやってました。ただ東大に入ったのは、大正解でした。例のインド人に持ち逃げされたり、エンジニアリングの工数がボトルネックでやりたいことができなかったことが、東大の中だといくらでも優秀な技術者がみつかるんですよ。いま話しているこの東大内のインキュベーション施設に入ったのもそのころです。

ただ2015年に地力で出した最初のアート売買サイトは、鳴かず飛ばず。自社内だけで二次流通も完結させないと還元までできない仕組みだったり、普通にアート作品もユーザーも集めるだけのプロモーションもちゃんと考えられていなくて。やっぱり他のチャネルでも汎用できるブロックチェーンの仕組みがないとダメですよね。それが今の「Startrail」につながってます。

――:東大にも入った、技術者もいる。あとはお金ですね。

資金調達の必要が出てきて動き出すんですが、ほぼ決まっていた案件が直前でなくなって。途方にくれていたところ、インキュベーション施設の審査員でもあった東京大学エッジキャピタルパートナーズ(UTEC)が入れてくれるんです。東大内オフィスの在留審査みたいな会議で、普通に会社の状況を説明していたら代表の郷治さんから「僕のところで出資してもいいですか?」って言ってくれて。救世主でしたね。最初にUTECの出資が入った2017年が、会社としての本当のスタートに近いかもしれません。

――:よく東大のVCが鋳れましたよね。ちょうど「ブロックチェーン」という言葉が出てきた時期でしょうか。

実は僕がとった特許の考え方って、今のブロックチェーンより一歩先も考えたものなんです。今のはただ二次流通でも還元されるようにしよう、というものじゃないですか。それを、一次流通と二次流通の流動性を高めるためにも還元金を利用しようという発想なんです。そのアーティストが現時点で既にすごく人気だったら還元率をたかめて一次流通に人を流しこむようにする、もし人気が無いなら還元金を下げて二次の流動性を高めるほうにフォーカスする。市場の是正機能なんです。

――:あーなるほど、傾斜を使うことで一次/二次のバランスを調整するんですね。これロレックスが2023年に二次流通ECを始めたのと同じ流れですよね。公式が二次を安定させることで一次を活性化させる、みたいな。

ただこれが、まだ実現していない発想なんですよね。

――:技術的にどのくらい難しいものなんですか?アーティストでもある施井さんが兼業エンジニアしながらできるものなのでしょうか?

まさに、それだからこそエンジニアとしての一級品の人材が必要だったんです。僕自身はそれまで色んな仕事をやってきた甲斐があって、プログラミングもデザインも設計も管理もなんでも60点くらいにはできる能力がついていたんです。だから「優秀な人間をジャッジして仕事を任せる」くらいはできるんです。あとはそれを実装することができる一級品の人材をこの時期に少しずつ入れていきました。

――:UTECの出資が入った時期はちょうど2017年末のCrypto Kittiesが流行ってきた時期です。他のブロックチェーンゲーム(BCG)の第一次ブームにも乗っかっていたんですか?

Crypto Kittiesはあまり見てなかったですね。同じNFT技術の基盤を使っていましたがうちはあくまで硬派な「アート作品の流通」だけを考えていた会社なので。BCG業界の文脈とは違ったんですよ。

当時は事例も少なくて、大きなVCからちゃんとした出資受けていたのはウチくらいですね。2021年に急激にバブルになった時期に初めて「あ、うちも関係してくるのかな」と思ったくらい、いわゆるWeb3・NFT業界とはちょっと距離がある感じでした。

――:これまで出資は合計どのくらい集められたんですか?

18年7月のシリーズSeed(UTEC)、19年3月のシリーズA(UTEC、SBI、SXキャピタル、電通他個人投資家)、21年5月のシリーズB(UTEC、みやこキャピタル、TBSイノベーション、iSGSインベストメント他個人投資家)であわせて約16億円を調達しています。

――:おおー!アート系とは思えないバリュエーションのつき方ですね。なかなかのサイズ、人数はどのくらいいらっしゃるんですか?

20~30人くらいですね。最近アートメディアの事業譲渡を受けて10名増えましたが。2022年のNFTブームのときは実は業務委託まで入れて70~80名まで増やしていた時期もあるんです。IPOを目指すのは今も変わりませんが、ブームも一服して今はサステイナブルなサイズにまで戻してますね。

  

■集英社マンガアートヘリテージプロジェクト、マンガを受け継がれていくべきアートに。

――:スタートバーンといえば、一番アイコニックなプロジェクトが集英社マンガヘリテージプロジェクトです。これはUTEC同様、BCGとかNFTブームに乗ったものではない?

違いますね、Web3ブームの文脈とは全く関係ありませんでした。藝大出身の集英社の方が、2008年から集英社内でマンガのデジタルアーカイブの仕組みを作ってきたんです。それをアートとしてブランディングすることで歴史に残していきたいと思った時に、我々のアートのブロックチェーン化と二次流通の仕組みなどに共感してくれて。2021年3月に「集英社マンガアートヘリテージ」のプロジェクトはローンチされました

その直後にBeepleがバズって(21年3月にデジタルアーティストBeepleの作品が約7千万ドルで売却された)、突然のNFTブームが始まるんです。我々も黎明期からブロックチェーンを手掛けていた企業ということで、突然フィーチャーが当たり始めました。

――:僕がお名前聞いたのもまさにその2021年夏ごろでした。NFT市場が3億ドル(2020)→230億ドル(2021)で突然100倍近くに膨らみ、2022年夏まで突然変異のようでした。

この2021~2022年は激動でしたね。もともとSBIオークションで弊社のブロックチェーン証明書発行サービスを公式に使ってもらってましたが(2019年4月~)、そこで日本初のNFTオークションセールしたり(2021年10月)、2020年10月には池田亮司と協業してNFT作品をサザビーズに出展したりとか。(2021年6月)。

――:マンガアートヘリテージはどのくらい売れるんですか?

2年半で1,500作品が販売されてます。毎月数作品~10作品とかを限定数で販売し、1つ1つにブロックチェーンでユニーク管理されています。その1つを20~50万円、時には100万円超で販売されています。

▲基本はデジタルスペースだが期間限定でこうしたスタートバーンの運営するギャラリーで集英社マンガヘリテージの展示販売も行っている

 

 

――:じゃあ年間数億円みたいなサイズなんですね!これってアートギャラリーとして考えると、どのくらいなんでしょうか?

日本トップクラスの実績になります。海外だと1千億円超のお化けギャラリーもありますが、日本の大半のギャラリーは年数億円なんて売れませんから。

――:じゃあアート界としてもすごい事例なんですね!?外国人が結構買っているんですか?

そうですね、もちろん世界各国の方が買われてます。2020年に東京オリンピックで来日した仏マクロン大統領がきたときにも、このワンピースの版画作品を送られていてマクロン自らツイートしてました。

面白いのは、買われる方々は、かならずしもいわゆるアートコレクターのように、大金持ちだけというわけでもないんです。普通のサラリーマンの方が、あのとき好きだったワンピースの名シーンを飾りたいからと初めて買うアートとしてこの作品を選んだという話を聞いてとても嬉しいと感じました。

このマンガアートヘリテージって実は集英社として初めての「越境EC」と「高価格帯商品」でもあるみたいです。これだけ知名度が高い少年ジャンプの作品やグッズでも、数十万円で売ったものはあまり例は多くないのではないでしょうか。

――:意外です。集英社としても画期的な事例なんですね。これは他の出版社でも展開したりするんですか?

すでにいままでも他の出版社の作品を取り扱われた例はあります。そもそも2年半で集英社でこれだけ実績出てますし、「マンガはアート作品になる」ということはすでに証明されたのではないでしょうか。

――:なんか・・・「浮ついて」ないですよね。NFTで一儲けしてやろう、とかそういう感じが一切しないというか。

このプロジェクトもそうですが、うちの他のどの事業もスタートがそもそも、「儲かるからNFTを使おう」じゃないですからね。NFTやブロックチェーン技術の誤解がバブルの時期にうまれた気がしていて、NFTは起爆剤にしたり儲けにいくものじゃないですよ。我々もDXという言葉を使ったり、NFTを全面に出さないこともあるくらい、もともといたファンベースや既存事業にどう接続するか、どう広げていくかというので、NFTってファンとつなぎ直す手段でしかないんですよ。デジタルにも唯一性(実存)を付加することでデジタル作品にもファンが愛着をもってくれるようにする、そしてその先で作品の価値が永続的に保証されていく。そういうものとして捉えています。

 

■ダヴィンチから劉備玄徳へ:「包容力」でアートインフラ企業への組織づくりの道

――:スタートバーンの事業としては全体はどう切り分けられるんですか?このマンガヘリテージが一番大きな事業なのですか?

最大ではないですが、大きな柱ですね。一番基礎になっているのが「アートの真正性を証明する」StartrailのようなBtoBのインフラ事業、そこに「マンガ作品の価値保証と直接売買ECサイト」としてのマンガヘリテージがあって、2つ目に「スポーツ・アートイベントのマーケティングツール」があります。既に大きな企業さんとの協業案件を複数やっていて、それらが大きくなってきています。

――:例えばどんなプロジェクトなんですか?

トヨタさんのメタバースプロジェクトとか、小田急電鉄さんとのアートフェスティバル事業とか、文化庁やプロ野球団体さん達とも実績がすでにあり、他にも複数の大きなプロジェクトが水面下で動いております。

――:組織の安定性を考えると「クリエイティブ企業の年商数億円」という、ところを越えられるかが課題だと思うんですよ。Cekaiさんもそこをするっと超えられて成功されていましたが。

そうですね。ようやく億単位の決算が出せるようになったところなので、もうひと頑張りですが、年商二桁億円も現実的な計画の範囲内になってきています。

――:ここまでの会社をつくって、施井さんの「自我」は満たされたんですか?また、一アーティストとしての実績も広げていきたいんですか?

いや、まだまだです笑。最近はもう「自分の作品作り」というのはほとんど出来てないです。下北沢でムーンアートフェスなどもやってますが、個人的には会社自体が作品のように時間も情熱もかけているものなので、このアートのインフラ事業としてのスタートバーンを大きく、インパクトのあるものにしていきたいですね。

――:前回施井さんと飲んだときにめちゃくちゃ面白いなと思ったことがあって。右脳と左脳でキャラも性格も違うって話されてたじゃないですか?

そうですね、僕は経営者やっているときの左脳状態のときはオープンで比較的いいヤツな感じなんですが、実は作品を作る右脳状態のときってものすごい不遜で傍若無人になるんです。あまり他人のことを考えなくなるというか。だからモノを作っているときには他人に会いたくないですね。

――:その脳の使い分けに、施井さんの天才性があるなと思いました。あと右脳キャラのときに口にブクブク、の話あったじゃないですか?

はい、もう一回言うの恥ずかしいんですが笑、右脳状態のときって集中しすぎて口元緩んでいるのか唾で出来た泡だらけになっている瞬間があるんですよ。ブクブクと。その話を中山さんが面白がって、『バガボンド』の宮本武蔵だって話をしてましたよね。

でも人間って何か制約があって、それ以外集中できないときのほうが色々創作意欲が爆発するんですよ。昔父親の会社で超繊細な半導体部品を調整しているとき、ものすごいモノを作りたくなるんです。単純作業だけやっているときが一番創作したくなる。

――:肉体的に他にすることがないってくらいの単純作業のほうが、思考が自由になりますよね。工場でアンパンに点つけるだけのバイトしているときが一番執筆意欲がわく、とか。

僕が特許発明にいたったのも飛行機の中でしたからね。肉体的に単純作業で強い制約をつくってしまうほうが、思考的には自由と開放を得られるのかもしれません。

――:でもそんな経営者/アーティストを使い分ける施井さんと共に、ずっと話聞いていただいている渡辺さんも三菱商事から転身されてきました。

施井:今ウチで一番売上上げてるのは彼女ですよ。僕がいなくてもプロジェクト進みますからね。弊社のキーパーソンですよ。

渡辺:私は三菱商事でコンシューマ系の部門にいてロシアにも1年いました。全然畑違いだったんですが、アートにもともと興味があって縁あって2年半前に入社しました。営業もそうですが、泰平さんのお世話も色々しております(変な意味はないです)。

――:お客さんからも話聞いていて、スタートバーンのこの組織づくりが面白さだなと思いました。渡辺さんが大組織の動き方とか投資の意思決定がわかっているから、非常に話が進めやすい、と。

渡辺:そうですよね、普段自分の会社では、アートの視点だとどうしてもプロジェクトとか作品単位とかで語ることが多くて。スタートアップの視点だと、意思決定にレイヤーはそんなにないですし。でも実際大企業でもあるクライアントが、得体の知れないNFTの事業をこの謎の金髪ビジネス担当とやろうと意思決定するには、企業としてどうリターンを求めて誰が決裁するかとかそれ相応のリスクが必要なのは痛いほどわかります。その意味では商社のときの経験が役に立ってますね。その辺よくわかってるよ〜ってお客さんに寄り添おうと心掛けてます。

――:施井さんも非常に顔が広いですよね。Cekaiの加藤さん達もそうですが、チームラボ猪子さんとか、落合陽一さんとか。

施井:猪子さんは2007年の展示でNYで一緒でしたし、落合くんは2013年の東大の大学院で年齢は下ですが学科では先輩でしたね。Rhizomatiksの真鍋さんはトークイベントでご一緒したのがきっかけだったり。そういった時に知り合って、交流があったりします。

渡辺:私がみるに、泰平さんってプライドが良い意味で低いんですよ。だからクリエイター同士のぶつかりみたいなことがなくて。欲も無いので、自分が目立とうという気持ちもなくて。本人は恥ずかしがって言わないと思うので私がかわりに言うんですが、UTECの郷治友孝さんには「施井さん、劉備っぽいよね」と言われていわれてるみたいです。包容力でいろんな才能を生かしているんです。

施井:僕は三國志読んでないのでよく知らないんですが笑。自分に才能がないので、才能ある人を動かす、というところには特化してますね。

 

――:「おいらはでっけえ袋だよ」ですよね!?絶対『蒼天航路』読むべきです。というかダヴィンチの割にずいぶん謙虚ですよね笑。

施井:以前、ギャラリストに泰平くんはダヴィンチ超えたねとも言われたんですよ。ダヴィンチってメディチ家にかわれてたじゃないですか。でもスタートバーンってパトロンがいるわけじゃなくて、むしろダヴィンチのような作家たちを支援するプラットフォームだと。だからむしろ目指すべきは現代版のサザビーズ&クリスティーズ※なんじゃないか、とも。
※サザビーズ(Sotherby`s)とクリスティーズ(Christie's):世界2大オークションハウス、それぞれ年商50億ドルを超えるFineArt取引を統括している。

――:施井さんの競合はむしろダヴィンチじゃなくて、「現代版オークションハウス」ですよね。もしくは「現代版劉備玄徳」か。あ、蜀はなくなっちゃうからダメか笑

会社情報

会社名
Re entertainment
設立
2021年7月
代表者
中山淳雄
直近業績
エンタメ社会学者の中山淳雄氏が海外&事業家&研究者として追求してきた経験をもとに“エンターテイメントの再現性追求”を支援するコンサルティング事業を展開している。
上場区分
未上場
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