【連載】中山淳雄の「推しもオタクもグローバル」第33回 アニメ界はいつ「女性」を発見してきたのか:アニメライターが見つめてきた30年間の発展の軌跡
アニメライター―『アニメージュ』の専属ライターから始まり、この不安定な業界で「会社員ではなくフリーライターとして」30年以上。しかも当時は9割男性という社会で女性ライターとして生き残ることがいかに大変だったかは想像に難くない。渡辺由美子氏はアニメ・メディア業界において第一人者であり、よくその執筆記事も目にする。そのキャリアの軌跡は、まさにそのままアニメ業界の歴史が詰まっており、また同時に自身もコミケや推し活にと励む「ファンとしての一面」もある。彼女には、メディア側・ユーザー側両方の視点でアニメ業界のダイナミックな変化を語ってもらえるのではないかとインタビューを依頼した。それはまさに90、00、10年代と3世代を通して、アニメがどう発展していたかの歴史をつかみ取る刺激的な話であった。
■1980~94:コミケ通いの名古屋女子大生がアニメージュのライターになるまで
――:自己紹介からお願いいたします。
アニメライターの渡辺由美子と申します。徳間書店『アニメージュ』でのライター仕事から始まり、その後これまでの30年ほどアニメ業界関連のフリーライターとして仕事をしてきました。
――:そもそも、「アニメライター」という職業自体どんなことをされてるものなのでしょうか?
昔は雑誌の企画や取材・コラムの原稿執筆がメインでしたが、書く媒体にwebも加わりました。ラジオや動画配信のトーク、シンポジウムや講演会など、書くだけじゃなくて語る仕事も増えています。基本的にはアニメなどのコンテンツを自分の視点を交えながらいろんなところに届ける、という仕事です。
とはいえ、私はずっと自信が持てなくて、他のアニメライターさんと比べたら「自分の強みなんてないな……」と思っていたんです。でも最近気づいた自分の個性は、エルフのように森の中でフッと“あっちが流行ってそうだな"という「お客さんの声」をかぎ分ける力が強いのかなと思うようになりました。声優を特集したらその直後に声優ブームがきたり、一般誌でアニメビジネスについて書いたら、そのあとに一般媒体でのアニメビジネス記事が増えていったり。「第一人者」では決してないのですが、流行移ろい続けるこの世界で早めに流行を察知して特集する、「なんでも2番目に味わう人」というポジショニングになってきています。
――:アニメは小さいころから見ていたのでしょうか?
実はアニメはそこまで深くハマっていたわけではなく、1985年が大きかったです。「『ガンバの冒険』ファンクラブ」の友人から誘われて、初めてコミケに行きました。ちょうど85年のコミケは『キャプテン翼』の二次創作によって、女性参加者が一気に増えた時期です。ブームのど真ん中で、周りの友達が本を作ったりしていたので、私はフェルトに「東邦」と書いた黒と白の法被(はっぴ)を着て、売り子のお手伝いをしました。名古屋から夜行列車で東京に「遠征」して、それが面白かった。それをきっかけに、年2回あるコミケで東京の友人たちと遊ぶようになりました。コミケで「ファン」の面白さに気がついたんです。
当時は名古屋の椙山女学園大学という“お嬢様学校"みたいに言われていた大学で、文化祭実行委員会の仕事をしていました。それとは別に週末は遠征費用を稼ぐためにアルバイトをしていました。デパート内で海外のパンとかハーブティをお客さんに試食してもらって販売する「マネキン」という仕事で、すごくやりがいを感じていました。
――:アニメと「マネキン」、ちょっと距離がありそうな……。
新商品のキャンペーンが多かったので、お客さんにオススメして、その反応を見ながら「このお客さんはここに関心があるんだな」と気がついて、その人に合わせたオススメポイントを説明する。それが今やっているライターの仕事や、コミケでのサークル参加や本の頒布にもつながっている気もします(今回のインタビューはコミケで渡辺さんが売り子をやっている最中にも部分的に行われている)。
(「推し」の『D4DJ』明石真秀の缶バッチなどを胸にインタビューに答える渡辺氏)
――:当時のアニメというのは「後ろ暗さ」みたいなものはなかったのでしょうか?中山も1995年あたりの中学時代に『エヴァ』をVHSで借りてみたのが最初のアニメでしたが、まだクラスで数名の“オタク"的な友人がもっていただけで、決して一般的な感じではなかったです。地方だったというのもありますが。
宮崎勤事件などで「オタク」が揶揄されるようになるまでは、普通に明るいジャンルだったんですよ。80年代は『銀河鉄道999』とか『うる星やつら』とか、アニソンもゴダイゴやシティポップなどで格好良かったですし、まわりをみると頭のいい陽キャな人たちがアニメも普通に視聴していました。90年代に入っても一応サブカル全盛期ではあったので、私自身はアニメ関連の仕事をしていたり、コミケに通っていることにあまり負い目を感じたことはなかったです。まあバンドやるような「陽キャ」とまではいわないですが、アニメの中でもイベントに参加していくような「インドアのなかの陽キャ」みたいな感じでしょうか。
■90年代声優ブームと声優雑誌の創刊
――:渡辺さんは91年から徳間書店のアニメージュでアニメライターのデビューをされます。アニメージュといえば、アニメ雑誌の老舗ですよね。
1989年、大学を卒業して入った名古屋の映画会社は1年経たずに辞めて、90年に仕事で知り合ったアニメ制作会社に転職して上京します。劇場版『赤毛のアン』の宣伝やクリエイターへのインタビューなどしていたのですが、翌年の91年に倒産してしまうんです。
そこから編集プロダクション(出版物の企画・編集・制作を代行する会社)に入りました。それと同時に、高校時代からの「『アニメージュ』を作る人になりたい」という夢が叶ったらいいなと思い、アニメ映画の宣伝で一度記事を載せてくださった『アニメージュ』編集部の編集さんに電話をかけてみました。記事と言っても「新作アニメ特集」の1コーナーだったので、我ながら図々しいなと思うのですが(笑)。「お仕事をさせていただきたいんですけど」とお願いしたら「よかったら面接に来てください」とお返事をくださって。面接の後、編集プロダクションで勤める傍ら、『アニメージュ』でコーナーを2つほど担当させてもらいました。翌年の92年、編集プロダクションを辞めてフリーランスのアニメライターとしてデビューしました。
当時、アニメ3大誌と言われていたのが、徳間書店『アニメージュ』、角川書店『月刊ニュータイプ』、学研『アニメディア』です。『アニメージュ』はライターさんが30人ぐらい出入りしていたと思います。
――:30人!やはり当時のアニメ熱はすごかったですね。最初はどんなお仕事をされてたんですか?
私は92年に新人声優さんの紹介コーナーを担当しはじめたんですが、読者さんからは、毎月100通くらい「この声優を取り上げてほしい」というリクエストのハガキが来ている状態でした。ちょうど『美少女戦士セーラームーン』が大ブームになって、三石琴乃さんや久川綾さんなど若手声優も人気で。編集部でも「アフレコスタジオで出待ちするファンが増えている」という話を聞いたんですね。
それで私は「声優ファンが何を考えているのか」を知りたくて、出待ちするファンの方々を出待ちして(笑)、5人くらいに声をかけて、アフレコスタジオ近くの喫茶店で直接インタビューをしてみました。すると全員が「みんなマンガ家か声優になりたい」と言うんです。
それで、そんなに声優になりたい人が多いのなら、どうしたらなれるかがわかる記事を作りたいと思って、編集部に企画を通しました。声優養成所や専門学校などを取材して本誌で記事にしたら反響が凄くて、これは何か別の形にしたいなと。担当編集の古林英明さんの後押しもあって『声優になりたいあなたへ』(徳間書店、1994)を初めての単著として出版しました。
――:なるほど、取材が本になったのですね!古林さん※とはその後一緒に声優雑誌を立ち上げられるんですよね。
古林さんはもともとアニメだけをやりたい人ではなかったんです。むしろ新聞やジャーナリズムや社会的ニュースといったほうに興味が強かった。だから声優さんの記事を面白がってくれました。単行本が重版になった頃、編集部の黒電話に「由美子いるか!?」って電話がかかってきて、「おい、これから雑誌を立ち上げるぞ!ボイスアニメージュだ!」って思い立ったように言われて。それが1994年『Voice Animage』の始まりでした。古林さんも「声優は人間だから、リアルだ」と、どんどんのめり込むように記事を作っていきました。
※古林英明(1964~2015)立教大学フランス文学科卒業後に50社近くの新聞社・出版社の入社試験に落ちた末に、1988年に徳間書店に入社。『アニメージュ』編集部配属で、鈴木敏夫の弟子であった。1994年『Voice Animage』の創刊編集長、2001年に角川書店に移籍後『Voiceニュータイプ』を2002年に創刊。その後『特撮ニュータイプ』『特撮エース』『特撮ガンダムエース』『ケロケロエース』などの編集長を歴任。
――:『Voice Animage』のお仕事はどうだったのでしょうか?
面白かったです!『スレイヤーズ』や『新世紀エヴァンゲリオン』で林原めぐみさんや、『幽☆遊☆白書』や『エヴァ』で緒方恵美さんのような人気声優さんが続々と見いだされていくなかで、私も声優さんの取材に明け暮れてました。当時は声優さんをファッション雑誌のグラビアのように見せたい! と現場の誰もが前のめりで、有名なカメラマンにお願いしたり、スタイリストさんやヘアメイクさんにも多くお願いしていました。私もグラビアのラフを描いて、海までロケハンに行って、車やハウススタジオ、ロケ弁の手配をして、現地では声優さんにインタビュー。帰ったらテープ起こしをして原稿を書いて。なんでもやりました。怒涛のように働いていた時代です。このあたりが第三次声優ブームの時代です。
※第一次声優ブーム(1960年代に洋画の吹き替えやラジオのパーソナリティとして野沢那智などにファンがつくようになった時代)、第二次声優ブーム(1970年代末から『宇宙戦艦ヤマト』を皮切りにアニメブームが始まる。富山敬らがオリジナル楽曲のレコードをリリースするなど、声優業以外の活動もするようになった)ときて、時代は90年代初頭から第三次声優ブームに入っていた。
――:『アニメージュ』はジブリの鈴木敏夫さんも1978年から配属されて、ジブリ特集などで宮崎駿さんとの関わりも深め、89年に徳間が出資をしていたスタジオジブリに転籍されるまでは実質的にアニメージュの編集長もされてました。
はい。鈴木さんとは電話越しでお話したことあります笑。私がライターになってすぐ、男性から電話があって第一声で「おう、おれだ」って言うんですよ。「え、どなたですか?」とお返事したら、「おれだー、鈴木だーー!!」って大声で返ってきて。まあ誰もが知っている方だったので、何も知らない新人が電話に出るとは思っていなかったんですよ(笑)。その漢気のある気質は、そのまま古林さんにも承継されていました。
――:古林さんは01年に角川移籍後もたくさん雑誌創刊されますよね。
古林さんは、徳間時代から宮崎駿さんの『風の谷のナウシカ』をご担当されていました。新しいものを創ることが得意な方で、角川時代にもたくさんの雑誌を創刊していたそうです。だから2015年に逝去されたときのお葬式は大きなホールで行われて、そこには彼が創刊してきた雑誌がずらりと並んでいました。関係者も、アニメ業界のさまざまなところで第一人者になったような方々もずらりといらっしゃって、しんみりしながらも古林さんの武勇伝を語る同窓会のような感じになっていました。
■90年代のファンはどんな活動がさかんだった?
――:この時代のユーザー側の活動はどんな感じだったのでしょうか?
この90年代にコミケなどの同人誌即売会で二次創作が大流行していきます。著作権的な話もまだあまり表に出てこなかった時代の話ですが…。女性ファンには、少年マンガやアニメの二次創作が人気でした。
私自身も柴田亜美先生の『南国少年パプワくん』が好きで、原作とアニメを追いつつ、同人誌も買い始めました。パプワくんが掲載されていたエニックス社の『月刊少年ガンガン』(91年創刊)って、『ドラゴンクエスト』世代の作家さんの色が出ていて、少年マンガの中でも男性と女性の中間的な感性を感じたんです。少年マンガにも少女マンガにも行けなかったアニメ好きの私は、そこでようやく「自分が好きなテイストがここにある!」と感じました。
あとは当時唯一の女性向けゲームだった『アンジェリーク』にハマったりしてました。実は90年代前半にアニメライターになったにも関わらず、当時はハマる作品が少なかったんです。本格的にアニメを追い始めたのは『エヴァ』以降になります。
――:女性がどんどんコミケに入ってくるのは、何が理由なんですかね?
バブルで女性が自分で自由に使えるお金をもったことと、キャラクターに対する思いを昇華する派生商品が、「公式」からそんなに出ていなかったんですよね。少年マンガも今のようにキャラクターグッズを出してくれる時代ではなかったし、アニメも、公式のメーカーがマネタイズしていく手段がまだソフト販売(VHS、レーザーディスク)に限られていて、女性ファンが望んでいるような「キャラクターの心理描写に重点を置いたスピンオフの物語」は公式から出ることは少なかった。それで私たちの願望を消化する先として同人誌が選ばれるようになったんです。好きな人が好きな人に向けて、自分たちの手で作られていくようになりました。
――:コミケが80年代後半から爆発的に増えていくのは、「女性が公式の提供商品では補いきれなかった需要を、自分たちで満たした」ということなんですね!それは面白い話です。
アニメ雑誌も実はその役割で、今もそれはあると思うんですよね。2000年代に入って、公式が直接ファンに提供するスピンオフの物語やグッズが充実してきましたが、コミケや二次創作、アニメ雑誌も、公式で満たしきれない需要に対応していったものなんだろうなと思います。
■1995~2000:アニメのマス化と美少女ゲーム流行/急増。「アニメは男性のモノ」から円盤・グッズでのマネタイズ時代へ
――:この20年は雑誌にとって厳しい時代でしたが、1990年代でいうと雑誌は書籍やマンガよりも出版社にとっての主力事業で、本当に数えきれない種類の雑誌が立ち上がってましたよね。
当時は雑誌が本当に強いメディアでした。どの雑誌でライターをやってるか、がそのまま名刺がわりになっていたので、私も他の雑誌にも声をかけられるように務めていました。『ニュータイプ』のエヴァ特集の時には40万部いってますし、ハガキが大量に編集部に届くので、それで手ごたえ感じられるんですよ。
――:現在のアニメ雑誌の部数からするとすごい時代があったんですね。渡辺さんは現在もライターとしてWebで様々な記事書かれてると思います。そうした中で、数百万PVみたいな優良記事もかかれてきたと思うんですよ。でもそうしたPVと比較して、ハガキ数百通しか、みたいな当時の紙記事との反響の手ごたえってどのくらい違うものなのですか?
リアルな手ごたえはハガキのほうが感じられていたと思います。何しろ「自分に向けられたもの」だったので。ハガキは「熱量」が伝わりやすいです。びっちり文字を書いて、しかも同じ人が何度も送ってくる。オリジナルの良さがありますよね。
PVそのものに手ごたえはあまり……私も編集さんから「渡辺さんの記事は200万PVいくんですよ!」と教えていただいたことがあるんですが、PVの数字に感動するのは編集さんのほうかもしれません(笑)。今、嬉しいのはネットの感想です。こちらもオリジナルの良さがあります。
――:徳間書店では創業者の徳間康快(1921~2000)さんの逝去などで事業に影響がありましたね(注※)。一方、角川書店は角川歴彦さんが社長として戻ってきてから(1993年)、どんどんアニメを強化していった。古林さんは01年に角川書店に移籍されます。渡辺さんは一緒についてはいかなかったんですね。
1998年ごろには『アニメージュ』と『ニュータイプ』の両誌で『新世紀エヴァンゲリオン』の作品担当を終えたことで「アニメライターとしてはひとつの山のぼりきったな」という思いがありました。『Voice Animage』も、90年代後半には女性声優さんのグラビアが増えて、インタビュー記事よりも写真の比率が増えていました。「私の役目は終わったかも」と思い、出ると告げた時は古林さんに「バカヤローー!」って怒鳴られましたけど笑。
そこから一般誌のほうで執筆の土台を築いていきました。2000年ごろにアニメージュから「アニメージュに女性ファンが増えてきたのでライターとして来て欲しい」と言われてもう一度アニメ記事を担当していましたが、その時期にはビジネス誌や一般誌のライターの仕事や著書を出すことも並行してやっていました。
※徳間書店は01年にカラオケの第一興商に売却、持っていた映画会社大映は02年に角川に売却。05年にスタジオジブリも切り離して分離独立させたうえで、13年にはカルチュア・コンビニエンス・クラブに出版事業は引き取られた
――:90年代当初は30人いらっしゃったアニメライターの方々はどういう人で、今何をしている人が多いのでしょうか?
出入りが多い仕事でしたし、正確には把握が難しいんです。私が入った当時の先輩方は、早稲田など大学のアニメ研究会に在籍していて、学生時代からライターのアルバイトをしてそのままフリーランスになった方が多かったです。ライターの9割が男性です。女性は少なくて、特にアニメが好きで続けていた方は数名です。田中久美子さん(その後角川に入社して『ドラゴンマガジン』編集長等)や渡辺麻紀さん(映画ライター)が素晴らしいお仕事をされていました。
その後の進路としては大学で研究者になった人、玩具メーカーにいった人、脚本家になっている人などバラバラですけど、KADOKAWAなど別の出版社で社員になっている方も多いです。現在もライターとして活動をよくお見かけするのは原口正宏さん(アニメーション史研究家。1985年からアニメージュで「パーフェクトデータ」を担当、以降もアニメの記録を続ける「リスト制作委員会」代表。東京工芸大学、神戸芸術工科大学など講師)、小黒祐一郎さん(『アニメスタイル』編集長、スタジオ雄代表取締役)ですね。昔いた方で続けている人は少ないかもしれません。
――:なんと、女性も1割、ライターとして残るのも1割、みたいな世界なんですね。渡辺さんも「社員になる」という選択肢もあったのでしょうか?
もちろんありました。ライターとして生き残るのは大変です。基本的には原稿料で生活しなきゃいけないですし・・・それでも90年代は1作品あたりのページ数も多かったから作品についてインプットした分を全部原稿にできました。単行本も作ってきたから、それなりに稼げたんです。変化が起きたのはネット普及からです。雑誌も規模を縮小したり、Web時代になると、さまざまなweb媒体が登場した反面、ギャランティが安い媒体も増えています。専業でアニメライターをやっている人はあまり多くないのかもしれません。
ひとりひとり、正解が違うのがフリーライターなんだと思います。私の場合は、「苦手なことが続けられない」という弱点が大きくて、結果的にそれが続けられた要因だったなと思っています。
――:弱点が続けられた要因になったというのは、どういうことですか?
苦手なこと、たとえば「自分の好みではないジャンルもこなし続ける」ことはできない。その一方で、自分の好みにハマったらすごいエネルギーが出るんです。最初にお伝えしたように、私は流行を察知して新しいものを追いかけることが好きでなので、「未知のものを紹介するスキル」がどんどん養われている感覚がありました。「好きなものだけ追いかけて技を磨くことができる」のは、フリーランス最大の利点だと思います。その「好きなものを追いかける脚力」「読者にわかりやすく書く紹介力」が身についたおかげで、生き残っていけたのかもしれません。
――:1997年ごろのアニメージュを離れたタイミングで、岡田斗司夫さんともお仕事されてますよね。
はい。頭がよくて、オタクの地位を上げてくれた方だと思っています。偶然本屋さんで見つけた『ぼくたちの洗脳社会』(朝日出版、1995)に感動して、手紙と一緒に自分が出した声優さんの書籍をお送りしたことがあります。そうしたら「よかったら一緒に仕事をしましょう」とメールで返信をいただきました。
一般誌時代の『週刊アスキー』で岡田さんの連載や座談会の記事を作ったり、単行本『国際おたく大学』(光文社、1998)「ショタの項」の執筆をしました。実はこの本で私が書いた「女性は関係性に萌える」という言葉が、その後斎藤環さんなどにも引用されるようになったりもしました。
――:なんと!『戦闘美少女の精神分析』(太田出版、2000)の方ですよね!いまや推しの金言となった「女性の関係性萌え」は、渡辺さんが発見者なんですね!!
いえいえ、発見者かどうか、他の本を全部を読んでみないとわからないです。けれどもいろんなマンガ研究者の方が引用してくださったので、書籍に書いたのは早かったのだと思います。
私自身、岡田さんとの仕事で成長できたと思います。このあたりでルポルタージュの執筆をするようになります。「婦人服『9号神話』の呪縛に泣く」『読売ウィークリー』(2000年7月23日号)や「“紙の上の美少女"に走る男が増えている」『婦人公論』(2003年11月7日号)といった記事を書きました。『読売ウィークリー』の婦人服は私の関心事を企画持ち込みで書きました。『婦人公論』のほうは、若い男性の編集さんからの依頼で、その編集さんが関心のあるテーマを書きました。
――:だんだんアニメからはじまるジェンダー論や性愛論が一般誌に掲載される時代に入ってきたんですね。岡田さんとはその後も本を書いていますね。そのあとは日経ビジネスオンラインで連載をもたれます。
岡田さんと共著で出した『結婚ってどうよ!?』(岡田斗司夫・渡辺由美子/青春出版社、2006)ですね。
そのあとは、日経BP社の名物編集者・山中浩之さんと、立ち上がったばかりの『日経ビジネスオンライン』で連載をもたせてもらいました。連載名は「アニメから見る時代の欲望」といって、アニメ監督やプロデューサーに「アニメの企画者には時代がどんな風に見えているのか」をインタビューしています。
名前もある程度でてくるようになると、企業セミナーなどにも講演者で呼ばれるようになっていきました。大手メーカーの社内講演会とか、アニメのキュレーターとして企業にレポートを出すような仕事もしていました。
2022年8月13日コミケで自作同人誌を販売する渡辺氏、30秒単位で人が訪れてなかなか取材のすき間もなかった
■2007~2010:女性向け作品ビックバン、「女性オタク」に気づき始めたメーカーたち
――:一般誌にいったのはそれも理由かもしれないのですが、アニメの女性ライターがまだマイノリティの時代ということもありますか。渡辺さんのようなキャリアのライターは当時どのくらいニーズがあったのでしょうか?
90年代はアニメの女性ライターはマイノリティだったと思います。アニメ業界の送り手全体に女性が少なかったです。「ファン」は多いんです。でも「業界」には少ない。少年マンガ原作のアニメ特集もライターは男性でした。「少年」マンガというフォーマットなので。『エヴァ』以降は美少女ゲーム原作のアニメが増えるんですが、担当は当然、男性ライターになります。
90年代後半は、女性のアニメライターとしても、このあたりが生存限界のように思えました。10本特集があっても女性ライターが必要なのは1本だけ、といった具合なので。『エヴァ』担当になりアニメライターとしてひとつの山に登ったつもりになったものの、98年劇場版『エヴァ』が終わった後、2000年までの2年間はやっぱり私の出番はあまりなかった。ちょっとしたトラウマな時期でもあります。
…でも、一方で、コミケや女性向け即売会の盛り上がりは相変わらずすごいものがありました。「これだけ私のまわりでアニメ好きの女性ファンがキャラクターの物語を求めているのに、メーカーもアニメ誌も、どうして女性ファンに向けた特集を作ってくれないの!?ファンのこと、本当にわかってる!?」とやさぐれてました(笑)。
――:「誰がアニメを作っているのか」ということも大きいのでしょうか?
はい。「女性ファンのニーズを数字で立証できなかった時代」だと私は解釈してます。ソフトメーカーにも「女性ファンの掘り起こしをしたい」と考えてくださる男性プロデューサーさんも多かったのですが、いかんせん組織の中に女性が少なかった時代。実際に何がニーズなのかがわからない。女性はソフトを買わない、買わないから女性はターゲットから外れるという悪循環でした。
製作委員会方式になり、いろんな企業がアニメの業界に入っていきますが、当たるのはプロデューサーや監督が「俺が好きなもの」で軸を通した作品なんですね。OVAを購入していたアニメファンの男性とプロデューサーの方々は年齢的にも近いので、送り手と受け手の齟齬がない。一方で、送り手に「私が好きなものを作る」なんてことができる女性はいなかった。その立場にいなかったからです。
90年代すでに女性声優はアイドル化してメーカーもそれをバックアップして男性ユーザーに届けていましたが、女性ファンが多い男性声優はあくまで個人活動が多かった。女性のアニメファンは、本当に自分たちの求めるものは公式から出なくて、コミケで同人誌を買うくらいしかお金の使い道がなかった。アニメ業界では「僕らもなんとかしたいと思っている」「でも女性向けは何が当たるかわからない」「女性はアニメソフトを買わない」、取材先でそうしたお話をうかがうことも多かったです。
――:逆にいつごろ女性ファンが多い作品ができ始めるのでしょうか?
2000年前後に一度、ゲーム業界では男性ユーザーの伸びが頭打ちになって、各社が徐々に女性向けのゲームを作りはじめていました。それと同時期にアニメ業界に革命が起きます。DVDプレイヤーが2000年に発売されたPlayStation2によって普及するんです。2000年『幻想魔伝最遊記』が女性を中心にヒット。2002年『機動戦士ガンダムSEED』が男女ともに支持されて大ヒット。そして2004年『鋼の錬金術師』も女性ファンの勢いがイベントという形で可視化されます。
この時期になると、女性をターゲットにした作品でも1万本ソフトが売れるといった事例も増えていきます。DVDの普及によって女性がソフトを購入するようになり、メーカーから「ユーザー」だと見てもらえるようになったんです。
ゲームでも2002年『ときめきメモリアル Girl's Side』がヒットしたり、2003年にはミュージカル『テニスの王子様』が誕生、2004年完全に女性向けのアニメ『今日からマ王!』がヒット。同年に女性向けアニメ誌『PASH!』(主婦と生活社)も創刊されました。
――:池袋の「乙女ロード」ができ始めるのもこの時期ですよね。個人的には「うたプリ」(2010)ごろから女子向け作品をみるようになっていきましたが。
私は「女性向け」をうたった作品のビックバンは2007~10年にあったと解釈してます。それが「乙女ゲーム」と「アニメ」、そして「男性声優」が同時に展開されるようになる時代で、2007年に女性向け恋愛ゲーム専門ブランド「オトメイト」が誕生し、2008年に『薄桜鬼~新選組奇譚~』がヒットします。
またMixiやPixiv、ニコ動、Twitterなど女性が口コミを広げる手段が様々に確立されてきたことも大きいと思います。そこでコンテンツの楽しみ方と共有の仕方が多様化し、女性オタクが顕在化して、企業側も「女性の萌えがどこにあるか」を発見して提供していくようになるんです。
――:たしかに2010年前後に乙女ゲームが大きく伸びていますね。
はい。かつて乙女ゲームや少女マンガの女性ファンは、アニメをあまり見なかったと聞いています。それがこの時期に、原作だけでなくアニメまで視聴する女性が増えます。
女性ファンが多いヒット作はこのあたりだと思います。2006年『金色のコルダ』、2008年『純情ロマンチカ』『夏目友人帳』、2009年『戦国BASARA』『ヘタリアAxies Powers』、2010年『薄桜鬼』、2011年『Tiger&Bunny』『うたの☆プリンスさまっ♪マジLOVE1000%』などなど。このあたりからDVDも1万どころか2万本以上になっていく事例も見られる時代になりました。数年間の間で、どんどん「女子がソフトを買う」時代に入っていくんです。
――:なるほど!明確すぎますね。SNSの発展と女子向けアニメソフトの売れ方が連動しているという事実は知りませんでした
女性をユーザーとするなら、数字以上に友達とやりとりする中で出てくる感想や、友達に布教する「口コミ」が大事だと思っています。男性声優が「アイドル」的にステージに立ち、作品によらないオリジナルのライブを開催するのもこの時期です。男性声優さんが発起人となってランティスと始めたライブ「Original Entertainment Paradise -おれパラ-」(2008年)、ランティス・バンダイビジュアルで男性声優専門の音楽レーベル「Kiramune」が誕生したり(2009年)、ついにライブも女性ファンが対象になってくるんです。
■2010~:女子向けアニメ全盛期。光る棒と聖地巡礼など「装置」が開いたファンの参加活動。コロナ後で気づいたメーカー・供給側の重要性
――:2010年代は女子向け百花繚乱時代であるとともに「音楽ライブ」「2.5次元舞台」などユーザーが「参加していく」時代でもありました。このあたり、渡辺さんも同人誌の新書『みんなが自己流!オタクの光る棒1年生』でサイリウム、ペンライトなどの歴史をまとめられていて、中山も目からうろこでした。
2010年代はオタクの趣味に「現地ライブ」というのが加わった時代ですよね。アイドルアニメに出演する声優さんがステージに立ってライブをする。「光る棒」があることで皆で一緒に「推しの世界を輝かせられる」と思っています。
――:この「光る棒」も90年代にはほとんどなかった現象なんですね。
はい、アイドルでは多かったですが、アニメや声優由来のステージではあまり見なかったと思います。2002年の水樹奈々さんのライブあたりからちらほら、メンカラーでグループメンバーごとに色分けして振り始めたのがおそらく2005年よりあとから、これがペンライト芸として昇華され、ルミカ社などから様々な光る棒が出始めたのが2010年代、という変遷をたどってます。
――:歴史の生き証人すぎる、、、笑。時代の変化がそのままわかりますね。「聖地巡礼」についてもおっしゃってましたよね。
男性はライブと聖地巡礼でコミュニティが形成されていく傾向があるなと思いました。音楽ライブに参加する人が増える一方で、世界観に静かに浸りたい人は聖地巡礼派が多いと思います。もちろん兼任する人もいます。
対して女性はコミケのような同人誌即売会は今も存在しつつも、公式がイベントやステージを開催したり、専門の企業とタイアップする形でコラボカフェも急増しました。こうした「アニメ世界に入る装置」ができ始めて、2010年代のアニメブームがおきてきたんだと思います。
――:同様に2010年代は女性ファンを見込んだ作品がどんどんできてきます。
プロデューサーや監督といったプロジェクトのキーマンとしても女性が入るようになってきました。女性はグッズが好きでコミュニケーション自体が好きですし、もはやアニメにとって「女性」というのはサブではなくメインのユーザーとして、男性ユーザーと共に育つ対象になってきたのも、この10年だと思います。
――:渡辺さんご自身は90年代アニメ誌、00年代一般誌・ビジネス誌ときて、10年代はライブ参加などよりファンに近い目線で様々な時代の変化に切り込まれていかれました。2020年代、これからはどんなことを考えていますか?
これから……ちょっと突飛なきっかけになりますが、私はコロナで遊びがなくなったときに、映画館・美術館通い、そして「陶磁器」のマイブームがきたんです。
――:陶磁器、ですか。
イギリスのウェッジウッドについて調べはじめたら、当時のイギリスは内陸の交通網が脆弱で、せっかく工房で作った陶磁器をリバプールの港に運ぶ最中に、陸路のガタガタ道のせいでかなりの数が割れてしまう話を知りました。それでジョサイア・ウェッジウッドさんがいろんな工房から協力を得て運河を作って、その土地の工房さんはみんな水路で安全に陶磁器を運べるようになったんです。……「交通がこんなに重要だとは、、、!」と衝撃を受けまして。
――:な、なるほど!ハマったというところで軽く考えてたら、かなり本格的ですね、、、!
オタクはなんでも調べますから笑。で、それで「流通・ロジスティクス」に俄然興味が湧いて、いままで「ユーザー側としてのアニメ」ばかり追ってきたけど、「供給側・企業サイドから見たアニメ」ももっと伝えていかないといけない、ということで企業側サイドの取材にとても興味をもつようになったのです。
でも自分でも理解できる本の出会いが少なくて、、、しかも「ファンから見た」ことを書いている本は本当に少ないな……といったときに、手に取ったのが中山さんの『オタク経済圏創世記』と『推しエコノミー』でした。『推しエコノミー』は最初は難しいな~と放っていたんですが、インフラのマイブームがくるとその重要性がみるみるわかって、「この人だ!これこそ私が求めていた本だ!」と笑。
――:「陶磁器」がつないだご縁だったとは知りませんでした笑。それでこの時期に、いろいろTwitterで引用いただいたり、紹介いただいてたんですよね。
はい、こうやって企業側や経済学としての視点をもちながら、ちゃんとここまでファンの視点の部分も克明にかいてある本は今まで出会ったことがなかったので。それで中山さんに突撃して、Business Insiderで記事を執筆させていただくことになりました(※1)。
――:そして今度は逆インタビューで今回の記事にいたっているわけですね。では今後はこういう「アニメメーカーとしての企業サイド」や「ファンに届くまでのロジスティックス・産業基盤」といったところをもっと取材されていくつもりなのですね。
はい、あとは地方に注目してます。メディアってどうしても東京の中央ばかりに注目してしまっています。最近阪急阪神ホールディングスさんがメタバース空間内で音楽フェス『JM梅田』を展開しているプロジェクトを取材したんです(※2)。
「自分がVR空間に入って、推しのキャラと『同じ次元』に存在することの喜び」にすごく目が開かれました。
いまリモートで、今まで行きづらかった地方での取り組みもメディアは取り上げやすくなっているはずなんですが、いまだに中央にものすごく傾斜がかかっている気がします。それで自分としては地方、産業基盤、メーカー、そういった視点で今後は取材を深めていければと思っています。
――:最後に、アニメライターとして腕一本で生きてきた渡辺さんに、今後同じ道を目指す方々にアドバイスいただきたいです。
よくいただく質問なのですけど、難しいんですよね。人それぞれなので。ひとつだけ言えるのは「人のマネをしないこと」。我々はどうしたらなれるのか? というメソッド自体を探すような仕事をしています。その「情報を探す力」そのものが最初から試されます。たとえば各社の編集募集などのニュースを最初につかめるようにウォッチを絶やさないとか。この仕事は学歴がキラキラである必要はないです。私は「嗅覚」や「センサー」「どこの場にも合わせるチューニング力」で仕事をしてきたけど、もっと別のスキルに特化しているライターさんも多くいます。ただ、「時代の変化をつかみ取る」仕事ではあるので、今流行しているものより昔のもののほうが好きだったり、子ども時代の追体験をしたい人は時代と合わなくなるかな、という気はします。
私自身は、本質的に好きなことをやっている人が好きなんですよね。流行を追いかけるのが好きで、流行っているものに“2番手"ぐらいで到着できるように心がけています。どのジャンルも1番になるには専門家にならないといけない。でも2番手であればファンのざわめきを聴いていれば追える。ミーハーに、「いろんなジャンルを横断すること」そのものが専門性を持つ時代が来ていると思います。90年代後半に「自分の出番はない」と思った時も、「こっちの道なら行けそうだ」と探し続けて一般誌にも軸をもったりと、違うジャンルを探すスキルを磨くことが今に繋がっています。そうしたリサーチを10年でも20年でも続けられる人は、アニメに限らずライターに向いている、と思いますね。
(※1)FGOやウマ娘も…日本のエンタメ産業の強みは、ファンの「推し」にあり。
(※2)にじさんじ、キンプリも登場。阪急阪神HDが仕掛ける“メタバース音楽フェス”が狙うは「街づくり」
会社情報
- 会社名
- Re entertainment
- 設立
- 2021年7月
- 代表者
- 中山淳雄
- 直近業績
- エンタメ社会学者の中山淳雄氏が海外&事業家&研究者として追求してきた経験をもとに“エンターテイメントの再現性追求”を支援するコンサルティング事業を展開している。
- 上場区分
- 未上場