【連載】中山淳雄の「推しもオタクもグローバル」第82回 異文化をHumanize(人間化)して理解する:現代に“平安"を蘇らせたい国際エグゼクティブ・プロデューサーBang Keiko (前編)

中山淳雄 エンタメ社会学者&Re entertainment社長
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Bang Keiko氏は世界を股にかける国際的なMediaプロデューサーであり、起業家でありインベンターでありビジネスパーソンでもある。日米ハーフとして1960年代の米国に生まれ、1970年代を日本で過ごし、1980年代の韓国・台湾・中国の経済/政治的展開を見ながら、1990年代にジャーナリストとして韓国、香港や日本で活躍。起業した自分の制作会社をもち、2000年代にはシンガポールから海外向けのアジアドキュメンタリーを数多く制作。K-POPの世界展開を支援するコンサルティングも行ってきた。戦艦大和や中国の鄭和提督、2004年インド洋津波に関わる国際的な映像プロジェクトにも関わりながら、今は日本に戻って日本のコンテンツを世界に拡げるパッションに燃えている。8ヶ国以上に居住し、26ヶ国で200以上の映像作品を作ってきたそのキャリアは豊富でかつ多彩だが、そこには常に「日本が置き去りにされてきたグローバルメディア史」があった。ドキュメンタリーや映画の世界からみて、今の日本がどう見えているのか。K-POPの海外展開成功史にも実行者として関わってきた彼女の目線からみる世界は、今の日本の映像メディアの世界が一番必要としているものかもしれない。今回は日本メディアとしては初めてのインタビューを行った。

  

 

■日本版ゲーム・オブ・スローンを作る。「平安」を蘇らせ、世界に冠するドラマを京都から

――:自己紹介からお願いいたします。

Bang Hagihara Keiko (バン・ハギハラ・ケイコ)と申します。日米のハーフで、米国メディアネットワークでジャーナリストとしてのキャリアをスタートさせてから、NHK・テレビ朝日・日本テレビ・Fuji TV ・TV Tokyoなど多くの日本のテレビ局とも仕事してきました。私が人生を費やしてやってきたことは主に2つに集約されます。「日本やアジアのコンテンツがその他の国々と遜色ない優れたものであることを説得し、放送・配信チャネルを開いていくこと」、そして「一見不可能に見える物事を、複数文化をバックグラウンドにした私の強みをもって実現すること」です。

――:Keikoさんは僕が今までお会いしたメディア関係者の中でも「国際メディア・プロデューサー」という呼称が一番ぴったりくる、空前絶後のキャリアをお持ちです。現在、大規模な実写ドラマのプロジェクトを動かそうとされてますよね。

『The HEIAN』 というプロジェクトをここ10年以上かけて準備を進めてきました。日本文化が芽生えたこの平安という時代を、同時に起こったいくつかの出来事で描こうと思っています。平安時代の宮廷が貴族たちのスキャンダルにまみれる中、腹黒い藤原道長が栄華の時代を築き、安倍晴明が陰陽道を取り仕切り(これなんか「ハリーポッター」を彷彿とさせませんか?魔法局のような)、日本的な考え方・価値観の萌芽がおこり(美の倫理が生まれ、もののあわれのような万物のはかなさを歌い)、豪奢で情熱ある職人たちの工芸にあふれていた時代です。

一方、奈良では仏教の寺社が権勢をふるい、仏僧たち自身も武装を行い、闘いを辞さない時代でもありました。東北の蝦夷(えみし)との闘いや平将門のような武家の興りもありましたし、瀬戸内海には藤原純友などの海賊が跋扈し朝廷に反旗の狼煙をあげていたんです。福岡の大宰府で色々な政治問題を抱えていて(密輸もあったし、大陸からの海賊の侵攻もあった)。これだけのことが平安時代に一気に起こっていたんです。今までそれらを大きなスケール的で描き出すことは予算の関係上難しかったと思いますが、京都以外にも奈良を始め、合わせて7か所をメインエリアとして制作したいと思います。

――:確かに戦国・江戸・明治ばかりがフォーカスされますが、実は平安時代の混迷期と国家創造期ってすごく魅力的かもしれませんね。ドラマになる材料がいっぱいありそうな。

しかも派手な武力闘争・権力闘争だけじゃなくて、現代にまで続くような精神性や文化史の芽生えもあったんですよ。宮廷の女性たちは読み書きを覚え、貴族社会の仲間入りをするために教養を身に着けていました。おそらく男性社会のなかで女性としての考えをしたためた(史実に残っている限りは)世界で最初のフェミニストは紫式部ですよね。源氏物語は今も中世女性文学の金字塔です。私自身はもっと強く惹かれるのが清少納言なんですが、ウィットに富んだファビュラスなセンスの持ち主で、「口惜しきもの」で一夜を共にしたあとに一言もなく朝方帰っていく朝帰り男子の話とか、1000年経っても私たちが味わっている話ですよね笑。まさに前近代のジェイン・オースティン(1775~1810、『エマ』の英国作家)ですよ。

――:もうストーリーや組み立ても考えているんですね。

完全に史実通りという形ではなく、これまでとは異なる視点で、実は斬新かつ先鋭的でエキサイティングな時代としてフィクション・ノンフィクション交えてドラマで描き直そうとしています。平将門と藤原道長のようなキャラクターをたてていこうと模索してます。どちらも善悪あいまった描かれ方をする2人ですが、特に平将門は魅力的に思います。恐ろしい所業を連ねた人物でもありますが、同時に明晰で多くの人に愛された民話も発見されています。当時武士文化の勃興の一端を担ったし、日本命運を決するような大きな意思決定を行ってます。彼らがスクリーンでどのように活躍できるのか、想像するだけで興奮が止まりません。

ただ、これだけのストーリーに日本だけの製作予算ではとても難しいだろうと思っており、当然ながら日本とハリウッドがパートナーとなったプロジェクトになるだろうと予想されます。今世界では「日本人とは何者か」を決定づけるようなビックストーリーを待ち望んでいるように私は感じています。

――:確かに来年はHulu『Shogun』がハリウッド作品として出ますし、まさに平安時代は『光る君へ』で大河ドラマが始まります。

日本人がどこからきたのか。なぜ日本人はこんな考えをするようになったのか。世界は日本固有の歴史文化への強いリスペクトがあり、日本人のオリジンについて世界中にメッセージできるものを創るタイミングだと感じています。ストーリーテリングって、別に歴史の教科書じゃないんです。この複雑かつ多様な世界を今の人たちでも理解できるエッジーでモダンアクション満載ドラマシリーズとして、他の世界的なプロデューサーが創るものと同クオリティで創れたら、と思ってます。

――:Keikoさんが今コンサルされているワーナーブラザースディスカバリー(WBD)にも秀作がありますよね。僕は『Game of Thrones(GOT)』※が好きなんですが、ああいったハリウッド超大作のようなものが見れるんじゃないかとワクワクしております。

ワーナーブラザーズディスカバリーはMAXというOTTプラットフォームをもっており(未だ日本ではリリースしておらず、彼らの番組は現在U-NEXTで配信中)、ドラマに関してはトップクラスです。それはGOTのみならず、『ザ・ソプラノズ 哀愁のマフィア』や『THE LAST OF US』などのヒットドラマを作ってきたことからも明らかです。

GOTはものすごい成功作でした。すでに10シーズンも続いており、米国ドラマでは史上最もお金をかけられたシリーズでもあります。今回の『The HEIAN』はそのGOTに比するストーリーレベルになると思います。もし予算が半分だったとしても、その内容だけでもGOTを越えるポテンシャルがあるものになると思います。

――:まだ構想段階とお聞きしてます。今どういうところがブレークスルーのポイントになりそうでしょうか?お金ですとか。

出資者自体は結構集まるんですよ。今、日本コンテンツに対する米国メディア企業の関心は強いですしね。主だった日本企業さんにもお声がけしていて、興味をもっていただいている会社さんも多いです。

それよりも私が気にしているのは、虚栄心やプライドを気にしすぎず、いかに客観的にこの国の最高のクリエイティブ・スキルを使って素晴らしいストーリーにするかということです。日本人からみても、このドラマはAuthentic(ホンモノ)であって、日本人の物語だと思えるものにしないといけない。Hulu『Shogun』(2024)が80億円をかけて制作を進めています。『SAYURI』(コロンビア、2005)や『Yasuke -ヤスケ-』(Netflix、2021)、『47 Ronin』 (Universal, 2013)などの日本に対する憧憬をもって海外の手で生み出された映画・ドラマは沢山ありますが、日本人にとって“Authentic"だと思えるものは少なかったのではないかと感じています。私は半分日本人の血が入っていますし、作品としてもビジネスとしても、日本がしっかり加わる、世界に冠するドラマシリーズを作りたいと思っているんです。

※Game of Thrones(GOT):米国ファンタジードラマ。中世ヨーロッパを時代背景にドラゴンや魔法が錯綜する世界で、2011~19年にかけてシーズン8、全73話が撮影された。1話1.5千万ドル(約23億円)という制作費は米国ドラマとしても破格であり、HBOのなかで最多視聴回数を誇り、全シリーズ通して59のプライムタイム・エミー賞を受賞(史上最多)。2015年に「世界で最も海賊版を生んだテレビドラマ」ギネス認定。

――:Keikoさんは今どちらにお住まいなんですか?

今は母親の介護の関係で住んでいるのはアメリカ・サンディエゴですが、そろそろ日本に居住をうつして本格的に取り組もうともしているところです。このあいだも中山さんの仲介で撮影場所としても有望な、京都市の方々にもお会いしてきました。その節はどうもありがとうございました。

――:いえいえ、中山も日本ドラマ制作の一端に関わりだしてその課題感も理解してきていますので(関連記事) 、Keikoさんのこの構想はとても面白いですし、ぜひやるべき案件だと思ってやっております。

はい、どうしても今までの座組ですと、日本のテレビキー局と制作会社だけで作る低額予算ドラマになってしまって、海外に持っていけるというものがほとんどありません。逆に世界的なOTTが出資するドラマは「彼らのもの」といった形で、数字も見れなければヒットしていたとしてもほとんどその恩恵にあずかることもない。

ちゃんとファイナンスするなら、米国映像作品クラスの出資を集めながらも、日本人のテイストと創造性が入り、経済圏として日本に還元されるようなグローバルな映像シリーズ作品が必要で、それは日本の大きなテレビ局だけでは難しい話だと思っています。

――:逆に日本のテレビ局だけではなぜ世界ヒットのドラマが創れないのでしょうか?予算があればできますか?

日本のテレビ局の友人から聞くと、世界的に日本メディアがプレゼンスを発揮するドラマが創りえなかった理由は4つあると言われました。1)ガラパゴスだから、2)村社会だから、3)手段がないから、4)歴史的な経緯から。そんなのナンセンスですよ。何それ!と叫んじゃいました笑。

勇気をもって、リスクをとって、失敗を恐れることなく前進し、韓国やスペインやイギリスがやってきたようなことをやればいいんです!怖がりすぎて失敗すらできない、そこがそもそもの間違いです。まず失敗すべきなんです。Good enoughなんて最初から望むことはできません。まずはとにかく全力をもってトライすること。

 

■World is my office。日・米・韓・台・中と世界中を行脚した中・高・大学時代

――:Keikoさんのヒストリーに非常に興味があります。

そうですね、長い話になりますが私の成り立ちでいうと父の話から始める必要があるかもしれません。父は日本人初のワシントンD.C.州弁護士でした。戦災を逃れるために鹿児島から宮崎に疎開し、戦後慶應大学法学部を出てからジョージ・ワシントンの大学に留学するんです。そこでアメリカ人の母と結婚し、1971年に米国の弁護士になりました。ライシャワー在日米国大使の通訳などもやっていたんですよ。J.F.ケネディとも握手したことがある、とよく自慢してます。

※エドウィン・ライシャワー(1910~90):宣教師の子供として日本で生まれ育ち、ハーバード大学で極東学会会長などを経て、1960~66年に在日駐米大使として日米パートナーシップに貢献。米国に戻っても長くハーバードの日本研究所所長として活躍した

――:Keikoさんは、いつごろ日本にこられたんですか?

私はアメリカで生まれましたが、8歳から中学生までは港区の麻布仙台坂で過ごしました。(こう見えて)わりと中学まではおとなしい少女だったんですが、ロサンゼルスの高校に入ってチアリーダー部に偶然入部したあたりから、性格が変わりましたね(笑)。生徒会に入って、デパートでアルバイトしてファッションアドバイザーみたいなをしながら、夏休みには近くのUCLA/Cal State LAで大学の単科授業をとっていました。16歳になると車が運転できるようになったので(LAは車がないと生活が成り立たない!)、そこからすごく自由に動いて、毎日忙しく過ごしてました。

――:今もKeikoさんとお仕事しているとそのエネルギッシュさにとてもインパクトを受けます。1970年代の大学生当時からすごい目立っていたでしょうね。勉強も良くできたんですか?

当時は日本の教育レベルが高くて、日本から来た私は米国でかなりよいスコアが取れたので勉強に集中する必要はなかったんです。人の話を聞いたり、情報吸収は早いほうだったと思います。将来は外交官になるか、国連で働きたいと思っていたので、スペイン語やフランス語、中国語や韓国語の勉強も始めてました。


▲高校時代のKeiko氏

 

――:日本と環境が違いすぎてチカチカします(笑)。高校時代に「達成したこと」って何かありますか?

私はとても反抗的だったし、自己主張も強かったから両親は大変だったと思いますよ。父がもっとおとなしい子なら良かったと言ったとき、「そんな“お嬢さん"が欲しいのなら、あのまま日本で育ててればよかったじゃないか!」と言い返していたくらいですから。

学生時代は学生自治会にも所属していて、早くから組織作りには興味を持っていましたね。ちょうど高校3年生のとき弁論大会のようなものがあって、カリフォルニア州サクラメントで「Girl's State(女性側)」(「Boy's State(男性側)」の対極にある特別な政治フォーラム)に高校の代表として参加することになりました。 模擬政党ごとに分かれ、“副知事"ポジションまで勝ち進んだんです。その後ワシントンD.C.で開催される全米大会ガールズ・ネーションに行く女性を2人選ぶのですが、私は選ばれませんでした。選考委員会のスポンサーのところに行って、なぜ私が選ばれなかったのかを尋ねると,「アジア人がノミネートされる可能性はあると思う?」と言われて。あまりにあからさまな差別で本当に悔しかったのですが、フォーラムの最後に私はカリフォルニア中の800人の代表たちから「最も優秀な市民」に選ばれました。 そのことは当時の私に強い自信を与えてくれただけでなく、他の賢くて強い女性たちを競争相手としてではなくむしろ味方としてもっと頼りにすること、女性でも信じられないようなことを一緒に成し遂げる並外れた能力があるんだ、ということを学びました。

――:1980年前後、日本が今の中国に比肩するくらいとんでもない勢いでしたし、まさに日米摩擦の真っ最中でしたよね。結構、日本人差別も強かった時代と聞きます。

私はどちらかというとアメリカ人に見られる風貌なのでそれほどひどい経験はないのですが、父がマイノリティとして米国でコミュニティに入っていったのでその影響は強かったかもしれません。父が最初に留学する奨学金を出してくれたのは、有名な黒人大学(Howard University)なんですよ。1960年代の東海岸って黒人もアジア人もいっしょくたに弱者なんです。でも父はルームメイトが韓国人で非常によくしてもらったこともあり、よく家に韓国の友達を呼んだりしていました。韓流ブーム以前、日本では韓国はほとんど注目されておりませんでしたが、私が昔から韓国に興味があって、後に韓国人と結婚したのもその影響が多分にあったと思います。


▲左から父親である萩原康弘氏、Keiko Bang氏、母親 Louise Hagihara

 

――:大学はどちらに行かれたんですか?

大学はマサチューセッツ州のスミス大学にいきました。当時は女子大が結構あって、Wellesley、Smith、Mount Holyokeとか※。その後ほとんどが共学化したり、総合大学に吸収されていくのですが。父がとても厳しくて、大学にいくと遊んじゃうと思われていたんですよ。親元のロサンゼルスか、遠くにいくなら女子大と言われて、それで遠方の女子大を選びます。

当時日本政治の専門家ってアメリカに5人ぐらいしかおらず、その一人がスミス大学のデニス・ヤストモという日系アメリカ人教授で、彼の下で日本政治を専攻しました。

そのつながりで1985年、当時民社党書記長だった大内啓伍さんのインターンにもなったことがありました。国会議事堂で働いてた外人は本当に少なかった時代で、とても特別な経験をさせてもらいました。政府が政策を法制化していくことがいかに複雑で大変なことかということもそこで学びました。徐々に私は政治以外の方法で世界を変えられないかと考えるようになります。

※Seven Sisters:米国の名門7女子大学を総称しており、創立順に、Mount Holyoke College(1837年)、Vassar College(1861年)、Wellesley College(1870年)、Smith College(1871年)、Radcliffe College(1879年)、Bryn Mawr College(1885年)、Barnard College(1889年)で構成され、Radcliffeはハーバード大学に吸収され、Vassarは共学化している。1837年のMount Holyokeができた段階で「アイビーリーグ」と呼ばれる米国名門大学が(1校除いて)すべて“男子校"だった時代からの名残。
※Dennis T. Yasumoto:東アジア研究の大家で、サンフランシスコ州立大学から早稲田、コロンビア大学でPhD。スミス大学やハンブルグ大学でも教壇に立つ。
※大内啓伍(1930~2016):日本の政治家、1953年に社会党に就職し、1976年から衆議院議員。

――:女性が生きづらい時代でしたよね。日本では男女雇用機会均等法ができたのが1986年、それまで女性は(それ以後もしばらく)結婚前のテンポラリーワーカー扱いでした。

父の関係で日本の国際法律事務所でインターンもしていたことがあるんです。当時は東大法学部を出た優秀な女性弁護士の方がサクッと“結婚退職"してしまう社会が衝撃でした。「何てもったいないことを!」と言ったら「ここで退職しないと一生誰も結婚してくれない。一人でずっとやっていかないといけないのよ」と言われました。なぜ結婚とキャリアの両方はとれないんですか?と思いましたね。確かに40代女性で働いている人は皆独身でした。当時は「男(のように)になるか、仕事を辞めて母になるか」の二択しかなかったんですよね。頭のいい女性は、可愛くニコニコ黙っていなさいと言われていた時代でした。

――:大学時代まででも米国東海岸(ワシントンDC)⇒日本(港区)⇒米国西海岸(ロサンゼルス)⇒米国東海岸(マサチューセッツ)ですね。すごく移動されてますね。アジアにも留学されてましたよね。

数か月間韓国に行って韓国語や韓国の歴史を学んだあとに、台湾に1年留学しました。中国語を覚えたかったんですが、白人向けクラスだと1,2,3を漢字で数えるところからのスタートで。これじゃ埒が明かないと思って日本語で教えるクラスに入ったんですが、今度は難しすぎて大変でした。日本人って漢字が分かるので、それだけで白人が2年間かけて学んだ中国語くらいのレベルになってるんですよね。2カ月くらい昼夜問わずに猛勉強したら、そのちょっとした中国語のトーンの違いが分かるようになりました。

当時の台湾は日本人の駐在・留学生も多くて、(めったにやらないことなんですが)私が夜のバーで踊ってたら、翌朝日本にいる父から猛烈な勢いで電話がかかってきたことがありました。誰かが「昨日台北で萩原さんの娘さんが踊ってましたよ」と“密告"したようで、すぐにアメリカに戻って来いと父もカンカンでした。

――:What a small world(世界は狭い)ですね、台湾で踊ってたら日本の父に怒られるとか(笑)。台湾時代から学生でしたけど、中国でお仕事もされてますよね?

その台湾留学時代に、ちょうど鄧小平が深圳を海外に開放するというタイミングがあったんです。オリンピックの招致をする韓国に対して中国はずいぶん遅れていて、「深圳を世界の窓にする」といって。フジテレビ本社からタレント・リポーターのお仕事をいただいて、深圳にも行きました。1985年のことです。

本当に何もない漁村の時代で、共産主義の施設のなかに海外メディアとしては黎明期に立ち入ることができました。当時は外国人自体がめずらしく、“高価で一番大事なモノ"としてコカ・コーラを出してくれるんです。子供たちが飲みたそうにこっちを見ていて。そこに調理した鶏ガラのスープが出てくるんですが、血も混じっていて。すぐ隣で鳥をその場で殺してスープにしていたんですよね。中国がまだ「第三世界」だった時代です。私は、中国の改革開放黎明期に立ち会い、そのずっとあとの香港に住んだ時は中国経済の勃興と人々の生活の急激な変化を目の当たりにしました。まさかこんなに発展するとは想像もできませんでした。

 

■ABC・CNN・CNBC特派員、結婚・出産で韓国の「家庭に入る」大変さ。起業して母子シンガポール移住

――:大学を卒業するころにどうキャリアをスタートさせるんですか?

1987年になってアジアについてはだいぶ理解してきた反面、欧州については何も知らないということに気づいてロンドン国際法律事務所でインターンの仕事に就いたんです。その後パリに行き、ロシアにも寄って、最後に日本に戻ってこようと計画してましたが、ロンドンで出会ったのが今の韓国人の夫です。金融関係の仕事をしていて、韓国の「両班」(李氏朝鮮時代の支配階級、日本で言う貴族のようなもの)出身の家庭だったので、厳しい親族の手前、アジアの血が入ってる私のようなタイプがよかったんだと思います。求婚されて、韓国で結婚しました。

――:かなりご結婚も早かったですね!韓国の「家庭に入る」というのはどういう感じなんでしょうか?米国育ちのKeikoさんにとってはアジアの家庭の保守性は大変だったのではないでしょうか?

義母がまた面白い人で、日本植民地時代に東京医科大学に進学し、(おそらくは)韓国で多分最初の女医になった人だったんです。日本語が話せるだけでなく、純粋に日本が好きで、私の働きたいという気持ちを深く理解してくれて、とても協力的でした。逆に大変だったのは、お姉さんたち(小姑)です。私の振る舞いに儒教精神が足りない、と(笑)。

その時はCNNの仕事をはじめていて、第13代の盧泰愚(ノテウ)大統領のインタビューでヘトヘトになって帰ってきた後に、(そのことを知りながら)キッチンで大量のニンニクを刻めと命令するんです。どっちが家族内で権力をもっているかを示すためにわざとやってるんですよね。今となってはとても仲が良くて、時間があったら楽しく付き合うようになりましたが。彼女たち生まれ変わったら、姉妹ともどこかの大会社の社長でもやっているんじゃないかってくらいの気性のお二人でした(笑)。その後東京に移住します。

――:そこからがメディア人としての正式なキャリアスタートなんですね!

1990年から1992年まで、独裁政権から民主政権への移行期にCNNのソウル支局でレポーターをしていました。 暴力的なデモに行き、催涙スプレーをかわし、韓国人クルーがデモ隊に殴られることもありました。彼らは「自由」を渇望し、切望しており、 怒り・動揺・フラストレーションの時代でした。 特に、後に大統領になった金大中と話すのは楽しかったです。 彼は政治に関係なく真の愛国者でした。 今、韓国ドラマを見ると、復讐の物語や怒りの爆発に、韓国が今日あるためにどれだけ苦しまなければならなかったかを垣間見ることができます。

※金大中(1924-2009):第15代韓国大統領、1998~2003の在任時代に現在の「クールコリア」の最初のきっかけを作った大統領としても知られる。

――:1992年まで韓国で働き、その後東京と香港に引っ越しをされてますね。

私はNHKでしばらく働いた後、1992年から東京のABCニュースのプロデューサーになり、その後1993年から香港のアジアン・ビジネス・ニュース(現CNBCアジア)の最初の特派員として採用されました。香港がイギリスの植民地であったこと、そして中国に返還されたことは、とても素晴らしい経験でした。 ただし、その時の香港の地元の人々の恐怖は強烈なものでした。 富裕層は逃げ出してしまいましたし、残された人々は取り乱しました。

1990年代の香港はゴールドラッシュだったんです。 投資家、銀行、多国籍企業がこぞって香港に飛び込んできました。 中国の台頭により、多くの資金がこの地域に流れ込んでいました。 パキスタンの大統領や台湾の外務大臣、インテル社長アンドリュー・グローブ(インテル第3の社員)など、政府首脳やCEOに定期的にインタビューする機会にも恵まれました。

でも正直なところ、金融ニュースは私の興味のある分野ではなかったんです。 デリバティブについてのニュースを作ろうとすることを想像できますか? どんな画像を使えばいいんだ、と戸惑いました笑。それに何より、ニュースは1日経てば忘れ去られてしまいます。ネットワーク全体の戦略を思い描くのが好きなのとは反対に、私はカメラに映るのがとても嫌でした。一時で忘れされられるニュースよりも永遠に残るようなもの、多くの人の考え方に深い影響を与えるような意味のあるものを作りたい、という意欲がふつふつと湧いていました。それで1995年に自分の映像制作会社としてバング・プロダクションズ(後のバング・シンガポール)を設立することになったのです。

――:子供も生まれたばかりなのに、よく起業しましたね!?

こんなに多くのものを犠牲にしなければならない険しい道だとは思いませんでした(笑)。私はずっと画面の中のリポーターをしていましたが、どちらかというとプロデューサーになりたかったんです。起業家として利益を追求する立場は、最高のストーリーを伝えたいという私のクリエイティブ面と常に対立していました。 スタートアップ企業としては、とてもタフだったのを覚えています。最初はアメリカのビーチバレーゲームの日本語吹き替えなどをやって、 最終的にはアジア各国のストーリーに焦点を当てた『リビング・アジア』というシリーズのパイロット版に投資をしました。 その番組はその後ディスカバリー・チャンネルからアジア初のオリジナル作品として13部作の制作を依頼されるようになりました。 それがディスカバリー(現在のWBD)と現在に至るまでの関係の始まりです。

――:そのあとも日本のメディアとも海外の仕事されてますね。

香港で独立してからは、日本のテレビ局の番組のディレクターもやっていました。そうそう、日本テレビの「ズームイン!!朝!」香港支局ディレクターをやっていたんですよ。

――:僕も小中学生時代で、とても懐かしい番組です。「ウィッキーさんのワンポイント英会話」(1979~1994)でスリランカ人のウィッキーさんのコーナーをいつも見てましたよ。

その頃、東京での編集会議のために香港から日本に出張することがありました。 日本全国から100人ものディレクターが集まる会場を見渡すと、外国人は私一人。女性としても私一人だったんです。個人的に香港について面白いと思ったアイデアを編集委員会にたくさん提案していったんですが、ほとんどが却下されてしまいましたね。日本人のように考えられるか、という点で自分自身の限界を試された貴重な経験でした。

それだけに、1996年のアトランタ五輪でウィンドサーフィンのチャンピオンになったライ・シャン・リーの「最初で最後の香港オリンピアン」を取材して、ついに(社内で)「ベスト・オブ・ズームイン賞」を受賞したときは感激しました。日本語で伝え、それが日本の皆さんの心にも響いたんだ、と思えて。 その時のトロフィー、今でも持っていますよ!

――:もうインタビューして聞いていても、Keikoさんの移動速度と場所が変わりすぎてどこで何をしているのか、時系列が追えなくなります(笑)。

結婚後、1990年に娘を出産してます。そこから2002年までの日本・香港は夫婦で共同赴任していたんですが、2003年に娘と2人でシンガポールに引っ越しています。私はシンガポールでしか制作できない英語の外資系放送局との制作契約が多く、彼は韓国で外資系企業の社長代理としてキャリアを追求している時期だったので、妥協せざるを得ませんでしたが、ほぼ毎日のように話をし、国を行き来することも多かったのでずっと離れ離れだったという感じではないんです。私はその後娘が高校を卒業する2012年に、再び韓国に引っ越しています。

娘には一番辛かったでしょうね。働く母親はいつも子供に対して罪悪感を抱いているものです。責任ある親として、何かあったときのために常に子どものそばにいなければならない。子どもにとって、家族と過ごす時間ほど安心と信頼を感じられる瞬間はありません。夫も私も仕事人間でした。あの時代、あの業界に生まれた世代ならではの家族の時間を育むことができなかったことを、今でも悔やんでいます。

――:娘さんはどんなことをされてるんですか?

彼女は香港とシンガポールで子供時代を過ごし、インターナショナルスクールに通っていました。 夏休みの度に、「人生経験」をさせるためにいろいろな国に行かせましたね。 ペルーのアンデス・インディアンの家、セネガルのアフリカの部族の家にホームステイしたり、ある夏にはオックスフォードに行ったり、またある夏には森の中で生活することを学ぶアウトドアキャンプに行かせたりしていました。今はサンフランシスコで看護師をしていて、ホームレス・中毒患者・高齢者など、助けを必要としている人々のお世話をしています。 彼女が弱者に対して持っている共感力は、親として誇りに思いますね。 2人ともグルメで旅行好きなので、時間があれば今も一緒にプチ旅行に出かけていますね。

 

■韓国K-POPの黎明を開いた女傑Miky Leeとの邂逅、韓国コンテンツの米国展開を学ぶ

――:Keikoさんは韓国との縁が深く、エンタメのCJENMを統括されているMie Kyung Leeさんのコンサルタントもされてますよね。どういったところからつながったかを聞いてもよいですか?

韓流ブームは韓国人の優れた才能によって実現してますが、その源流をたどるとこの方にたどり着くんです。Mikyさんです。私は1995年に彼女にインタビューする機会があり、それがきっかけで友人になりました。一緒に仕事をするようになったのはそれからしばらく経ってからなのですが、彼女の韓流に対して見せてきたひたむきな姿、想像しがたいほどの情熱は、今も私にインスピレーションを与えてくれている原点です。今私が日本のブランドを再燃させ、世界市場へ拡大させようとするときに、いつも思い出すのは彼女の背中です。

※Mie Kyung Lee李美敬(1958~):CJグループ副会長。サムスンは創業者の李秉喆(イ・ビョンチョル:1910-1987)氏が亡くなってから、事業分割となり、長男李猛熙(イ・メンヒ:1931-2015)氏の妻・長男が食品事業を、三男の李健熙(イ・ゴンヒ:1942-2020)氏がサムスン電子で半導体を継いでいく。この三男が1993年に「妻と子以外はすべて変えよう」のスローガンを掲げて、サムスンの「新経営」を成功させていった人でもある。Miky氏は長男李猛熙の娘としてソウル大学(1981)から台湾国立大学(1983)を経て慶應(1984)に学び、その後ハーバードMBA大学院(1986)に留学。米国のエンタメ産業に強い関心を持っていたK-POP海外展開の源流を創った人でもある。

――:そのMiky Leeさんこそ、DreamWorksへの出資をCJとして決められた方ですよね。日本もソニーがコロンビア買収(1989年)、パナソニックがAMCユニバーサル買収(1990年)、東芝・伊藤忠がタイム・ワーナー(1991年)に出資と、一気呵成にハリウッド展開を進めていた時代です。

アメリカの雑誌『タイム』に、スティーブン・スピルバーグ、ジェフリー・カッツェンバーグ、サムスンのCEO、そしてMikyさんが夕食を共にしたことが報じられたことがありました。 スピルバーグは後に、この会談についてこう語っています。「 2時間のディナーの間に、"半導体 "という言葉が20回も出てきた。"半導体に夢中になっている人が映画を理解できるわけがない "と思った(笑)」と。

実はサムスンはその時には投資を断り、MikyさんとCJ社長だった弟がその後になって3億ドルを出資し、ドリームワークスの32%を取得したんです。当時、韓国のマスコミからはリスクの高い投資だと批判されていました。今にして思えば、もしあのときにMikyさんが不屈の献身と愛国心をもってあれほど大きな決断をしていなかったら、韓流ドラマやK-POPの今日の姿はなかったと言えます。一国のクリエイティブ・セクターの成功を、一人の人物の功績とすることってあまりないと思うのですが、Mikyさんに関していえばそこに誇張はないです。

※Steven Spielberg(1946~):言わずと知れた米国ハリウッドを世界的なものにした映画監督、Dreamworks創業者。『ジョーズ』『インディー・ジョーンズ』『ジュラシックパーク』など。
※Jeffrey Katzenberg(1950~):パラマウント入社後、マイケル・アイズナーとともにディズニー再建に最高経営責任者として盛り立て、一時は後継者とうたわれたが反目し、1994年にスピルバーグ、ゲフィンらとともにDreamworks創業。『美女と野獣』『アラジン』『ライオンキング』などを生み出した。

――:時代を動かした英断でしたね。同じ案件をパナソニックの当時森下社長に2億ドル出資案件として“お土産"で持っていったのがAMC会長のワッサーマンでした。パナソニックは検討にすら入らなかったと聞いています。

その後のDreamworksの成功はご存じの通りです。CJはあの投資からアメリカ映画の配給、マーケティング、製作について学んだんです。 Mikyさんは韓国の俳優やミュージシャンの才能を知ってもらうために、多くの時間と資源を費やしていました。それが韓流がアメリカのみならず世界中でブレイクできた圧倒的な理由なのだと私は思います。今日では、彼女はハリウッドで最もパワフルなアジア人とみなされています。

 

<後編に続く>

【連載】中山淳雄の「推しもオタクもグローバル」第83回 異文化をHumanize(人間化)して理解する:現代に“平安”を蘇らせたい国際エグゼクティブ・プロデューサーBang Keiko (後編)
https://gamebiz.jp/news/380287

 

会社情報

会社名
Re entertainment
設立
2021年7月
代表者
中山淳雄
直近業績
エンタメ社会学者の中山淳雄氏が海外&事業家&研究者として追求してきた経験をもとに“エンターテイメントの再現性追求”を支援するコンサルティング事業を展開している。
上場区分
未上場
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