売上2.3兆円、営業利益3390億円、時価総額3.7兆円。グループ会社は407にも及ぶ。いわゆる不動産ディベロッパーの最大手企業である。そんな会社が「にじさんじ」の着ぐるみショーや動画撮影エンタメ「GINGAGA」を手掛け、イマーシブ・エンターテイメントの大掛かりな投資事業、しかもその海外展開などにも取り組み始めている。2023年の経団連の提言「Entertainment Contents ∞ 2023」以来、総合商社も銀行も不動産も、異業種からアニメ・ゲーム・マンガなどの日本コンテンツ事業への関わりを探る動きが急進してきた1年である。そうした中で三井不動産が2022年から事業検討し、不動産×コンテンツの幾つものプロジェクトから見出した事業チャンスについて、粟谷尚生氏に話を伺った。
■"にじさんじ"からカナダ発"MOMENT FACTORY"との京都府立植物園イマーシブまで:三井不動産が取り組む新規事業
――:自己紹介からお願いいたします。
粟谷尚生(あわや たかお)と申します。三井不動産に入社して11年目で、ベンチャー共創事業部という部署で、不動産・ロケーションを使ったエンタメ・アート領域での新規事業を担当しております。
――:粟谷さんとはここ2年ほど共同で新しい事業の立ち上げからご一緒させていただいてましたが、本日はインタビュアーとして客観的な立場で色々お聞きしていこうと思います。
本当にいつも大変お世話になっております。立ち上げから一貫して、 “文化の事業化"を目指しているチームです。場所に関わる事業レイヤーを下記のように4層に分けた時に、一番下で「場所・ファイナンス」をもっているのが三井不動産です。ただ、今までのように場所を提供するだけにとどまらず、①「コンテンツ・IP」と②「企画・開発」のクリエイティブ、そして拡販する③「流通力」のパートナーと一緒になって、場所の価値そのものをあげたり、「事業をしていくこと」を模索しています。自社内で完結する事業は一つもなくて、すべての業務が①②③にあたるパートナーの企業・クリエイターと共同していく事業部になると考えています。
2023年4月から正式スタートして1年半、今は “事業フレーム"作りのようなものを模索しています。すでにいくつか動き出しており、例えばA)「●●PARK」(Sake PARK 、お茶PARK )など日本伝統文化の職人たちの手で生まれたものをMIYASHITA PARKの屋上公園など開かれた場所でこれまでの顧客と違う広いユーザーに届けていく取り組み)、B)「キャラバン型事業」(国内約30カ所、海外約10箇所の商業施設等を使ってコンテンツをキュレーションし、巡回型で体験を提供する取り組み)、C)「イマーシブ型事業」(新たな没入型体験の提供、LIGHT CYCLES KYOTO (lightcycles-kyoto.com))等があります。いずれも、今まで使っていた場所をコンテンツ・IPにとっての新たな「舞台」としていく活動・サポートとも言えます。
――:コンテンツ・IPといっても色々あると思いますが、どんなコンテンツ・IPと共創していくのですか?
もともと不動産はアート系をコンテンツとしたクリエイターとのコラボが多いイメージがあります。それを中山さんがやられているエンタメ系も一つのクリエイティブ領域として存在感が非常に強くなっている反面、“サブカル"としてそういった領域と不動産は直接的に接続してこなかった歴史があるようにも思います。日本酒・お茶・メディアアートなどを使った「アート系」と、エンタメでVTuberなども含めた「マンガ・アニメ・ゲーム系」、今後はアーティストとの共創でいう「音楽系」などもコンテンツとして展開できればと思います。
――:そうですね、我々エンタメ屋からみると不動産デベロッパーも商業施設も、はたまた鉄道なども「ただ賃料ベースで場所を貸してくれるところ」という遠い印象があります。
そうなんです。近年でこそそうしたポジションのイメージが強いと思いますが、歴史をたどれば、小林一三さんの宝塚や阪神タイガースではないですが、「ハコ」である我々も一つのメディアとして100年前は様々なコンテンツを誘致・開発して、その人気のなかで場所や路線にブランドをつけて、最終的に人流を変えてきた事業体だったと思います。
むしろ不動産会社が場所を提供してここでどんなものを見せるかを企画し、時にはその企画・開発・運営をすべて興行として自分たち発でやっていくのも必要なんじゃないか、という仮説のもと、事業に取り組み始めています。
――:以前Cekaiさんを取材しましたが、こちらも“撮影自体がテーマパークになったらどうだろうか"ということをコンセプトに、各自のモバイルをセットしてグルグル自分のまわりをまわったり、巨大な特撮スペースで自分を撮ってみたり、「動画をとって遊ぶ」簡易テーマパークを創られてました。
2023年4月にチームが立ち上がり、その初期のプロジェクトが“GINGAGA"でした。東海圏にある商業施設の一等地に対して、「投資」してコンテンツを開発・提供し、その空間で無料スペース/有料スペースを分けてスマホの撮影が楽しめる体験型施設を開発しました。日本を代表するクリエイティブカンパニーであるCekaiさんと中身の企画設計から価格設定、2カ月半の事業運営まで全部入ってプロジェクトマネジメントをしていきました。その後、Cekaiさんのクリエイティブ、ネットワークによりNikeさんとのコラボレーションも実現されていました。
――:チームとしてはどのくらいの人数でやっているんですか?
社内で2~3名、出向者なども含めて5-6名のチームでまわしています。これまでの三井不動産にないノウハウも必要なため、中山さんを筆頭に何人かの外部アドバイザーに一緒に入ってもらって一緒に事業を作っています。
――:直近ではにじさんじのROF-MAOさんとコラボがすごい人気でした。
全国5カ所で「出張!着ぐるみROF-MAO全国行脚」として着ぐるみをつかったキャラバン事業を展開しました。札幌、福岡、名古屋、堺、最後は船橋ということで全部で1万人強が集まり、正直空間的にあまりに人が混雑してしまって入れない方々もいたりとかすごい人気でした。これらも「場所を貸す」だけのではなく、共同開催としての取り組みになります。
また同時期にRAYARD MIYASHITA PARK内セレクトショップである「THE [] STORE(デジタル化されたPOPUP型店舗、初期費用・運用費ゼロでの展開も可能)」で、同じにじさんじさんのChroNoiRがセレクトした商品イベントも展開して、集客数・単価ともにすごい数字をたたき出していました。
――:次に予定しているものはどんなものでしょうか?
こちらは特別協力という形ではありますが、先ほどの3つ目の“イマーシブ事業"として、2024年10~12月に京都府立植物園100周年記念事業の一つであるメディアアートプロジェクト「Light Cycle Kyoto(ライトサイクルキョウト)」に参画しております。この植物園を使った光と音のイマーシブ体験を創るのがMOMENT FACTORYといってカナダ・モントリオールにあるクリエイティブ集団になります。「MOMENT FACTORY」という名の通り、デジタルを使ってリアルの場で人々が忘れることのできない体験を提供する会社で、ディズニーやユニバーサルスタジオ、安室奈美恵やシンガポール動物園など世界で550プロジェクトをこの20年強で展開してきた、世界最高峰のマルチメディアスタジオです。とんでもない出来で、12月までなのでぜひ行って見ることをお勧めします。
▲京都府植物園LIGHT CYCLES KYOTO:2024年10月18日(金)~12月26日(木) · 18:00~21:30(最終入場 20:30)
■能とテニスに人生をささげた動静のフィジカルエリート。覚悟を決めて能楽師の道を捨てた就職
――:ところで、粟谷さんは「能」の家のご出身でしたよね?
中山さんが「600年続く最古のエンタメ」(『エンタメビジネス全史』)と書いてくれた能の世界で育ちました。観世流、宝生流、金春流、金剛流、喜多流が「五流派」と言われますが、その“最後発"で、江戸時代にできたのが喜多流です。
喜多流は宗家が不在なのですが、そのなかで粟谷家はシテ方の家でして、粟谷新三郎から始まり、粟谷益次郎-粟谷菊生(1922-2006:祖父。人間国宝、芸術院会員)-粟谷明生(1955-:父。重要無形文化財総合認定保持者)ときて、私、粟谷尚生と続いてきました。姉はいますが、女性は継げないのです。長男なので私が継ぐことを望まれてきましたが、ご存じのように自分は能を継がずに、民間企業で仕事をすることを選び、三井不動産に入りました。
――:幼少期、いつごろから訓練がはじまるのでしょうか?
私は1990年生まれでしたが、記憶にないころから訓練はしていました。記録されているものとしては1994年に4歳のときに子役舞台でデビューしていますね。
――:そんな小さい時から出役だったんですね。どんな気持ちで演じているんですか?家としても幼少時から厳しく仕込む、みたいな感じなのでしょうか?
もう生まれた時からそういうものだという感じなので、本当に小さいときは、能を演じることに好きも嫌いもなく、「そういうものだ」という感情でした。ただめちゃめちゃ人前が苦手だったみたいです。舞台に出ていったのに、泣いて戻ってしまうような子供でした。
それでもすごく厳しかったという印象はなくて、そこは父も母も相当気を遣ってやっていたんだと思います。だから能は、というより舞台に出て表現すること自体は好きでした。小さいときはゆるく習い事のようにさせていて、本番が近づいたら集中的にやるような形でしたので、日常生活に支障がでるようなこともなかったんですよね。人前に出る公演なので舞台に向けての体調管理は親が相当気を付けていたのだと思います。
――:ほかの子供と同じように、普通に遊ぶ機会はあるんですか?
小学校の時にサッカーやりたかったんですけど、土日が自由にならず、周囲に迷惑がかかるので、「団体スポーツはやめておけば」と言われ、テニスを小学校3年のときからやってきました。個人競技なら自分が試合に出れない、で迷惑をかけることはありませんしね。
幼稚園から学習院に通っていて、そのまま幼稚園・小学校・中学校まで一貫教育です。学校が学校だけに能や狂言の家の子もいて、特にそれによって特別扱いをされることもありませんでした。
――:逆に自分は「能の家を継ぐんだ!」と気負ってしまったりはしませんか?
いや、ならないですね。というかあえて、「特別なポジションに甘んじているのがカッコ悪い」とも思っているほうだったので、、、。
――:能と並行してのテニスでしたが、すごいレベルまでやりこんでましたよね?
小学校6年のころには全国大会に出るのがなんだか普通になってましたね。学習院は自分の3つ上が全国優勝するような強豪校だった時代で、その周辺の年次はすごく強かったんです。私のときも全国3位で、私個人としても中2でダブルス全日本ベスト8というのが一番良かった成績ですかね。高校の時は部長もやってましたがいいとこベスト16くらい。その後早稲田大学に入るとあまりに「上には上がいる」ことを目の当たりにして衝撃でした。
そんなこんなで中学・高校はテニス一辺倒、ちょうど声変わりをする時期は能はお休みができるので(普通はその期間に太鼓や小鼓の勉強をするんですが)、能からは距離をおいてテニスだけやってました。中学からは推薦で早稲田実業高校にいって、能に戻るのは高校3年生からですね。早稲田大学に進学してからは、部活動と能楽の稽古の両立を目指す日々でした。
――:3~12歳で能の基礎を学び、13~17歳はテニスに費やし、18~22歳で能とテニスに、という感じなんですよね。すごい「フィジカルエリート」ですね。
まずエリートではないですが、テニスで「動」の筋肉を鍛え、能で「静」の筋肉を鍛えたので、今じゃこんな体ですけど笑、徹夜作業しても翌日働けるのとかは当時からの体の資産かもしれません。(笑)
――:しかしわりと「能の家の子」のわりには、テニスをやったり、外の世界にも自由に踏み出せていた感じでしょうか。
本当に両親が僕の気持ちの変化に寄り添っていたんだと思います。しばらく違うものに熱中しているのは、それはそれでよいことと思ってくれていたんじゃないかと思います
<父:粟谷明生氏のブログより引用>
⇒2008年11月尚生氏久々の舞台『敦盛』に際して
父として、先輩能楽師として、いろいろな考えが私の頭をめぐります。この道を継いでほしいとも、一度しかない人生、自分の好きなことを、とも。でもこの道に行くなら、少しでも早い方が結局自分が楽なのだが・・・・・。自分で決める、そのようにし向ける。難しいところである、と思う。
⇒2009年11月尚生氏初の「面」をつけた舞台『経政』に際して
能楽師になるなら能だけにしていればいい・・・、という考え方は間違いではないと思います。しかし、私は能楽師といっても様々。人それぞれの修行過程があってもいいと思っています。もちろん最後によい結果を出さなければ、落第ですが。いろいろなアプローチがあってもいいと思い、テニスと勉強にも力を入れて頑張れ!と励ましています。
――:祖父の菊生さんから「まだ稽古しないのか?手遅れになるぞ」と言われてながら、父の明生さんが「気持ちが入っていない人間に嫌々やらせても無意味、本人がやりたいと言った時が好機で、それまで待つ」と守り続けてくれていたという事実も、あとから書記で残されてますね。いつごろ能を継がないという結論を出すんですか?
大学4年でちょうど就職が始まる前のタイミングです。どこかで自分には能があるという誇りの気持ちもありながら、それを自分のゴールにして甘んじてしまう嫌な部分もあって。
父の時代までは基本的には子供たちは皆、継いでいるんですよ。けれど松竹が支えた歌舞伎はきちんと市場としても残っていても、能は結局個人事業主の集まりなんです。文化を守りつづけようという企業や組織があるわけではなく、事業を営む家の側とそれを観にきていただくお客様との関係性でなりたっていて、それが少しずつ少しずつ高齢化・少人数化していっている。
――:外部から人が入ったりとか新陳代謝はしないのですか?
外部から人もそんなに入らず、基本は家と親戚筋だけでまわしていきます。継承するけど男子が生まれないとそれもままならない。一定期間日本を巡業するから、親戚一同が完全に共同体で基本は一緒です。そうして守って守ってきた「能」の世界も明らかに「変わってきている」なかで、早稲田のまわりの先輩をみるとやれ商社にはいってコンサルにはいって世界で活躍している、というのがキラキラみえて、当時の自分には“能にだけで生きていく"にはあまりに心もとなく見えたんです。また、OB訪問している中で本当に魅力的な人にあう機会が多くて、自分は強くそっちの世界にも興味がある人間なんだ、このまま大学卒業後に能の世界に入ったら後悔すると思ってしまったんです。
人生であんなに悩んだ時期はないです。本当にいろいろいろいろ考えて、迷って、背負ってるものの重さも重々理解しながら、最後に「家は継がない。自分は就職をしたい」と言ったんですよね。そしたら・・・父が号泣したんですよね。目の前で。あんな父は見たことがなくて、本当にとんでもないことをしてしまった、と。
ただ、ここでちゃんとお伝えしたいのは、今の私はこの決断が「正しかったとか、正しくなったとか」とかいう気は全くありませんし、今は双方に良さがあると心から言い切れます。ただ、これが、社会人経験のない20歳そこらの一人の人間が感じた「リアルな」悩み・覚悟・決断でした。
――:「自らが決めなければ一生悔やむ、そんな悔やむ人生を我が子には歩んでほしくない」という言葉を明生さんは残されてます。周囲も大反対でしたでしょうし、そういった声から息子の決断を守るのは本当にご苦労されたうえですべてを飲み込まれたように感じます。
この記憶は、今でも僕の中で残ってしまっているんです。だからとても読み返せないんですが・・・。
でも10年間、「三井不動産」という大きな看板によって本当に想像を超える様々な人々と仕事をさせてもらった今、確かに言えることは「何が正解か」かが重要なのではなく、「決断すること。そしてその決断を正解にするべく、最大限努力する」ことこそが大事だということです。今だからこそ能楽師や継承、日本文化の尊さにも気がつきます。でもそれも全部「外に出たから」心から言えることなんです・・・。
――:2014年に明生さんがブログで「世阿弥の「嗣ぐをもって家とす」を信じ、家の子でない者も喜多流の能楽師になることを期待している。」と書かれています。これもちょうど粟谷さんの就職決定とともに残された言葉なんでしょうね。
■インタビュー200人ノックで見出したディベロッパーの新たな価値
――:でも粟谷さんも粟谷さんで就職が決まってもいないのに、継がないことを宣言してしまうというのはずいぶん思いきりましたね。
ケジメですね。就活が受からなかったら能に、という選択肢を残したくなかったんです。だから就職活動をする前に、継がないという話を先につけました。
でも覚悟が決まったということがあるんでしょうね。ここまで大きなものを振り捨てておいて、就職できませんでした、はあまりに情けなすぎます。
――:どんな面接になるんですか?
面接では能とテニスの話しかしていないですね。もう当時の人生の記憶はすべて能とテニスなので・・・あ、でも筆記は落ちた会社ありますね笑。読解と計算は苦手なんです笑。
――:でも学習院ですよね?勉強は結構できたのでは?
昔から完全に「耳学問」派で人から話聞いて学ぶことはあるんですが、ただ計算したり読解したりといったところは特に得意ではないです笑。
――:この10年で部署はどんな形で異動してきたのですか?
2014年に入社して最初の1年はららぽーとの開業を担当しましたが、2年目からは、渋谷のRAYARD MIYASHITA PARK構想がちょうど始まっていた時期でテナント誘致担当になりました。これがホントに面白い仕事でして、「渋谷でどういうコンセプトの施設で、どういうテナントを誘致するか」をゼロイチで考えるんですよね。
渋谷は三井不動産にとっては「初の商業施設」でフロンティアだったんですよ。それにRAYARD MIYASHITA PARKはすべてが新しく、チャレンジする部分が大きかったんです。「ららぽーと」とは違いRAYARD MIYASHITA PARKは形状からして特殊だし、入るテナントさんも初めてのお付き合いのところも多い。商業施設と区切っても、エリアや形状やテナントさんによって、やることは全然違ってくるんですよね。
――:それは僕らでいうフランチャイズゲームとオリジナルゲームづくりの違いみたいなところですね。
はい、答えがない中で自分のなかで筋をたてて創る感じです。こんなのあったらいいなという妄想なんてすぐにぶち壊されますし、構想力・編集力とともに相当な調整力が必要でそれを6人くらいのテナント営業チームの下っ端で2年目から入っていました。自分が提案して入ることになったテナントさんでいうと「ENダンススタジオ」「SAI(アートギャラリー)」「Minotaur(アパレル)」「OR(ナイトクラブ)」とか、通常商業施設に入らないようなテナント様を懸命に誘致しましたね。
――:あ、Cekaiさんとの案件でも出てきた会社さんですね。
そうなんですよ。10年近く前にやったつながりがあとから生きたりするのがホント面白いですよね。IP業界はもっとだと思いますが、不動産だって結局は「人」なんですよね。場所や新設のファシリティの力で誘致したりコラボしたりしているようで、結局担当者同士の熱量やビジョンの整合性で物事が決まったりします。
不動産もアニメ製作委員会と同じで外資トップラグジュアリーが1つテナントに入ったりすると、いろいろと動き出すことがあるんです。あのブランドが入るならうちも親和性が高いから、などそのショップ自体に集客力・吸引力があるんですよね。その後有名なアートギャラリーも入ったりするので。今はIP・コンテンツサイドのお仕事をさせていただいてますが、それと似たようなことは商業施設にもありますね。
――:MIYASHITA PARKをやってその後はどうなるんですか?
その後4年は商業施設本部の業務推進室というところでいわゆる管理・統括業務やバックヤード的な作業を行います。経営企画的な部分もあって面白い部分もあるんですが・・・最初は特にキャッチアップできなかったですね。数字づくりが主の業務になっていて、Excelすらまともにさわれない自分はまわりの人たちに置いていかれている感もあって。ちょうどコロナと時期が重なった時代でもあるので、その時が一番自分としては落ちこんでいた時期でした。
――:なるほど、やっぱり「現場」「事業開発」「営業」みたいなタイプなんでしょうね。(笑)実際に三井不動産80周年プロジェクトで現在の仕事が始まるのはいつごろなんですか?
各部署からタスクフォースチームが組まれて数名で全社横断プロジェクトが始まったのが2020年ごろでしょうか。僕はそのころから呼ばれるようになり、兼任をしながら事業推進していましたが、2022年にベンチャー事業本部に正式に異動することになりました。
――:まさに中山ともお会いしたのが2022年秋でしたよね。各界の第一人者と毎日のようにインタビューされていて、とても楽しそうなお仕事だなと思いました。
それはもう楽しかったでしたね。文化クリエイティブで事業をつくれという大上段でのお題だけが決まっていて、「次の100年どんなことを目指すべきか」というのを本当にスゴイ方々にインタビューしてまわりました。クリエイティブ会社から、アートカンパニー、メディア・編集者から省庁、Web3や起業家まで。あの200人とのインタビューを経て事業構想が固まって今も基礎になっています。
その時にすごく印象的だった話はPaceギャラリー(世界4大アートギャラリーの1つ)の一人と香港アートバーゼルで話を聞いた時です。チームラボさんのすごさを説明いただきました。現代アートに革命を起こしていったかという話はいまも鮮烈に覚えています。でも同じくらいに鮮烈だったのが、中山さんとのお話でした。
――:え!?Paceギャラリー並みなんですか!?笑
はい、すごいと思いました。エンタメと不動産がどう接合していくのかという構想や、三井不動産が賃貸や分譲を主体としたメディア事業っぽい感じになっていくなかで、いかに1世紀前にはあったコンテンツキュレーション力を取り戻していくかという話はとても納得感があって、それで今の事業につながっています。
――:いやーそれは大変嬉しいです。
どんどんエンタメ系を入れていったり、特にVTuberとのキャラバン事業は我々だけでやっていたら到底出てこなかった発想で、実際にそれで実現した効果は想像以上でした。
■ “ユーザーの顔が見える不動産"は新しいメディアになる
――:VTuber構想のときは「能楽師ならぬ着ぐるみ師を目指してください、粟谷さん」と冗談のようにいってましたが、「商業施設キャラバン事業」は一つのモデルになりましたね。
はい、今回はにじさんじのROF-MAOさんとのコラボでしたが、「人が呼べる不動産」×「人が呼べるコンテンツ」の掛け合わせがこんなにも大きな波及効果を生むのだということで三井不動産のなかでも話題になりました。まさに我々のアセットが新しい「舞台」になっている感覚です。ちなみに「着ぐるみ」という発想はプロレス事業に関わっていた中山さんから頂きましたが、今回のROF-MAOの「着ぐるみキャラバン」は発想として絶対我々からは出てこない革新的なものでした。
――:僕も意外でしたが、ららぽーと含めて色々いつもイベントをやっているから、不動産デベロッパーってコンテンツに詳しいものだと思ってたんですよね。
そうなんですよね、ユーザーさんからの見え方は同じかもしれませんが、プロパティ持っている側が「単に場所を貸しているだけ」なのか「自分たちで仕掛けに行って、コンテンツキュレーションをしているか」の間には大きな差があります。
当然、デベロッパーの真中は都市開発だと思います。でも、これからそれと同じくらいコンテンツをキュレーション・開発することが求められるような気がします。
――:でも、見る人が見ればわかりますけどね。ディズニーランドのようにプロパティ側がいかにコンテンツにコミットしてやっているかという事業はこの10年本当に超成長産業になりました。
はい、我々の部隊も「場所とユーザーにあわせて、コンテンツを再編集して、新しい価値を生み出す」ということがミッションだと思ってます。自らその場所とユーザーを見た最適なコンテンツを企画・開発をして、ディズニーランドのように“コンテンツの匂いがついたハコ"を作っていく。むしろ、我々のアセットにもこだわらなくてよいと思っています。
その点では、森ビルさん×チームラボさんの『チームラボボーダレス』の形は素晴らしいと思います。あのタイミングでお金を張ってチームラボさんとの施設を作った森ビルさんもすごいし、それを圧倒するクオリティで答えたチームラボさんもすごかった。場所を貸す側だったはずの森ビルさんが興行主側にまわって年間200万人以上もの人を笑顔にしている。すごすぎます。そういうことを我々もいつの日かやっていきたいなと思います。
――:テレビ局や鉄道会社、地方自治体もいままさに同じ課題に直面しています。「芸能事務所に丸ごと制作も依頼している番組」「広告代理店に丸投げをしている地方創成アニメコラボ」「一等地で好き勝手やってくれるクリエイターに場所だけ貸している商業施設」といった「ハコがハコの役割しかやっていない」時代の賞味期限がきているんだと思います。
もしこのインタビューで掲げていいなら、中山さんのあの『クリエイターワンダーランド』の図がそれを一番表してくれていると僕は思っています。右下でネット・アマチュアから生まれてきたものを「ライブでその場で見せる」メディアとしての不動産の役割が再注目されているのが今で、ここ1世紀ラジオ・出版・放送などマスメディアによる流通が主軸となっていた世界が2010年代ごろから切り替わってきたんだなと再認識しました。
不動産のメディア化については課題があると思っていて、ベンチャー共創部ではそこに対するソリューションの発明を担いたいと思っています。
あの本で理解したのは「IP・エンタメ(中山さん)から見る視点と不動産(我々)からみる視点があまりに違っていた」ということなんです。僕らは場所の価値でビジネスをしているのにそれに気づいてなかった。当たり前のように人が流れて、その上でいろいろテナントさんに入ってもらって賃料頂いていたんですが、「流れている人」であるユーザー自身を理解していなかった。でも日本橋、六本木、渋谷などごとに「ユーザーの顔」があって、すでに足を運んでその場にきてくれているユーザーがIP・エンタメ側からするととても貴重なものなんだということは、僕らの知らなかった僕ら自身の価値なんです。
――:そうなんですよ。アプリ1つインストールしてもらうのにも1000~2000円のお金をかけて「広告にお金を溶かしながらユーザーに気づいてもらって重い腰をあげてきてもらう」をすごく苦労しているのがエンタメ産業なので、逆に自分たちに近い顧客特性をもつ場がコミットしてその集客部分をやってくれたときに・・・ものすごいシナジーがあるんですよ。ただそれを分譲・賃貸の顔に戻してしまうとコンテンツ・IP側は急激に冷めてしまう。
RAYARD MIYASHITA PARKをやっていた時もそうだったんですが、こんなのがあったらいいね、できたらいいね、とひとしきり盛り上がった後で「じゃあ、坪○万円くらいで」といった瞬間に急激に場が冷めるんですよね。それは一緒にコンテンツを創るものとしてお客さんをビックリさせたい立場にいたはずの人が、その場で商売をする段になったら急にとりっぱぐれのないようにコンサバな金額を載せていくような。これはだれが悪いわけでもないのです。
――:まあ初期で数百億円かけて土地や場所を獲得しているわけだからリスクはとっているんですけどね。その逸失利益を「回収しよう」とすると立場が変わってしまうわけですね。
■IP×海外×不動産メディア:イベンティブ事業を生み出し、商社化する不動産企業。そのなかで「自分がお返しできること」
――:実際三井不動産としてのここ50年をみると戦後~1990年はバブル型景気でどんどん分譲・賃貸で広げていき、1990~2005年は売上も営利率も停滞期。それが2010年代に入って「海外(賃貸・分譲)」と「マネジメント・施設営業」で再び急成長しているという“新時代ぶり"が明らかです。
出典)SPEEDAより中山作成
下っ端の僕が三井不動産全体を語るのはあまりにおこがましいのですが笑、知っている範囲でいうと、やっぱり「海外」が重要な戦略になっているのはたしかだと思います。多くの先輩方や仲間が今も海外に駐在しています。2017年の菰田社長が掲げたGlobal Vision2025に沿って、直近は本当にドラスティックに海外投資を進めてきた会社なんだと感じる場面が多くあります。直近では2023年に就任した植田新社長が、今年の春に新グループ長期経営方針である「& INNOVATION 2030」を示しています。2023年にグループ入りした東京ドームは不動産のなかで最もエンタメ・コンテンツに近かった存在です。東京ドームとのシナジーでエンタメとスポーツといったコンテンツ×不動産というのは一大ミッションになっており、我々の事業部もまさにそこに適合したプロジェクトにしていきたいと勝手ながら思っています。
具体的に言えば、私のチームもまさにこのグローバルとエンターテイメントを掛け合わせたような事業を創りたいと考えています。冒頭でお伝えしたとおり、A)●●PARK事業や、B)キャラバン型事業も、もっと海外の人を呼び込んできたり、海外のプロモーターやアセットを組み合わせていきたいなと思っています。実際にロンドンやパリでイベンターと話をしていると協業の可能性があったり、C)イマーシブ事業も、今後はコンテンツも変えて、いかにグローバルにもっていくかという検討もしてみたいと考えています。
――:だから海外の企業とも様々なアクセスをしているのですね。例えば、モントリオールのMOMENTは僕も訪問したことがありますが、なぜあれほどの世界的なクリエイティブ企業が逆に三井不動産と情熱をもって話をしているのでしょうか?
これは人の繋がりで、Silk&Denimの代表である遠藤陽一さんが何十年もMOMENT社とお仕事をされている中で、繋いでくださったことが全てではあります。ただ、あえて客観的に言えば、世界的なクリエイティブファームからみたときの「三井不動産の価値も自身でわかっていなかった」といいますか。あちらからすると80年続いている日本の不動産ディベロッパーで、しかもこの10年は「日本≒アニメとゲーム/食/文化とクリエイティビティ」という日本のソフトコンテンツや文化も再度注目されていたのかもしれません。
MOMENTってカナダの会社であり、その支社があるのがフランスのパリと日本の東京、シンガポール、ニューヨークの4か所だけなんです。それだけでもメッセージ性があると思うんですが、どちらかというと職人性が高くて、日本の歴史や食・文化、そしてエンタメをすごくリスペクトしている。加えて、「リパーパス」といって「場」の歴史や文化をクリエイティブによって再び輝かせる、新たな価値を創出する、という信念が当社の理念とも合致したのです。日本という場所にあわせて彼らの技術を使うというのも一つなのですが、むしろ彼らの技術やブランドをつかって日本のコンテンツがもっと全世界に広がっていくところの手伝いをできるんじゃないかというところに話が膨らんでいったんです。京都府立植物園での「Light Cycles Kyoto」は一つの良い事例になったと思います。
▲MOMENT FACTORY社訪問時写真:左より粟谷尚生氏、Marc-André氏(MOMENT社)、 中山淳雄氏、Dominic Audet氏(MOMENT 社創業者)、渡辺敦子氏(S&D 社創業者)、Jonathan氏(MOMENT社)、遠藤陽一氏(S&D 社創業者)
――:三井不動産が“商社化"しているなとも思います。
面白い例えかもしれませんね。もう自分たちの施設を使うことにこだわっていなかったらそのまま商社がやっていることじゃん、みたいに思う時もあります。でもやはり場を自分たちで動かしてということを定常的にやっているからこそ、ほかの場をうまく活用することにも長けてくる。とも思っています。
場所、ファイナンス、コンテンツキュレーションの3つを持って、ここが一番大事なところですが「自分たちの場所」は主役じゃないんですよね。コンテンツとファンとの出会いを最優先にしたときに、それが自分たちの場所でないなら、それは三井不動産が海外だろうとどこだろうと「コンテンツとファンの出会いに最適な場を借りる・建てる・作る」ということなんだろうと思ってます。
――:その先に粟谷さん自身として実現したいこともあるんですか?
やっぱり “事業としてしっかり成功してみたい"ですよね。いま、すごく魅力的な方々とお仕事できているという実感があり、正直プレッシャーに押しつぶされそうにもなります。ホントに謙遜じゃなく、何もできない自分が育ててもらっているという感謝が、三井不動産にも、外部の方々にも、今のチームにも日々思いながらやっているんです。どうやってお返ししたらいいんだろう、と。そしてその最大のものがやっぱり、自分は「能を捨ててしまった」という心残りがどこかにあるんです。それは自分自身ではなく粟谷家という何世代と継承されてきたものをたかだか自分一人のエゴで切り離してしまった。捨ててしまったものの大きさの分だけ、人に恩返しをしてやっと一人前という感覚があるんです。
――:色々お聞きしてきて、「興行」っぽいことを事業化していこうとされる過程をみると、やっぱりパフォーマーでもあった粟谷さんの原点が大きいんだなと思いました。
3~4歳からデビューしてきた「生業」ですからね。やっぱり本質的にイベント・興行が好きだったんだろうなと思います。
能でもコンサートでもなんでも「あれはすごかった」といえる奇跡のような演目ができる瞬間があって、皆の記憶に残る。そのイベンティブなもののはかなさを何かで残したいんです。以前はパッケージという形が商売になってましたし、今はイマーシブなどのリアルの記憶をデジタルで記録・再現する仕組みがあるのだから、「21世紀のイベント事業」というものがもっと発明できる予兆は感じています。やっぱり最終的には「伝統芸能やアートにも恩返しできる事業」を形にしたいです。エンタメももちろん大好きなんですが、やはり能という僕を育ててくれたものを、この新しいフレームのなかで新しい体験と新しいユーザーをマッチングできるような事業を生み出せたら、本望ですね。
会社情報
- 会社名
- Re entertainment
- 設立
- 2021年7月
- 代表者
- 中山淳雄
- 直近業績
- エンタメ社会学者の中山淳雄氏が海外&事業家&研究者として追求してきた経験をもとに“エンターテイメントの再現性追求”を支援するコンサルティング事業を展開している。
- 上場区分
- 未上場