【連載】中山淳雄の「推しもオタクもグローバル」第64回 演じるかのごとき出版展開-寺山修司から薫陶を受けた『ロードス島戦記』の編集者

中山淳雄 エンタメ社会学者&Re entertainment社長
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ファンタジーと聞くと何を思い浮かべるだろうか。『ハリーポッター』や『指輪物語』は2000年代に映画で一世を風靡したが、欧州中世の世界観といえば『ドラゴンクエスト』もそうだし、実はSF(サイエンスフィクション)も立派なファンタジーである。日本のアニメ業界を切り拓いた『宇宙戦艦ヤマト』『機動戦士ガンダム』もれっきとしたSFファンタジーであり、同じ定義でいえば『CyberPunk:Edgerunners』もファンタジーだろう。だが日本で「剣と魔法のファンタジー」のジャンルに限っていえば、明確にそのスタートは存在する。『ドラクエ』とともに、TRPG・小説・アニメ・ゲームに展開された『ロードス島戦記』である。ファミコンとともにボードゲームやPCゲームとしてどのようにこのジャンルが40年前に生み出されたのか、今回はその開祖でもある『コンプティーク』元編集者の吉田氏に話を伺った。

 

  

■映画・劇団をまたにかけるクリエイティブサラリーマンが『コンプティーク』入社

――:自己紹介からお願いいたします。

吉田隆(よしだたかし)ともうします。主にこれまで編集者をやってきました。

 

――:個人的に日本ファンタジー史の研究をしておりまして、まさにその源流である『ロードス島戦記』の編集者だった吉田さんに今回お話お伺いしました。

もうだいぶ昔のことですけどねえ笑

 

――:KADOKAWAをやめられて、最近はどんな活動をされているんですか?

農業やって野菜を育てたりしてますね。あ、そうそう、KADOKAWA離れたあとは四国で歩き遍路をしてきましたよ。昨年の5月にスタートして、1日20から30キロで1300km、47日間続けてずっと歩いて88ヵ所の霊山をまわってきたんです。(詳しくはブログを見てください。65歳からのアウトドア)

 

――:かなり激しい活動されてますね笑。吉田さんはそもそも最初どんなところからキャリアがスタートされるのでしょうか?

1979年に大学卒業してから最初はサラリーマンですよ。大阪中之島の貿易センタービルに入っている外資系の会社で、2年くらい仕事してました。でも大学時代から映画とか演劇が好きで、ネクタイ姿の自分になじめず、なんだかつまらなくって辞めてしまいました。その後バイトしながら、井筒監督の『ガキ帝国』(1981、ATG)の映画の制作に参加しました。

 

――:映画、俳優として出られたんですか??

同志社大学時代に京都太秦映画村でエキストラ手配のバイトなんかもやってたんですよ。その時は自分自身も足軽とかヤクザの組員とかチョイ役で普通に映画に出てたんですよ。『ガキ帝国』でも出演はしていますが、これもチョイ役で、基本は制作部スタッフ、主に車両班で動いていました。

 

――:東京にはどうやって出てくるんですか?

東京にはいろいろ事情があって出てきました。27歳か28歳ぐらいの時です。何も当てなく出てきたので、そこで仕事を探しました。そして見つけたのがおもちゃの業界紙である「玩具通信」で、そこに編集者として入社したんです。そこで出会ったのが、その後長い付き合いとなる佐藤辰男(1976年日本トイズサービス入社後、1983年にコンプティーク入社。のちにメディアワークス社長、角川HD代表取締役などを歴任)さんです。会社名は日本トイズサービスで、佐藤はそこで編集部の上司でした。でもそこもまたウズウズしてきて退職して、今度は劇団に入ったりとか。天井桟敷ですね。

 

――:え!?あの「劇団天井桟敷」ですよね?寺山修司さんの。

もう亡くなる(1983年)1年ほど前でしたけどね、入団試験を受け舞台監督助手として入りました。いつも練習場にあの回転関節の部分がギシギシ鳴る折り畳み式ポンポンベッドをもってきて、体調が良くないので横になりながら演技指導してましたよ。私は寺山さんの大ファンだったんですよ。 

 

※寺山修司(1935-83):前衛演劇グループ「天井桟敷」主宰で、“言葉の錬金術師"“アングラ演劇四天王(唐十郎・佐藤信・鈴木忠志と並び)"“昭和の啄木"など数多くの異名をもち、文芸作品も多く、『あしたのジョー』力石徹の葬儀で葬儀委員長も務めた。

 

――:ええーー凄いですね!もう歴史の人ですよ、寺山さん。それにしましてもサラリーマンになったり、映画に出たり、演劇に参加したり、めまぐるしく動いてますね。それがどうして角川の編集者になるんですか?

佐藤辰男が角川歴彦さんに誘われて「コンプティーク」に入社するっていうので手伝ってくれと言われるんです。最初に歴彦さん、「次の時代の出版はブラウン管まわりだ!」といって「ザテレビジョン」(1982~2023、角川)というテレビ情報誌を立ち上げます。小学館出身の井川浩さんをひっぱってきて編集長にあげて、あと「週刊TVガイド」(1962~、東京ニュース通信社)を追いつけ追い越せだったので、東京ニュース通信社からも人がどんどん流れてきてましたね。

 

――:わりと角川歴彦さんご自身がハンティングから立ち上げしたりするんですか?

嗅覚が凄いんですよね。米国でのアメリカテレビ番組文化をみていて、あちらのテレビ雑誌と同じようなものが日本にくる、と。おなじブラウン管まわりでいうと、次はPC・ゲームがくるはずだ、というんですよね。それで佐藤辰男が「コンプティーク」の雑誌を企画して、編集長は最初は並行して井川さんがやってたんですが、途中で佐藤辰男に代わるのです。

 

――:PC・ゲームなどを取り扱う「コンプティーク」(1983~)ですね。いまも続いている、PC・ゲーム雑誌で『ロードス島戦記』も1986年にここの連載で始まりますね。

最初は「ザテレビジョン」の増刊号としてはじまるんですけど。「コンプティーク」は発行は角川ですが、制作は角川本体じゃなくて、角川メディアオフィスでの立ち上げなんですよ。だから私は角川じゃなくて、角川の子会社の角川メディアオフィスへの入社でした。

 

――:なんかお聞きしてると、当時という時代だからなのか、わりと競合からやすやすと人もひっぱられるし、雇用関係も緩い感じですね。どの法人で雇用されるとか、待遇がいくらくらいかとか分かって転職するものじゃないんですか?

いや、その通りですよ。単に私があまり気にしなかったんですよね、雇用形態なども。ですから最初はバイト待遇だったと思います。そして給与も最初に給与明細もらって初めて、その額を改めて認識するくらいですからね。佐藤に誘われたし、まあ面白そうだからやってみようかなっていうので入っちゃいましたね。

 

――:何が凄いって1977年発売のAppleⅡですけど、米国でこそ年30万台とかでしたが、1982年まで日本では累積2万台なんですよね。2万台って、いま日本に入ってきているVRヘッドセットの10分の1にもならないサイズのときに、それに向けて雑誌を作っちゃってることですよね。

ゲームは数万本でも当時は「人気があるな」という感じでしたね。NECもPC6000シリーズ出して、PCゲームが色々ではじめていた。初期に大きく取り上げられていたのが、のちにロードス島にも影響を与えるAppleⅡのPCゲームで『ウルティマ』や『ウィザードリイ』ですね。

 

――:もともと吉田さんもPCゲームが好きだったとか?

いや、僕自身はやってなかったですね。液晶で出てるゲームのおもちゃをちょっとやっていたくらいで。まあ玩具通信やっていたましたのでよく見てはいましたが。

 

■ドラクエとともに剣と魔法のファンタジーを根付かせたロードス島戦記、最初はD&Dのリプレイから始まった

――:日本でファンタジーが根付いた時代をぜひお聞きしたいのですが。

ファンタジーといっても色んなジャンルがあるんですよ。ナルニア国物語はハイファンタジー、スターウォーズはSFファンタジー、ハリーポッターは魔法のファンタジー。SAO(ソードアート・オンライン)くらいになってくるとちょっとファンタジーではくくりにくい世界ですね。私がずっとやってきたのは「剣と魔法のファンタジー」ジャンルなので今回はそこに限定してお答えします。

 

――:コンプティークの動きと連動するように、安田均さん(京都大学SF研究会に属し、6年務めた丸紅を退職したのちに専業翻訳家)が当時立命館大学の学生だった水野良さんと出会って、『D&D』を翻訳しているうちに、日本オリジナルの『ロードス島戦記』をつくったと聞いています。

1977年に米国で『Traveller』というゲームが出て、それが最初のSFロールプレイの始まりといわれますね。1974年の『D&D(ダンジョン&ドラゴンズ)』がいわゆるTRPG(テーブルトーク・ロールプレイング)の最初ですけど、日本だとSFのほうが通りがよかったので、安田さんがこの『Traveller』も『D&D』と一緒に紹介していったんです。ただ日本だと、この世界観の普及に大きく貢献したのがAppleで1983年に出た『ウィザードリイ』のほうですね。まだ皆が辞書を片手に一生懸命“翻訳"していた時代です。

私の定義だと、1984年に出た「火吹山の魔法使い」のゲームブックが日本で最初に「剣と魔法のファンタジー」を日本語で展開された最初の年だったんじゃないかと思います。85年には『D&D』の日本語版ボードゲームが新和から出て10万個売れる大人気商品になりました(『トラベラー』はホビージャパンによって84年にリリース、3万個が売れた)。

 

――:なるほど、米国から5~10年遅れで安田さんや水野さんが“翻訳者"の位置づけで遊びを輸入し、ただ米国とはちょっと違う形で浸透するのが1982~85年の時期なんですね。まさに『エンタの巨匠』でエニックスのゲーム賞をとった堀井ゆうじさん達と集英社の鳥嶋さんが『ウィザードリイ』の着想から『ドラゴンクエスト』を開発していった経緯をインタビューしました。

日本ではSFファンタジーが先行してたんですよ。それでSF小説が広がって、ボードゲームになって、それがゲームブックにもなっていく。そうしてファンタジー自体の土壌ができあがった上で、『ウルティマ』『ウィザードリイ』で剣と魔法のファンタジーに影響受けたのが『ドラゴンクエスト』の開発者である堀井さんであり、「コンプティーク」側では我々だったわけです。

ファミコンがマスに広がるきっかけがあったわけで、その先に86年に水野良くんが『ロードス島』を流行らせていったのは時代の必然もあったわけです。

※)安田均氏と水野良氏がD&Dの紹介をやっていたところ、85年12月に角川専務の角川歴彦から連絡があり、最初は『ドラゴンランス戦記』というゲームブックの翻訳依頼だったが、意気投合した上で「コンプティーク」でTRPGのリプレイを連載しようという話になった

 

――:こう考えると、驚くほど時代が重なってますよね。1986年5月がドラクエ1の発売、ロードス島の連載が「コンプティーク」9月号から。ボードゲームと小説と雑誌、そこにファミコンゲームが重なりながら、この1986年に日本のファンタジー史が作られ始めたんだなと改めて思います。

TRPGの最初は『ログイン』(1983~2008、アスキー。本雑誌から『ファミ通』も生まれた)が4ページのリプレイをのせたんですよね。また、それ以前にウオーシミュレーション雑誌の『タクテクス]でもトラベラーのリプレイを掲載したんです。それらをみて角川の『コンプティーク』でもTRPGのリプレイをやってみようとなったんです。白羽の矢がたったのが水野くんで、彼のゲームマスターとしてTRPGをプレイした経験をそのまま実況のようなかたちで台本のようにしてもらおうと、リプレイの連載を始めます。

 

――:これって最初は『D&D』をプレイしている中でいつのまにか『ロードス島』になっていくんですか?

ルールは『D&D』でゲームマスター水野良がシナリオを作り、それをもとにプレイし、お話が膨らんでくるんですが、掲載を含め出版においては『D&D』をもっている米国TSR社との著作権問題になるんですよ。「ロードス島はD&Dの一部としては認めない」とか。それではルールもオリジナルで作ってしまっていいかと聞いたら、それは勝手にやれとなりまして。ですから当初はD&Dのルールを使いながら『ロードス島』というオリジナルストーリーでキャラが展開され、途中から独自のゲームルールで話はというかゲームプレイは継続していくんです。

 

――:実際のTRPGの体験を小説にするのは大変だったのではないかと思います。

リプレイの段階でももちろんそのままじゃ読めるものにならない。テープ起こしのようにしちゃうと、話もだれますし。それぞれが俳優のように役になりきっているので、その口調を文字ずらでもそれぞれ特徴のあるように変えてみたりしていました。そして次は小説に落とし込むために色々アレンジしていくわけです。もちろんそれまでの既存の小説にはないゲームの感性が感じられる内容、文章にもしていかないといけなかった。

 

――:水野さんが「最初に書いた原稿は全ボツになった」という話が印象的でした。

水野くんも小説書いたことあるわけじゃなかったですからね。TRPGってちょっとプレイ中だとおちゃらけているんですよ。それをそのままコミカルな調子で書いたままだと、1回こっきりで読み飛ばされて終わるなと思いました。むしろ反復して人が読みたがるようにするにはどうすればいいか、続編を読みたがるようにするにはどうすればいいか、そんなことを考えて、今の『ロードス島』の形に代わっていったんです。

 

――:まだ当時は「キャラクター」がビジネスとしてでてくることが稀でしたが、ロードス島はTRPGの世界に主人公パーンとエルフのディードリットの2人を立てたことで、グッと“入りやすくなった"印象があります。

読者が等身大でのめりこめるキャラクターが必要でしたからね。キャラごとに特徴を掴んでそれをお客さんにイメージしてもらうようにする。それって要するに演劇ですよ。お芝居のようにキャラをつくっていきました。実際にワイワイと楽しむTPRGの会話と、読み物としてシリアスでキャラの立ったロードス島戦記は別物です。ドキドキしましたね、この新しい「剣と魔法の世界」に。私自身もどんどん好きになっていきました。

 

――:エルフが日本に根付いたのも『ロードス島』からだと聞きます。

それまでのエルフはあんなに耳も長くなかったんですよ。でも出渕裕(ロードス島戦記のイラストレーター、ロボットアニメを長く担当し、「メカのアンテナのようなイメージで描いた」と本人言)さんが極端に長い耳をかいたので、そのあと出てくるエルフって皆あの長さなんですよね。欧米だとあんなに長くないんです。

 

■コンプティークがログインを抜いてゲーム雑誌のジャンルで1位に。小説『ロードス島戦記』が中1~高2で人気トップ1位を4年間総ナメ

――:『コンプティーク』って本来は情報をキュレーションするメディアですよね?そこで物語を生んでいくというよりは、こんな面白いものがあるよ、と毎月伝えていく。

そうですね、他の企画ページも雑誌を通して毎回応募や投稿を通じながら、まるでそれ自体がゲーム空間かのようにストーリーが連載されていく。コンプティークは情報雑誌からコンテンツそのものを生み出す雑誌に変わっていくんです。

売れ始めて部数が右肩あがりで、それに遅れること1年たったころに雑誌に広告が入り始める。そのうちロードス島の小説がでるころには(1巻は1988年に発売、その後初版で60万部もでるような大人気作品となっていた)、『ログイン』を抜いて1位のコンピュータゲーム雑誌になっていました。その後、最高で20~30万部くらいだったと思いますが、あのころがピークですかね。社内編集者も8人から10人くらいいましたね。

 

――:剣と魔法というジャンルを切り開くためにどんな努力されてましたか?

やっぱり当初は単純に概念とか用語があまり知られてないんですよ。スライムとかモンスターは我々はドラクエで覚えましたよね。それと同じで、「武器コレクション」「モンスターコレクション」「トラップコレクション」とかで単行本(富士見文庫)をどんどん出していって、ファンタジー世界のベース知識を浸透させていく必要がありました。

 

――:そういうのは売れるものなのでしょうか?それとも採算度外視で、まずベース浸透のためにやるものなのでしょうか?

それなりに売れましたよ。「D&Dがよくわかる本」とかは何十万部も売りました。それでも監修にものすごい時間がかかりました。米国TSR社と英訳してやりとりするわけですからね。そうして我々が色々やっているうちに周辺でほかの会社が似たようなものを発売するようになっていって、それが結果的に全体のパイを大きくしたんです。

 

――:私も『ロードス島』や『フォーチュンクエスト』(1989~2020)『ゴクドーくん漫遊記』(1991~99)など読んでました。

中村うさぎさんも深沢美潮さんもスニーカー文庫からのデビューですよね。ロードス島がシリアスと浪花節で攻めていったのに対して、フォーチュンクエストはゲームらしい世界観をもっとパロディ的に展開していきましたね。

 

――:中村さんや深沢さんなどはそれまで「作家」だったわけじゃないんですよね?初期人材ってどうやって育てるものなのですか?

深沢さんはNECのPC解説書を書いたりしていたんですが、ライターとして募集したら応募してくれたんです。中村うさぎさんはもともとゲーム雑誌のライターをやっていて、『コンプティーク』でもゲームのレビュー連載をしてくれていました。ともにお二人は小説を書くことに意欲的でした。その熱い思いが読者に伝わったのだと思います。

 

――:これがその後00年代にラノベ、なろうなどネット文化で開花していくかと思うのですが、この90年代初頭あたりはどこが覇権を握っていたのでしょうか?

もう、富士見ファンタジア文庫(1988~「ドラゴンマガジン」を母体としたレーベル。『スレイヤーズ』もここから生まれた)と角川スニーカー文庫(1989~)の二強でしたね。『ロードス島』を出したあと5年くらい、先ほども言いましたが、ちょっと驚きなんですけど中1から高2までの小説部門でずっと人気1位が『ロードス島』なんですよ。あらゆる小説のなかで、ですよ!そのくらい当時ラノベを浸透させるために、『ロードス島』が貢献したものは大きかった。

最近活躍しているアニメ業界の方々でもよく言及いただくんですよ。それこそ「竜とそばかすの姫」の細田守監督もロードス島のファンだったり。

 

――:偏見などはなかったのでしょうか?実は個人的にはちょっと恥ずかしくて親に隠しながら読んでいた部分もあって。なんか親も、え、ゲーム?小説?という感じでした。

これが一体どういう本なのか、この人気は何なのか?どう評価していいかわからなかった、というのが正直なところだと思います。ラノベという言葉が出てくるのはそこから10年以上もたってからですからね。ただ書店は売れてるものが一番ですからね。どんどん仕入れてくれました。

 

――:日本最初の月刊ラノベ雑誌と言われる「ドラゴンマガジン」(1987~)も同時期に立ち上がっていますね。SF・ファンタジー・ホラーの3つに思い入れの強いファン・マニア向け雑誌と謳われました。

日本だとSFってもはや時代劇みたいなもんですよ。ヤマトやガンダムの時代から続くロボットSFは、ゲームやアニメになるのも早かったし、そういったSFモノに比べると「剣と魔法」はちょっとマイナーでしたね。『ドラクエ』や『ロードス島』のお陰でこれだけマスに広がっていきました。

 

■即興劇のようなメディアミックス黎明史、KADOKAWAというプラットフォーム

――:大塚英志さんの本「東大・角川レクチャーシリーズ 00 『ロードス島戦記』とその時代 黎明期角川メディアミックス証言集」https://www.amazon.co.jp/dp/4048764977にも言及されていますが、『ロードス島』は雑誌→小説→PCゲーム→アニメとメディアミックス化させていっています。こちらはどうやって展開を広げていったんですか?

当時はお手本がなかったんですよね。だから他社がどんなことをしているか、よりも「どうしたらお客さんが喜んでくれるか」だけを考えていたんですよ。カセットブック(音だけでドラマを吹き込んだカセット)もよく売れましたね。

『コミックコンプ』の中で通販事業を立ち上げたのも、それでしたね。普通は人気が出てきて、他のライセンシーさんが商品化していく。でもその前にお客様から要望がどんどん出てくるから、最初から自前で商品を作って『コミックコンプ』の誌上でグッズの通販を展開しちゃったんです。

※月刊コミックコンプ:『コンプティーク別冊コミックコンプティーク』として1988~94年に刊行されていた月刊マンガ雑誌。

 

――:編集部で在庫リスクをとるって、なかなか珍しいんじゃないんですか?

はい、まあ余ったらアニメイトさんに引き取ってもらおう!という前提で頑張ってつくりましたね笑。

 

――:そうか、アニメイト(1987年創業)もどんどん店舗展開されていく時期ですよね。1991年のアニメはうまくいったんですか?

OVAでアニメを上映したときもちょうど12館だけでしたが、もうどこも満杯でしたね。そこからハドソンの家庭用ゲームが出たり(1992年)、のちにテレビ東京でテレビアニメシリーズにもなりました(1998年)。

 

――:「コンプティーク」成長のドライバーになったのが、もう一つ吉田さんの考えた福袋アイデアにあったともお聞きしました。

『ちょっとエッチな福袋』ですね。袋とじでPCアダルトの画像なども入れていましたね。コンプティークが部数を伸ばしたのは、この福袋とロードス島戦記のお陰です。

 

――:メディアミックス展開の「即興性」は、吉田さんが昔やっていた演劇などに近いようにも感じます。そのサービス精神も含めて。

出版をしていてもものをつくるという意識は、映画や演劇をやってたときから変わってないですね。エンタメは、どう楽しんでもらうか頭に汗かいて創り出していくものだから。

 

――:その後はどんなことされてたんですか?

「コミックコンプ」の後に独立してたんですけど、また歴彦さんに呼ばれて、CS-PCMの衛星ラジオ放送局『PCM-ZIPANG』に参加しました。TBS・マガジンハウス・日本ビクターなどで新たに宇宙からの電波でデジタル音声によるラジオ放送局をやろうというプロジェクトでした。他にも何局か立ち上がって、私はジパング局の3チャンネルのひとつの総合プロデューサーとして24時間放送の立ち上げをやってました。

※ピーシーエムジパングコミュニケーションズ:TBS、角川、マガジンハウス、主婦の友社、日本ビクター、青二プロダクションなどの共同出資ではじまった。1994年にTBSから株式を取得し、角川書店が筆頭株主に、1996年にはミュージックバード(エフエム東京系列)と合併して解散。

 

――:あ、まさに1992~94年って角川お家騒動があって、兄春樹氏とたもとをわかって弟歴彦さんが分派するタイミングですよね。

はい、まさにあのタイミングでそれまで立ち上げた仕事はすべてなくなります。それでどうしようもなくなってまた退職します。フィールドYという会社をつくって、今はそれは任せているんですが、しばらくそれでやっていたところを2000年代半ばあたりに今度はキャラクターグッズの企画制作やイベント運営をしていた角川グループの会社、キャラアニを手伝いはじめ、そこの取締役になります。

 

――:毎回ウズウズしてどこかに独立しちゃうんですが、最後はKADOKAWAに戻ってくるという構図を繰り返しているんですね。それは角川歴彦さんの魅力なのでしょうか?

歴彦さんは何か人を引き付ける力がありますね。信用されていろいろ頼まれてるうちに、しょうがないな、やるしかないかという気持ちにさせられる。コンテンツ系の人種ってそういう特別なキズナみたいなのありますよね。

そのあとはずっとKADOKAWAにいましたけどね。最後にやった仕事がホテル業の立ち上げでしたね。これも歴彦さんに頼まれました。「ところざわサクラタウン」で2020年にできた「EJアニメホテル」です。昨年4月末まで企画・運営をしていました。その仕事を最後に、退職しています。

 

――:これまで様々なお仕事をされてきました。吉田さんの生きがいって、どういうところにあるのでしょうか?

やっぱり「お客さんに喜んでもらう」が原点であり、ゴールなんですよね。企業としては儲からなきゃいけないし、自分も自分でそれなりに儲けたいというのはあるんだけど、そういうの全てすっとばしても「目の前でお客さんが何かを求めている」となると、どうしてもそれに応えてしまう。なんか右目でお客さん見ながら、左目でそろばんはじいている。そういうバランスが必要ですよね。そして、私は近江商人の「売り手よし、買い手よし、世間よしの三方よし」の商いが理想ですね。

 

――:そういうときに吉田さんが想定している「お客さん」って具体的にはどんな、というか誰、みたいなのはありますか?

それは・・・それは、やっぱりいわゆるオタクですかね。コンテンツを純粋に愛するオタクな方々。私は彼らが、ある意味世界の平和を守る最前線でもあり、最後の砦でもあると信じています。彼らに喜んでもらいたい。喜んでもらって、それをパワーに世界の平和を守ってほしいです。そして、送り届ける作品のクオリティに関しては、やはり寺山修司さんの視線を気にしてしまいますね。僕が最初にこの業界に入ってきたのも彼の本を読みまくって、彼に感化されまくったからに他ならない。あんなに嘘つきで、あんなに真摯で、あんなに魅力的な人はほかにはいなかった。最後、ほんとにわずかな時間しか直接ご一緒することはできませんでしたが、「こんなの見せてやろう」というときに時々ふと頭に浮かぶのは・・・やっぱり、寺山さんなんです。

 

――:原点であり、ゴールなんですね。今これからでいうと吉田さんはどんなことに取り組まれているのでしょうか?

クトゥルフ神話ご存じですか? 宇宙的恐怖をテーマに1920年から30年にかけ、作家ラヴクラフトが書いた恐怖小説の世界のことです。これが1970~80年代にかけてTRPG化され、人気となったんですが、2004年に『クトゥルフ神話TRPG』のルールブックの日本語版がつくられ発刊されたんですよ。そこから20年になるのがこの2024年で、その周年タイミングである来年にむけて色々盛り上げようとしています。

あのえも言えぬ恐怖世界は、それはそれで魅力的なんですが、そのままだとどうしても恐怖小説の域をでません。そこで青春成長物語の小説仕立てにして、『鬼滅の刃』や『呪術廻戦』のようなアクションと人間ドラマの要素をもたせ、2023年末から2024年にかけてリリースを予定しています。今、カクヨムで結構クトゥルフ神話をモチーフにした作品がいくつも上がっているんですよ。それらを見るとクトゥルフは人気があるな、そしてクトゥルフの小説を書こうとする意欲のある人も多いなと感じました。そこで私が直接に編集担当となって小説を出していこうと動きはじめました。また、クトゥルフTRPGのアークライトさん、KADOKAWAさんと共にゲームもさらに発展させていこう、というプロジェクトでアドバイザーもやっております。今、作家さんを決め、小説のプロットを作っています。この後に執筆に入ってもらいますので、刊行される小説をぜひ楽しみにしていただければと思います。

 

会社情報

会社名
Re entertainment
設立
2021年7月
代表者
中山淳雄
直近業績
エンタメ社会学者の中山淳雄氏が海外&事業家&研究者として追求してきた経験をもとに“エンターテイメントの再現性追求”を支援するコンサルティング事業を展開している。
上場区分
未上場
企業データを見る
株式会社KADOKAWA
http://www.kadokawa.co.jp/

会社情報

会社名
株式会社KADOKAWA
設立
1954年4月
代表者
代表執行役社長CEO 夏野 剛/代表執行役CHRO兼CLMO 山下 直久
決算期
3月
直近業績
売上高2581億900万円、営業利益184億5400万円、経常利益202億3600万円、最終利益113億8400万円(2024年3月期)
上場区分
東証プライム
証券コード
9468
企業データを見る