「宇宙軍」初代参謀長、高橋信之。早稲田漫研とスタジオ・ハードとGAINAXで日本SF界の黎明期を駆ける。中山淳雄の「推しもオタクもグローバル」第133回

中山淳雄 エンタメ社会学者&Re entertainment社長
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高橋信之氏は、“ぬえ"のような捉えがたい人だ。大学に入る前から「宇宙軍」というSFサークルを結成してファンダム活動を開始、後にはガイナックス創設にも発起人&株主としても参加することになる。早稲田大学第二文学部に入学し、けらえーこ氏、やくみつる氏、堀井雄二氏、弘兼憲史氏など多くの漫画家やデザイナーを育てた早大漫画研究会に所属しながら、1980年前後の日本のサブカル勃興期にその中心のど真ん中にいた人物だ。

大学を中退して立ち上げたスタジオ・ハードは、オイルショックで就職難の時代に学生起業の先駆けであり、『ルパン三世』や『ドラゴンクエスト』などのゲームブックや攻略本で社員100名近く、年商7億円規模の制作会社になった。マンガ・アニメ・映画が同じ地平にならび、就職氷河期のなかで「プロデューサーになるんだ」を志した当時の多くの若者たちの中から1980~90年代のサブカルをけん引する名作が続々と生まれてきた。

それはなぜか、を高橋氏にインタビューを行った。

 

■早大漫研時代、「背教者」として商業マンガ/アニメに明け暮れた大学時代

――:子供時代はどんなだったんですか?

1957年生まれで、典型的なADHDタイプです。分散型思考で小・中学校から多動傾向でした。小学校時代は戦記マンガとかSFにハマってましたね。でもクラスのなかでそういうのが好きな奴って1人か2人。本当にマイナーな趣味で、ずっとどこにも溶け込めないタイプの子供でした。

――:SFって1970年代後半には一大ジャンルになっていった印象ですが、60年代だとまだまだマイナーなんですね。将来なりたいものはあったんですか?

中学にあがるころに大田区から父の転勤があって千葉に移りました。中学・高校くらいになると、アニメ、映画、マンガのどれかを作るひとにはなるんだろうなと思ってました。

でもクラスの主流派はやっぱりマンガでも少年ジャンプとか少年マガジンとか王道ものを読んでいるし、なによりスポーツをやっているタイプでしたね。僕はスポーツ系がてんでダメで、模型つくったりして遊んでましたね。

――:体も大きいのに意外ですね。

早稲田の漫研でもよく笑われてました。1年目でいきなりこの大きいガタイでリーゼント決めて入部してきましたからね。合宿ではマンガの議論とレクリエーションが半々あるんですが、野球大会なんかあった日にはバットふらせてもボールなげさせても、全然だめ。「なんだあいつ!?見掛け倒しじゃないか笑」と。

――:高橋さんは早稲田にいつごろ入学したのでしょうか?

1年浪人を経て、1977年早稲田入学ですね。ギリギリ二文にもぐりこんだんですが、授業はほとんと聞かなかったですね。そのまま早稲田の漫研に入部して、部室にはよく通ってました。麻雀や飲み会の相手探しに。

――:漫研のなかでは「溶け込める」存在だったんですか?

僕はそこに入っても、なんか異端分子みたいな感じでしたね。当時の漫研って「アニメを好きといっちゃいけない」という不文律があったんです。

漫研に入って最初に教わったのは「いいか、マンガには商業マンガ誌と非商業マンガ誌があるんだ」というところ。前者はご存じのようにジャンプやマガジンといったもので、実は漫研ではこれらを対象としていなかった。非商業マンガ誌が多いわけじゃないんですよ、正直ガロか、COMか、くらい。つげ義春とかにかぶれて「俺らは表現のためにマンガを描いているんだ」みたいなのが漫研のど真ん中でした。松本零士ですら“線が女の子っぽい"という理由で忌避されてましたね。

――:「商業」そのものがダメなんですか!?

下北沢の劇団集団も「俺らはテレビみたいにやってねえ」だったし、映画研究会も「映画会社に入りたくてやってねえ」だった。誰もが王道っぽいものから外れていた時代なんですよ。だから漫研も「俺らは商売したくてマンガやってねえ」なわけです。

「自己表現マンガ」とか「社会風刺マンガ」ですね。文芸とかジャーナリズムっぽい立ち位置ですよね。そういうときに、僕が全否定の発言をしちゃうわけですよ。「でも、先輩たち、みんな食えてないじゃないですか?」と。

――:そういうところが「異分子」なんですね笑。

『宇宙戦艦ヤマト』が好き、みたいなことを言って、先輩ににらまれる。“体制下"において、背教徒のように隠れてアニメを愛好していました。僕から見れば、当時はまんがもアニメも映画も、同じ平面上にならんでいたものです。

――:早稲田漫研ってずっとそんな感じなんですか?

弘兼憲史さんや園山俊二さんなど有名な作家を多数輩出した「名門サークル」の印象がありました。

高橋留美子さんの『うる星やつら』あたりからちょっとトレンドが変わって、商業マンガにも振り向くようになりましたね。いまはずいぶん違うんじゃないかと思います。

たしかに原徹さんなんかは卒業して東映動画のアニメーターになり、そのトップクラフトからジブリの社長にまでなりました。のちのち有名になった人がいっぱいいたというのは事実ですね。

――:高橋さんの代でスターだったのは誰ですか?

スターだったのは「やくみつる」ですかね。彼の本名が畠山なんですが、最初に「はた山ハッチ」でプロ野球マンガを商業誌で描いていました。でも別の仕事の依頼がきたときに名前をかえたほうがいいよなということで、よく麻雀をしていたから「役満」で「やくみつる」。こっちの2つ名のほうが有名になっちゃった。

彼は卒業すると『BIG tomorrow』(1980年創刊、2017年休刊)をやっていた青春出版社(1955年設立)に就職していきました。そこの広告部で働いている間に、光文社の「週刊宝石」(1981年発刊のサラリーマン向け週刊誌、2001年休刊)にデビューしたあとに、どんどん有名になっていきました。

――:いきなり漫画家、とかではないんですね。

青春出版社って早稲田近くの若松河田にあったんですよ。それで光文社は講談社がある護国寺でしょ?ちょうど真ん中が早稲田なわけ。さすがに若松河田で原稿書いたりできないから、彼はいつも中継地点の早稲田の喫茶店とか我が社に寄って「ちょっと机貸してよ」とそこで書き上げて護国寺にもっていっていた。だんだんそこでの原稿料が増えてきて、青春出版社でもらっている給与の2倍くらい稼げるようになった。それで三十歳くらいのときにやめてフリーになるんですよ。

――:大学中退して独立した高橋さんとしては、やくみつるさんや他の就職していった仲間をどう見ていたんですか?

やっぱりさみしさはありましたよ。やくが青春出版に入らんと就職活動していたときに、「麻雀やろうぜ!」「焼き鳥いかない?」とか毎日誘いまくっていました。当時はあんまり自覚なかったんですが、まわりの仲間からは僕が一人でも就職をさせないように、足ひっぱりまくっていたという思い出のようです笑。

「高橋くんさ~、なんでこんな大事な時に誘うんだよ?」とやくが聞いてきたんですよ。当時僕は「畠山くんと一緒にマンガ描けたら絶対プロにいけるんだ。時間もったないのに、なんで就職なんてしちゃうんだ!一度しかない人生だろう」と言ってました。でもやくの返答が秀逸で、「一度しかないからこそ、大切にして、就職するんだろう!」と。なるほどなと思ったのと、そこからヤケ酒ですよ。

 

▲スタジオ・ハードデラックスのオフィスはうずたかく過去作ってきた雑誌・書籍が積まれている

 

■浪人時代から400人を擁する「宇宙軍」参謀長、スタジオぬえとも隣接する活動

――:高橋さんは早稲田漫研のみならず、宇宙軍(SFサークル)を主催されています。そちらはどうやって生まれたのでしょうか?

日本SF大会自体はすでにあった時代です(1962年5月に東京目黒で第1回が開催されてから、日本SFファンクグループ連合会議の承認のもと毎年行われる)。コミケ前なので規模はだいぶ小さかったですが日本全国に同人誌サークルは存在していましたし、SF映画や小説などを書いている人もいました。

わたしの場合、高校3年のころからミニコミ誌を自分で出していたんです。ちょうど高校時代から印刷会社でバイトをしていて、写植までは打てないものの版下をペーストのりで張ってみたいな印刷プロセスにも詳しかった。もう台割から何から1つの雑誌を自分で完成させられるような高校生でした。それで思い切って「こういう同人誌を作ります、500円切手いただければ冊子を送ります」という広告を『S-Fマガジン』(1960~:早川書房で発行しているSF専門雑誌、隔月発売)や『奇想天外』(1974~1990:奇想天外社→大陸書房)で10行広告で告知するんです。その入会案内に…なんと600人きたんですよ。

――:それってどういうビジネスモデルなんですか?

当時はデポジットで先に4~5000円を納めてもらって、「最低3回は必ず出します」という形にして、その後に完成した順に会員に送ります。最終的に入会してくれたのは400人くらい。それだって200万円くらいは集まっているわけですからね。それを原資として1年間雑誌とかを作っていくんですよ。だから浪人時代にすでに僕はいっぱしの編集者みたいになっていたんです。

――:なぜ浪人生が、そんな巨大なサークルを作れたのでしょうか?

ちょっと話長くなりますが、野田昌宏さん※のお陰なんですよ。「宇宙大元帥」を名乗っていた有名なSF作家さんで、TV制作者時代にも宇宙人が来たとかいろんな趣味全開の番組作ってました。高校時代に名刺で「銀河連邦少尉見習い」という肩書でもっていったら、「おお、お前、面白いな!」と言ってもらい、そこから何度も手紙をやりとりする仲になりました。

サークルを作ろうとしているのでぜひ野田さんの公認が欲しいとお願いをしました。このSF界で大家だった野田さん公認というのがついていたから、600人も集まったんです。それで1976年に高校卒業して浪人しているタイミングで、サークル「宇宙軍」が立ち上がってます。

※野田昌宏氏:1933~2008、1958年からSF同好会「宇宙塵」に参画、「日本SFファングループ連合会議」初代議長。フジテレビに入社し「ひらけ!ポンキッキ」などを制作し1976年退社後は日本テレワーク設立に参画。翻訳を継続的に行い、1995年に『「科學小説」神髄』で第16回日本SF大賞特別賞)

――:高校生なのに行動力が凄すぎますね。

それでバイトしている印刷会社に「お金払うから使わせてもらっていいか?600~700部くらいなんだけど。」と聞くと「謄写版(ガリ版)で製版してコピーしな」と言ってもらいました。印刷所とルートがあったことも早い時期に結成できた理由しょうね。

だから1977年に早稲田に入学して漫研を訪れた時は、もう“鳴り物入り"ですよ。だってこっちはもう宇宙軍の参謀長もやってるし、印刷所のバイトもやって本の作り方もわかっている。大学1年で漫研のぞいて最初に先輩たちの雑誌をみた感想は「この台割はひどいわ、俺ならもっといいもん作れるな」ですからね笑。生意気なさかりでした。

――:それは確かに、宇宙軍やダイコンってどんな内容を取り扱ってたんですか?

コスプレという言葉もなかった時代に(僕らがコスプレという言葉を作ったんですがw)、映画に出てくる小道具とか衣装とかペーパークラフトなども研究対象になっていました。

1974年「宇宙戦艦ヤマト」、1977年に「劇場版ヤマト」があり、そこに「スターウォーズ」も出てきて、これからはメカと宇宙とSFの時代だとワクワクしてました。

大阪ではSF仲間であり宇宙軍関西支部のメンバーでもあったメンバーがSF大会のオープニング映像としてダイコンフィルムを作っていたし。

これらのキーワードって「映像」なんですよ。出版本としても映像を中心とした紹介本を作ります、宇宙軍にしても映像をメインのサークルです、と。そこは漫研とは違ってました。

――:早稲田の漫研もそうですが、日吉の慶應大閥ではスタジオぬえ※があったり、江古田の和光大閥ではまんが画廊※の集団もありました。河森さんも学生時代に『マクロス』に参加していたり、なんとすごい時代だったのかと思います。

吾妻ひでおさんたちのまんが画廊は1980年代に入ってからなのでもうちょっと遅めですね。

慶應、和光大学、美大など様々な大学の漫研が入り混じってましたね。スタジオぬえはちょっと僕より先輩で、河森くんは僕より年下だったと思います。これも野田さん絡みだったんですけど、スタジオぬえは野田さんが後輩としてかわいがっていた集団なんですよ。1970年代の「ひらけ!ポンキッキ」では宇宙モノの絵ってぬえが描いていたりしたんですよね。フジテレビから予算をひっぱって。

僕のなかでは「スタジオぬえが野田さんの旗本」みたいな意識があったので、そこには邪魔しないように、もっとサブなポジションで野田さんの公認もらって宇宙軍をやってましたね。

※早稲田大学漫画研究会:1954年から、1959年創刊の雑誌『週刊漫画サンデー』と関係を結び、部員の寄稿の場となった
※宇宙軍:1977年に高橋信之によって設立されたSFファンサークル。ガイナックスの前身ゼネラルプロダクツの主要創業メンバーである武田康宏氏は宇宙軍第一期メンバーとして関西から参加、岡田斗司夫氏と出会ってダイコンフィルムを創設。これらのサークルから多くの映像や出版の業界人が排出されている。
※スタジオぬえ:1970年に松崎健一(1950~)を会長に、SFイラストなどを中心とする同人会「SFセントラルアート」を発祥とし、1972年に高千穂遙(1951~、当時は本名の竹川公訓)、宮武一貴(1949~)、加藤直之(1952~)を加えてクリスタルアートスタジオを設立。それが1974年にスタジオぬえとなるが、SF作品のビジュアル開設を多く手掛け、ハインラインの1960年の小説『宇宙の戦士』の挿絵用にデザインしたパワードスーツがのちの『機動戦士ガンダム』のモビルスーツになっていく
※まんが画廊:江古田に存在した喫茶店で吾妻ひでおや沖由佳雄らが、この喫茶店の常連をスカウトして日本初のロリコン漫画同人誌『シベール』(1979~81)に起用していた。このグループから『パトレイバー』ゆうきまさみ(1957~)、『頭文字D』しげの秀一(1958~)、コスプレーヤー・声優の川村万梨阿(1961~)が生まれてくる。

――:驚くべきは「早大漫研」に所属し、「スタジオぬえ」とも近接していた高橋さんは「宇宙軍」を指揮して関西の岡田斗司夫さんや庵野秀明さんなどのガイナックスにつながる流れともつながっているんですよね?

ガイナックスの武田康廣は宇宙軍に入会していて、岡田斗司夫は関わってましたけど確か入部はしていなかったはずです。宇宙軍の関西支部ということであちらの関西メンバーの住所録だけ皆にシェアして、定期的にそこで会合を開いてもらってました。

約束していたのは年2回の発行でしたけど、例会自体は毎月やります、といってましたね。ただ関西の場合、僕がめったにいけないので、「宇宙軍は全然うごいてねーなー」といって勝手に宇宙軍関西支部が運営されるようになります。それがそのままゼネラルプロダクトになって、ガイナックスになっていくんです。

※武田康廣(1957~):近畿大学理工学部時代にSF研究会に所属し、1978年から岡田斗司夫と同人活動をしていた縁で1982年にゼネラルプロダクツを共に設立する。1984年にガイナックス取締役として中心メンバーで、ガイナックスは本体の経営悪化時に経営幹部が資本関係のない地方企業を創設してゆく。赤井の「米子ガイナックス」、浅尾の「福島ガイナックス」、武田の「GAINAX WEST(神戸、2016~)」と「GAINAX京都」など。

 

■さくまあきら・ほりいゆうじ、学生サークルから傑出される「一流ライター」達

――:立教のさくまあきらさんや早稲田のほりいゆうじさんさん達も、漫研出身で雑誌のライター仕事から開始されてますが、なんでみなさん学生時代からそんなに機会があるんですか?

当時それはそんなに特別なことじゃなく、口コミでお互いに仕事を融通しあっていたのもあり、皆にチャンスがあった時代なんです。

――:高橋さんはどうやって最初に仕事を獲得するんですか?

僕の場合は最初にライターになったのは『ロードショー』(集英社が1972年に発刊した外国映画の紹介・評論誌)でしたね。中学の時からずっと愛読していたんですよ。オードリー・ヘプバーンとかね。でもそのなかでちょいちょいSF記事なんかも出るんですよね。ハリウッド映画スタジオの地図とか、『2001年宇宙の旅』のディスカバリー号が天地逆向きで掲載されたミス記事とか、僕は学生時代にそういったものをスクラップブックに張って備忘録として集めていた。映画宣伝部の人ととある映画の試写室で知り合ったので編集室に遊びに行くと「この子は面白いよ~、色々調べてくるよ」と宣伝してくれたんです。それでたまたまそのスクラップを持っていったときに、編者の出川さんが、「コレなに?」と。ヤバいっと思って隠そうとしたんですけど、ビラっと開けられちゃって。「あの・・・昔のミスがあったページもまとめていて・・・」と。これでたぶん採用は難しいだろうな~と思っていたら「うん、このミス記事ほとんど僕のだね笑」と。

それでバックナンバーの雑誌大量にもってきて、ちょっとどこが間違っていたか教えてくれ!となって、たぶん小生意気だけど使えると思ったんでしょうね。副編集長に紹介してくれて、それで21歳の時にプロライターとして『ロードショー』で記事執筆することになったんです。出川さんのあとの担当には木下さんや2025年から社長になった林秀明さんもいました。

――:いきなりプロっぽい動きですが、普通の学生バイトみたいなのはしているんですか?

結局ライター仕事のほうが稼げるんですよ。当時は雑誌投稿でも結構いい金額がついていましたし、僕の場合は「TVガイド」が一番いいバイトでしたね。そもそも“時給をもらって働いた経験"って人生一度もないんですよ。すべてが出来高制、企画を通して原稿1本書き上げてはじめてお金が入る。だからもう毎日原稿を書き続ける日々です。

――:もう学生で半分働いちゃってる状態ですが、そういうときに宇宙軍の活動ってどうなってるんですか?

僕もライターの仕事が忙しくなってしまって、だんだん例会などの作業ができなくなっていった。それで井上が「じゃあ、宇宙軍の総帥、俺がやろうか?」と言ってくれたんです。でもせっかくの“宇宙軍"ですからね。クーデターが起こったことにしよう、と。あえて過激な言い回しにして、「高橋は退役します。今後参謀総長は井上になります」という形になりました。そのあとも会合には顔出したりしてますけどね。

 

■1980年代、なぜ漫研・SF・アニメサークルから偉人が続々と傑出したのか

――:漫研、宇宙軍、スタジオぬえ、こうした「学生たちの傑出したオタクグループ」が乱立していった時代です。当時光っていた人ってどんなキャリアをたどるんですか?

本当のエリートは、就職しましたよ笑。先輩でもちゃんとゼミに入り込んで先生に紹介してもらって一流企業に就職していった人たちは多かった。

漫研の中でも「あくまで趣味は趣味」として仕事は日産や三菱などのメーカー、証券会社に入っていった先輩はいます。でもマンガとして見てみると、彼らが描くものはちょっと地味で優等生的なものが多かった。逆にとんでもない作品描くなあ、というやつは決まって留年していたり、就職せずにそのまま残っていましたね。

僕も見事にフリーランスという温室そだちのまま、一度も就職することなく、今に至っています。

――:なるほど、決して「漫研のなかで目立っていた人」がのちの漫画家、アニメ監督、プロデューサーになっていったわけじゃないんですね?

需要と供給でいうと、一気に需要が膨らんで供給が足りなかった時期なんです。あのころはやっぱりいまほど志望者の数がいなかった。あれだけ若手で色々なマンガが生まれてきたのは、たんに需要に対して若手を起用してどんどん描かせないと間に合わなかっただけ。どんなリクエストがきても「できます!」と言ってしまう厚顔な若者たちが、チャンスを掴んだだけなんですよ。

あのタイミングでは飛び込めたかどうか、だけが成功要因だったんだと思います。メディアが拡がったときに、若者を集めるしかなくて、その玉石混交の中で名前をなした人間だけがあとから伝説として語られているんです。

――:マンガ・アニメ以外にもこうして「新ジャンルが勃興する」タイミングはあったのでしょうか?

その前でいうとフォークソングですよね。フォーライフでバンドや歌手はずっと仕切っていて、自分たちで作詞作曲を自作しちゃった人たちがそのまま表にでていった。グループサウンズの時代からフォークの時代になってみな自分で作るんですよ。それまでは作曲家・作詞家が作ったものを新人はただもらって歌うしかなかった時代。未開拓領域が急激にカルチャーとしてグッとあがってくる時代がありますよね。

――:就職率がオイルショックで急激に下がったことも影響ありますかね?

ポストオイルショックの就職氷河期ということもあって、あぶれている人たちは結構いました。学生起業家(アントレプレナー)として会社が立ち上がっていったタイミングも重なってます。学生援護会(1956年創業、1970年株式会社化、上京した学生の生活支援のための機関新聞「学生タイムス」から始まり、「アルバイトニュース速報」などを出版していた出版社、2006年にインテリジェンスと合併)のはじまりもそうでしたし、ぴあ(1972年に中央大学在学中の矢内廣氏らが創業)なんかもありました。当時の早稲田だとバンドやっている連中がローンで買ったアンプやスピーカーを集めてレンタルできる事業なんて起業形態もありましたね。80年代は就職バブルになるので皆どんどん就職していきましたけどね。

 

――:漫研ではのちにプロになるような教育体制があったわけじゃないんですか?

集団催眠ですね。皆が出版社を出入りしたり、どこどこに持ち込んでデビューしたんだってと聞いたり、若いうちにすごい作品に関わっていたり。そういうのを隣にいた人間がやっていたとすると「俺だってできるんじゃないか」という気になってくるんですよね。

――:いまの起業家のIPO事例のようですね。2010年代にはいって、Z世代で光ってるタイプは起業家コースにのる割合が急激に増えました。

本当にそうですね。俺もロック歌手になれるんじゃないか?みたいなやつですよ。漫研とか宇宙軍とかゼネプロとかがインキュベーション機関になっている。でもそこで特別なことやってるわけじゃないんです。漫研だってほとんど麻雀ばかりで、まじめにマンガ描いているという感じでもない。あのタイミングで、ただただ雑誌が大量に発刊されて、新しいライターや漫画家を発掘するトレンドだったということが大きいんです。

――:そうやって「おれも!」という中に高橋さんもいたと思うんですが、やくみつるさんのケースなどもみながら、就職は考えなかったんですか?

就職全然かんがえなかったですね。「いつ辞めても就職先がある」と思って安心して途中で就職活動やめちゃってたんですよ。というのも1年くらいライターやっていた徳間オリオン社とかライオン社(1991年まであった大学受験用の通信教育社)が「高橋君なら筆記ですぐ入れるよ!」と言ってくれていました。

でもその時に大事なことを忘れてました。僕は高校時代から働いてるし、「もう(高校時代から数えて)2-3年働いています」とかいって入り込んじゃってるから、あっちは在学中の学生ということを忘れちゃっている。僕は中退しているので実質高卒の学歴、履歴書みてもらう機会があったんですが「高橋くんって…早稲田卒業じゃないの?高卒だとさすがにうちも入れられないよ」と言われましたね。だから最初から就職という選択肢はなかったんだと思います。

 

■TVガイド→ザ・テレビジョンに大量移籍。置いてけぼりにされたライター

――:『ロードショー』の話もありましたが、この学生ライター時代に高橋さんがお世話になった、関係の深かったメディアはどちらでしょうか?

育てられたのは『ロードショー』、『週刊TVガイド』(東京ニュース通信社が1962年に発刊したテレビ情報誌)や『ザ・テレビジョン』(角川書店が1982年に発刊したテレビ情報誌)あたりが一番大きかったかもしれませんね。

――:え、『週刊TVガイド』と『ザ・テレビジョン』って、ド競合じゃないですか?角川書店が、大量にニュース通信社から人を引き抜いたと聞いてますが。

僕は呼ばれなかったんですよ。「ウルトラマン80」とか「銀河鉄道999」などの原稿を毎月企画を通して執筆、というのをやっていたんです。僕が相手にしていたのは「特集班」の人たち。でも会社の本丸はテレビ各社とやりとりして番組表を提供する「局担当」のチームだった。当時はお茶の間雑誌として『TVガイド』が100万部売れていた時代なんで局と対応しながら番組表を出す、というのが一番儲かってたんですよ。これで雑誌としてはいいんじゃない?という路線に不満をもっていたこの特集班の人たちが、ある日突然いなくなっていた。

――:なるほど、「引き抜き」じゃなかったんですね?

はい、どっちかというと雑誌の方向性の違いで、この特集班が抜けてそのまま角川書店にいったんです。でも当時はそんなこと知りようがないんですよ。

がいつものように企画をもって編集部にいくと特集班のシマがからっぽになっていた。となりの局担当のシマにいったら、「みんな辞めたよ!」って。えええ、僕はこれからどうすればいいんでしょうか?企画も作ってもってきたのに・・・といったんですが、しばらくバタバタで担当もつけられないからお休みでと言われちゃったんですよ。他の雑誌でも稼いでいたから、僕の当時の収入の1-2割の仕事。そんなに焦る必要なかったのに、とにかく必死で聞きまわった。映画宣伝部の人たちから「なんかどっかで新しい雑誌をつくるらしいよ」と教えてくれたけど、それ以外は何の情報も得られなかった。

――:そうか、携帯もないですし、こういうときに連絡とれなくなっちゃうんですね。

それで仕方ないのけど、みんながよく言っていた新宿の飲み屋にいったら偶然会えるんじゃないかと思ったんですよ。土屋さん[AN1.1]に何度も連れて行ってもらった飲み屋に、と何度かいりびたっていたら3-4回目に結局会えたんですよ。「おお~高橋君!悪い悪い、忘れてた」って感じですよ笑。いつも僕が仕事ほしいタイミングに編集部に企画持って顔出している形だったので、彼らも編集部ごと角川書店に移転しながら、連絡先とかわからなくなっていたようなんですよね。

じゃあ、新しいオフィスにおいでよをいって呼ばれていった先が『ザ・テレビジョン』編集部だった。雑居ビルでつぶれた居酒屋をそのまま使っていて、「おおー高橋君、半年ぶりだね、君もこっちにきたか!!」と言われて。中をみたらビックリ、居酒屋の座席にみんなが座って仕事をしていて、厨房にいったら調理場の水場に暗幕はってそこで写真部が活動していました。

 

■スタジオ・ハード起業、エニックス出版・Vジャンプ・遊戯王カードゲームなどホビー王の実績多数

――:高橋さんとしては1982年に早稲田を中退して独立します。事業はなにが柱だったんですか?

ライターしながら、そのまま起業しました。最初に『ルパン三世 カリオストロの城』のムック本が15万部とあたって、1000万くらいのお金が入ってきました。そのときに税金対策しておけということで個人事務所ハードが、有限会社スタジオハードになりました。

1980年代は「ゲームブック」がかなり儲かったんですよ。ただそこを掘り当てるまでも実はいくつか段階があります。最初は橘川幸夫さん(1950~:1972年に渋谷陽一らと『ロッキング・オン』を創刊、1978年『ポンプ』創刊)たちが買ってきた米国のゲームブックが面白くて、一緒に勉強会をしていたんです。英語を逐一翻訳しながらツリー構造をつくって。これは日本でもあたる!と思って企画書を作って、色々な出版社に持ち込んだけど、どこも全く触手を動かさなかった。そんな期間が2年くらいありました。

――:誰も「ゲームブック」を観たこともない。出版社としては理解できなさそうですね。

でも僕は絶対に流行ると思ってました。潮目が変わったのは『火吹山の魔法使い』(1982年に米国パフィンブックスが刊行、日本では1984年に現代教養文庫より刊行)です。これが当たった。社会思想社というおよそゲームと関係のない会社が出して、3万部いったという話が広がり、双葉社の営業から相談があったんですよ。「ああいうの、作れないかな?」って。いやいや、それ2年前から僕が提案してたやつでしょ!と。

それでいまがチャンスとばかりにルパン三世のノベル企画書とゲームブック企画書をつくって、2つあわせてホチキスでまとめて営業しにいったんですよ。「ルパン三世」は作者のモンキーパンチさん(1937~2019)に納得してもらうためになかなか時間がかかり、その編集をしていて社長にまでなった清水文人さん(1931~1997:『週刊漫画アクション』創刊編集者)が原作者のような役割をしてました。

――:『ルーザーズ』で経緯を拝見しました。モンキー・パンチの命名も清水さんですよね。でも完全に初めてのジャンル本ですよね?どうやって売り込むんですか?

当時、紀伊国屋がトレンドセッターで、「紀伊国屋本店ランキング」が地方の新聞社に配信されて、その順位をみて地方の書店に売れ筋が拡がっていくんです。そこを狙った。組織買いして順位を上げるという。でも一気にまとめ買いするとバレるので、1冊400円の本を、文庫・アニメなどそれぞれ違うコーナーごと、日程もずらしながらみんなで手分けして買っていったんです。20万円分。

それで『ルパン三世』のゲームブック1巻はしょっぱなで300~400冊販売でランキングトップに躍り出た。そのうち1/4くらいは我々が買ったものでしたが、それでランキングがあがって雑誌などでも取り上げられましたね。

――:書籍の編集プロダクションだけで、食えるものなんでしょうか?

だいたい7%くらいの編集印税(30円弱)もらうんだけど、400円の本が100万部売れたらそれで1200万円になるわけですよ。それが我々が手掛けたものでいうと『ルパン三世』のゲームブックで19巻まで出て累計400万部、『スーパーマリオ』や『ドラゴンクエスト』『たけしの挑戦状』なんかもどんどん売れていった。合計で売ったゲームブックは累計1400万部、当時はこの出版企画開発で年商3億円までいっていました。学生企業で数十人がつくった編集プロダクションみたいな会社なので、これだけで十分まわってるわけです。

ドラゴンクエストのゲーム攻略本もすごい売れ行きでした。1巻、2巻、3巻と出すたびに40~50万冊売れましたしね。双葉社のトップ作品は3年連続、スタジオハードのゲームブックだった、なんて時代もあったくらいですよ。

――:スタジオハードはその後どういう発展を遂げるんですか?

仕事もどんどん増えていきました。雑誌も裏方として色々手掛けてまして、KADOKAWAの『ニュータイプ』も半分くらいは我々で作ってましたし、エニックスの出版部門もホントに僕らが立ち上げたようなもんでしたからね。バンダイ出版の『B-CLUB』のアニメ・特撮映像の本も丸ごとやってたし、立ち上がったばかりの『Vジャンプ』も3割くらい担当してました。『遊☆戯☆王』のカードゲームだって、バトルシステムはうちのスタッフが作ったんですよ。

1990年代に入ってもっと大きくしていこうとビルも借りて、スタッフも80名くらいまで増えていきました。

――:スタジオハードは「出版社」にはならなかったんですか?

版元にはならなかったですね。バンダイの出版部門を手伝っているなかで、彼らも取次の調整には苦労していたし「玩具は問屋に突っ込めばおわりだけど、書籍の取次は違うよ。大変だよ」というのをちくちく言われていたので、我々はあくまで出版社の裏方で企画開発だけをとやっていました。返本リスクがあって、危険な商売だ、とも思ってましたね。

だからあくまで編集デザイン会社、という立ち位置で1980~90年代をスタジオハードを大きくしていくことに集中してました。むしろフィギュアメーカーになるほうが野望はあって、「CYBERDYNE」でフィギュアショップも作っていたんですよ。でもその後実は会社が乗っ取りにあったときに、そこからでていったフランク・デュポワくんが作ったのがホットトイズジャパン(2000年設立)です。勿体ないことをしたなとちょっと思いますね笑。そこから海洋堂とかグッドスマイルカンパニーもあがってきましたしね。

 

■ガイナックス創作秘話、バンダイIPOで飛びついた「オネアミス」

――:一方で宇宙軍から始まり、関西の学生たちがガイナックスを作り上げていきました。彼らがアニメやゲームのメーカーになっていくなかで、焦りとかライバル視とかはなかったんですか?

ガイナックスは僕自身も株主で関わりもずっとあったんですよ。だから嫉妬したりという感じじゃなく、普通に応援していました。宇宙軍2代目参謀長の井上博明と岡田斗司夫が一緒に東京にやってきたときには、スタジオハードはすでに結構大きな所帯になってました。オフィスビルで2フロア使ってて、70~80坪のスペースで若手がひきしめあって、アニメのムック本とかゲームの攻略本を作っていたんです。

その時に、後にガイナックスから追い出された2人がもって来たのが『王立宇宙軍 オネアミスの翼』の企画書だった。そのパイロット版の3分アニメを作る予定だが、もちろんスタッフはいないのでいろんなアニメスタジオにバラバラに仕事を頼むことになる。そのセル画を組んで撮影をするスペースが必要だから机2個だけ貸してくれ、と。

“撮出し部屋"っていうんですが、2人は「もう机2つあればいいんで!」とかいうんですよね。たった3分だし、そのスペースで2人が集中してやれればアニメになっちゃうと。

――:ガイナックスは大阪で社内不倫をしてガイナックスにいられなくなったと岡田さんが後述されていますね。「ガイナックスができなきゃ困る山賀氏と、できなかったら帰るところがない岡田氏が必死にやった結果できた」と語られています。

僕は当時すでに手塚プロでアニメの制作進行の仕事などもやっていたので、広さ的に無理だと思った。「井上くんさ、いくら16ミリの3分でも、机2個分でできるわけないだろう」と。部屋1個まるまる貸すからそこでやってみないかという話になりました。

最初は我が社の中にガイナックス開発ルームを開く話が、いきなりイメージボードだけでバンダイから8000万円の予算がついて、それで場所を借りてスタジオをつくっちゃった。なんならパイロット版つくった段階で3億円の追加予算ですよ。それで諏訪町から都電:面影橋、次に吉祥寺とどんどんガイナックスは大きくなっていくんです。当時のアニメ制作としてはとんでもない高額な金額です。

――:これ、不思議だったんですよ。なんで大阪からきたばかりの2人がいきなりガイナックスを立ち上げられるのか。

当時としては伝説でしたね。山賀だって当時23歳ですからね。「監督は山賀で本当に大丈夫なの?」と。宇宙軍の井上くんが手塚プロダクションとマジックバスの仕事で色々つながりがあったから、撮影とか美術とか詳しい業界のベテランに声をかけていっていたので、それなりのクオリティにはなると思っていましたが。

――:のちに有名になる岡田斗司夫さんですが、だからといってなぜバンダイは投資したんでしょうか?

ホントですよね。これはバンダイが株式上場に際して公開準備室を作っていたタイミングだったことが理由です。玩具で数々のヒットを出していた彼らですが、Dr.スランプです、ドラえもんです、ウルトラマンです、と売れている作品を並べていたら株式市場から言われるんですよね。「全部外部のキャラクターじゃないか?ライセンスとられたら終わりだよね??」と。

――:それは、今でもバンダイナムコが抱える問題ですね笑。

変わってないんだよね、結局そこから。でも今も当時もバンダイは「オリジナルを創らなきゃ!」というあせりが凄かった。それで新しいものがでてきそうな若手と組もうとIPOを踏まえてアニメ制作をしようというときに「ガイナックスがいいじゃないか!」となったんです。あんな若造しかいない会社に、よくもまああんな金額が出たなと思うんですが、結局は「タイミング」だったんだと思います。最近でいうWeb3とかNFTと変わらないですよ。

蓋をあけてみたら話題にはなりましたけど、『オネアミス』って赤字でしたからね。

※ガイナックス:1981年の日本SF大会「DAICON 3」のオープニングアニメーションに関わり、大阪府門真市の海洋堂の常連でもあった岡田斗司夫、武田康廣、赤井孝美、山賀博之、庵野秀明、村濱章司ら関西の学生は、その後も「DAICON FILM」として映像制作を行った。このうち、「DAICON 3」後に大学を中退した岡田と武田は1982年2月、大阪市天王寺区にSFグッズを扱う専門店「ゼネラルプロダクツ」を開業し、DAICON FILMと密接な関係を持ちながら活動を続ける。経営が軌道に乗ったところで岡田に山賀が「プロになる」ことを持ちかけ、ゼネラルプロダクツが岡田と山賀に200万円の活動資金を提供する形を取って1983年9月、OVA向け長編アニメーション『王立宇宙軍』の企画を開始した。

――:高橋さんはガイナックスとはどういう関わりなんですか?

場所を貸したり、美術資料を貸したり。一応株主でもありました。1株5万円だけ。

でも武田康廣くんらに勝手に株を処分されてたんですよ。以前山賀が「高橋さん、昔株主だったんですね?〇年になぜ株を譲渡されたんですか?」って。

いやいや、そんなはずないよ。売った覚えなんてないよ、と。でも武田に文句言おうと思った時、あっちからも連絡があって会うことになった。

「高橋さん、ちょっといろいろ誤解があったようですが、譲渡契約は不明です。時効だと思うけど、ホントごめんなさい」って言われて。

それを知ったの、去年(2025年)ですよ??武田も武田でガイナックスは5000万円くらい貸していたお金が破産でチャラになったり、彼にも言い分はあるんでしょうが。

――:ガイナックスは経営でずいぶん迷走しますよね。

岡田(1958~、1984~92年初代社長)を追い出したあと、武田に言いくるめられて「1年だけ」という約束でついた2代目社長の澤村武伺(1959~、1992~2000年の2代目社長。2000年に東京地裁でガイナックスの所得隠しで実刑判決)が脱税で捕まってしまい、その次を継いだ山賀博之(1962~、2000~2019年3代目社長)もつらかったんだろうね。7-8億円借金のあったガイナックスをまわすのがきつくて、そこで頼っちゃったのが数千万円お金をもってきてくれた巻智博(2019年のみ4代目社長)。

彼はパチンコやゲーム開発をやってきたけどアニメは素人だった。2016年に社長になったけど、2019年に未成年女子に手を出していたということで逮捕されてしまった。

庵野くんは大激怒ですよ、クリエイターに還元せずに何をやっているんだ、と。彼はそういうの凄い嫌いだから。捕まった巻社長は僕も2回くらい会ったけど目もあわせない。え、なんであいつ役員にしたの!?と。こういった状態だったのを、2019年にみんな関係者が入っていって、きれいにして2025年にようやく法人格の消滅です。

――:皆でつぶすつもりだったものを巻社長が「我々はガイナックスというブランドを残す責務がある」と主張して残した、と社長になったようですね。岡田斗司夫さんの名前も知らなかった、という。声優オーディションなどをしているガイナックスインターナショナルという会社を作って、未成年淫行が逮捕の理由になりました。

正直株主じゃなかったら絶対にやってなかった。あの会社のために使った時間やストレスが無駄にされた気分です。岡田くんともその後もいろいろ付き合ってますし、彼も色々大変だった。

 

■スタジオ・ハードの乗っ取りから作り直した会社。枯渇することのない事業アイデア

――:みなさんIPOには惑わされますね・・・

そうですね、スタジオ・ハードも2000年ごろから色々大変なことがありました。年商7.5億くらいまでいっていたんですが、IPOするにはちょっと足りなかった。それでドリーム・ネットワークという会社とガチャンコして、アニメ制作会社も買収したりしたんだけど、そこで裏切りにあって事業ごと全部奪われてしまった。それがブレインナビ(2001年設立、2004年に上場後に現在はウェッジホールディングス)という会社で、いまは当時の役員陣はもう残ってないですけどね。

――:なかなか壮絶な状況ですよね…それで作り直したいまの会社が「スタジオ・ハードデラックス」なんですね。ボカロPの小説を作ったり、その後も商魂逞しく様々な展開をされていますね。詳しくは『オタク稼業秘伝ノ書: Deluxe a Go!Go!!』(2017、山中企画)<https://www.amazon.co.jp/dp/4434233645>でご覧ください。しかし高橋さんはホントに色々な事業手掛けられてましたね。

アイドルチームの育成企画なんかもやってたんですよ。旧ハード時代。

KiraKira☆メロディ学園(1999~2001)っていって、『響けユーフォニウム』の原型みたいな音楽学院の生徒がみんなで楽器をやるような企画でした。バンプレストとニッポン放送とAIC(Anime International Company)で。

きらきらメロディ学園といって30人のクラスから構成されているユニットで、「おニャン子クラブ」をイメージしてました。声優コンテストをやってデビューさせるときに、「わたしでもなれるかも」と思わせるように、あえてふくよかな子なんかもしれながらビジュアルやスタイルも散らしていく方向性は、実際その後にAKB48でもやっていた手法ですよね。3年で活動が終わって卒業させてしまう設計も含めて、その後秋元康さんがAKBつくっていったときに絶対参考にしたんじゃないかと思ったくらいです。

僕は最初はカードゲームやアニメにしていくつもりで企画を進めてたんだけど、音楽学校をやるライブもやるでどんどん資金を使ってしまうから、そっちへの投資がないがしろになっちゃいましたね。3年で活動が終わってしまって残念でしたが。

――:最近でも新しいことされてますもんね。

そうそう、もう数えていけばキリがないですよ。AKB48劇場だって、最初は違う企画のために作られた場所だった。秋葉原のど真ん中に「東京秘宝館」があったら面白いんじゃないかと思って、リアルドールやマリリン・モンローのスカートめくれるやつなんかを集めていって、ドン・キホーテの企画部とデンマークにあった「ヌードボールペン」を仕入れようという話を進めてたんですよ。普通に使うボールペンじゃなく、本当に腕みたいな巨大なボールペン。人間、なんでもちっちゃくすると感心するんだけど、でっかくすると笑うんですよ。

でっかいヌードボールペンにでっかいエロトランプ、全部で5000万円くらいで秘宝館作れそうだ。入場料もとれそうだしいいよね!と。「高橋さんはくだらないエロの天才ですね!」とおだてられ?て、進めていたんだけど、その時に万引きで捕まったおばちゃんが放火して3人焼死するというとんでもない事件が起きた(2004年12月の「ドン・キホーテ放火事件」)。それで全部企画がぶっ飛びました。秘宝館なんてやってる場合じゃない、とね。その時に考えていた場所が、その後にAKB劇場になるんですよ。

――:くだらないエロの天才ですね笑。今後はどんなことをやっていく予定なんですか?

“感動興奮"に直結するようなことがやりたいんですよ。アクスタにスマホをかかげるだけで動画が再生される仕組みを作ろうと思っています。

あと、もう僕も68歳なのでそろそろ自分のやってきたことも総括して下に伝えていかないといけない。みんな我流でやってるけど、アニメやまんがの企画づくりにはちゃんと型があるんだってことを。

たとえば「サスペンス」って言葉あるじゃないですか?あれって、観客はわかっているのに劇中の登場人物が分かっていないという非対称な状態を呼称する言葉なんですよ。それが火曜サスペンス劇場が有名になりすぎて誤解されている。殺人、ミステリー、事件とサスペンスが混同されてる。「志村、うしろ、うしろー!」という状態そのものを指す言葉が「サスペンス」なんですよ。

こういう企画の要素って30個くらいあって、それを体系的に説明していくものを残そうと思ってますね。

――:岡田斗司夫さんにしても、高橋さんにしても、お話を聞いていると博覧強記。なぜここまで造詣が深いのかと驚きます。みなさん、どうやってインプットされているものなのでしょうか?

これは誤解されがちなんですが、我々が誰よりもSFに詳しい、というわけじゃないんですよ。手塚治虫さんがあれだけ博学なの、不思議じゃないですか?ほとんど寝ずにマンガ描き続けてインプットの時間なんてないんですよ。僕だって、この10年でSFをちゃんと追っているかというと『三体』も最後まで読んでなかったりする。当時から、めちゃくちゃ詳しいやつがいて、それぞれからダイジェストで一気に歴史や解釈を聞くんですよ。手塚さんも鉄腕アトムのときにSFに詳しかったわけじゃなくて、それに詳しいひとの話を取り入れてマンガにしていっている。

だから僕も若手にお金あげて映画みてきてもらって、レポートを書いてもらってました。いまだったらネット検索したり、動画視聴したり、CopilotみたいなAIでやってもらうことを当時は人海戦術なんですよね。自分自身では全部観たり読んだりしているわけじゃないけど、そういう情報は逐一耳に入ってくるので「惑星間移民みたいな話ってどう?」みたいに企画に取り入れていけるんです。

――:じゃあ必ずしも知識No.1の人間が成功するわけじゃないんですね?

詳しい人たちを集められるリーダー、が当時の優秀なクリエイターの正体なんですよ。1970~80年代にアニメ・マンガ・SFで人材が目立っていたのだって、さきほどいったように「集団幻覚」とか「自己催眠」ですよね。

いはまVCもどんどんできて投資する人間は増えましたが、最終的にこういう「雰囲気」が一番インキュベーターになるんですよね。でもそれはただ待っていて出来上がるわけじゃないし、現在のエンタメ文脈だとこのインキュベーションをケアしていく人間が必要だと思いますね。

僕らの時代はインキュベーションのケアマネジャーがいない状態で、コタツのすみっこが温かったので一人コツコツ起業しちゃいましたが、そういった機能を人工的に作っていくことが大事かなと思います。

 

会社情報

会社名
Re entertainment
設立
2021年7月
代表者
中山淳雄
直近業績
エンタメ社会学者の中山淳雄氏が海外&事業家&研究者として追求してきた経験をもとに“エンターテイメントの再現性追求”を支援するコンサルティング事業を展開している。
上場区分
未上場
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