ポーランド・ゲーム業界に根付いた榊原寛。世界3000万本の『Cyberpunk2077』で重宝された日本人の職人性…中山淳雄の「推しもオタクもグローバル」第109回

中山淳雄 エンタメ社会学者&Re entertainment社長
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ポーランドのゲーム業界は日本からはずいぶんと隔たりがある。中欧で4000万人強の人口を擁するポーランドには日本人が約2600人在住しているが、そのほとんどは自動車や工業機器などのメーカー。日本企業でいうとアニメはおろかゲームでもほとんど進出している事例をみない。そんなポーランドで開催されるGIC(Game Industry Conference)に足を運んだ著者は日本人の名前を発見する。Hiroshi Sakakibara、聞くと京都大学でザンジバル島の研究者であったにも関わらずゲーム業界に飛び込み、チェコ→アメリカ→ポーランドと腕一本で渡り歩き、なによりNetflixでも人気になった『Cyberpunk:Edgerunner』の原作元でもあり、世界で3000万本売った『Cyberounk 2077』のゲーム会社でもあるCD Projektで働いていた日本人、とのことだった。“ポーランドのフロム・ソフトウェア"とでもいう有数のゲーム会社になぜ日本人が!?ということでインタビューを行った。

 

【主な内容】
アフリカタンザニアでの「ザンジバルドア」研究者の道からゲームの背景アーティストに
チェコからサンフランシスコ勤務。2K「マフィア3」で大作1本目を仕上げる
ポーランド時価総額No.1企業CD Projektで『Cyberpunk 2077』を手掛ける
優等生な日本人クリエイターは海外でもっと求められている

  

■アフリカタンザニアでの「ザンジバルドア」研究者の道からゲームの背景アーティストに

――:自己紹介からお願いいたします。

榊原寛(さかきばら ひろし)と申します。今ポーランド在住のCGアーティストで、以前はCD Projektで『Cyberpunk 2077』のプロジェクトに関わっておりました。

――:榊原さんはもともと研究者だったとお聞きします。

京都大学文学部出身でポルトガル史を専攻していました。そのまま進学して京大の大学院でアジア・アフリカ地域研究研究科というところにいたんですが、そこでフィールドワークと称してバックパッカー型にいろいろなところを渡り歩いていたんです。16世紀のポルトガルも進出した東アフリカ各国で、その中で流れ着いたのがタンザニアのザンジバル島でした。滞在していたのは院生時代に3か月を2回にわたって、約半年くらいですが「ザンジバルドア」の研究をしていたんです

インド洋の交易都市だったころにインドやアラビア半島からの商人たち古い街並みをつくっていたときに「富の象徴」としてドアにお金をかけていた時代があったんですよね。それをどういう風にデザインをつくるのかというのを統計分析的にアプローチしてました。当時はこのテーマで研究していたのは日本で私一人だったと思います。

――:ゲームからはあまりに遠い話過ぎて驚きますw

そのころは研究者になりたいなと思っていたんです。ザンジバルの工房で木を彫りながら、「他人の彫ったものを研究するより、自分で作るほうが面白いんじゃないか」とふと思うようになりました。

文系とはいえ大学時代に油絵を習い始めていたので手習いでデザインは始めていたんです。それで自分でデザインもできるなと思って大学院の学生の終わりで休学して、大阪アルヴィオンというゲーム会社(1996年設立、『チェインダイブ』『マリシアス』など)に入るんです。ちょうど2008年ごろでNintendoDSが売れていたころの時代です。

――:最初は博士課程に戻るつもりだったんですか?

2年くらい仕事していると、(金もない時間もない博士課程に比べて)勉強させてもらいながらお金ももらえる仕事なんてなんと勿体ないことかと思うようになるんです。それで結果そのままアルヴィオンに居ついてしまってゲーム業界でCGデザイナーを続けるんです。

――:実際にどんなゲームが好きだったんですか?

ちょうどUBIソフトの『アサシンクリード』(2007)が出て、オープンワールドの魅力に取りつかれるんですよ。ちょうど街並みもザンジバルのころにすごく似ていて、すごいな!こういうゲーム作りしてみたい!!と憧れが出てくるんです。

それでオープンワールドが作れるゲーム会社というのを探していたんですが、でてきたのが「マフィアII」の開発で著名であった2K(2005年設立の米国カリフォルニア州のゲーム開発会社、テイクツーの子会社として設立された)でした。

――:よくいきなり海外のゲーム会社に応募しましたよね。タンザニアいかれたり、英語は得意だったんですか?

いや、当時は旅行英語の延長線上だったので英語力はだいぶ怪しかったですよ。音質の悪いSkypeでたどたどしく、しゃべって。でもクリエイターとして海外就職するのに大事なのは「何度言い間違えても聞き直してもいい、ただ言ったことに『身』があれば伝わる」ということだと思うんです。私も手を動かしてモノを作り続けたその前の3-4年の経験があったので、そこが伝わったんだと思います。小さい会社だったので逆にいろんな仕事を経験できたことが、まだキャリアは短かったんですが2Kでも評価してもらいました。

無事、その2KのチェコでEnvironment Artistとして採用されたのが2012年、初めての海外在住になります。 

 

■チェコからサンフランシスコ勤務。2K「マフィア3」で大作1本目を仕上げる

――:2012年当時、クリエイターで海外スタジオで働いている人っていたんですか?

鍋潤太郎さんというジャーナリストが書いている『海外で働く映像クリエーター -ハリウッドを支える日本』という本がありましたね。海外転職についてのまとまった情報は逆にそれくらいしかなかったです。2KのアメリカにはKojima Kentoさんがいましたね(バンダイナムコゲームから2006年にLucasArts入社、2013年から2K GamesでLead Gameplay Animatorを歴任。その後WBGamesを経て、現在はSucker Punch Production)

ずっと『MafiaⅢ』(2016、累計700万本販売)をつくっていたんですが、チェコは実は1.5年くらいの期間だけでした。途中で圧倒的に人材が足りなくなってきて、それで米国本社だったら大量に人が雇えるぞとなったのでそのまま米国移住です。確か150人いた開発メンバーのうち20-30人くらいと移住して、その後米国で3年間勤務していました。

――:チェコとサンフランシスコ、どちらが良かったですか?

チェコが好きだったんですよね。ほんとに街がすばらしくて建物をみながら歩くのが好きでした。米国は完全な車社会で、点と点でしか移動できないので「街をみる」という感じじゃなくなるんですよね。

中山さんもこの1週間ポーランドまわられて実感されたと思いますが中世の街並みが残っている欧州って、中世の建築物と生まれたころからともにあるんですよね。町の中心にはTown Hallがあって、Churchがあって。でもそうしたチェコ人が「アメリカの街並み」を描くと違和感があるんですよ。何かというと「駐車スペース」という概念がないんです。道路と建物の間にアメリカでは駐車のための余分なスペースがあるのが当たり前なんですが、欧州の感覚だときっちり区画がわけられて道路にいきなり建築物が面してしまったりする。

――:なるほど、欧州と北米で「背景アーティスト」としての育ちの違いが出てしまうんですね笑。でもデザイナーキャリアでみたときに、どちらの環境のほうが良いものなんですか?

もちろんゲームクリエイターのキャリアとしては米国で働いているほうがよかったんだとは思います。業界経験長くて年齢も高め、経験豊富な背景アーティストがいっぱいいました。それでも、私は「自分が作りたいものを作る」ことのほうが優先順位が高かったんですよね。『MafiaⅢ』が完成するとそのまま米国本社に転職しちゃう人もいましたが、私はもう一度ヨーロッパに戻る方法を探しました。

――:それでポーランドに目をつけるんですね。

欧州各国の会社をいろいろ見ましたけどね。ちょうど『The Witcher 3: Wild Hunt』(2015)の発売後で、「CD PROJEKT RED」というスタジオ名は知ってました。これからこんなものつくるぞ!という「Cyberpunk2077」のトレーラーがカッコよかったんですよね。

 

 

この謎のオープンワールドゲームはどんなんだろう!?とワクワクして応募したんです。すでに2K CzechあらためHangar13でLead City Architectとして働いてましたのであちらからも「経験ある人が応募してくれた!」という感じで歓迎されました。給与は米国に比べれば下がりましたが、生活費が米国よりだいぶ安いですからね。待遇はあがりました。

――:これはCyberpunkが作りたいが優先だったのか、欧州で働きたいが優先だったのかどちらなんですか?

アフリカ研究していたときからそうなんですが、「自分が見つけたいいものだからこそ、これはいいものなんだ」みたいなのがありますよね。ただCD Projektがもし米国企業だったら応募してなかったでしょうね笑。やっぱりヨーロッパに戻りたいというのが最初にあって、その中でのベストな選択としてポーランドのCD Projektだった、というのはあります。

――:当時なぜ日本ではオープンワールド作れなかったんですか?

カプコンもオープンワールドだって、いうので『Dragon's Dogma』(2012)を出してたんですが、遊んでみるとワールドの広さや物量面では海外タイトルには及ばない印象でした。日本のゲームってナラティブ主導で一本道になりがちですよね。ドラクエとかFFみたいに。そういうのが好きというのもあるんでしょうし、そもそも膨大な物量が必要な資本集約的なゲームノウハウが少なかったんだと思います。

 

■ポーランド時価総額No.1企業CD Projektで『Cyberpunk 2077』を手掛ける

――:CDPに入社とポーランド移住はいつごろですか?

ポーランドに移住して働き始めたのが2017年2月です。入ってみると2018年のE3でデカい発表が控えていました。とはいえ、詳しくはNDAの関係で言えないのですが…まだ色々と試行錯誤している状態でした。

1つのゲームの中にもいろんなプロトタイプがあって、ひとまず「一通り遊べる状態を作らないといけないね」というところからのスタートでした。

――:原作はどなたなんですか?

原作はMike Pondsmith(米国ボードゲームデザイナー、いくつかのRPGシリーズの作者で「メクトン」や「キャッスルフャルケンシュタイン」と並び、「サイバーパンク」を1988年に生み出した)で、CD Projekt REDがそのテレビゲーム化の権利を買い、ゲーム側のディレクターを務めるのがAdam Badowski(アダム・バドスキー、2007年にCD Projekt入社後に『The Witcher』を手掛けたゲームディレクター)でした。ただRedの特徴としてはそれぞれのクリエイターの個性が尊重されていたので、トップがいうことを工場のように生産していくのではなく各セクションで独自性を出して作っていくんです。個人のクリエイティブを重視するあまり、コントロール不足だったところが初期の『Cyberpunk 2077』 でしたね。

――:2018年のE3のトレーラーは有名ですよね。満を持してついに2013年の発表以来Updateが来た!と

 

 

中はホントにドタバタで大変でしたけどね笑。私はその後Coordinatorとしてワルシャワで10~15人のチームを見ながら外部の協力開発会社スタッフもたくさん使いながら、背景となるCGを大量につくっていました。

ご存じのように発売後に不具合が多く指摘されるなどがありました。一開発者としても発売までの2020年はベストを尽くしましたが様々なタスクに追われ大変な一年でもありました。2020年12月にPS4、Xbox、Google Stadiaで万を持してリリースされましたが、そこまで1年間ずっとバグと向き合っていました。

――:最初はバグが多くてSteamでの最初の好評価はもう50%以下くらいだったところから、最後には90%を超えていました。聞いた話では本間覚さん(英国大卒業後、2008年よりスパイク・チュンソフトで『Witcher3』のローカライズなどを担当したのちに2016年CD Projekt入社)がワンマンでJapanのカントリーマネジャーをやっていたので、その1人に対して日本中からバグへのクレームが殺到。彼自身が看板になって「絶対よくするから!」で2年くらいかけて少しずつ向上させていきました。

本当にコミュニティマネジメントで大きくなったタイトルといってもよいですね。

――:なぜCyperPunkはポーランドの1企業から発したゲームIPにも関わらず、2022年に『サイバーパンク エッジランナーズ』として日本でのアニメ化も成功したのでしょうか?

その本間さんの上司にあたるのがラファル・ヤキ(Rafal Jaki、書店小売業を経て2012年にCDP入社、2018年よりExecutive Producerとして「Cyberpunk: Edgerunners」を主導、2022年より独立)です。ワルシャワ大学の日本語学科を卒業して、日本好きの彼としてはどうしてもアニメが作りたかったんです。その彼が足しげく日本のアニメ会社を渡り歩いてトリガーと出会ったと聞いてます。

――:トリガーの中にも『Witcher3』のファンがいたことも大きかったと語られてますね。

ポーランドと日本の時差の中で2018~19年、CDPがやりたい脚本と日本アニメとして成立させるためにとトリガーが調整するところにかなり時間をかけてやられてましたね。「(2年間)ずっと揉めてました」というエルダー爽さんの発言が非常にリアルです笑。配信サイトは決めずにアニメ化が進められ、最終的にNetflixに決まったということですね。外資系の会社が適当にお金をだして日本アニメ化したなんてレベルじゃないんですよね。アニメ好きで、とにかく日本でいいアニメを作りたいというポーランド人がトップについて、自分でシナリオも描いて共同作業で作っていった。だから、あんなに評価の高いアニメになったでしょうね。

  

■優等生な日本人クリエイターは海外でもっと求められている

――:CD Projektは時価総額で60億ドル超え、ポーランドで1番の企業になったと聞きます。いわばポーランドのトヨタ自動車ですよね。

実は時価総額が国で1番になった、というのはCyperpunkをリリースする直前なんです笑。期待値が一番高かった時ですね。

そのころから私は独立することを考え始めました。大学で研究者だった自分が、日本のゲーム会社に入り、30歳でプラハに赴任。1.5年プラハ、3年アメリカで過ごし、5年もポーランドでCyberpunkをやっているうちに40歳になってしまいました。オープンワールドのゲームって大規模すぎて5年に1本ペースなんですよね。こんな感じでやっていたらあとの残り人生で何個作れるのかな、と考え始めて、Cyberpunkも落ち着いたので一度独立してみるか、という気持ちになったんです。

 

参照)IRより中山作成(1PLN=0.25USDで計算)

 

――:榊原さんは日本に戻りたい気持ちはなかったんですか?それこそご家族ですとか。

米国時代に結婚しています。妻はイラストレーターでオンラインで仕事できることもあって、ポーランドにもついてきてくれました。一緒にこちらで家族がいるわけですし、欧州の街は気に入っていて、CD Projektはやめていても友人・知人はみなこちらにいるのでそのままポーランドには住み続けたかったんです。

――:2023年9月に『背景アーティスト導きの書』として本も出版されています。こちらはどういうきっかけですか?

背景アートの作り方をまとめた書籍が無いなと思い、自分で章立ての案をTwitterに投稿したんです。そうしたらボーンデジタル社が連絡をくれて、書籍化してくれるとなったんです。それでハンガリーに住んでいたCGアーティストなどに声をかけて、Xで人を集めてオンラインミーティングなどをしながら執筆してきました。

CGの技術本って完全に専門書で5000円くらいするので広く普及させる目的にはそんなにそぐわないのですが、私もこの本を経由で声をかけられることも増えてきました。

――:チェコ、米国、ポーランドとお仕事されてきて、日本人クリエイターの優れたところはどう感じられますか?

良いところはやっぱり職人性の高さですよね。本当に真面目で責任感があって、仕事の終わりまで注意しながらこちらの要求を満たす能力が高いんです。残業もいとわないですし、「ちゃんと終わらせる」ことにこだわりますよね。ほかの国のクリエイターって、意外と「自分がやりたいことファースト」なので、うまくフィットすればバッチリあげてくるけどそうでもないときもあります。でも日本人のクリエイターはとにかく優等生的です。

――:逆に課題というのはどういうところにあるのでしょうか?

どんどん内向きになってますよね。米国のスタジオでも中国や韓国のクリエイターが多くて、サンフランシスコのAcademy of Artsでもその昔の円高の時代は日本人留学生ばっかりだったと聞きますが、今はかなり減っているそうです。私も相談のメッセージ受けることもあるんですけど、「そもそも海外のポジションにどうやって応募したらいいかわからない」というところで立ち止まってしまっている人が多いです。

そんな難しい話じゃないんですよ。Webでポチっと応募ボタンすればリモートで面接もしてくれる。これだけスキルある日本人の応募者そのものが極小なんですよね。

――:ポーランドはCD Projektを代表にゲーム業界に力を入れています。今はどんな状況でしょうか?

とにかくインディーゲームが元気ですね。日本人も増えているんですよ、今ワルシャワだけで日本人のクリエイターは3-4人います。11 Bit Studios(2010年設立で150名超のスタジオ。『This War of Mine』や『Frostpunk』など)には複数人います。大手資本も入ってきていてベルギーのLarian Studios(1996年設立、『Divinity』など)やElectronic Artsなどがポーランドにスタジオをつくってますね。

フランスもドイツもインディーはあるんですが、やっぱり歴史が長いだけに大手企業にかたまりがちなんですよね。その点は、やっぱり数年単位でグッと変わってくるポーランドにはダイナミズムを感じます。『Manor Loads』は2024年にリリースされたSteamのゲームですけど、たった1人で作ったものが200万本も売れています。

――:榊原さんとしては今後もポーランドのゲーム産業に根付いていくのでしょうか?

そうですね、当面ポーランドには根を張り続ける予定です。中欧のインディーから世界的なヒットが生まれていくところに自分も関われればと思ってます。もし来られる方いればぜひご連絡ください!

 

会社情報

会社名
Re entertainment
設立
2021年7月
代表者
中山淳雄
直近業績
エンタメ社会学者の中山淳雄氏が海外&事業家&研究者として追求してきた経験をもとに“エンターテイメントの再現性追求”を支援するコンサルティング事業を展開している。
上場区分
未上場
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