野球・サッカーを超えるダンス大国へ。市場ゼロ地点からの自転車操業20年、市場を創造したダンス界のカリスマカンタロー…中山淳雄の「推しもオタクもグローバル」第108回

中山淳雄 エンタメ社会学者&Re entertainment社長
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「Let's get it !! ~カマす!!~」を社是に掲げるダンス会社、アノマリー。率いるのは“カリスマカンタロー"。学生時代ずっと陰キャだった私は正直・・・構えた。ダンスはクラブ、ラッパーやチーマー・不良と容易に結びつき、およそビジネスとは無縁。だがそれは30年前の黎明期の偏見にすぎず、実は2010年代に中学校の義務教育化で現在野球やサッカー以上にダンス人口が存在するダンス大国となった現在の日本において「ダンスの位置づけ」そのものが構造転換しているのだ、と。カリスマカンタローは2004年に学生起業から始まり、20年このダンス文化の浸透をライフワークとしてきた。ダンス文化のためにイベントをつくり、テレビ番組をつくり、海外進出をし、現在はダンスそのもののIP・権利化のために尽力する「努力のカリスマ」でもあった。テレビ番組やLDH勢の活躍、クラブ文化浸透のなかで浮沈を繰り返してきたダンスは、現在TikTokとオリンピック競技化のなかではじめて「潜水艦が浮上する」タイミングにある。その歴史を紐解いてみた。

 

【主な内容】
野球・サッカーを超えた日本のダンス人口。2012年ダンス義務教育化で激変。
“シングルマザー"のダンス教師の母親に育てられた。Jリーグ目指し強豪5軍→2軍キャプテンになったサッカー漬け時代
Jリーガー&俳優の夢破れた明大時代。時間はすべてダンスにつぎ込んだ
就職せずにダンス学生起業。1970万円調達し、「DANCEALIVE」立ち上げ。
国技館に挑戦し、4年目に黒字化達成。徹底したマーケティング化で協賛営業を成功。
再び赤字覚悟でテレ東のダンス番組制作&シンガポール海外展開。潜水艦はいつ浮上するのか?
ダンス界のゲームチェンジャーTikTok、「アノマリーが作るべきじゃないの?」チームラボ猪子からの一言。MOTIONBANKでダンスの特許化

 

■野球・サッカーを超えた日本のダンス人口。2012年ダンス義務教育化で激変。

――:自己紹介からお願いします。

カリスマカンタローです。2005年から「DANCEALIVE」というダンスバトルイベントを主催してきまして、TVのダンス番組制作やイベントの海外展開などを経たうえで、現在はダンスのプロリーグ「D.LEAGUE」の創設・運営や、ダンス知財化の仕組みについてブロックチェーンなどを活用した新しいサービス「MOTIONBANK」に取り組んでおります。同時に日本発のダンス連盟であるFIDA JAPANの会長にも就いており海外展開を考えています。

――:2012年に中学校でダンスが義務化しました。それ以前、僕の時代とかですとダンスって「小学校にフォークダンスを1度踊った」くらいで完全にダンスと無縁の生活をしてきました。ダンスっていまどんな状態なんですか?

市場は確実にあったんですが、とても分散的でした。それが2012年に中学校でダンス教育が義務化したところから業界が急激に活性化し、近年ではオリンピック競技にもなりましたし、非常によいトレンドがダンス界にきております。約5000校ある高校の部活動で、ダンス部ってもともと10%の500高校くらいにしかなかったんですが、現在は50%、2500高校にダンス部があると言われているんです。この30年で純粋なダンス部の数が5倍になっているんですよ。

昔は野球・サッカー・バスケだったと思いますが、今の人気な部活って、ダンス・サッカー・バスケみたいな順番で、ダントツで高校生の部活人気のNo.1種目になっているんです。

 

 

――:まったく知らなかったです。すごいですね!?2012年、なぜ突然ダンスが義務教育化していったんですか?

実はどの議員、官僚、学者がこの施策を推進したのかあまりわかっていないんですよ。諸説あると思いますが自分が聞いた話ではとある大学の研究の中で体を動かすことが健康につながって、特にダンスがいいんじゃないかという話が最初の一歩だったように聞きました。自民党政権時代にそれが施策となっていく流れだったらしいのですが、2012年施行されたときには「民主党政権」になっていたんですよね。だから提案者と実行者が切り離されている状態なのですが、リズムダンスとヒップホップ、LOCKダンスとごちゃまぜにしながら中学校でダンスが義務教育化されたと。実際に誰が教えるのかとか、キッズの習い事でダンスは人気だったので先生も気まずいみたいな話が多く出ておりました。そもそもこの話も詳細まで合っているかわからないくらいフワっとしていて、その後誰に聞いても定まった回答を聞けた試しはないんです。

でも我々も驚くような効果があったんです。その数年のうちに「高校」で急激にダンス部が増えたんですよ。

 

 

――:もうZ世代の人気No.1の部活って「ダンス」になってるんですね!?ダンス人口もすでにサッカー超えているって衝撃なんですが、これはなぜ突然変異したんでしょうか!?

義務教育の力ですね。一度に義務教育で700万人がその経験を浴びるわけですから確実に地殻変動が起こるんです。別に長時間やらせてるわけじゃないですよ?年間に水泳時間が9時間、それと同じようにダンスも9時間。それを3年間経験しただけなんですけど、それだけで「興味」って十分なんですよね。中学でダンスをやった子たちが高校で部活をつくって、その後大学までダンスを続ける、という形でここ10年明らかに変貌しました。

そして間違いなくビックウェーブはTikTokですよね。表現の場が得られたことで、ダンスを何のためにならうのかという理由ができたんです。本当は踊れるなら踊ってみたかった子たちが、TikTokの「お題」があることで踊ることに理由をつけることが出来たのが大きいと考えています。カラオケが出来たことで歌うことが恥ずかしくなくなったのと同義です。

――:TikTokも2018年ごろから急激な浸透でしたもんね。ダンスリーグってそういえばプロ化したんですよね?

2019年にFIDA JAPAN(日本国際ダンス連盟)ができて、この会長を僕が務めております。ASEANの特別大使でもあった杉良太郎さんに名誉会長になって頂きまして、その後超党派でダンス議連も創ることができました。

日本って世界から見ても世界中のダンス大会で結果を残すほど強豪国で、これも一つの文化外交手段になりえるのにもったいないよね、と。でも誰もが分かる「プロ」の形を作ろうとしてもそのプロをいれる「箱・受け皿」がない、ということで2021年にダンスのプロリーグであるDリーグができました。日本発で比類ないプロダンスリーグです。2024年パリ五輪からブレイクダンス(Breaking)が採択されたところで活況が予想され、現在は5シーズン目を迎え14企業がオーナーチームとして参画しています(トップパートナーがソフトバンク、タイトルスポンサーに第一生命、ほかチーム参画企業としてエイベックスやカドカワ、コーセー、サイバーエージェント、セガサミーなどが名を連ねる)。

このFIDA JAPANとDリーグの関係が、サッカーで言うJFAとJリーグの関係性と同じで、今その上のFIFAにあたる世界連盟を成立させる為に整備しているところです。いずれはFIDA USA、FIDA CHINAのように世界中で作れるように考えています。この辺りはWWEやUFCを束ねているアメリカのエンデバー社のように、グローバルな興行IP会社として様々な視聴メディアと組んでビジネスを成り立たせるようにしようと動いている最中です。

――:そうか、カンタローさんは起業家としてのアノマリーの側面と、同時にダンス国際連盟組織を作るFIDA JAPANという公的組織のCEOの側面とどちらも担当されているんですね。ぜひ日本のダンス界の歴史をお伺いしていければと思います。

 

■“シングルマザー"のダンス教師の母親に育てられた。Jリーグ目指し強豪5軍→2軍キャプテンになったサッカー漬け時代

――:ご経歴から聞いてもよろしいですか?

長崎出身で母親がダンス講師だったことからつながっています。うちは僕が3歳のときから母子家庭なんですが、母は自分達を食べさせる為にオリジナルダンスをつくって公民館でそれを教えながら生計を立ててくれていたんです。母はストレッチダンスといってカラダと健康と楽しいという観点でオリジナルのダンスを開発していました。(もうすぐ70歳の今現在もレッスンは行なっています)。

ただ僕自身は「親が離婚していた」事実を大人になるまで知らなかったんです。

――:え、そんなことあります!?お父さんはどうされてたんですか?

佐賀県に長期単身赴任している、という風に見せてたんですよね。年に3-4回はこっちにきて会っていたんで、普通に僕も弟も家族はそのままだと思っていました。まさかもう離婚しているなんて、微塵も想像してなかったんですよ。高校3年の時だったかな、ある日「実はもうかなり前に離婚していた」と母に知らされて。時代が時代だったから親が離婚したなんて言うといじめにあったりとか心配だったんでしょうね。子どもたちがわからないうまくやっていたようなんです。名前も父親の姓の神田のままでしたし。

――:それは逆にご両親がすごいですね。まさか20年近く秘密を守り抜いていた。

思い返してみると運動会とかに一緒にいるのも周りは父親も一緒なのに僕だけ母親だったり、おかしい部分はあったはずなんですが・・・とにかく気づいてなかったですね。

両親の強さを感じたのは高校2年の時でした。

母親のダンス発表会に僕と弟が親子3人で人前で踊った時に、父親がとても感動していて。楽屋裏で誰も見ていない所で「よくぞここまで育ててくれた。ありがとう」って泣きながら抱き合っていて。そこをたまたま自分と弟は見かけたんです。何か幸せな離婚の形の一つだなって弟と感動していました。

――:でも1980年代当時で母親がダンスで生計をたてているってすごい斬新ですね。

だから僕も人前でデビューしたのは相当早いですよ。小学校5-6年のときに母親と僕と弟で3人でステージで踊りました。人前で踊る気持ちよさに気づいて、そのころには「将来はダンサーになろう!」と決めてましたね。

とはいってもダンサーなんて職業としては認められなかった。先生にいうと、「ちゃんとした仕事を目指しなさい」と言われて。いやいや、うちの母親は立派にダンサーとして仕事をしているよ、と反発した気持ちがありましたね。

――:中学・高校でもダンスは続けられていたんですか?

いや、一度離れています。中1の時にちょうどJリーグが開幕して、もうその頃は周りも

みんなサッカー一色。ヴェルディVSマリノスの試合を見て憧れてしまって、中学校では当然にサッカー部に入りました。その後進学する高校は長崎日大高校といって現日本代表監督の森保さんも出身OBのサッカー強豪校で、そういう中で僕は下手くそだったんですけど、とにかく人一番練習だけはするようなタイプで、朝から晩までサッカー、サッカー、サッカー。台風のなかで一人で練習していて、監督に怒られて帰らされるようなタイプでした。(のちにその監督からはこんな奴がいたと伝説的には伝えられていたと聞きました)。

――:ド根性ですね、、、!かなり強いところまでいったんですか?

それが、チーム全体で80名くらいの巨大な部活で、高校になると推薦で九州中のとんでもない選手が入ってくるような学校だったので3年間で結局レギュラーにはなれなかったんです。最初完全な素人からはじめて4軍みたいなところからスタートして、高校3年のときに2軍のキャプテン、チーム全体の副キャプテンにはなっていましたが、一度も1軍には上がれませんでしたね。

――:努力が凄い!強豪校で根性でなんとかやりきってたんですね。

ずーっと一人でジャブだけ打っているようなタイプですね(笑)。だから2軍とはいえ副キャプテンに任命されたんだと思います。誰もがやらないことを積み重ねていくと、最後は身になる、ということを強く実感したのは当時の特に高校時代のサッカーのお陰ですね。

結構本気でJリーガーになるつもりだったんですよ。(実は離婚していた状態の)父親にも当時ブラジルいくか、イタリアでセリエA(その当時はセリエAが世界最高峰でした)に修行にいきたいと直談判していました。当時調べたら年200万円かかる(いまで思うと安いですね)、その金を出してくれ!と。そしたら「高校で1軍レギュラーになれるんだったらイタリア留学の金はもってやる。それが受からないんだったらブラジルの片道切符代だけ出してやるから自力で帰ってこい」と言われました。1軍にはなれず、とはいえ流石にブラジルに片道切符で行く覚悟まではなかった・・・。今も後悔はしています(この時の後悔が今の世界的挑戦思考に繋がっているのかもしれません)。

――:それでJリーガーではなくいったん大学を目指すんですね。

それだけサッカーのことしか考えてなかったから、勉強は出来なかったです。日本史だけは飛び抜けて点数がよくて偏差値80みたいな状況なんですが、英語とかそれ以外があまりにひどくて(笑)。大学はその当時強豪校だった早稲田大学のサッカー部にどうしても入りたいと想い、そこも一点突破を目指すんです。現役は落ちて、長崎高等予備校で浪人生活をして2度目のチャレンジ。でも・・・タイミングが悪くて、ちょうど1999年は「広末ショック」だったんですよ。広末涼子さんが早稲田の教育学部にいくとなって、教育学部どころかあらゆる学部の競争倍率が急騰するんです。当時はホント東大にいくようなヤツが広末涼子さんを一目見たさに早稲田に行くような状態になりました。

自分の第一希望が広末さんの入る学部とモロ被って(笑)。

――:まったく同じタイミングで僕も現役時代に早稲田を全落ちしてますね笑。

あの年だけ異常に難しかったんですよね。それこそ理系の学部まで含めて全部受けたんですが落ちてしまって(マークシートだからもしかして受かるかもって受けました)、このままじゃ二浪になってしまう!とギリギリで合格をとったのが明治大学の夜間でした。1999年にそれで東京に上京するんです。危なかったですね(笑)。

 

 

■Jリーガー&俳優の夢破れた明大時代。時間はすべてダンスにつぎ込んだ

――:大学に入ったらどんな夢をもっていたんですか?

俳優も目指していたんですよ。東京に出て、Jリーガー&ダンサー&俳優の3足わらじで生きていこう、と思ってましたね。小学生の頃から母に読まされていた『マーフィーの成功法則』にも感化されていて、潜在意識に「信じれば、叶う」みたいな。今思うとすごいメンタル教育を受けていたのかもって思います(笑)。

――:サッカー部には入れるんですか?早稲田も明治もサッカー部ってたしか推薦でしか入れなかったんじゃないでしたっけ?

そうなんです。推薦以外はそもそも門前払いでルートがないんです。当時はネットもちゃんとなくて、セレクションがされるのかどうかも調べられず、「そもそも普通に入学した学生はサッカー部に入れない」という事実だけが目の前にありました。サークルには入って楽しむんですが、日に日に自分の努力のサッカーの糧が落ちていく感覚があって、そこでサッカーは諦めてしまったんです。

残った夢としての役者とダンスを目指し始めるんです。役者のほうは芸能事務所のオーディションも受けたり、その頃は『De☆View』という雑誌のオーディション情報を手に応募したりとか。「高校教師2」(2003年版)のドラマにも準レギュラーとして脇役で出たりもしたのですが、2003年ごろ完全にダンス一本になりました。

――:ダンスは大学生になってから再開していたのですか?

高校3年の時には再開し始めてました。地元のダンスチームに入って、受験でサッカーの部活が休みになると今度は地元のダンスチームのスタジオでダンスを学んで。その後の大学も夜間部だったことが幸いしましたね。授業は17~20時くらいだけ、それ以外の時間はバイトとダンスに費やしました。正直、ほとんど学校は行ってなかったんですが(笑)、日中から20時までバイト、そこから21時ごろ集合して練習が始まって大体夜中の3~5時くらいまでダンス。帰って寝て朝からバイト行ってまた深夜にダンスの練習、毎日がその繰り返しでした。

――:大学のダンスサークルには入らないんですか?

やっぱりあの当時のダンスってちょっと治安悪い印象ありません?(笑)。大学だと怖い先輩風がダンスチーム組んでたり、ちょっと飛びつきにくかったんですよね。一応ダンスが小さなムーブメントにはなってきていた時代で、『COOL TRANS』とか『Boon』『GET ON』とか『Fine』でもダンサー特集していたり。TRFのSAMさんがテレビ東京で『RAVE2001』とかをやっていた時代でした。それで僕は中野ZEROのストリートで、自分と仲間とひたすら踊り始めました。現アノマリーの執行役員のKIYOSHIはこの時からの仲間でありチームメイトですね。その頃はスマホなんて無いので、口コミで東京体育館の前でダンスやっている奴らがいると聞くと、そこにも行ったりとか。渋谷三竹公園に見に行ったり。

スタジオにも通いましたね。当時からアンダーグラウンドではMISIAさんのバックダンサーが日本一と言われていたんです。川崎クラブチッタでやっていた『MAIN STREET』というイベントの人気は絶大で、そこで活躍していたダンサーのスクールに通ってダンスシーンに入っていくんだ!と1レッスン2000円のレッスンに申し込んで、最後列の端っこからスタート。全員実力順に並ばされるので上手いやつはみんな最前列の鏡の前。ダンサーの息子っていっても長崎の田舎から出てきた自分のダンスの実力なんて大したことなかったんです。でも僕はこういうポジションに慣れてるんですよね、高校時代のサッカー3年間で(笑)。当然そこからのし上がっていくぞと相変わらず猛烈に練習して、ちょっとずつ番手をあげていくんです。1年、2年と通い詰めるうちにだんだん声もかけられるんです。「上に停まっているカッコいいバイク、君の?」とか「今度MISIAのライブくる?」みたいに。認められた!と思って。

※Cool Trans:1995年創刊の月刊メンズストリートファッション誌。2013年8月休刊。
※Fine:1978年日之出出版から創刊された男性向けファッション雑誌
※RAVE21:1998~2000年、テレビ東京の金曜深夜に放送されたストリートダンス番組。
※MISIA(1978~):日本の女性R&Bブームの火付け役。1998年BMGファンハウスでデビューし、1999年に“アンダーグラウンドのカルチャーをメジャーに“と「The Tour of Misia」のライブシリーズを展開。2000年「Everything」で200万枚突破。

――:SAMさんも「当時まだダンサーがいるユニットに理解もなかった…小室さんが照明の人に“SAMたちのソロはミュージシャンでいったらギターソロと一緒。ピンスポットは必ずあげてね"って言ったらくるようになった」(関連)というくらい、テレビ側も照明をあてていいのかその位置づけに迷うようなポジションでした。この90年代のTRFから00年代のExileにつながる流れが“ダンス後進国"の日本を変えていったタイミングなんだと感じました。人前で踊るのはどのくらいのタイミングなんですか?

スタジオに通ったり、中野ZEROで踊ったりしながら、半年~1年するころにはもう人前で踊ってました。神楽坂の「Club Spiral」で地元の友達が仲間でイベントサークルをプロデュースしていて、ダンサーが必要だからって誘われたのが最初ですね。そこで東京で初めてステージで踊ってから、あとは毎回飛び込みです。クラブに貼ってあるダンサー募集の張り紙(当時は短冊型に電話番号に切り込みが入っていて、それを切り取って直接電話する仕組みでした)で電話しまくるんです。すると「ノルマ〇枚だよ!」(基本は出演料はもらえず、逆に何枚チケットを売ってきたら初めて出役がもらえる仕組み)と伝えられて。東急ハンズ前の「ROCK WEST」が渋谷のクラブデビューでしたね。その他は「六本木CORE」とか。そうやっていくうちに、だんだん出番も後ろのほうになる(上手いグループになるとトリに近づいていく)。「勢いあるね」「頑張ってるね」とかオーガナイザーに認められるようになっていく。いつしか大トリを任せられて1回1万円とか出演でお金をもらえるようになるのが目標でした。

――:意外に地道な作業の繰り返しなんですね。当時なんというダンスユニットで活動されていたんですか?

2001年くらいにはそうやっていろんなクラブで出演できるようになっていきました。「Shindo(神童)」という名前で二子玉PINK NOISEとかでよく踊ってて、その時に他のチーム(Flex Sound(フレックスサウンド)もいたんですけどそのチームと息が合って合体して、2002年には「XYON(ザイオン)」というグループになりどんどん影響力が増してきました。もうその頃、大学3年生になってまわりは就職活動の真っ最中。それでも僕は一切見向きもせずにダンスをしまくっていました。それこそドレッドヘアでガソスタでバイトしながら。深夜も電灯磨きとか、あらゆるバイトを掛け持ちしてました。

 

■就職せずにダンス学生起業。1970万円調達し、「DANCEALIVE」立ち上げ。

――:そうやって一ダンサーとして東京のダンスシーンに入っていく中で、どういうタイミングで「イベントオーガナイズ」側に移るんですか?

2003年頃だったような。いつものように中野ZERO前で踊っていたら、声をかけられたんですよね。「中野区でダンスコンテストを企画しようと思っているんだけどイベントのプロデュースやってみない?」って。区からは少額の補助が出て、会場代はタダ。そこに招待ゲスト費などは自分たちのリスクでやってチケットでイベント興行をやって、そこそこ集まったんです。

――:これって大学は卒業できるんですか?

ほぼ大学に行ってなくても明治大学の法学部は4年生までストレートで行けてしまうんです(今は知りません)。しかし4年の時に留年してしまいまして、2回目の4年生の時に一気に90単位程を取得し、卒業はしました。

この2003年の時が今のアノマリーの前身となる事業を創業したタイミングです。会社のホームページ作れるよって入ってくれたのがダンサーではなく一般社会人経験者でNo2になるTAISHO、そしてXYONのチームメンバーで当時からクレバーだったSEIGO。このカンタロー、TAISHO、SEIGOの3人で創業したのがアノマリーでした。今も執行役員でいるKIYOSHIは公務員の試験を受けるつもりでバイトでちょっと手伝っていたんですが1年後に完全合流しました。会社自体はその当時、確認有限会社という制度があってそれで1500円で登記、その後活動資金はその時のダンス仲間2人が自分の生活費で貯めていたお金をお前に託すって20万づつ貸してくれて、それで始まった40万円からのスタートでした。

――:就職せずにいきなりの起業なんですね?

若い勢いですね。でもどんな事業がいいのかわからず、やっぱりダンスで事業とかでいうと「じゃあアパレルブランド作るぞ!」ってなり、自分たちでデザインしたTシャツとかを売り始めるわけです。30万円かけてTシャツを作り、その原価の3倍の価格で売れば90万円になるぞ!と。2回やったら100万円も超えるぞ!って。そして当然のように失敗するわけです。友達くらいしか買ってくれないし、在庫がいっぱい。「商売って・・・難しいんだなあ」と途方にくれました。バイトしながら会社もやっていたので、生活はなんとかやってました。

――:2004年と、ずいぶん早い段階でダンスイベントを主催していますよね。

その当時K-1ってめちゃめちゃ流行ってたんですが、あの時に強い選手が出てきてテレビでフォーカスされていた。失礼な話ですが特にルックスがずば抜けているとか特別なコネをもってたりしなくても、誰でもスターになれる道があるんじゃないか?と思ったんです。ダンス業界でいうその一番の先行事例が、大阪でやっていたDANCE DELIGHT。1994年からやっていた日本一のダンス大会でした。

僕自身、DANCE DELIGHTにXYONで挑戦しつつ、その他の大会で「THE GAME」というバトル大会に出ていて、これだ!と思ったんです。アドヒップのマシーン原田さんのところにご挨拶に伺って「東京でも僕ら、こういうイベントをやりたいんです」って。

――:ライバル関係ですね。競合になるんですか?

いやいや、もう当時ダンスはマイナーだったので、若者がそういうチャレンジをすることを温かく応援してもらいました。「がんばれよ!」って。それで、賞金はもっと高いほうがいいな、とか参加者目線で課題を出しまくって、新しい東京のダンスイベント「DANCEALIVE」(当時はDANCE@LIVEと書いて@マークをAと呼んでいました)を事業として立ち上げました。2004年のことでした。

――:でも学生ベンチャーがやるには「お金」がつきものですよね?

そうなんですよ、当時手元にあったのが増えたり減ったりして30万円。全然足りないんです。それでTAISHOのつながりでとある企業の役員の方にプレゼンをする機会を得たんです。「ダンス界のK-1作りたいんです、世界にむけてダンス文化を発信したいんです」って、呼び出された帝国ホテルのロビーで、3人で4500円という目玉が飛び出るほど高かったコーヒーをすすりながらお願いしたいんです(その当時は1500円という値段にびっくりしてました)。

株も借入も資金の形式なんて頭になかった時代です。そういうお茶の場を2-3回繰り返したときに「じゃあ僕は何をしたらいいでしょうか?出資と融資どっちがいいんですかね??」って言われて、答えを用意してなかったのでどうしようって。3人で相談して100万じゃ足りないな、でも300万円なんて高額出してくれるのかな?でも2年はやるつもりじゃないと厳しいよな?というようなやりとりを重ねて、最終的には全部ひっくるめて「1970万円をお願いします!」って勢いで言いまして。

――:え!?どういう計算ですか?

ざっくり2年で2000万くらい必要だと思ったんですけど、その金額だと根拠なさすぎますよね。会社をやるとなったら社員も必要だし、拠点作りとか、ざっくり月に100万は必要だなと。ちゃんと積み上げた根拠ある数字に見せようと思って頑張って鉛筆ナメナメ返済計画も5年で考えた上で1970万円で融資をお願いしたんです。そうしたら・・・「わかりました。では融資で1970万円、5年間で返済に関しては…」って進んでしまったんです。その時の感想は・・・「これはとんでもないことが起きてしまった!」という感じでした。その当時は勢いのみでした。でも不思議と、絶対に返せるって思っていました。今までの努力型をここでも発揮しようと。

――:もう起業家ってみんな背伸び背伸びですよね。すごくわかります。

中野にオフィスを借りて、バイトも採用して、これからどでかいイベントを作るぞ!と。皆が月20万円の給与をとって、いろいろ動き始めて半年たったときに・・・1000万円がなくなっていたんですよ(笑)。え、どうして!?って。イベント以外に収入がなくて、普通に人数集めて給与を払っていたら当然そうなりますよね。その時の恐怖感ったらないですよね。

3か月ごとに予選をやっていって3回くらい繰り返すうちに小さなイベント自体はギリギリ黒字のトントンで回せるようになってきた。翌年はでっかい会場を借りて決勝大会だ!と。その当時の日本最大のクラブ箱である新木場の「スタジオコースト」を使って日本一のイベントをやるぞ!とぶちあげた発表をしました。1年間とにかく無我夢中で宣伝しまくって人海戦術でやっていた甲斐もあって、2005年3月の第1回は2500人が会場満杯で入って大成功。ついにやったぞ俺たちは!という感じでした。

――:イベント事業のだいご味ですよね。でも・・・収支はどうだったんですか?

まさにそこのポイントです。大成功した!と思ったイベントの収支は蓋を開けてみると▲700万円でした。それまで使ってきたお金も集めて1970万円あった資金は残り400万円くらいまで減っていた。達成感とともに絶望感がやってくるんです。「ここまでやったのにダメなの・・・!?」と。チケット3000~5000円で当時はそれでも高いと言われていましたが、やっぱり場所代以上にダンス決勝の舞台設営で数百万円がかかる。そこに協賛などをいれても物販でTシャツ売っても焼け石に水。さらにカッコよさ重視でとにかくカッコよく派手にしなきゃ次はない!って豪語して、制作費はどんどん上がっていきました。今思うと、コスト計算も甘くどんぶり勘定でどうやっても借金が残る構造だったんです。

 

 

■国技館に挑戦し、4年目に黒字化達成。徹底したマーケティング化で協賛営業を成功。

――:最初に1970万円調達して赤字事業。このまま辞めて違う事業に、とはならないんですか?

イベントって今でいうIPとしての知的財産が残るんですよね。イベントを見に来てくれた方の中で「このイベントは伸びるかもね」という感触をもってくれた様々な会社の偉い人達がいました。その中で例えばインデックスさん。インデックスはその当時流行り始めていたソーシャルネットワークのmixiがまだモバイル対応前に「Gooco」というサービスでモバイル型SNSを運営していまして、そこがスポンサーをやってくれることになり、それで借金をなんとか返して首の皮一枚で生き残りました。

――:翌年の協賛金で今年のイベント赤字を補填するようなモデルですね。実際にダンスは世間的にブームはきていたんですか?

2004年からEXILEが人気になりはじめていました。2007~08年にTAKAHIROさんが出てきて更にLDHはどんどん大きくなっていきます。でもLDHが開拓した「芸能界フォーマットのダンスシーン」とこちらの「ストリート界ダンスシーン」はほぼ連動しないんです。「芸能での社会的成功はホントすごい。でもダンスシーンのこっちがリアルなんだ!」みたいな感じで負けるものか!と思って噛み締めてやってましたね。

もう当時のダンス人口やユーザー規模を考えると、こんな大規模なイベントなんて本当は合理的には成り立たなかったんです。でもGoccoさんの協賛もありなんとか2年目のイベントが実現できた。次はアディダスさんが入ってくれた。3年目にはNIKEさんがなんと5000万円も出してくれる規模にまで成長し始めていた(大いなる期待が込められていました)。そしてSony Music、ソニーエリクソンさんと協賛を決めて頂き、奇跡がどんどんつながっていきました。

2007年の3年目は両国国技館に規模を拡大し、NIKEの冠スポンサーで実現しました。初年度は1万人埋まりきらず5000人規模でしたが・・・とにかく風呂敷をひろげて不可能を可能にしながら、その夢に乗って頂いたスポンサーの皆様のお陰でDANCEALIVEが続いていったんです。

――:逆にどうやって協賛を集めていたんですか?

若い層のマーケティングという一点について、我々は絶大な自信がありました。初期から毎年ご来場いただいたお客様に徹底的にアンケートを取るんですよ。携帯キャリアは何を持っているか、好きなブランドは何か。例えば今履いている靴のブランドは何かを全部アルバイトや僕らで目視でカウントして全部データにしていたんです。2007年はアディダスが1位でNIKEが2位でしたが、実際に2008年にNIKEが協賛に入ってくれた時には人気トップダンサーにNIKEを戦略的に提供するんです。憧れのダンサーがNIKEになると、自ずと生徒たちはNIKEに切り替わっていきました。そうやって徹底していると、実は2年でこの順位が入れ替わって、観客のNIKE比率が上がり逆転しました。

こういうことをブランドごとに繰り返して、これ自体を協賛メニューにしていくんです。NIKEもソニーエリクソンも協賛を出してくれるのはマーケティング部署だから、彼らと企業のマーケティングはどうやっているかを膝付け合わせてやっているうちにウチのマーケティング力もあがっていくんです。そうした努力の結果として、ダンスアライブはまれにみるほどマーケティングが有効なイベントとなり、協賛が絶えないイベントになったんです。

――:すごいですね!なるほど、そこまでやれば旧式のイベント事業でも「マーケティング」として成立していくんですね。最初の1970万の借金はどうなったんですか?

国技館開催の2回目が終わったころには一応借金もなくなったんです。ようやくゼロリセットで、当時は「少年チャンプル」(日本テレビ系、2004~05放送)や後続の「スーパーチャンプル」(2006~09)などダンス番組が地上波で放送される時代でした。“ひとりでできるもん"や“ストロングマシーン2号"などテレビ受けするダンサーがダンスブームを引っ張っていました。昔からちょっとずつそういったテレビが牽引する流れがありましたよね。「ダンス甲子園」(日本テレビ系、「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」の企画「高校生制服対抗ダンス甲子園」の略称、1985~96)があったり、「とんねるずの生ダラ」でもダンス特集回(1995~98ごろヒップホップ特集)があったり。

デカいことやるって大事ですよね。マシーン原田さんも「まさか3年で国技館までいくと思わなかった」と驚いてくれました。DANCE DELIGHTもどんどん規模を大きくして、DANCEALIVEも負けじと大規模化して、西のアドヒップ、東のアノマリーと言われるくらいに大きくしていった自負はありました。我々がやっていたイベントも中京テレビで紹介されたり、僕自身もダンス監修の仕事を頂いたり、この2010年前後でようやくダンスシーンに火がついてきた実感はありました。でも正直「成功した」という感覚はなくて、隣をみるとLDHがとんでもないデカい規模でドームツアーをバンバンやっているわけですよね。いやいや、半端ないな、って。

――:国技館みたいな大規模イベントのオーガナイザーをやりながら、カンタローさんはダンサーとしての活動も続けていたんですか?

結構平行では続けていましたよ。深夜練習は続けていましたし、いつでも自分が踊れるように修練していました。ただこのあたりで年齢も30代に近づいてきて「オーガナイズをやりながら国技館でのオープニングで踊るのしんどいな!」みたいな感覚がありました(笑)。

もう運営が本当に大変だったのでほんとに練習時間もとれなくて自分自身のダンスどころじゃなくなってきていて、このあたりで「ダンサーとしての世界一じゃなくて、世界一のダンス会社を目指してダンスで世界を変えよう!」と自分の中で切り替えました。

ダンスは一般的には味も含めて20代後半から30前後が一番エネルギッシュですかね。

それも最前線で活躍している世界的なダンサーには関係ない話なんですけど(笑)。ブレイキンも10代でキレッキレですし、だんだん20代になるとスタイルとかパワームーブではない味をいれてうまく見せていく技ができてきます。それでもやっぱり年齢でついていかなくなる俊敏さなど若いうちが一番ではありますね 。

 

■再び赤字覚悟でテレ東のダンス番組制作&シンガポール海外展開。潜水艦はいつ浮上するのか?

――:ただ2008~09年で一回とりあげられてきたダンスのTV番組も終わっていきますよね。

はい、火をつけた番組が終わっちゃうとぴたっとブームは止まるんです。また再開するまで何年かかるかわからない。だから自腹でテレビ番組を立ち上げました。テレビ東京地上波で「DANCE@TV」(2009~14)を作って、ダンスアライブでもCMを枠買いしました。

――:え、全国放送ですよね!?数百万円後半とか、下手すると数千万円。ベンチャー企業のアノマリーがテレビ番組をもつんですか?

やはり自分の会社の規模からしたらきつかったです。29歳、なんとかダンスの市場の火を消さないようにと必死でしたね。番組の製作費も自腹で、そこにCM代まで買わなきゃいけない。でも放送されるのは金曜日深夜の02時30分と深めの時間帯でした。ネットのアーカイブもない時代で、一体どこの誰に見られているかもわからなかった。それでもアンダーグラウンド、ダンスアライブなどで見ているダンスをもっと多くの人に届けたいと思って続けました。だから毎月****万円ずつお金が溶けていきました。

――:いや、それはそうですよね笑。判断が大胆すぎる・・・!?

そしたら、いよいよ2012年のダンスの中学校義務教育化に時代はなります。皆これからダンスがくるぞ!とあらゆる企業が騒ぎ出して、ある会社では「Let's Dance」みたいなTシャツのブランドとかがどんどん入ってきました。しかし、売れなくてすぐに撤退していきました。ダンスシーンのこと、カルチャーのことをわからないでマーケティング情報もない中で参入しても難しかったのでしょう。そこはまず自分に聞いてほしかったと切望していた時期でした。

その頃は、自分も様々な壁に当たり失望の谷だったんじゃないですかね?でもそんな中で、テレビ番組もそうでしたが、同時にDANCEALIVEのグローバル展開を考えたんです。こういう厳しい時代だからこそ攻めるべきだと。

――:え、ええ!?イベントの海外展開ですか?それはだいぶデンジャラスすぎる判断では・・・(イベントは立地にひもづくブランドでAnimeExpoやJapanExpoのような世界的なイベントでもほかの国に進出しては失敗を繰り返している)

はい、ちょうどシンガポールでマリーナベイサンズができて盛り上がっていたタイミングでした。僕らは各国と地域に200万円ずつ配って予選をやってもらって(ラスベガス、タイ、台湾、シンガポール、マレーシア、韓国、イタリア、インドネシア、インド、香港、中国、オーストラリアなどで開催)、決勝は全世界からダンサーをシンガポールのマリーナベイサンズに呼んで世界決戦。全員招待で4泊分の費用ももって、もう開催するだけで5000~6000万円かかるような一大プロジェクトでした。

――:あまりに無謀なんじゃ・・・。

アディダスもスポーツシューズでオリンピックでマーケティングしていったところから世界市場に食い込んでいったんです。「世界ブランドは最初にやったもん勝ち」とちょうどその頃お会いしていたある企業の責任者の方に教えてもらった発想だったりして、自分でも色々想いを張り巡らせていたので、このタイミングで誰もがやったことないところに進出しようと。ルイヴィトンのSHOPの反対側に位置するAVALONというクラブを借りて「DANCE@LIVE WORLD CUP 2013」を2013年6月にやりました。海外の場合、最初に支払いタイミングがくるんですよ。でもそんなお金なんかないわけです。

――:と、なるとまた借金・・・?

「お待たせしました、ようやく世界大会です」と、1970万円お借りしていたエンジェル投資家に5年ぶりでしょうか、お会いしまして。そこで今までの実績と一度完済している信頼もありまして、有難いことに大きな金額をお貸して頂きまして、無事に開催することができました。実際には11の国と地域の代表ダンサーが集結し大会自体もとても盛況でした。今後はアジア圏のスポンサーがつくようになるんじゃないかという期待もありました。その時アジア中で攻勢をかけていた韓国系企業やMTV ASIAの副社長とか、電通シンガポールとか色々な方々を呼んで、「来年もやるなら声かけてよ」といい感触だけは残りました・・・借金とともに。

7000万円の赤字、年で関わる経費も含めると1億円弱の損失です。しかしながらそれこそ単発で終えるとただのテストのみになってしまうので、続けて2014年も場所を台湾に移動して開催。しかしながらこちらでも3000万円の赤字となりました。これらの海外展開は完全に裏目に出ましたね。社員からも「海外からだけは撤退しよう」と猛反対されましたね。ただこれまでやってきたように借りたからには当然逃げるつもりはありませんでした。

 

 

――:なんですかね、既存の事業が芽を出して安定する前くらいに、かならず次の新しい野望に、というのが繰り返されている印象です。

アノマリーはイベントで売上、利益が上がったとしても、次はこれ、次はあれと、未来に向けた投資にお金を出し続けて、何よりダンス市場の拡大に向けて投資し続けてきました。デカいことするぞ!カマすぞ!と僕がずっと突っ走り、まわりのメンバーも「一体今年こそは我々の潜水艦は浮上するのでしょうか?」という感じで。原資はマーケティングを駆使しなんとかスポンサー営業で集め続けながら、20年間そんなこんなでギリギリを続けてきたんです。

――:なんか金鉱、掘ってるみたいですね。

ほんとにそうですね。もうあと1メートル掘ったらでるかもしれない、というのを延々と追いかけて20年やってきました。創業メンバーでチームメイトのSATORUが2014年に辞め、2022年にSEIGOが辞めました。みんな結婚して生活スタイルが変化し、「いつ、浮上するんだ」という僕の夢とずっとやっていくことが難しくなってきたんだろうなって感じましたね。色々迷惑をかけたしホント申し訳ないと思っています。

でもあらゆる場面でダンスを見かける今の時代、ようやくここまで来たという実感は出て来ています。ここからがいよいよ勝負です!そして日本を一気に飛び越えてグローバルで展開できるチャンスでもありますね。

――:ようやくカリスマカンタローの「カリスマ」たる所以が理解できてきました・・・

まず、ココ日本で20年かけて展開してきたことでダンスファン層は確実に増えていました。2010年代後半くらいになってくるとDANCEALIVEの両国国技館のチケットはS席が数分で即完するレベルになっていましたし、実際にダンス事業に足を踏み入れてきた企業などが撤退したあとの2010年代後期にはダンサー人口は年で100万、200万人という単位で増えていました。アノマリーの借金は新規海外事業とか僕が発案したMOTIONBANKなどの新規事業投資によって積みあがっていたので、普通に経営をしていたら利益は出る状況。だから借金しても返しきる自信がありました。

 

■ダンス界のゲームチェンジャーTikTok、「アノマリーが作るべきじゃないの?」チームラボ猪子からの一言。MOTIONBANKでダンスの特許化

――:2010年代前半、義務教育化にあわせてテレビ番組制作にダンスアライブの海外展開。大胆すぎる打ち手で借金は膨らみながら、そろそろTikTokのお話を伺えればと思います。

TikTokが完全にダンス界の次元を変えました。僕は米国でMusicaly.ly(2014年8月に米国でリリース、これが2億人ユーザーを超えた2017年11月にByteDanceに買収されたことで「TikTok」という形で2018年8月から名称を変えて全世界を席巻していく)が出てきた時点でDLしていて、「これは来るぞ!」と方々に言いまくっていました。カラオケと同じ現象になると思っていたんですよね。つまり踊ることの理由がオフィシャルで生まれるので、恥ずかしかったダンスを誰でも踊ることができる時代になると。同じようなものをうちでも開発できないか、と試行錯誤していたときに、途中で中国のByteDanceという会社が買ったらしいときいて、これはヤバいと思いました。

そしてヤラれたのは、TikTokにはちゃんとユーザーの公式的な言い訳理由となる「お題」の仕組みがあって、皆がそれをマネするだけでUGCでコンテンツになるという状態でした。「これこそ、カンちゃんが作るべきアプリじゃないの?」とその当時チームラボの猪子君にもたまたま会ったMTGとかで言われましたね。

――:日本でのTikTokブームは2018~19年でしたが、その数年前から気づかれていたんですね。そしてチームラボの猪子さんからもそんな発言が。

でもアノマリーで作ろうと思っても、絶対ダメでしたね。TikTokって音楽の版権処理ができないグレーの状態からはじまって、ユーザーが億を超えてから初めて音楽レーベルと交渉したじゃないですか?そのやり方って日本の企業だと難しいですよね。バズらせて既成事実をつくってから権利処理をするっていうのはそもそも違法ですが、ある種のブレークスルーでしたね。日本の法律が海外で戦うのにこんなに不利なものかと思いました。2018年から加速して2年間でTikTokはどんどん別次元になっていきました。

なにより「ダンスの概念」が変わりました。そもそも、パラパラも、阿波踊りも、よさこいも、ダンスですがその幅を流行りの音楽とともにグイって一般層にまで拡げました。

「ダンスとは・・・」という枠をもっと広く考えないといけないというのは改めてTikTokによって学ばされましたね。

――:歌ってみた、もありましたが「踊ってみた」が鮮烈でしたね。

TikTokerたちがコロナでオンラインの振り付けを作るだけで月数百万円稼げるような時代になったんです。いままでダンス界では全く知られていないような子がどんどん出てきて、キッズダンサーたちもすごい技巧をみせるようになってきた。いままでダンスはどこか「芸能」というルートが必ず必要だったんです。でもTikTokからInstaのリールやYouTubeショートにも出せるようになって、どんどん別世界から大量のダンサーが生まれてきた。

それまで「上手い人しかダンスを教えられない」雰囲気がありましたが、もういまやキッズダンサーがZoomでTikTokでバズるダンスのやりかたを教えるような時代ですよ。

――:アノマリーはどうだったんですか?

ずっと10人程度のベンチャー企業で毎年DANCEALIVEを運営しては番組作ったり海外展開したり、Dリーグ運営を担ったりと並行して四苦八苦やってきましたが、もちろんコロナ初期はオフラインイベントがとまって苦しんだ時期でしたし、近年ようやく光が差して来ました。いまこそが潜水艦が浮上する時期です。2016年頃から実は大きなプロジェクトを仕込んでおりまして、これがMOTIONBANKになります。

 

 

――:MOTIONBANKというのはどういうものなのですか?

ブロックチェーンの技術の話を2016年頃からずっと構想してたんです。ダンスは面白いムーブを発明して流行らせても、そこに何の著作性も残らない。でもブロックチェーンに記録して自分が最初にそのムーブを世に出したことが証明できるのであれば著作権管理が出来るようになるはずだ!と。

そこから帝人フロンティアさんと一緒に取り組んで研究を開始し、モーションキャプチャーで取得したダンスデータを分解して組み合わせしてみるという事をテストしていました。取得した踊りのデータ量も1カウント分にするとおよそ45万カウント分のデータになりましたが、例えばある1つの同じ振り付けを複数の他人が踊ったとしてボーンデータに差が生じないことがわかりまして。つまり誰の踊りか判別するのが難しいのです。プロであればあるほどその技術がデータ上で区別出来なければならないのに難しいという壁が出て来ました。当時は現状のモーションキャプチャーの精度と仕組みでは難しいという判断になりました。

そこからは、アノマリー単体でテストを繰り返しました。独自に光学式カメラで更に細かくダンスデータを取得してみたり、ダンスのカウント間のゆらぎの計算(綺麗な流れで繋ぐには重要)、更には音楽のBPMとの同期、それぞれのダンスの区分とタグ付け、他沢山の要素を潰していくという日々。そんな中で、もしかしたらダンスの知財化って出来上がったダンスを区別するのではなく、音楽と同じように知財化することが解決するのでは?と辿り着いたんです。

まさに「踊りの譜面化」構想がこの時に誕生しました。そしてその先には誰でも振り付けが作れる時代へ突入するイメージが固まりました。例えばボーカロイドが誕生したことによって音楽を作ることが民主化したみたいに、たとえ踊れなくても振り付けが作れるように。そして、いずれは音楽出版社のように舞踏の出版社ができるんじゃないか?と。

――:踊りの譜面化、というのはどういうことなんですか?

自分で振り付け(制作)して登録したダンスが奇跡的にバズった時に、そこにロイヤリティが発生する仕組みです。「MOTIONBANK」といって、モーションキャプチャーであらゆる基礎パターンのダンスをカウントごとに扱え、振り付けを構成していきます。創作者のIDとこのダンスデータIDをブロックチェーンに書き込みデジタル譜面化することで管理・運用ができ、そしていずれは各々が持つウォレットにそのロイヤリティが分配されるようなインフラにまでなっていく未来。この事業モデルに関してはビジネス特許が取れました。

――:類似したダンスがいっぱいある中で「どこまでが著作範囲か」は難しくないですか?モーションの差分がどこまでわずかなら「違い」として検知する?

それは難しいですよね。だから現段階ではあくまで「基礎データを自分で順序立てして構成したダンス」の順番コードの併願性登録ベースなんです。先願性にするのはまだ問題も多いので。また、誰がその踊りを作ったのか?という視点では、現時点フォロワーが多い方々の意見が強いSNSの作用と同じ力学が働くだろうと考えています。ダンスそのものだけではなく、〇〇が作ったダンスだからということでバズの価値ってそのパーソナリティも含めてですよね。いわゆる基礎データの流行りのパターンを引用してオリジナルMIXにしていく作業に似ています。引用ベースが今は重要なフェーズで、誰でも登録が可能。しかしながらその中で自分のダンスをどこまで自分のだと主張できるかは民意もある程度必要な物差しになってきます。

――:これはダンスは実際にどこで使われるものなんですか?

具体例を申しますと、例えばFORTNITEなどのある種のメタバースプラットフォームが今は複数存在していますが、Web3の世界においてアバターに自分なりの差を表現する上でモーションを必要するニーズは必ず存在するのでこういったところで「ダンスの楽譜」は売れてくるだろうと見込んでいます。実際ダンサーでFORTNITEで遊んでいる人の中でエモートを購入している人は10%ほど存在していて結構ニーズも多いんです。これからは“エモートバトル"というカタチでWeb上でダンスバトルやっている未来も以前より想像がつきます。しかしエモートの権利問題は今も課題が多いので、その解決を担えるとも思っています。B2C2Cモデルが可能となるプラットフォームです。

――:先発明主義(一番最初に発明した事実を証明できればOK)でも先願主義(一番最初に発明したものを特許庁に認められたらOK)でもなく、あくまで引用ベースでという大学の論文みたいな仕組みですね!なるほど、それは有効かもしれません。

これまでアノマリーはあくまで日本トップ級のダンスイベント主催のマーケティング会社でしたが、私自身この5年でダンス文化に対するFIDA JAPANとDリーグのような公的な動きも並行で行っていますし、今までと変わらずダンスアライブのような文化的側面は継続しています。そして、これからはそれらと同時にテクノロジーもダンス事業に取り入れて音楽出版や音楽原版が築き上げたような「ダンスも権利で稼ぐテック事業」を実現する動きに自身も変わってきていまして、アノマリーでは実は初めての資金調達も実現しました。

――:創業20年、ほぼ「借入」だけでやってきたアノマリーが、この段階で資金調達なんですか!?

はい、シリーズAでは合計で7.3億円調達しました。2022年の段階で一度NTTドコモさんが、そして今年5月にはSony Music Solutionsさんなどシナジーが見込める企業、個人投資家さんの皆様に出資頂きました。バリュエーションもポストで評価額62.8億となりました(こちら)。

――:ついに、価値が顕在化しましたね、、、!?ダンス起業、しかも創業20年以上経っての50億超えってスゴイですね。でもダンスのパターンだってアバターだってAIで作られる時代になると思うんですが、今後どうなると思います?

結論から申し上げますと人間的な楽しさは「アナログに戻る」と思うんですよね。

漫画描くのが楽しいから漫画家になったり、音楽作るのが楽しいから音楽家になるわけで、AIにすべてを自動で作ってもらうのは楽かもしれないしお金は稼げるのかもしれませんが、純粋な楽しみとは違うのかなって。すべてがうまくいったら暇になっちゃうので、また何かしらの課題を見つけたくなるのが人間なのかなって思うので、結局アナログの良さは継続する。しかし、AIの使い方では劇的に面白くなるので、補完サービスとして共存かなって今は回答しておきます!

逆にデジタルがあることでどんな人間にもダンスができる機会が増えてくるとも思います。例えばBTSの振り付けを寝たきりの子が楽しくアバターで踊りまくるみたいな世界が来たらいいなと願って頑張っています。

――:資金調達したお金は何に使うんですか?

MOTIONBANKの開発が継続しているのでまずはその開発費です。そして活動の拠点をメキシコ、セネガル、ドバイ、中国、インド、フィリピンなどに広げていきます。全部ダンスですよ(笑)。今から中東ってダンスが熱くなると読んでいます。例えば中東の王族の息子たちはSNSをキッカケにダンスにはまっているでしょう。サッカーの次に何?って思ったらダンスですよきっと。世界中の子どもがやっていますから。

そういう「次のダンスのホットスポット」という意味で中米、中東、アフリカに張っていこうというのが今の戦略です。ダンスはどこの国にでもありますし、言葉の壁を超えて来ますから、実はグローバルビジネスと相性がいいんです。アフリカには未開のダンスが眠っています。そのすべてを知財化して、還元したい。ここから10~20年でダンスマーケットのグローバルレベルは全然違ってくると思いますよ。

アノマリーは、今となってはコミュニティをビルドアップする会社なんだなって気づきました。ゼロからニーズを生み出し、マーケティングしながら時間をかけて構築していく。気づけばそこにマーケットが存在しており、ファンダムが形成されている中で必要なインフラを整えていくということに特化しているんです。今自分はダンス領域でそれを形成していますがこの考え方が他業種にも活かすことができるようになってきています。いよいよ成長フェーズですね。20年かかったから遅いけど(笑)。

――:カンタローさんが「潜水し続けた」20年を聞くと、いまの動きの重みがグッと違って聞こえます。

僕はダンスだけで20年やってきました。子どものころも入れると30年でも効かないくらい人生をダンスに賭けてきました。今いる友達や交友関係って全部ダンスがキッカケで仲良くなったんですよ。それがテクノロジーも含めた会社になって、今や大手出版社の社長さんでもダンス、そしてMOTIONBANKに興味を持って頂き話をわざわざ聞きに来てくださるようになりました。

未だにお金は貯まっていない市場からしたら潜ったまま機会を伺っている潜水艦会社ですけど、これだけ粘り続けてきたからこそ今のアノマリーのダンス界におけるポジションがあります。僕は高校サッカー部時代に一番下手だったところから努力を積み重ねて粘りまくって4軍から2軍キャプテンに這い上がっていった時の根性型の自分と何も変わってないなって思うんです。

でもきっと成功します。自分の中では断定ができているので、勝手に道が揃って来ているというか、沢山の人にお世話になりながら道を走っています。そういう意味では、いま本当に毎日が幸せです。

 

 カリスマカンタロー(神田勘太朗)
起業家・ダンサー・ダンスクリエイティブディレクター
株式会社アノマリー代表取締役CEO
株式会社Dリーグ代表取締役COO
一般社団法人日本国際ダンス連盟FIDA JAPAN会長

会社情報

会社名
Re entertainment
設立
2021年7月
代表者
中山淳雄
直近業績
エンタメ社会学者の中山淳雄氏が海外&事業家&研究者として追求してきた経験をもとに“エンターテイメントの再現性追求”を支援するコンサルティング事業を展開している。
上場区分
未上場
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