【連載】中山淳雄の「推しもオタクもグローバル」第83回 異文化をHumanize(人間化)して理解する:現代に“平安”を蘇らせたい国際エグゼクティブ・プロデューサーBang Keiko (後編)

中山淳雄 エンタメ社会学者&Re entertainment社長
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Bang Keiko氏は世界を股にかける国際的なMediaプロデューサーであり、起業家でありインベンターでありビジネスパーソンでもある。日米ハーフとして1960年代の米国に生まれ、1970年代を日本で過ごし、1980年代の韓国・台湾・中国の経済/政治的展開を見ながら、1990年代にジャーナリストとして韓国、香港や日本で活躍。起業した自分の制作会社をもち、2000年代にはシンガポールから海外向けのアジアドキュメンタリーを数多く制作。

K-POPの世界展開を支援するコンサルティングも行ってきた。戦艦大和や中国の鄭和提督、2004年インド洋津波に関わる国際的な映像プロジェクトにも関わりながら、今は日本に戻って日本のコンテンツを世界に拡げるパッションに燃えている。8ヶ国以上に居住し、26ヶ国で200以上の映像作品を作ってきたそのキャリアは豊富でかつ多彩だが、そこには常に「日本が置き去りにされてきたグローバルメディア史」があった。

ドキュメンタリーや映画の世界からみて、今の日本がどう見えているのか。K-POPの海外展開成功史にも実行者として関わってきた彼女の目線からみる世界は、今の日本の映像メディアの世界が一番必要としているものかもしれない。今回は日本メディアとしては初めてのインタビューを行った(前編はこちら)。

  



 

■戦艦大和/チベット/東日本大震災、世界をまたにかける映像作品で賞総ナメ

――:2000年代にシンガポールではどんなお仕事をされていたんですか?、

政府とのつながりが深かったですね。メディア産業拡大のため、シンガポール・メディア開発庁と多くのプロジェクトを進めていきました。一緒に番組制作をして、シンガポールだけでなく東南アジア全域のエコシステムをつくろうとしたんです。作った番組を通じて米国のナショナル・ジオグラフィック、フランス・テレビ、ドイツのZDF、日本のNHKなど多くの放送局とも仕事をしてきました。

バン・メディアとしても2006年には、業界誌『REALSCREEN』が選ぶ「世界のドキュメンタリー・プロダクション・ハウスTOP100」にアジアで初めて独立系プロダクションとして選ばれたんです。2000年代後半になってくると、ディスカバリー・チャンネル・アジアのオリジナル・コンテンツの約60%を制作するまでになっていきました。メディア企業のM&Aやパートナーシップ、広告にも携わるようになりました。収益を上げるために配信にも力を入れて、最終的には番組の販売先は世界中で100カ国以上にもなったんです。

――:2000~2010年代に残されてきた映像作品についてもお伺いしていきたいです。2004年「戦艦大和の秘密」をテレビ朝日と共同制作されていますよね。

そうですね、後にテレビ朝日の社長になる方とプロデュースしました。これはなかなかスゴいプロジェクトで、ずっと政府が秘密にしていた話なんですよ。遂に解禁となったので鹿児島湾沖の与那国島近くで海底350メートルに沈んでいる戦艦「大和」をカメラに収めようとフランスの水中撮影技術者を呼んで、潜りました。テレビ朝日は彼らの独自のドキュメンタリー番組として撮影していたんですが、広島県呉市で生存者やその映像を紹介してくれました。

私が作った番組のほうは『Sinking the Supership』 (米PBS) や『Mysteries of the Battleship Yamato』 (米Discovery、独ZDF)となって残っています。この番組は世界50カ国に販売されるような映像となったんです。PBSってアメリカメリカの公共放送なんですが、アメリカで教育向けに最も優れたサイエンス番組NOVA をやっている局です。

私はいかに戦争を「Japan side of the story(日本側の物語)」で語っていくか、を重視して撮影したんです。米国で日本側視点でのストーリーで語られることなく、"邪悪な日本軍人"と見られやすかったんですよね。生き残った人たちの持っていた躊躇や後悔、犠牲や反戦的精神を伝えることが日本兵士の人間的な部分を伝えるのに非常に重要でした。『硫黄島の手紙』(2006)の前に、初めて出た日本海軍生存者に迫ったストーリーだったと言えるかもしれません

実は我々が撮影したあとに『タイタニック』のジェームス・キャメロン監督からも撮影したいという問い合わせがあったみたいなんですよね。もうすでに収録済ですよといったら悔しがっていたと聞きます。


PBSの戦艦大和ドキュメンタリー記事

 

※日本の日テレ・フジなど地上波キー局にあたるのが、米国ABC(1996年ディズニーに買収される)、CNBC擁するNBC、CBSの3社である。こうしたニュース番組の先鞭をつけたのが1980年にテッド・ターナーが開局したCNNであり、1996年にタイム・ワーナーが買収。PBS(Public Broadcasting Service)は米国349の会員数を有する非営利・公共放送ネットワーク、NHKやBBCのように視聴者に受信料を求めない代わりに政府補助金や財団支援で運営されている。日本では『セサミストリート』の放送局として有名。

――:ほかにも「これは自分にしかできなかった」といった記憶に残るプロジェクトはどんなものがありますか?

『戦艦大和』も素晴らしかったんですが、一番忘れられないのは「Guge」ですかね。 2006年に制作した『チベットの失われた王国』という番組です。Gugeというチベットの失われた文明の遺跡を撮影しました。10世紀から17世紀にかけてチベット仏教のメッカとして栄えた場所なのですが、インドのラダックから来た弟とGugeの王様の間での兄弟の諍いが原因となって戦争が起こり、荒廃が進んでしまった地域です。

ラサから車で7日かかって、当時はほとんど人が足を踏み入れたこともない場所になってしまっていました。櫛とか矢とか骸骨が地面にそのまま落ちているような状況で、数百年間まったく手つかずのままだったんです。チベット人とアメリカ人の考古学者を現地に招きながら、わざわざ広州から巨大なクレーンと10人の操縦チームを呼び寄せて、山奥の遺跡全体を俯瞰した映像をとったんです。今だったらドローンでできるのですが、当時はとんでもないお金がかかりました。

このプロジェクトで私が学んだのは、NOという言葉にどう対処するかということでした。チベットはデリケートな場所なので、最初は中国政府から撮影許可が下りなかったのですが、2年間粘ってようやく、さすがに昔のことだからと、宗教施設以外の場所だけ許可を得ることができたんです。取材対象者ひとりひとりから「イエス」を引き出すために毎日が戦いでした。誠意と知性をもって彼らを説得しないと、関係者全員が何を望んで、何を恐れているのかを理解しないと、なかなか協力が得られなかったんです。

それでも本当にやってよかったと思うのは、その映像が今チベットの学校で教材として使われているんです。後日、あるチベット人から「学校でバンさん撮ったドキュメンタリーを見ましたよ! 歴史の教材に使われています」と教えてくれたんです。あのプロジェクトに費やした苦労は、その瞬間に報われたと思いましたね。

――:東日本大震災・津波のあとも日本で撮影されてますよね?

そうです。2011年の内閣府のプロジェクトで、電通からの依頼で3.11の津波からの復興をテーマにした映像を作りました。渡辺謙さんに出演してもらおうということで、ディスカバリー・アジアとNHKに企画を提案し、多くの企業を巻き込んだ大規模なプロジェクトが実現しました。私はジャッキー・チェンやジョン・ウーなど、多くの著名なドキュメンタリー映画監督と仕事をした経験があったのですが、その経験を持ってしても日本の芸能事務所を説得してタレントを起用することは難しいと思っていました。幸いなことに、渡辺謙さんには当時ハリウッドに弁護士がいたので、彼を通じて説得してもらいました。

渡辺謙さんが津波災害の現場でとても深い情熱を持っていたのがとても印象的でした。 彼自身は絶望的な現場でも大義を広めるためにどんなことでもしようとしていました。ただ私が彼に英語のフレーズを何度も繰り返しをさせていたので、だいぶイライラさせてしまったんじゃないかと思います。 私もこの番組と渡辺謙さんの成功を賭けていたので、だいぶ粘って色々なお願いをしてしまいました。 この映画はディスカバリー・チャンネルで上映されたほか、2012年にはダボスで開催された世界経済フォーラムの劇場でも上映されました。

――:3.11のストーリーもこうやって人と人とのつながりで、海外メディアにコネクトされていくんですね。

3.11にまつわるプロジェクトは他にもいくつか走らせていて、もう一つ感動した共同制作プロジェクトの一つに、総務省が行ったASD(Asian Side of the Dog)東京イベントがありました。総務省はこの中の東北プロジェクトも応援してくれて、新潟テレビ、福島テレビ、宮城テレビなど10もの日本の地方局と、カナダ、米国、ケニヤ、スペインなど10カ国のテレビ局との共同制作を推進して、多くの海外のドキュメンタリー賞を受賞しました。

仙台宮城放送テレビの報道局のトップは津波のときに何が起こったか、ジャーナリストたちがいかに勇敢にそれを報道し続けたかといったストーリーを教えてくれました。この映像は共同制作をしたドイツの制作会社Authenticを通して何ヶ国でも放送され、ドイツでも受賞をしています。

フランスでも素晴らしい話がありました。1960年代にウィルスで牡蠣産業が大ダメージを受けた時に、日本の三陸地方の漁業者たちが支援のために耐性のある日本の牡蠣を送ったことがあったようなんです。今度は東日本大震災で三陸の牡蠣業界が大ダメージを負った時に、フランスが50年前の恩に報いるために支援に入ったんです。今もその話を思い出すと涙ぐんでしまいます。この映像もフランスでルイ・ヴィトンの協賛をつけながら大きなヒットとなりました。

――:2010年代はアジアのドキュメンタリー協会をまとめあげるようなお仕事もされてましたよね。

どこのプロジェクトも、成功させるには政府、民間企業、メディアが一緒になって協力しなければならないと思います。Sunny Side of the Doc(ドキュメンタリーの明るい日の下)」という6000名強が所属するドキュメンタリー団体があるんですが、そのアジア版として初めてドキュメンタリー・フォーラムを作りました。

「Asia Side of the Doc(ASD)」として毎回数百名のメディア・プロダクションが集まるイベントを、ソウル(2011)、東京(2012)、マレーシア(2013)と主催をしました。「We can build an entire industry(我々は産業をつくれる)」という感じで、かなり精力的にやっていましたよ。マレーシアの時には43か国から550名もの業界人が集まりました。

会議を成功させるために重要だったのは、クリエイティブ・エコノミーの政策を担当する政府代表、民間企業のスポンサー、そして本質的にコンテンツの中心的な買い手であるメディアの代表が一堂に会し、さまざまな企業や国のプロデューサーと話をする機会を開いたことです。実際にそのカンファレンスをきっかけに33作品も共同制作で作られていったんです。その後ASDをきっかけに、多くのドキュメンタリー・フォーラムが生まれていきました。

――:ASDってマレーシアでハリウッド女優のミシェル・ヨーさんをお呼びしたものですよね?

ミシェル・ヨーさんとは『Final Recipe』(2013)の映画制作でご一緒しました。私自身がExecutive Producerとして関わっておりましたので。彼女もドキュメンタリーが好きだったんですよね。ナショナル・ジオグラフィックのドキュメンタリーで最も売れた作品の一つはミシェル・ヨーとサバ州のオラウータンの映像ですよ。

ミシェルは実際にマレーシアのASDを救ってくれたんです。 実は当時政治的な混乱が多く、イベントのサポートがなくなるのではないか、という状態にもあったんです。そこでミシェルと彼女の家族に連絡を取ったところ、親切に助けてくれて、必要なものはすべて手に入れることができました。オープニングの夜にはミシェルも来てくれて、みんな驚いていました。今日に至るまで、マレーシア政府はこの会議について、「国内で開催された国際的なイベントの中で最も成功したもののひとつだった」と言ってくれています。


▲ASD会場にて。真ん中がミシェル・ヨー氏、右端がKeiko Bang氏

 

※Michelle Yeoh(1962~):香港・ハリウッド女優、中華系マレーシア人として生まれ育ち、1984年ジャッキー・チェンとのCM共演で芸能デビュー。1997年『007 トゥモロー・ネバー・ダイ』でハリウッド進出、『グリーン・デスティニー』『クレイジー・リッチ!』などを経て2022年『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』ではアカデミー賞主演女優賞を受賞。

――:だんだんテレビ映像プロデューサーから映画やイベントプロデュースなど仕事が多岐にわたってきていますね。

この時期から映画やAR/VR、データアナリティクス、ファンダムづくり、そしてK-POPのミュージックビデオやコンサートの仕事に入っていくようになりました。

2018年にインドに行って最初の韓国ウェーブの火付け役にもなったコンサートもプロデュースしました。それをきっかけにその後、数百本のドラマや映画を売っていくことになります。インドの放送局には「我々はボリウッドしか興味ないから」と散々否定されましたが、データでいかに韓国コンテンツを視聴しているインド人が多いかを見せました。最終的にはそのコンサートをきっかけに7500万人も視聴されるようなバイラルウエーブが起こせました。

2020年にはコロナ禍でもUNESCOと一緒に作った子供たちの注意喚起をするようなK-POPビデオも撮ったんです(関連) 、それは世界各国の放送電波にのって最終的に20億人にリーチしました。名誉あることに「Shorty Awards for Good (ネット動画のアカデミー賞)」に4部門ノミネートもされまして、Best Dance and Music Silver Awardを取りました。人生の物語のようなものです。良いことは、真なる善の努力によってもたらされるのです。

 

■もはや韓国ばかりを見るな。日本はすでに勝ってきた

――:2000~10年代は様々な映像作品を仕上げられています。ただご自分のプロダクションの企業ということで財務的に盤石な仕事ってどのように作られたんですか?

世界中のテレビのゴールデンタイムに放映されるようなハイレベルで質の高い番組を制作するのには、やっぱりお金がかかるんです。途中から私の仕事は、あらゆるところから資金をかき集めてプロジェクトを立ち上げるようなものに変貌していきます。そうすると必然的に政府や企業のハイレベルなプロジェクトを担当するようになるんです。

マッキンゼー・アンド・カンパニーとは、中国の張作霖(チャン・ツェミン)首相に贈る中国の都市化に関する大型映画の制作を手掛けて、国連とは2004年のインド洋大津波後のアチェやその他の地域の再建のプロジェクトを進めていきました。他にもアジア太平洋放送連合のアドバイザーを務めたり、アジア太平洋地域の多くのメディア企業のCEOと仲良くなって幾つも共同制作プロジェクトを立ち上げていくんです。

――:もう作り手というよりはプロデューサー、そしてメディア経営者のような仕事になっていくのですね。

そうなんです。日本企業と一緒に、CNNやCNBCアジア、BBCなどの国際的なチャンネルでコーポレート・メッセージを伝えていく映像制作の仕事などもはじめます。 パナソニック、SONY、NEC、三菱、森ビルなど名だたる日本大手企業や、JNTO、首相官邸、総局、農水省など政府・官公庁と共同制作した映像は、最終的に50本以上にもなっていきました。

本社のビジョンと世界各国のチームとの間には大きな隔たりがあるなと感じることも多々ありました。ある会社でコーポレートビデオをエンジニアリング・マニュアルのようなものにしたいという要望があったことがありました。私は、もっとダイナミックな映像にするよう主張して、"We make the impossible possible"(不可能を可能にする)“というスローガンを提案したんです。でもその反応は予想外で、「こんなこと、とてもじゃないけど言えないよ!」と。

世界的にはこのくらい大胆な主張をしていかないと、本当にすごいものは作れない、と議論を重ねて、最終的にはその形になりました。数週間後その会社から連絡があって、グローバル・サミットでそのビデオを流したら、世界中の従業員からスタンディング・オベーションを受けたというのです。こんなことは初めてだ!と喜ばれてました。 第三者だからこそ大胆な提案ができる、という側面もありますよね。

ただ一点、残念なこともありました。当時、定期的に日本を訪れ、メディア各社に仕事を依頼していたのですが、いつも「グローバル市場向けのコンテンツ制作には興味がない」と一蹴されていました。結局東南アジア・中国・韓国を中心に活動して、そうした日本の内向き志向が変わってきたのってホントここ数年の話なんです。

――:その後も韓国とのつながりはどうだったんですか?

韓国とのつながりはその後もずっとありました。2007年から2011年にディスカバリーチャンネルと一緒に「Hip Korea:かっこいい韓国」と言う3時間シリーズをつくり、K-PopのRainや、俳優のイ・ビョンホン、金メダリストアイススケーターのキム・ヨナ」にスポットを当てました(海外はディスカバリー、日本ではNHKで放映され、DVDはUniversal/SPO・Pony Canyonで販売されていました)。

2011年にCJのコンサルタントになった私は、Mnet America(韓国のCJENMの音楽ケーブルTV)の戦略を担当したり、Mnet Asian Music Awardsをシンガポールで開催する手助けをしたり(最近日本で開催されたMAMAのこと)、とより深く韓国と関わるようになっていました。

シンガポールでのMAMAイベントには、スヌープ・ドッグ、ドクター・ドレー、ウィル・アイ・アム、クインシー・ジョーンズなど、アメリカのトップ・ミュージシャンが多数参加し、本当に素晴らしかったです。 私はその中で資金調達や政府との関係、映画基金の設立に多くの時間を費やすポジションにいました。

※スヌープドッグ(Snoop Dogg、1971~)米国のヒップホップMC、俳優。ビルボード年間アワードやグラミー賞にも何度もノミネートされる
※ドクター・ドレー(Dr.Dre、1965~)米国ラッパー・ミュージシャン・実業家。グラミー6回受賞し、エミネム・50セントなどのプロデューサーでも知られる
※ウィル・アイ・アム(Will I. AM、1975~)米国ラッパー・ソングライター。マイケルジャクソンやU2などの楽曲製作にも携わる。
※クインシー・ジョーンズ(Quincy Jones、1933~)米国ジャズミュージシャンでマイケル・ジャクソンと共同プロデュースしたアルバム『BAT』で売上世界一のギネス記録保持。

――:ずっと米国/日本/韓国の間にいたKeikoさんですが、韓国はどういう点で特別でしたか?

韓流が始まって以来そのグローバル化と並行して走り続け、同時に日本のテレビや音楽をずっと見て育ってきた人間として、今日本の方々に言いたいことは「日本と韓国を比較しすぎないほうがいい」ということです。そこが間違いの始まりです。

隣の芝生を見てしまうのは、日本特有の病理のようにも感じます。韓国は今、世界のコンテンツ業界からスポットライトを浴びて、サクセスステージの真っただ中にいます。世界に挑戦し、素晴らしい才能をアピールしようと躍起になっている段階です。でもそんな韓国が独裁政権に終止符を打って、民主主義をもたらした選挙があってからまだ30年なんですよ?。いまだ第一世代・第二世代が最も創造的な自由を謳歌している中にいて、実は日本とはステージが違いすぎるんです。

かたや日本は150年以上もの間にわたって、世界中の文化やコンテンツに大きな影響を与えてきました。 19世紀の時代から西洋と同時に産業革命を経験した唯一の非西洋国家でもあります。浮世絵がフランス中で人気になっていたのは19世紀末、最初の映画が京都で撮影されたのも1897年ですよ!?ハリウッドは影も形もなかった時代です。

ハリウッド初の日本人スターだった早川雪洲は、当時チャーリー・チャップリンよりも稼いでいて、アメリカ中のファンを魅了していました。日本映画初の世界配給作品である『羅生門』は、1951年には早くもアカデミー名誉賞を受賞して、三船敏郎は1961年に『用心棒』でベネチア国際映画祭最優秀男優賞も受賞しました。 1962年には『スキヤキ』が全米ビルボードで1位を獲得しています。日本人は韓国人が今脚光を浴びているルネサンスのような状況を、過去何度も経験してきているんです。

――:確かに。思ってみれば戦後10年たったタイミングの日本が、今の韓国と同じような状況だったと言えるかもしれません。

その通りです。ですから、多くの国がこのようなダイナミックな局面にある時に考えるべきは、「それがどの程度持続可能なものなのか」という点です。韓国は今のまま勢いを維持できるのか? どこかで頭打ちになって内向きになるタイミングくるのだろうか?今日本が問うべきなのは「なぜ日本のコンテンツは世界と緊密な関係を続けてこれなかったのか?」ということです。

K(韓国)に焦点を当てるのをやめて、J(日本)がグローバルな舞台でいかにエキサイティングなことができるかを考え始めるべき時だと思います。世界のトップ25のキャラクターIPの経済価値を見てください。ポケモンやハローキティのようなトップ作品の半分が日本発のものです。世界のZ世代の半分以上がいまも日本コンテンツに魅了されているのは、アニメや漫画の力が大きいです。

私はハーフですが、ある意味“日本愛国者"でもあって、日本の素晴らしい文化、歴史、物語を世界に発信していきたい、という気持ちが強いんです。傲慢にならず、しかし誇りを持つことは恐れないように。日本は根っからの職人社会です。 その勤勉さ、革新性、そして奥深さに、私は大きな敬意を抱いています。 刀であれ、薩摩焼であれ、アニメであれ、尊いものを生み出すために必要なことです。 私たちは自信と誇りを持つと同時に、学ぶべきことを取り入れ、適応していく謙虚さを持つべきだと思うのです。

 

■「民主化後30年」の中韓国に対し、成熟の極みにある日本ができること

――:北米・欧州・アジアと観られてきて、今Keikoさんとして日本に必要な視点ってどういうものだと思いますか?

日本のストーリーには中国や韓国が今、必要な地政学的な知恵が詰まっています。ポスト米国覇権の時代について多くのNATO加盟国がシンクタンクを作って研究してますが、これだけ長い間サステイナブルな国家・経済を保てている日本という国に注目が集まっています。ロシア・中国・韓国など隣人に対して日本がどうあるべきかを考えるよいタイミングだと思います。世界秩序が変わってきている中で、日本が米国のみの傘下にあるのではない、ということを考えないといけないと思うんです。日本人のリーダーシップと知恵を見せる時だと思うのです。寛容でもあり、漸進的でもあり、この世界的な紛争空間のなかで“大人としてのふるまい"を身につけないといけない。まあ色々片付けないといけない国内ゴシップも多いですけど(笑)。

国際結婚にまつわる恋愛ドラマも面白いと思うんですよ。結婚って国家同士の外交のアナロジーでもありますよね。それぞれのテリトリーがあり、アジェンダがあり、合意しかねるものがあり、交渉と妥協の産物として家庭が運営されている。もちろん愛情というベースがありながら。国際結婚は国際外交のよいお手本であり、それをうまくいかせるシステムや構造を作らなくてはいけません。夫婦愛でも子供でも財政的安全性でも、あまり選択肢が多いわけじゃないんです。それに向き合うことこそが、外交のベストレッスンになるような気がします。

――:国際結婚が国際外交のレッスンである、というのはとても面白い考えですね。これだけ様々なことをされてきて、Keikoさんは一体何のスペシャリストなんですか?ジャーナリスト、ともいえるし、プロデューサーともいえるし、経営者でもあります。

よい質問をありがとうございます。最近大きなイギリス映像会社のCEOからこういう表現を聞きました。コンテンツ産業においてクリエーティブとビジネスを両立させられる人材は稀有であり、それこそが成功の鍵である。私はストーリーテラーでありたいと思って業界に入ってきましたが、今は実業者とクリエーターの間くらいの立ち位置にいます(ただまだ期待した成功には達していません)。いまは200頁超のドラマ・映画・ドキュメンタリーのアイデアをもって色々なところを駆けずりまわっています。これらを出来る限り多く、実現に導くことが今のモチベーションなのです。

――:日本のメディア企業に向けて最後のアドバイスなどありますか?

経団連は2023年4月、コンテンツ産業に関する提言を発表し、そのタイトルにいくつかの英単語を加えました「 Last Chance to Change(変わるチャンスは今しかない)」。私ならそこに“Big" Chanceを加えますが笑。日本のコンテンツは現在世界で最も需要の高いもののひとつであり、この課題に正面から取り組まないのは機会損失だと私は思います。

日本の映像制作は、資金が一部の企業に握られ、時に非効率的にもなる製作委員会モデルばかりですが、制作費・契約・取引関係についてもっと透明性が必要です。英語を話すことや配信業者を相手にすることだけではなく、クリエイティブな実力と競争に基づいて、もっと若手にチャンスを与える必要もあります。

なによりも日本のメディア企業への強いアドバイスとしては「外に出てネットワークを作り、提携関係を築くこと」です。有名なハリウッドスタジオばかりでなく、実力のあるプロダクションなど業界の広いプレーヤーへ知見を広げ、提携を模索してほしいです。

テック企業の後押しも重要です。韓国の素晴らしいところは、コンテンツを輸出するだけでなく、それを後押しするプラットフォームやエコシステムを構築したことです。彼らのデジタルを追求するスピードが、ちょうどコンテンツのヒットタイミングに合いました。

日本も政府、政策立案者、産業界、広告主、スポンサーがストーリーやコンテンツを売るだけでなく、その背後にある食品、観光、美容、ファッション、最先端技術や国として宣伝したいあらゆるものを包括的に考えるべきです。すべてが相互に絡み合っており、企業レベル、国家レベル、国際レベルでの戦略がうまく機能するために、結束していかなければなりません。

――:今回のインタビューでは1970-90年代で世界2位のGDP大国だった日本よりも、むしろ中国・韓国・台湾のアジアサイドにいたからこそ見えた風景が、今の日本に必要なんじゃないかとも思いました。

私は中国返還前の香港にも、独裁の香りが残るシンガポールにも住んでいました。そうした経験から振り返ると、大事なことはシステムや体制の違いじゃないんです。政府が人々との社会的な契約を十分に満たしているかどうかということだと思います。

シンガポールに移住したのも、子育てだけじゃないんです。香港で見たあまりの二極化された世界に衝撃を受けました。99歳の方が何の社会的な福利厚生を受けることもなく働いている姿を見たり、60歳越えた会計士が30坪のアパートで60年間のローンに苦しんでいたり。人工的に生み出されたインフレや地価高騰のなかで「サンドイッチクラス(挟まれた階級)」に対してイギリスも中国も何の手当てもして来なかった。

シンガポールはdynastic autocracy(一党独裁)ではありましたが、全員が居住空間、仕事、教育にアクセスできる仕組みを作っていました。nanny state(乳母国家)として制約の多さなど悪名高い部分もありましたが、私はシンガポールでは99歳まで働き続けなくてもよいと思える安心感がありました。

――:確かに歴史を背負った東アジア諸国の頑迷さに比べるとSEA(東南アジア)の緩さ、って魅力的ですよね。

アジア太平洋放送連合のアドバイザーとして働いていたとき、アジアの国々の70%が独裁国家であることも知りました。しかし、そのような国々が人々を支援し、仕事と教育を提供するという機能を果たしている限り、つまり、指導者が人々を大切にする限り、人々は指導者に従うことに同意するという基本的な社会契約を果たしている限り、私たちは有益な方法でそのような国々と関わっていくべきです。

多様性と共存することを学ぶことは、一種のスーパーパワーを与えてくれます。例えばマレーシアは、保守的なイスラム教と革新的なイスラム教が共存する素晴らしい国です。一方ではブルカを着用している人がいて、他方ではタンクトップに半ズボンのイスラム教徒がいる。酔っぱらって朝の4時まで歌う人もいるイスラム教の国です(笑)。そのような多様性を持つ国々は、私たちに多くのことを教えてくれます。

アジアは統一できる世界最大のコンテンツ市場です。考えてみてください。このアジア市場は世界人口の60%ですが、海外に配信されているコンテンツは10%に過ぎません。私たちは、アジア域内のコラボレーションにもっと目を向けるべきです。今後10年間で、アジアのオンライン・ビデオ・ビジネスは720億米ドルに成長すると言われています。

――:逆にKeikoさんにとって、行きたくてもいけなかった、「日本人にとっての海外」のような、果ての場所はあるんでしょうか?

逆に私には「ホーム」の感覚が薄いんですよ。父は日本、母はアメリカ、途中で離婚していて、今はそれぞれで暮らしています。現在夫も韓国にいますが、途中で私は子供とシンガポールで暮らしてましたし、最近は母の面倒もあるので米国のサンディエゴに住んでます。娘も弟もアメリカの違うところで暮らしています。

唯一自分が「ホーム」を意識できたのは大学2年生の時に、しばらく父の実家の宮崎で暮らしていた記憶くらいなんです(思い入れがあって実は宮崎県の祖母の家をその後買ってしまいました。いつかはそこに住み着きたいです)。祖母は私に愛情豊かに接してくれて、本当に安心できる空間でした。そうした「最後に必ず落ち着ける場所」が無いことが、私にとっては果ての場所なのかもしれません。

宮崎はとても美しい場所で、牛豚鳥も焼酎も食のクオリティも最高に良いです。いつか宮崎で映画学校を開けたらな、という思いもありますね。

――:80年代の中国深圳や90年代の韓国などどちらかというとハードな局面に飛び込んでいって、皆が知るべきことをフィーチャーしていったご実績もあります。そうしたものを通じて伝えたいことってどんなことだったんですか?

ドキュメンタリーって、ドラマとかもそうですけど、異文化で分離したところを繋ぎ直すHumanize(人間化)する作業なんです。いかに「外国人」だと思っていた人たちを人間として理解可能なものにして、理解を示し、歩み寄るのか。逆にナチスのホロコーストは徹底的にDehumanize(非人間化)ですよね。人を番号で呼んだり、丸刈りにして個性を打ち消したり。

社会にTolerance(寛容さ)とEmpathy(共感)を伝えたいんです。私自身がずっと人生をかけて外交とか平和とかに興味をもちながら映像メディアをやりつづけてきた根本は、そこにあるんです。今は一プロジェクトとしてそれを「日本の平安時代の物語のドラマ化」というのはあるんですが、その先も含めて私としては日本をいかにHumanizeして、世界中に理解してもらえるか。資源をめぐる戦争という古くからの危機だけでなく、気候変動や地球の未来という存亡に関わる要素に世界が非常に脆弱になっている今、私たちはこれまで以上に平和への道を理解し、交渉していく必要があります。そしてそこに至る唯一の方法は、思いやりと共感です。

会社情報

会社名
Re entertainment
設立
2021年7月
代表者
中山淳雄
直近業績
エンタメ社会学者の中山淳雄氏が海外&事業家&研究者として追求してきた経験をもとに“エンターテイメントの再現性追求”を支援するコンサルティング事業を展開している。
上場区分
未上場
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