【連載】中山淳雄の「推しもオタクもグローバル」第72回 日本最大の出版社KADOKAWA勃興秘話、編集人たちが創り上げたメディアミックス経営

中山淳雄 エンタメ社会学者&Re entertainment社長
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角川書店とは捉えがたい会社である。国史国文の出版社として始まった国文学者角川源義の時代から、映画業界に旋風を巻き起こした長男:角川春樹の時代、そしてラノベやアニメ業界を創出していった次男:角川歴彦の時代。ここまでトップの経営ビジョンで大きく変化した出版社でありながら、2000年代にアニメ・ゲーム事業が広がり、2010年代にニコニコ動画のドワンゴまで経営統合し、その軌跡のなかで「メディアミックス」というマーケティング手法自体は学問の世界でも確立した一つのテーマにもなっている。その進化の過程を半世紀にわたって渦中でまわしてきた角川グループホールディングス(現KADOKAWA)元社長の佐藤辰男氏に話を伺った。

 

文芸・俳句短歌の中堅出版社角川が第二の雑誌ブームをとらえて飛躍した1980年代
「外の人材」で雑誌創刊ラッシュ。角川書店が切り拓いたオタクジャンルの黎明期
70名のモノノフ達がメディアワークスで独立、ゲーム雑誌&ラノベで100億円超の出版社をゼロから創り上げる
2003年の分散化と2014年の統合化:縦と横でのホールディングス機能の変化
「テレビ/アニメ/ゲームまわり」と境域を開拓したKADOKAWAの歴史を編纂

 

■文芸・俳句短歌の中堅出版社角川が第二の雑誌ブームをとらえて飛躍した1980年代

――:自己紹介からお願いいたします。

元角川グループホールディングス社長の佐藤辰男(さとうたつお)です。

――:佐藤さんは早稲田大学を卒業されて、最初に玩具通信という新聞を発行している会社に就職されてます。

以前中山さんがインタビューされた鳥嶋和彦さんと同い年なんですよ(1952年生まれ)。まあちょうどオイルショックの就職氷河期でね、彼も就職は苦労したけど僕も出版社に入りたくて色々受けたのですが、全滅してしまって。それで切羽詰まって、新聞の三行広告欄でみつけたのが玩具業界紙「週刊玩具通信」を出していた日本トイズサービスで、そちらに1976年に入社したんです。10人もいないような小規模の会社でした。

――:なんと、そんなに小さかったんですね!?

そう、東京藝大で洋画科を出た人とか詩を書いている人などがいて、だいぶ変わってました。そこで6-7年働くんです。ただホントにこの通信社の仕事が最初で良かったのは、ちょうどAppleⅡ(1977)や任天堂のゲーム&ウォッチ(1980)などが出てくるタイミングで、毎年CES(Consumer Electronic Show:1967年からラスベガスで開催される電子機器の見本市)で米国にいかせてもらっていたんです。メディア側としてバンダイとかトミーの開発担当を引率しながら、そこで配られる米国の業界新聞や記者向けのプレスキットを四苦八苦日本語に翻訳して日本側にレポートとしてまとめていたんです。それが結構評判もよくて、その縁でゲーム業界に色々なコネクションができました。

――:まだ任天堂のファミリーコンピューター(1983年)の発売前ですよね?

はい、「米国でアタリのゲーム機器が売れている」みたいなタイミングです。当時、実は阪急百貨店でゲーム業界向けのイベントを開いて、直接任天堂の山内溥社長にも来ていただいたこともありました。

――:ええ、よく来てくれましたね!?山内さん呼べるような巨大なカンファレンスだったんですか?

いやいや、玩具通信主催のビジネスセミナーです。ぼくが前座でアメリカのテレビゲームの市場報告をして、メインが山内社長の講演でした。当時の任天堂はゲーム&ウォッチとゲームセンターの筐体の時代で、これから新しいテレビゲームを世に問おうというタイミングでした。アメリカではアタリが加熱していました。エポック社がこれを輸入販売したりカセットビジョンを発売したり、トミーはぴゅー太(1982年8月)、バンダイはマテルのインテレビジョンやコンピュータービジョン光速船など、各社がしのぎを削っていました。

――:激熱すぎる時代ですね。そのタイミングで角川歴彦さんから誘われるんですか?

はい、1982年、角川書店は初の週刊誌ザテレビジョンを創刊したばかりで、次にパソコン雑誌を創刊しようと編集者を探していました。人を介して、当時専務だった角川歴彦に企画書を持っていきました。面接で即採用みたいな感じだったんですが、蓋を開けたら入社したのは角川書店でなく、株式会社コンプティークという会社でした。立ち上げたばかりの会社で、社長と秘書しかいなかった。社長はAPPLEⅡのソフトを翻訳出版したり、APPLEⅡやアメリカの最新のテレビゲームを使ったゲームセンターのような施設運営を目指していました。雑誌については素人で、ぼくは彼の仕事を手伝いながら、いちから人集めしなければならなかったんです。

 ――:会社名コンプティークなのに、社長がもう最初から違う事業やろうとしてたんですか笑

やばいところに来たな、、、と後悔もしましたが、人集めしなきゃならないというので前回中山さんがインタビューされた吉田隆はそんな状況で来てくれたんです。歴彦さんに文句も言いに行ったんですよ。「あんなところで雑誌なんて作れない!」と。そしたら歴彦さんが「お前にベンチャーの何がわかる!?」って逆に怒られました。仕方ないから雑誌は出していきましたけど、初期は全然売れなくてね。そのうちコンプティークという会社も倒産してしまった。

――:え、倒産してたんですか?『コンプティーク』自体は1983年11月の発売から現在までずっと続いている雑誌ですよね?

株式会社コンプティークは角川書店とは資本関係のない会社ですから、その後は角川書店が誌名を買い取って、雑誌だけは継続していたんです。でもぼくたちは帰属先を失ってしばらくフリーなってしまって、編集費は角川書店から僕の個人口座に入れてもらってそのお金で運用していました。でも2-3年してようやく部数も上がってきたところで、このままじゃマズいだろうとなり、1986年5月に株式会社角川メディア・オフィスが設立されたんです。僕はその時に正式に編集長になりました。

――:なぜすぐに角川書店が引き取らなかったんでしょうか?

当時の角川書店の雑誌事業は歴彦さんが担っていました。先行するザテレビジョンもよちよち歩きの時代です。雑誌コンプティークは、よちよち歩きどころかハイハイの時代でした。春樹社長や社内の書籍の人たちの雑誌に対する危惧の目はあったと思います。海のものとも山のものともつかないこの雑誌を護るための座組だったのではないかと思います。

その後、メディア・オフィスで初めてビルを1棟借りることになったんですよ。その時の歴彦さんは本当に嬉しそうでね。小学館の相賀昌宏さんを連れてきてしきりに自慢していましたよ。

――:それ、1992年に春樹さんとの確執で歴彦さんが独立される前ですかね?

ホントその直前くらいですね。

――:なるほど~!春樹さんの映画事業がすごいインパクトだった時代ですもんね。そうした中で『ザテレビジョン』や『コンプティーク』『ニュータイプ』を「自分が伸ばした事業」として創り上げたわけですね。

雑誌の黄金期は2つあるんです。1950年代末の週刊新潮、週刊文春、女性誌、週刊漫画誌の生まれた時代と、それから角川書店やマガジンハウスが新しいライフスタイル誌を繰り出した1980年代です。角川書店はその2つ目の流れをうまく捉え、その中からゲーム雑誌、アニメ雑誌、オタク系マンガ誌が育ってきたんです。

 

■「外の人材」で雑誌創刊ラッシュ。角川書店が切り拓いたオタクジャンルの黎明期

――:春樹さんの書籍を拝見していると、“動"の自分と“静"の歴彦さんが真逆のタイプで、経営者としては全然似てなかったと聞きますが・・・。

それは答えにくい質問だなあ(笑)。事業に対する執念深さは似ているんじゃないですか。

――:やはり笑。お二人とも成し遂げた偉業でいうと、常人なわけないですもんね。1980年代は雑高書低とも言われ、市場規模でいっても書籍:雑誌は49%:51%(1976年)⇒書籍:雑誌42%:58%(1986年)と雑誌が急激に伸びていきます。ピークは1985年に245点もの「新雑誌」が発行されたときですかね。かつての角川書店はここが苦手だったんですか?

ノウハウがまるで違うんです。書籍やっていた人には雑誌が作れない。逆もまた真。そして角川書店は創業者源義さんの「呪い」のような遺言があって、いわゆる旧来型の週刊誌、マンガ、エロはやってはダメだと言われていました。あくまで書籍系の出版社でした。角川文庫創刊の時、先代は岩波書店を理想としていたはずです。

その一方で、日本の出版界自体は中山さんの言うように戦後一貫して雑誌至上主義でした。「雑誌は大手、書籍は中小」という色分けさえあったほどで1950年代の週刊誌の時代があり、1960年代の週刊コミック誌の時代があって、そうしたトレンドに角川書店は遅れていたのです。

――:だからこそですかね、1976年に源義さん亡くなられた直後に堰を切ったように映画事業や雑誌事業にと多角化が始まりますよね。

角川春樹はアメリカ映画『ある愛の詩』(1971年日本公開)の文庫化を成功させて、映画と文庫の親和性に目覚め、源義の死後時間を置かずに「犬神家の一族」(1976年)の映画化と文庫販売を一体化させた戦略が始まります。そこで蓄積された資本力により、1982年の週刊誌の創刊という大事業に着手出来た。のちに「ザテレビジョン」は週刊誌売り上げナンバー1(漫画週刊誌を除く)となりますが、創刊当初は莫大な赤字を計上していた。この二つが初期の角川書店の転機だったと思います。

――:この1982年が角川書店の雑誌の時代の始まりですね分岐点でもありますね。小学館から引っ張ってきた井川浩さんに任せ「ザテレビジョン」を開始。下記のように雑誌をどんどん創刊します。

・テレビ番組雑誌「ザテレビジョン」(1982)
・PC雑誌「コンプティーク」(1983)
・アニメ雑誌「Newtype」(1985)
・ファミコン雑誌「マル勝ファミコン」(1986)
・CD・ビデオ雑誌「ビデオでーた」「CDでーた」(1987)
・マンガ雑誌「コミックコンプ」(1987)

――:角川書店の本体からは、こうやって佐藤さんたちが「コンプティーク」で狼煙をあげているのは、どう受け止められいたんですか?

営業部からは評価高かったですよ!結局売るのは角川書店側でしたし、『コンプティーク』は当時35万部までいって、PC雑誌の中では断トツ1位になっていましたからね。『ジャンプ』や『マガジン』のような何百万部という数と比べたら小さいかもしれませんが、コミック雑誌の展開ができていない角川書店としてはそれでも十分な成果でした。『ザテレビジョン』も急成長してましたし。メディア・オフィスも含めて、雑誌市場へのコツを掴んで角川書店が大きく成長していったタイミングです。

――:その『コンプティーク』から「ロードス島戦記」が生まれ、富士見書房の展開につながっていくんですね。

この源流から角川のオタク向け市場が開拓されていくんですが、だいたい3つのグループがそれぞれ成長している状況でした。1つはザテレビジョンにいた井上伸一郎が主導したアニメ雑誌『ニュータイプ』を編集していたグループ、もう一つが私や吉田などメディアワークスにつながるPC雑誌・ゲーム雑誌グループ、そしてもう1つが富士見書房として『ドラゴンマガジン』などを制作していたチーム。

鳥嶋さんなんかは「なんでこんな小さいジャンルのなかで、同じ会社でいくつも競い合うのか」と不思議そうに言ってましたけど、逆にこれだけニッチに掘り込んだ市場で3者3様に細かく趣向を掘り込んでいったからこそ、現在オタク市場全体のパイが広がったと言えると思います。

――:他社が追い付いてくる前に自社の内部競争でどんどんパイを広げていったんですね。逆にコミック誌への展開は難しかったんですか?佐藤さんも著書のなかで「編集者は、コミック誌を手掛けることへのあこがれがあった。しかし、同時に付け入る隙を見つけることが難しいとも感じていた」と書かれてますね。

コミックス誌は敷居が高かったですね。「コミックなんていくやつはバカだ」という人もいました。ジャンプ・マガジン・サンデー・チャンピオンの四誌体制になって、唯一コミックに挑んだのはJICC出版局(宝島社)ですが、彼らの「週刊少年宝島」は1986年に出て100万部刷ったのに、3ヵ月で休刊に追い込まれてますから。

だけど当時ゲーム誌とアニメ誌をやっていた編集者が、“すき間"を見つけたわけです。メジャーと戦わずにオタク系のニッチな市場を切り拓いたわけです。書籍と雑誌は違いましたし、その雑誌からコミックスも生まれてきました。中央公論や読売新聞のような書籍・文芸の世界からはこういったジャンルは産めなかったでしょうね。

※80年代は月間でコミック誌が「少年キャプテン」(徳間書店、1985)、「月間コミックNORA」(学習研究社、1986)などがあった。「月刊コミックコンプ」(角川書店、1988)またその一つで『サイレントメビウス』『フォーチュン・クエスト』『宇宙英雄物語』『イース』『銀河戦国群雄電ライ』などが立ち上がっている。

――:やっぱり「違う人間たちで作ってきた」というのが大きいように思います。歴彦さんってザテレビジョンのときも、コンプティークのときも「中の人材」じゃなくて外の人材をとってますよね。

それだけ書籍出版社のスキルで雑誌を始めるのが難しかったということだと思います。確かに私が玩具通信という新聞出身、ひっぱってきた吉田隆も同僚でした。富士見書房の小川洋は角川書店の学生アルバイトで熱心なゲームユーザーでした。同じ富士見の佐藤忍は学生時代に水野良のように『D&D』にはまって、ホビージャパン、グループSNEから富士見に転職してきました。『ソードワールド』担当の大内善博も関西SF研出身で、エンターブレイン社長になる浜村弘一も学生時代にゲーム攻略の同人誌をつくっていたました。

皆アニメ文化やゲーム文化の洗礼を受けた人間が、編集をまねごとで入っていって、新しいオタクの時代を築いたんだと思います。

――:それ以前の角川書店ってどんな感じだったんですか?

春樹時代はやっぱり文芸、俳句・短歌、それから映画の人を入れてましたね。それが歴彦時代になってほとんどオタクばかりになった。古典的なものももちろん事業として大事ではありましたが、やっぱり伸びていく焦点がアニメ・ラノベ・ゲームだったので、それにあわせて中の人材も少しずつ変わってきましたよね。

――:これだけ角川書店がオタク分野に入っていきながら、ほかの出版社が意外に追随しなかった印象があります。

コミックス誌など調子がよかった時代ですし、1990年代は大手出版社は何も困ってなかったと思いますよ。角川に近かったのは徳間書店ですかね。歴彦さんも徳間康快さんのことはすごく尊敬してましたよ。大映を買収したのも徳間書店へのオマージュでもありましたしね。ガメラやったり、源氏物語をやったり。

 

■70名のモノノフ達がメディアワークスで独立、ゲーム雑誌&ラノベで100億円超の出版社をゼロから創り上げる

――:1992年に大型映画『ルビー・カイロ』『天と地と』などの業績不振をめぐって春樹さんと歴彦さんの確執が発生、歴彦さんたち角川メディア・オフィス勢が独立されますよね。

ザテレビジョンや角川メディア・オフィスはそのまま角川書店に吸収されます。そのメンバーたちが退職して、1992年10月に新設のメディアワークスという会社に入社するんです。

――:佐藤さんは春樹さんに慰留されたとされた聞きました。それまでも面識はあったんですか?

もちろんです。書籍の部数会議などは春樹さんが仕切っていたから当然会議などでは知っていましたが、距離はありましたね。歴彦さんが退任するとなって、役員が1人ずつ呼ばれるんですよ。「おれと一緒にやるよな?」って。

――:よくはねつけましたね!怖くなかったですか?

めちゃくちゃ怖かったですよ笑。だって春樹さんの部屋ってもう特別な空間演出で、ほの暗いなかに黒い屏風とかあるんですよ。「はやき事風のごとし」とか書いてあって、すんごい迫力なんです。これ断ったらもう部屋から出られないんじゃないか、とか思いましたよ笑。でも当時僕は僕で弁護士とも相談をしていたので。

――:弁護士までつけたんですね!?それ、普通に雇用者ですし、ただ退職すればいい話じゃないんですか?

いや、もう未曽有の事態でしたし、不安でしょうがなかったんですよ。心のよりどころとして自分達は法的に辞めても問題ないよね、という話を弁護士と相談してたんですけど、そのときに1人渡辺先生(のちにHD役員)だけが意気に感じてい応援してくれていた人なんですよ。「あんた、そりゃ辞めると言いなさいよ」とかけしかけれられてて。

――:だいぶ戦闘的な弁護士ですね笑!

それでぼくは会社を辞めたいと言ったんです。意外にも春樹さんは静かに「まあ、よく考えるんだな」というだけで面談は終了しました。それからはほとんど会う機会はなくなってしまいましたが。

――:それまでの雑誌は角川のものだから、何の商品もない70名が歴彦さんの独立についていったんですよね?

そうなんです、70名ほぼ全員が角川書店に残らず、全員辞表を出して独立するほうを選んじゃったんです。でもこれだけの人数、少しでも間があいてしまうとさすがに給与問題もあってちりぢりになってしまう。だから「これまで通りのコンセプトを継続した雑誌・書籍を立ち上げよう」というのが、カラオケボックスで日夜議論した結果としてのメディアワークスの方針でした。

――:これものすごい「事件」ですよね・・・最初のお金はどう集めるんですか?

5億円必要でしたが、歴彦さんも社員も皆でかき集めても1億とちょいにしかなりませんでした。主婦の友社や紀伊国屋書店、日販、トーハン、バンプレスト、NECホームエレクトロニクスなどが出資に応じてくれて、その他出資じゃないにしてもたくさん支援してくれる会社がありました。

主婦の友社に版元になってもらってコミックスのシリーズ、そして雑誌5誌を一挙に立ち上げました。本当は書籍から小さく始めて時間をかけて雑誌を徐々に立ち上げられれば手堅かったのですが、雑誌がないと全員分の仕事がまわらない。皆の不安・ストレスを解消する意味でも、一挙にやっちゃった。文庫だけは慎重に半年研究期間を置きましたが。

――:社員とともに作家さんもそのままもってくるんですか?角川書店も警戒しますよね?

渡辺顕弁護士が著作権専門の伊藤真弁護士に声を掛けてくださり、作家さんに声を掛けるときのルールを作ってもらい、個別に丁寧にお誘いしました。その結果、お付き合いいただいた作家さんによって新作を頂戴したり、角川時代の続編を書いていただいたり、いろいろでした。やっぱり作家さんは角川書店をおろそかにできなかったし、雑誌も今まで角川で作っていた雑誌は別の人が継続して発刊しましたから手強い競争相手になった。だから決して順風満帆のスタートではなかった。会社が軌道に乗り始めたのは、電撃プレイステーションと電撃文庫が軌道に乗り始めた3年後ぐらいだったと思います。

1994年にソニーがプレイステーションを出すと、徳間書店、アスキー、ソニーマガジンズなど各社が一斉に専門誌を出しました。各ゲーム雑誌がナムコ『リッヂレーサー』ばかり特集するなかで、電撃はガイナックス赤井孝美かきおろしの『プリンセスメーカー』を表紙にするんです。美少女ものとRPGに偏った、しかもディープな編集方針が受けてどんどん部数を伸ばし、1999年には41万部にまで到達したんです。

――:メディアワークスもかなり雑誌で稼いだんですね!90年代は出版業界も成熟期、ゼロから出版社をつくって100億円サイズにした事例はほとんど知りませんよ。

「コンプRPG」に相当するのが「電撃アドベンチャーズ」(1994~1998)で、ここでトレーディングカードも特集してましたね。「月刊コミックコンプ」の流れを汲んだのが「電撃コミックガオ!」(1993~2008)で、こんな形で1992年までやっていたノウハウをそのまま注いで、電撃ブランドでメディアワークスとしての経営も盤石にしていったんです。

バンダイの山科誠社長からの提案で、バンダイの出版事業をスタッフごと引受たことも大きかった。ガンダム系のアンソロジームックやコミックスを発刊できました。

――:ゲーム系雑誌もでしたが、「ライトノベル」の源流も、成功させてますよね。

当時はティーンズ系といわれた文庫群は、どのレーベルも転機を迎えていました。ファミ通文庫はゲームのノベライズに固執し続けてたし、富士見書房はスレイヤーズの成功が大きすぎて新人の選考の目線があがってしまい、新しい作品が生まれにくくなくなっていました。スニーカー文庫はロードス島や未来放浪ガルディーンなど初期から続くファンタジー作品の比重が大きすぎた。

皆が峠にいきついてぜいぜい言っていた状態だったので、タイミングよく「電撃文庫」がとびぬけました。1994年に「電撃ゲーム三大賞」(ゲーム小説、ゲームイラスト、ゲームデザイン3つ)を作って、次から次に本にしていきました。

――:ラノベって「ロードス島戦記」(1986~)や「スレイヤーズ」(1989~)から始まったイメージでしたが、1992年ですでに突き当りだったんですね!?そして、逆に分派して別会社になったメディアワークスだから成功した、というのは面白すぎますね。

普通は新人賞って選考の目が厳しくなるんですよ。当然入選作はそのまま出版できるほどの完成度が求められる。でもメディアワークスは、入選させてそこから二人三脚で育てるという作戦をとった。本を出していかないとそもそも売上がたたなくて潰れてしまうという事情もあった。編集者が作家を囲い込んで、徹底的に手を入れて育てるということをやったので、作家さんの帰属意識も高かったのです。このやり方が当時の市場環境と合っていたんでしょうね。

新しい作品傾向を生み出すこともできました。ちょうどジャンルとしてのSFも1990年代に入って落ち目だった時期なんです。ハヤカワ書房と徳間書店も落ち目になってきてたんです。SFに対するエネルギーがたまっていったところで、パンク系の新しい作品に賞を与えていきました。『クリス・クロス 混沌の魔王』とか『タイム・リープ』とか『ブギーポップは笑わない』とか、受賞作ではないけれど『イリヤの空、UFOの夏』とか。これはいわゆる“セカイ系"のはしりとも言われましたね。

――:一度はニッチで突き当りにあたった「オタク向け業界」が1992年のメディアワークスが台風の目になることで、新たに発展していくんですね。

メディアワークスからは2つの潮流が生まれました。1つは前述のライトノベルの潮流。もう一つがオタク系マンガの潮流ですね。これがまんがの森(1973~)、アニメイト(1983~)、とらのあな(1996~)、ゲーマーズ(1996~)などコミック専門チェーンがマンガとライトノベルの棚売りへと多様化していくトレンドと合致していくんです。

エニックスが「ガンガン」で成功してゲーム系出版社がコミック誌に入ってきたのが1990年代半ばでしたし、逆に『ジャンプ』もゲーム側に寄っていきましたよね。鳥嶋さんが「ひとつの画面にゲーム・アニメ・漫画が映る」とVジャンプを創刊したときに、それに「ライトノベル」を加える形でメディアワークスが実践していて、当時は電撃のライトノベルを「ガンガン」でコミカライズして一緒にアニメ出資をするようにな動きもでてきました。

 

■2003年の分散化と2014年の統合化:縦と横でのホールディングス機能の変化

――:こうして一度は袂を分かたった角川書店とメディアワークスですが、分離は短期間でした。1993年8月に春樹さんがコカイン密輸で逮捕され、急遽歴彦さんが戻ります。すぐにまた一緒に、とはならなかったんですか?

そうですね、メディアワークス組は自分たちで創り上げてきたという矜持もありましたし、実はメディアワークス自体で公開しようという動きもあったんですよ。1992年の独立時に、「普通の出版社に留まっていたら未来はない、積極的にゲーム・ホビーを開拓してIPを中心とするエンタメ企業になるぞ」という理念がありました。会社の株式をもった社員も大勢いましたから、その6-7年の成長フェーズは私たちとしても楽しかったのです。

――:逆にそれがどうして統合となるんですか?

1993年に春樹さんからバトンを継いだ歴彦さんが、創業家による出版社の経営から脱しようと1998年に上場させ、そして2002年に社長から代表取締役会長にあがったタイミングがありました。その時に角川をホールディングス体制にして、メディアワークスは今のままで会社としてぶら下げるから、それで一緒にやるのはどうか、という話になりました。角川書店と並列となって干渉もされないならと社員も納得し、角川HDの傘下に入ります(2002年10月にメディアワークスは株式交換で子会社化)。

――:もしかしてこれが佐藤さんとしては初めて「角川書店への入社」となるんですか??

わたしのいた角川メディア・オフィスは角川書店の100%子会社でしたから、"本社勤務"という意味ではそうとも言えますね。角川書店と袂を分ったメディアワークスでしたが、2002年にいったん角川書店の子会社となって、翌年設立された角川ホールディングスの傘下に入ります。そしてぼくは親会社のホールディングスの常務取締役になりました。

――:この時期にKADOKAWAは深夜アニメを中心に一大アニメ製作会社になりました。この事業PIVOTは凄かったと思います。

あれは井上伸一郎と安田猛、それから木場正博、菊池剛といったスタッフが営々と築いてきた功績だと思います。原作を出しているだけの出版社には権利や手数料が残らないという当時の課題を打破するために、アニメ製作委員会に直接出資して、できるなら主幹事をとって、自社でマーチャンダイジングまでやろうという動きでした。

放送料(電波料)が安価なうえに表現の自由も担保されていたからU局放送であれば地上波だと深夜でしか流せないようなアニメでも日中の時間に流せる、として展開させていきました。井上を中心に2002年にアニメ・コミック事業部が出来て、伊藤(敦)くんが京アニを探してきて『涼宮ハルヒの憂鬱』が生まれ、菊池(剛)に受け継いで盤石なアニメ体制になりました。

――:それが今回の「推しの子」にもつながってますよね。集英社ジャンプ+の作品を、KADOKAWAのアニメ事業部が推進して作っていく(出版は集英社のまま)、というのはこの20年で完成させたKADOKAWAモデルの集大成ともいえますよね。

そうですね、やはり分岐点としては『ハルヒ』や『ケロロ軍曹』が大きかったです。それからメディアファクトリーが加わってアニメ事業に厚みが増しました。20年たってKADOKAWAグループの根幹事業ですよね。

――:そして2000年代の角川の「脱出版社」ぶりもすさまじいですよね。

2002年にメディアワークスや大映映画、そこから2004年に西和彦さんのアスキーとエンターブレイン(を保有していたメディアリーヴスを投資ファンドユニゾンから買収)、2005年日本ヘラルド映画、2009年中経出版、2011年メディアファクトリーとすそ野を広げていきます。2013年に汐文社、2014年には『ダークソウル』や『エルデンリング』などのフロム・ソフトウェアまで買収します。

――:編集者から始まり、ゼロイチで出版社を創り、常務で戻って最後はホールディングスになられ、絵にかいたような立身出世物語ですね。これだけ巨体の会社の経営者というのはいかがでした?

2008~14年に角川グループホールディングスの代表取締役をやっていましたが、僕の社長としての評価は低かったと思いますよ。やっぱりあれだけ多岐にわたる大企業の運営って、「ちゃんとした人」がやるべきだと思うんですよね。財務やマネジメントが分かる人ね。ぼくの後の松原眞樹さん(日本長期信用銀行・ハーバード大学などを経て、10年ほど角川書店の新規開発事業を担当、2014~2021年に佐藤氏から継いでホールディングス代表取締役)や夏野剛さんのような方のほうが向いていたと思います。

――:佐藤さんの在任期は出版そのものがかなり厳しい時期でしたよね。2000年代後半~2010年代前半はどこもずっと売上・利益ともに落ち続けていました。

「ヤングエース」(2009~)や「コミックジーン」(2011~)など色々コミック誌は立ち上げ続けたんですが、この時代は紙雑誌の凋落が急速に進んだ時代です。紙雑誌がもはやコミックス売る装置として機能しない、才能を生む装置として機能しない、メディアミックスの一角を担えない時代に入っていました。

――:逆に佐藤さん社長時代にこれはうまくいったな、と思える舵取りはどういうところですか?

やっぱりM&Aですかね。外部の金融人材などを引き入れて、社内に優秀なM&Aチームをつくっていました。中経出版(2009年買収)、メディアファクトリー(2011年買収)、フロム・ソフトウェア(2014年買収)など、こういった買収がうまくいったのは「ホールディングス体制だったから」の一言に尽きます。色々なものをそのままの形でぶら下げられたので、統合されるほうにもストレスが弱かった。

あとは海外とのジョイントベンチャーもうまく布石をうてたと思います。最初は台湾を切り口にした海外展開でしたが、中国のACG(アニメ・コミック・ゲーム)のブームが爆発的で2010年に湖南天聞動漫とのJVで広州天聞角川動漫を創り、それがテンセントとの提携などにもつながっていきます。

――:2002年からのホールディングス体制と、2014年からドワンゴも巻き込んだKADOKAWA・ドワンゴホールディングスはどう違うんですか?

2002年はあの時代だったからこそ横に広げる分散化の動きが必要でした。どんどん中小規模でも勢いのある会社をぶら下げていった。でも2014年のドワンゴ統合以降については、むしろ事業会社性を強め、統合化の方向にあります。競争させながら広くいろんな会社を分散的に束ねるだけでは各事業で勝てなくなってきているというのもあり、グループ内でのシナジーを追求しなければならなかった。だから私もその転換点で社長の座を降りることになりました。

――:ちなみに最初にドワンゴを発見して提携をしていたのは佐藤さんですよね?

はい、そうですね。ちょうど川上量生さんが社長を嫌になっていたタイミングで、スクウェアをやめていた小林宏さん(野村證券出身で1991年スクウェア入社・取締役をやっていたが、2000年にドワンゴに取締役として入社。のちにコーエーテクモ社外取締役)に社長を譲ったタイミングで2000年からドワンゴの監査役をしていました。

当時「魔法のiらんど」(1999~TOSが運営していたホームページ作成サービス、2006年にメディアワークスと業務提携して「魔法のiらんど文庫」創刊)をやっていて、携帯まわりでビジネスがはじまっていた。自分も新しい領域でのビジネスに触れておかないとと思っていた時期です。ただ、ニコニコ動画を最初に見せられた時はさっぱりわからなかったですね笑。

――:前例がなさすぎるビジネスモデルでした。

最初、相撲のシーンに何かよくわからないコメントが流れているな、というだけで、何がなんだか。あとから理解しましたけど、角川書店もコミュニケーションに関わる仕事しているからにはこういったものを取り入れないと、と歴彦さんに紹介したのがきっかけとなって、最終的に統合にまでいきましたね。そこは歴彦さんの判断です。

 

■「テレビ/アニメ/ゲームまわり」と境域を開拓したKADOKAWAの歴史を編纂

――:佐藤さんは角川歴彦さんと約半世紀にわたってご一緒されてきました。起業家的なトップ経営者とつき合い続ける大変さはありますか?

小学館・集英社・講談社が羨ましいなと思うところはありますよね。やっぱり角川って「出版を否定する」ところがあるんですよね。売上の9割以上出版みたいな状態でも、出版だけやっているのではダメだ、というのが歴彦さんの根底にはありました。その分の大変さはありましたね。

業界ごとにイノベーションのサイクルがだいぶ違いますよね。アニメ映像流通は映画⇒テレビ⇒ビデオ⇒配信と技術革新のたびにメディア変遷に乗せ換え得られ続けた。この技術革新に支えての拡大が、出版の世界には無かったんです。歴彦説では、紀元前2世紀の紙の発明、15世紀のグーテンベルク活字印刷技術、そして21世紀の電子書籍。この3回だけだと言うんです、出版に起こったイノベーションって。悠長な変化をしてきたがゆえに、出版業界の限界があり、この20年「脱出版社」を掲げていたからこそ、いまのKADOKAWAがあるわけです。

――:角川の凄さは「ライバルが出版社じゃなかった」ところにもありますよね。

そうですね、まさに出版社ではなくIP企業として玩具メーカーやゲームメーカーなどと渡り合おうとしていたところが出版社らしからぬM&Aや事業展開の根底にありました。

――:そんな激動を乗り越えてきた佐藤さんが、2021年に『メディアミックス全史』という大著を上梓されます。本当にKADOKAWAの歴史をそらんじた500P近いすばらしい内容でしたが、こちらはなぜ書かれたんですか?

たぶん社長が向いてないと思ったからか、歴彦さんが社長時代からとにかく本を書け、本を書けって言ってくるんですよ笑。それこそ2015年にホールディングスの会長になったあたりですかね。「お前ももうヒマだろう。だから社史を書け」という話がありました。

――:創業者が会長に本を書けと強要w。普通ホールディングス会長やってる人間に書籍かけなんでいわないですよね?忙しいですし。

そうですよね笑。そこらへんがやっぱり出版人なんでしょうね。いや、めちゃめちゃ大変でしたよ。構想からだと4年はかかってますかね。途中で何度も企画が変わって、ずいぶん書き直しました。角川書店の社史って三部作なんです。『角川源義の時代―角川書店をいかにして興したか』(鎗田清太郎、1995)と、『全てがここから始まる角川グループは何をめざすか』(佐藤吉之輔、2007年)、そして僕の書いた『KADOKAWAのメディアミックス全史 サブカルチャーの創造と発展』(2021)です。前のお二人は角川の編集の大先輩です。そういう意味では光栄でした。

――:社史3部作、というのも前代未聞ですが、それを非売品にして売らないものにしたのも驚きました。あれだけ克明に残した書籍なのに、あまりにもったいなくないですか?

あくまで「社史」ですからね。角川の後進のために書けと、だから失敗もありていに書けと言われました。

――:KADOKAWAといえばメディアミックスですが、やはり歴彦さんの時代に一つの完成をみたんでしょうか。

よく言われますが、映画と文庫のメディアミックスが春樹の時代、雑誌をプラットフォームにライトノベル、コミック、アニメ、ゲームをメディアコンバージョンしたのが、歴彦の時代、となりますか。でも完成というのは無くて、また新しい時代に入っているんじゃないですか。

――:いまでこそ集英社や講談社、テレビ局すらもゲーム・アニメ事業部を立ち上げています。40年も過去からメディアミックス&IPで他社に先行していた角川に、皆がおいついてきたということでしょうか?

ただその中身は時代ごとに変わってますよね。角川春樹の時代のメディアミックスと角川歴彦の時代のメディアミックスは全然違います。ただ文庫本やライトノベルなど出版を起点としたメディアミックスモデルがこの10年は苦しくなったわけですよね。書籍スタートがダメだというよりは、そういった「始まり自体は無限定に発想する」メディアミックスの時代なんじゃないかと思います。

中国のACGの流れをみると、最近の「原神」などように中国で日本的なメディアミックス活用が上手くなってきている。そうした事例をみて、春樹時代・歴彦時代とは違うメディアミックスの時代になっていくのだと思います。

――:任天堂がIPに入っていったのも最近ですよね。決算書に「IP・モバイル売上」という別カテゴリーが生まれたのも2016年3月期からです。

山内さんの時代から、任天堂って「キャラクターで商売しちゃいかん」という会社だったんですよ。任天堂本社のロビーにも応接間にも、伝統工芸とか日本画は飾ってあるんですが、マリオの絵もフィギュアもないんです。

任天堂はIRの事業セグメントが永らく1つしかない会社だったんです。1993年の映画の失敗のときは一切言及がなかったですし、今回のマリオの映画で宮本茂さんが色々言及されているのをみて時代が変わったと思いました。

――:そして佐藤さんは2021年『怠惰な俺が謎のJCと出会って副業を株式上場させちゃった話』というラノベ小説を2作目の単著として出されます。こちらはゼロイチで書き上げたんですか?失礼ながら「ごごたいちゃん」というJC(女子中学生)キャラも含めてとても70歳越えた方が書いたものとは思えません。

正真正銘、全部自分で書いてます。アマゾンのレビュアーで、「本人が書いていない」という理由で星ひとつを付けた人がいて、なんて失礼なんだ、とムッとしました笑。編集は三木一馬くん(ストレートエッジ代表取締役、メディアワークス在籍時から『とある魔術の禁書目録』『魔法科高校の劣等生』『ソードアート・オンライン』などの大ヒット作の編集者)、KADOKAWAの担当が工藤裕一くん、先ほどから名前の挙がっている吉田君にもいろいろ意見をもらいました。

最初JK(女子高生)の想定だったんですが、三木くんが「この女の子がババくさい。むしろJCくらいまで幼く振ったほうがよい」と言われて、確かにやってみたらキャラが動き出しました。吉田くんもそうですが、辞めてからのほうが編集者って改めてスゴイ仕事だなと思うことが増えました。

――:正直ラノベの「わりに」と言ってしまっては大変失礼ですが、布陣が大物すぎるんじゃないかと笑。「ロードス島戦記」編集者に「SAO」編集者、そこに書評コメントが襟川恵子・陽一さん(コーエーテクモ創業者)と鳥嶋和彦さん(「ドラゴンボール」編集者)、そして宮崎英高さん(フロム・ソフトウェア社長)ですからね。もうお名前だけでお腹いっぱいになりそうな・・・

仲良い人に声をかけていったら、ああなりました笑。

――:この後の企画はあるのですか?やっぱりKADOKAWAから出るのですか?

そう、前作で味をしめて青柳(昌行)くん(現KADOKAWAグループのChief Publishing Officer)に次回作の相談をしたんです。そうしたら、青柳くんがぼくの文体は雑誌屋の文体で小説は向いていないって言うんです。小説はダメだって。

――:あ、元社長でも容赦なくダメだしされるんですか。

そう、忖度なし(笑)。小説はダメだけど佐藤の経歴を生かした何かないかというから、おもちゃとゲームの歴史の本なら書けると構想を話したところ、「電撃オンライン」で連載してあげるって。持つべきものはいい後輩です(笑)。いま一生懸命書いているところです。みなさん楽しみにしていてください。因みに小説もあきらめていません(笑)。

 

会社情報

会社名
Re entertainment
設立
2021年7月
代表者
中山淳雄
直近業績
エンタメ社会学者の中山淳雄氏が海外&事業家&研究者として追求してきた経験をもとに“エンターテイメントの再現性追求”を支援するコンサルティング事業を展開している。
上場区分
未上場
企業データを見る
株式会社KADOKAWA
http://www.kadokawa.co.jp/

会社情報

会社名
株式会社KADOKAWA
設立
1954年4月
代表者
代表執行役社長CEO 夏野 剛/代表執行役CHRO兼CLMO 山下 直久
決算期
3月
直近業績
売上高2554億2900万円、営業利益259億3100万円、経常利益266億6900万円、最終利益126億7900万円(2023年3月期)
上場区分
東証プライム
証券コード
9468
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