【連載】中山淳雄の「推しもオタクもグローバル」第76回 日本芸能史・武道史を駆け抜けた50年-『ラストサムライ』トム・クルーズと共演した忍者俳優リー村山

中山淳雄 エンタメ社会学者&Re entertainment社長
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トム・クルーズ、渡辺謙、真田広之、森繁久彌、美空ひばり、島倉千代子、鶴田浩二、若山富三郎、松方弘樹、島田紳助、宍戸大全、ブルース・リー、ジャッキー・チェン、芦原英幸、許鴻基。かつてこれほど豪華な名前ばかりが飛び出すインタビューがあっただろうか。映画テレビ舞台が枝分かれする1970年代という分岐点にあって、己の肉体を刃牙(バキ)がごとく鍛錬し続けた「リー村山」こと李一龍・村山俊二は、新劇から始まり梅田コマ劇場で培った演技者としての力量をもとに、舞台・武道・映画・忍者ショーの世界を渡り歩き、今現在は世界に向けた「侍・忍者文化の輸出」の担い手でもある。その一番弟子・師範代である巴里絵(田中巴里絵)もあわせ、戦後日本の芸能史のなかで“影"となってきた忍者の存在が、いかに時代劇やテーマパークの形式をもって保存され、残され続けてきたのかについてインタビューを行った。 

 

   

■忍者末裔の住む里、村祭りの天狗舞で天啓を得た早熟のパフォーマー

――:リーさんの本名・ご出身・ご年齢をお伺いしてよいですか?

リー:村山俊二といいます。1950年に三重県の名張で生まれました。毒ぶどう酒事件※でも有名になったところです。ちょうど忍者の郷である伊賀の南で、戦後だった当時でも珍しくなっていた藁ぶき屋根の家で、柴の木枝をかき集めて薪にするためにいつも屋根にあげているような家でした。

当時は意識してなかったですが、忍者の末裔が多く住んでいた地域なんです。同級生に「百地(ももじ)※」とか「服部※」がいましたね。「服部~、なんやお前の髪、茶色やな!」と皆でいじってましたが、大人になってから彼らが伊賀の一族の直系・分系であることが分かって、私がその後撮影などで修験道のシーンや代々の本物の百地のお墓でのシーンなどをやるときも、協力してもらったりしました。

 

※名張毒ぶどう酒事件:1961年三重県名張市葛尾の公民館で女性会員用に用意されていたぶどう酒の中に農薬が混入されており、乾杯と同時にそれを飲んだ女性会員のうち5人が死亡、12人が傷害を負うという事件が発生。奥西勝氏の妻および愛人が被害者となったことから奥西氏に容疑がかかり1972年に死刑判決したが再審が続き、2015年本人の死亡により訴訟手続き終了。
※百地三太夫:江戸時代の読本に登場する武士・忍者。盗賊・石川五右衛門に忍術を教えたと言われる
※服部半蔵:伊賀出身の忍者一族の頭取であり、2代目半蔵が有名な三河:徳川家康に仕え、8千石の旗本となった。

 

――:すでに当時から忍者と関わる由来があったのですね。こうやってパフォーマンスをするお仕事は昔から素養が出てきていたのでしょうか?

リー:思い返すと実は結構あるんですよ。父親が3~4歳のころには亡くなっているんですが、理容師をやっていた親父は自分で落語をやったり芸能が好きで脚本を書いたりしていたんです。父は芝居も好きで村の皆を集めて公演をしているときに、まだ物心つかなかった私が天狗のモノマネをして、いつもは厳しい近所の親戚や男たちが一斉に大笑いしていたのが楽しくて仕方がなかった。それを鮮明に覚えてるんです。

「俊ちゃん、これは面白いな~。これは普通の子供じゃないな」とか言われていました。今の仕事はそれが原体験になっていて、小学校にあがるときには「芸能人になります」と言ってましたね。まだテレビ芸能人がいなかったので、映画銀幕の世界ですが。

――:学生時代はどんなタイプだったんですか?

身長が低かったんですが、負けず嫌いで喧嘩も沢山してました。友達が泣かされてきたら俺もいくといって野球部の体でっかい奴に立ち向かって、返り討ちにあったりね笑。親父もいなかったし、独立心も旺盛で、皆で魚取りにいっても誰よりも沢山獲って持って帰ってましたね。音楽もやってましたよ。1960年代にバンドブームが起きて、エレキギターをやってました。お寺にいってコンセント借りて演奏してました。

――:じゃあやはりパフォーマーとしての遺伝子が、お父様の気質も含めて幼少期に育っていた、というのはあるのですね。

 

■「日本のブルース・リー」喧嘩十段と唐手道を究め、自然石を素手で割るリアル刃牙

――:高校を出られてから、三重県⇒大阪府に出てこられるんですか?

リー:はい、最初の仕事は大阪心斎橋ミヤコ楽器の南千里店で店長をやってました。ちょうど19歳のときで1970年の大阪万博の直前で色々賑わっていたのを覚えています。

仕事とは別で、当時から武術を学んでいて、芦原英幸先生※の道場に通っていました。ケンカ十段で有名な人で血の気も多かったから、「お前ら、ちょっと心斎橋で喧嘩してこい!」とか言われて、橋をずーっと肩をいからせながらねり歩いてガラ悪そうな人に喧嘩をけしかけたりしながら、それが「修行」でしたね笑。

武術もやっていて、ちょうど当時はブルース・リーが日本で大流行してたんです。それで台湾にいって、台湾省國術会から独立し中国神龍唐手道の老師となった許鴻基(きょ こうき)先生から中国武術を真剣に習い そこで免許皆伝を頂きました。台北の国際大会で私の演武を見た先生が「お前は日本のブルース・リーだな」と「ブルース・リーが李小龍ならお前は一龍だな」とニックネームで「リー」と呼ばれていました。この経緯も有り「リー村山」という名前は、『ラストサムライ』の時の キャスティングプロデューサーで旧知だった奈良橋陽子さんに提案され使い始めたものです。芦原先生と許先生は、当時20代になったばかりの私にとってターニングポイントでした。

 

※芦原英幸(1944~1995):広島県出身、1961年に自動車修理工場で働きながら極真空手創設者の大山倍達の道場に入門し、『空手バカ一代』でも準主役として登場している。『ケンカ十段』の異名を誇る。
※許鴻基(1934~1984):「台湾中国神龍唐手道」の創始者。唐手道は清朝乾隆時代から続くが、1929年蔣介石により「国術」として正式命名されてのち台湾に渡る。日本語教育時代の台湾であったため日本とも交流が深く、1977年には米国ロサンゼルスにも波及していく。

 

――:当時のお写真をみると、とてもカタギには見えませんね笑。もうリアル刃牙の世界です笑。でも当時の格闘技ってそのまま映画につながっていきますよね。ジャッキーチェンも同じカンフーブームから人気になってきます。

リー:ブルース・リーのあとにホイ3兄弟が出てきて、その後になってジャッキー・チェンが出てくるんです。彼も最初はあまりヒット作に恵まれず、『スネーキーモンキー 蛇拳』(1978)あたりから頭角を現すようになってきました。

 

※ブルースリー(李小龍)(1940~1973):サンフランシスコ生まれで幼少期から映画に出演、香港に帰国し北派少林拳・詠春拳を習いながら高校ボクシング大会などにも出場。18歳で再び渡米し、大学時代に截拳道(ジークンドー)を創始。1966年に米国ロングビーチ空手選手権での演武がTVプロデューサーの目にとまり、派手なアクションでロサンゼルスの映像界で一躍スターとなる。『ドラゴン危機一発』(1971)から続く3部作は香港映画史を塗りかえる記録を出し、これによりゴールデン・ハーベストは香港最大の映画会社になる。本人死後に公開された『燃えよドラゴン』が世界的ヒットとなり、その後カンフーブームが興る。
※ホイ3兄弟:マイケル・ホイ(許冠文:1942~)を中心に、兄弟で香港映画界で活躍。『大軍閥』以降、出演作品は数えきれないほどにある。
※ジャッキー・チェン(成龍:1954~):ブルースリーのスタントマン役などから始め、『レッド・ドラゴン/新・怒りの鉄拳』(1976)以降に名前が知られるようになる。

 

▲右上写真の上半身裸なのがリー村山氏。許先生と台湾での練習風景

 

――:リーさんのこの当時の動機って何だったんですか?芸能界に興味があったのは分かりますが、喧嘩を極めたり、武道を極めたり、流れによってはそのままUFCとかプロレスとか総合格闘技の世界にいっていてもおかしくなかったように思います。

リー:身体が小さいコンプレックスと共に、強くなりたい一心でしたね。ズタ袋に自然石を入れて、持ち運んでました。これを素手でたたいたり、砂を詰めたビール瓶で向う脛をゴンゴン叩いて強くしたりしてましたね。

一度RKK熊本放送のワイドショーに「世界の唐人現る!」という企画で出ていた時に、氷とか角材とか手裏剣とかいろいろなものを割ってきたんですが、こんなぶっとい正方形で3段積みの氷柱を渡されて。何回もトライするんだけど全然割れなくて、「リー先生、さすがにもうよろしいですよ!?」と言われながら意地でもう手の感覚もなくなるころに無事割れたんですが、タクシーに乗って次のロケに向かう途中にはもうジンジン腫れて大変でした 笑。

 

■森繁久彌に学び、島田紳助や宝塚歌劇団にアクション指導。華麗なる芸能の世界

――:そんな武道の世界にもいらっしゃったリー先生ですが、演技の世界にはいつごろ入られるんですか?

リー:上記の修行期と並行して、1970年になって梅田コマ劇場で演技科の第一期生として入学したんです。藤原新平先生※とか野尻先生※の脚本で新劇などやってたんですがなかなかうまくならなかったところで、ちょうどコマ劇場が演技生を募集はじめたんです。そこで400人の応募者から5人の中に選ばれまして、なんと森繁久彌さんと舞台上での二人芝居を経験させて頂きました。「お前、今日は間をはずしたな」とか「今日のよかったよ」みたいなことを逐一指導いただきながら、演技のキャリアを始めました。

当時は舞台で美空ひばり主演『あづま女に京男』(1973)や森繁久彌主演『曾我廼家十郎物語』(1975)などに出てきました。今思うと、とんでもない贅沢な環境ですよね。踊りは藤間先生※、タップは宅原浩一先生※、歌手はクラウンの先生と、非常に豪華な面々のなかでそこから20年はずっと商業演劇の世界にいました。

待遇も良くて全ての稽古を無料で受けれる上に 舞台出演では当時で月3万円もらえたんです(サラリーマン平均月収は5〜6万円の時代)。1970年代の駆け出しとしてはずいぶん恵まれた環境でした。

 

▲師事した森繁久彌の整体もやっていた。晩年は手を引いて移動する事も有ったが 本番になると矍鑠と演技をしていたという

 

※梅田コマ劇場(1956~):小林一三が東宝時代に最後に建てた劇場、東京新宿とともに1956年に開所後、1992年「劇場・飛天」、2005年に阪急電鉄買収とともに「梅田芸術劇場」と名前を変え、半世紀たった現在も当初の構想を残している。
※藤原新平(1928~):文芸座所属の演出家
※野尻興顕:息子の野尻徹(1921~48)が西池袋「スタジオ・デ・ザール」を設立し、戦後演劇の第一線をひっぱっていたが早逝。その意思を継いで、1948年に資材を投じて日本で初めての演劇・舞台の舞台芸術学院を創設した
※森繁久彌(1913~2009):NHKアナウンサーとして満州国赴任、帰国後は映画出演作為は250本を超え、舞台ではミュージカル『屋根の上のヴァイオリン弾き』で上演900回・観客動員165万の記録、作詞・作曲した『知床旅情』などベストセラーも海、紅白歌合戦も7年連続出場。1991年に大衆芸能分野で初めて文化勲章を受章した。
※藤間流:1704年に藤間勘兵衛が創設した日本舞踊五代流派の一つ
※宅原浩一(1933~2019)関西タップ界の父、梅田コマ第一期生でありながらタップ講師としても活動、1980年代は宝塚音楽学校のタップ講師

 

――:なかなかに自由に活動されてますよね?1970年代は梅田コマ劇場に所属しながら、日本津々浦々で地方巡業しながら、自然石のズタ袋とかビール瓶とかやり続けてるわけですよね?実際に梅田コマ劇場で自分の私塾もたちあげていたと聞きました。

リー:そうですね、時々休みをもらいながら沖縄へ武術の修行に行ったりしてましたね。もう拳はタコだらけでね、「お前、役者なんか武道家なんかどっちやねん」と言われて。

時代に緩さがあったから許されたんでしょうね。劇団員にも関わらず、1978年にその梅田コマ劇場の稽古場を自由に使わせて貰いながら、ドラゴンアクションチームという自分のチームを立ち上げます。月初の忙しい時期以外にあいている時間でけいこ場を借りて、稽古していたんです。そこでそれまで学んだ喧嘩道とか(笑) 、唐手道、太極拳などが母体となって、自分なりに解釈した形での武道を教え始めました。当時西宮コマという元ボウリング場を体育館にした施設があり、梅田コマの流れでそこで太極拳教室も開いていました。

 

▲リー村山氏に師事する一番弟子田中巴里絵(たなかまりえ)氏。自身も1980年代から武術を極め、くノ一忍者として忍者ショーを四半世紀に渡り、統括してきた。

 

――:巴里絵さんもこの当時にリー先生に師事してるんですよね?

巴里絵:リー先生凄かったんですよ。武術教室っていいながら、30人くらいの生徒もほとんど女の子ばっかりで、キャーキャー言われていました笑。当時専門学校生だった私の中学時代からの親友が西宮コマの太極拳教室に通っていて、当時真田広之さんのファンだった私に「うちの先生、真田さんと映画に出てるよ!」と言われて、それが映画館で15回位観た『忍者武芸帖 百地三太夫』(東映、1980)って真田さんの初主演映画だったんです。

それで当時、梅田コマの水前寺清子公演に出ておられた先生の楽屋に友人に連れて行って貰って面会したのが1982年5月です。『百地三太夫』の映画には「李一龍」という芸名で中国人役で出ていたので、ずっと中国人だと思ったんですよ笑。「アクション好き?」と問われ、(見るのが)「好きです」と言うと「明日ジャージ持っておいで」と。それが入門になりました。いざコマ劇場の踊り場でけいこ始まるんですが「あれ、この人、中国語しゃべられへんな」って思って笑。

――:いまや「くノ一忍者」として、リー先生の門下生の一番弟子の巴里絵さんですが、昔身体が弱かったというのが衝撃です。実は以前からお会いしてて、めっちゃくちゃ健康ですよね?

巴里絵:はい、これもリー先生の自然塾のお陰ですけど私、幼少時代は虚弱体質でいつも保健室登校をしていたんです。乗り物も弱いから遠足いけなくてお留守番していたくらいの。でもこのリー先生の自然塾に通い始めて、実際に忍者アクターの仕事をしているこの40年の間、ほぼ風邪もひいたことないんですよ、本当に。

東映映画村の忍者ショーを20年以上続けていましたが、唯一覚えているのはインフルエンザになった一度だけ。それでもフラフラになりながら舞台をこなしていたので、実質的に休んでいた期間というのは、ほぼないです。あとは一度膝のじん帯を切った時はありましたね。

――:その話が衝撃でした。1年360日くらい働いてて、何十年も風邪をひかない。身体を正しく鍛え続けるってそういう効果があるんだと驚きました。

リー:膝のじん帯の時は全治6カ月なはずだったんですけどね。我々も彼女の代わりがいないから困るといって。年末年始だけ集中して休んで、5週間で治して出てきましたね。

実際、みるみる健康になりまして、彼女は台湾で唐手道のチャンピオンにもなっているんですよ。1983年ごろから出始めて、1984~88年は4年連続優勝ですよ。その後、一緒に日本全国の忍者ショーをまわったり、振付をしたり、映画に出演したりしてきました。今は師範代であり、私のボディーガードです笑。

――:リー先生は吉本興業とも共演されてお仕事されていたとお聞きしています。

リー:横山やすし・西川きよしさんが司会をしていた「モーレツ!!しごき教室」(1973~84、MBSテレビ番組)で、アクロバット、日舞、少林寺拳法などに挑戦するコーナーがあったんです。私はアクション担当で島田紳助竜助さん、巨人阪神さん、間寛平さんとかにカンフーアクションを2年間指導してました

 

▲「モーレツ!!しごき教室」時代の村山俊二氏

 

――:宝塚にも登場されていたんですよね?

リー:1983年星組公演のショーのアクション振付をしました。女の園で、それはなかなかの経験で巴里絵も助手で付かせていました。演技の他に結構そういう裏方もやっていて、梅田コマでは島倉千代子※さんがクレーンにのって登場するときも「怖いから村さんが後ろから支えてね」と言われて。「命預けます」って言われましてね笑。 黒子役でクレーンの後ろでずっと島倉さんを支える役をやったりしてましたね。

当時も梅田コマでは色々ミュージカル作品もやっていて『ベルサイユのばら』等も有りました。オスカル森田日記さん、アンドレは錦野旦さん、私は近衛兵の役をやっておりました笑。

 

▲宝塚歌劇団でアクション指導を行う村山氏

 

――:あまりに華々しい世界で眩暈がしそうです。巴里絵さんから聞くと、ジャニーズにも指導をつけられていたと聞きました。

巴里絵:すごかったですよ。1981年に少年隊がデビューした頃梅田コマで彼らの初主演舞台『サスケ』と言うミュージカルが有りました。冒頭で「者どもーーー!」って合図でリー先生達3人が出てくる場面があるんですよ。でも最初、少年隊と間違えて、ファンが熱狂してパンティーとか色んなモノを舞台に投げ込むんですよ。あんな場面、なかなか見れないですよね。

――:いやー今まさに色々問題になっているジャニーズですが、当時はまだ黎明期。ナベプロ一強時代からホリプロ中心に多極時代になっていく中で、男性アイドルの雄としてのジャニーズが頭角を現します。

リー:皆、少年らしく可愛らしかったですよ。稽古場で私が扱う武器に興味津々で、指導というよりその時に手解きをしました。素直な子が多かった。その他にも沢山の本当に若い子達がいましたけど 若いうちにあれだけのアイドル人気を浴びて、歓声のなかで育っていくと、それは色々難しいことも多いですよね。世慣れとでも言うのか。

――:そしてリー先生は映画にも出演されますね。

リー:若山富三郎主演『子連れ狼』シリーズ(1972~74)や渡瀬恒彦主演『影の軍団服部半蔵』(1980)にも出ていました。

 

※錦野旦(1948~):1975年に梅田コマ劇場で開催された「ベルサイユのばら」で。ちなみに低迷して廃業の危機にあった宝塚劇団は同作によって盛り返し、現在まで続く形になった“最初の2.5次元舞台"とも言える作品だ。。
※島倉千代子(1938~2013):1954年コロンビア全国歌謡コンクール優勝で専属契約、デビュー作『この世の花』で200万枚セールを達成し、1957年『東京だョおっ母さん』は150万枚セールに映画化され自ら主演。1960年には22歳にして美空ひばりをおさえ紅白トリを務め、それ以降紅白連続30回出場記録で当時最多となったのが1986年だった。

 

■宍戸大全と共にテーマパーク忍者ショー25年。合間を縫ってハリウッドからのオファー

――:1970~80年代に梅田コマ劇場にテレビ出演、その後は東映映画村などのテーマパークにも進出されます。これはどういった背景なんですか?

リー:宍戸大全先生ですね※。もともと女子高の体育の先生だった宍戸先生は撮影を手伝ったらギャラがよかったとかで、大映・東映で働くようになり、1970年にフリーになりました。スタント界のパイオニアで市川雷蔵さんの『忍びの者』から始まり当時設備も整って居ない中、ほぼ人力でありとあらゆるスタントをされています。テレビ時代劇では例えば『水戸黄門』の風車の弥七やお銀がクルクルと登場するのは、宍戸大全グループの担当なんですよ。地下足袋やマット、前傾トランポリンなど日本のスタント界における技術は宍戸先生がアイデアを出したものが多いんですよ。よくスタントシーンに出てくるカステラマットとかも宍戸先生のアイデアです。

テレビの仕事の傍ら、東映で忍者ショーをはじめるから一緒にやらないかと誘われました。それで1980年代半ばに私と巴里絵も入ってGWとか年末年始だけ特別イベントをやるんですが、すごく評判になるんですよ。それで常設にしよう!ということで1987年から東映太秦映画村の中村座で忍者ショーが始まりました。

 

※宍戸大全(1929~2019)日本初のスタントマン。福島の体育教師だったが1956年に大映京都撮影所でケガ人に代わりスタントで臨時出演したところから始まり、市川雷蔵などのスタントマンを行った。

 

――:その後ずっと東映でショーの出演をされていたんですか?

リー:基本、年末年始以外の年間360日、1日4回まわしを連日稼働してきました。その後2012年に引退するまで25年位やることになった東映中村座の忍者ショーですが、宍戸先生が次々にプロデュースされるので1990年には佐賀県の肥前夢街道で「はがくれ忍者屋敷」もやりました。東映映画村がメンテナンスに入る12月は、すぐに九州に移動して1日6回やってました笑。

そうやって忍者ショーをやりながら、『水戸黄門』『暴れん坊将軍』やその他東映作品にも出演させて頂いてました。

 

▲東映太秦映画村中村座の常打になる以前の新オープンでのポーズ

 

――:ハリウッド『ラストサムライ』のオファーはどういうところからスタートするんですか?

巴里絵:ホント偶然の重なりでした。奈良橋陽子さん※というキャスティングディレクターされていた方と昔、高校時代からご縁が有りました。私がもともとゴダイゴのファンで、彼女は当時ゴダイゴのプロデューサーだったんですが、熱意実って懇意になって当時東京と神戸を行き来して繋がっていたんです。高校出たら彼女の元で勉強する事になり上京する予定だったのですが、家族事情があって行けなくなり、受験も間に合わず、私は取り敢えず栄養士の専門学校へ入ったんです。先ほどのお話の流れでリー先生と出会ったのは、まさにその入学後の悶々としていた時期です。

それでしばらくしたらその陽子がハリウッドでキャスティングディレクターになっていて。久々に京都で再会したら、私が昔の姿から変貌して「武の人間」になってるわけですよ。それで驚いて、こんな凄いことしてくれた先生に会いたいわとなってリー先生を紹介したんです。ゴダイゴの『西遊記』をベースにしたミュージカル『Monky』の時はリー先生が殺陣振付で私は出演&殺陣振付助手でした。この『Monky』は最終的に1985年1月池袋サンシャイン劇場で上演されましたが、そこに行くまでは小さな小屋で何度も上演して温めて行った作品で、ずっと関わっていたんです。

――:奈良橋さん!著書の『ハリウッドと日本をつなぐ』 は拝見してました。

巴里絵:それで2002年くらいに急にメールがきて。トム・クルーズが日本のサムライの映画を創りたいと言っている、と。それでちょっとオーディションに出てくれないかということで、京都ブライトンホテルで主だった俳優やアクターが呼ばれていました。

――:じゃあ普通にセレクションを受けるんですね。

巴里絵:既にズウィッグ(監督)的には陽子さんからリー先生の写真や資料も送られてたし、頭の中には配役まであったみたいですね。小隊長のような役柄でリー先生が抜擢されます。

※奈良橋陽子(1947~)ハリウッド映画のキャスティングディレクター。外交官の父についてカナダで育ち、夫となったジョニー野村が音楽関係者だったことからバンド「ゴダイゴ」のプロデュースを行った。演出家としての経験をもとに、ニューヨークで俳優育成のスタジオを設立、、ハリウッド映画への日本人のキャスティング(スティーヴン・スピルバーグ監督の『太陽の帝国』、トム・クルーズ主演の『ラストサムライ』ほか)など、英語圏と日本国の文化の橋渡し・裏方として手広く活躍中

 

■『ラストサムライ』でニュージーランド半年、ハリウッド流の洗礼

――:あ、でもラストサムライって真田さん出られてますよね?

リー:そうそう、そうなんです。彼とはそこで約20年ぶりの再会ですよ。久しぶりに会えたね、と。

巴里絵:陽子さんと話してたら、向こうから「うおーー!」って歓声が聞こえて。なんかみたら2人とも良く似た顔してハグしてました。

 

▲NZでの撮影中に『たそがれ清兵衛』が日本アカデミー賞を受賞し、現地との中継があった。その時の真田広之氏、渡辺謙氏、菅田俊氏、故福本清三氏との風景。

 

――:(写真みながら)確かに2人似てますね!?真田さんもだいぶ髭&サムライな方向になってきてますもんね笑。実際どのくらいの人数が俳優として選ばれ、渡航するんですか?

リー:メインキャストの他に侍アンサンブル、スタント、バトルコア、バトルエキストラ他セクションがあって、現地でのエキストラも沢山いました。ちゃんと役名もらって契約書も整えた上で、ニュージーランド現地の半年間の撮影に同行するまでの役者は3〜40人くらいだと思います。

――:ハリウッドの撮影はいかがでした?

リー:ハリウッド映画のスケールの大きさ、お金のかけ方には正直驚かされるばかりでしたね。セットも衣装も、関わる人も全部が桁違いでした。アクションが凄いんですよね。オーバーなリアクションや演技は求めず、リアリティを追求してましたね。馬にのって転ぶというシーンでも、なるべく本当に転ばせたり。実は最後のシーンで、50頭で大砲で爆破されるなかを馬で駆け抜けるシーンもビックリしたんです。A・B・Cで爆破すると聞いてたのに、いきなり本番でA・Cみたいな感じで違うところが爆破される。かなり近い位置で「危ない、危ないっ!」ってなるような

――:役者にもサプライズがあるんですね!だいぶ揉めそうですが・・・

リー:もう撮影の最中にそんなことがいっぱいあるので、慣れていきますよね。あと、撮り直しの回数は日本とは全然違います。東映だと時間もないし、1回テストしてOKだったら2回目にはい本テス(テスト本番)!ってなるんです。誰かがNG出してもう1回というのもありますが、最高でも4回くらいのリテイクでは終わらせます。

それがハリウッド式だとカメラもかなりの数をまわしながら5回や10回みたいなのが当たり前。同じシーンを繰り返し繰り返し撮るから、もう最後の合戦シーンは皆ヘロヘロですよ。腕もあがらなくなってボロボロになっているシーンが、実際には使われてました。忍者が村を夜襲するシーンはそれだけで1週間かかるこだわりぶりで、4カ月予定だった撮影が結果半年まで伸びました。

――:ニュージーランドのどのあたりで撮影だったんですか?

リー:New Primusですね。タラナキヤマという富士山のような大きな山がみえるところで。実は驚いたんですが、半年間という長丁場なので俳優は家を与えられているんです。それもそれ用の借家じゃなくて、普通に家財道具がそろった家で。これってどうしたんですかと聞いたら、一定期間で買い上げるらしいんです。これから映画撮影するから半年間バカンスにいってきてくれと大金を渡して、家族ごと家から離しちゃう。そこに我々があてられていくんですが、

巴里絵:リー先生はホテルの大きなスィートでした。そしてサイクリング自転車、脇役の中でも良い扱いだったと思います。渡辺謙さんだと大きな一軒家で、車も新車でした。他の俳優の方はシェアルームで何人かで一室だったりとか、本当にそういう階層がついているところがハリウッドの凄さですね

 

▲NZ滞在中にリー先生の誕生日。よくバンダナしながら自転車に乗っていたリー氏の似顔絵のまわりにメッセージが書かれているが、寄せ書きの名前は業界ビックリの大物たちばかり。
このイラストは今は大活躍で当時は子役だった池松壮亮君が描いたもの

 

――:あれ、そういえば撮影って、2002年の春ですよね?僕、大学3年生で南島のクイーンズタウンに語学留学してたんですが日本人の俳優探しているからって一度CM撮影に呼ばれたんですよ。素人でもいいから、CMに使うかもしれない、と。

巴里絵:あれ、同じ時期ですね?そうです、2002年春です。

――:え、えええ!?語学学校で声かけられて、謎の部屋でポージングさせられたんですが、、、「I'm Passionate!」って発音させられて。あれ、もしかして『ラストサムライ』のエキストラ探しだったんですか!?

リー:いやあ、奇遇ですね笑。中山さんもあのときにニュージーランドにいたんですね。もしかしたら一緒に出ていたかも笑。

――:いや、あっさりと不合格だったんですが笑。何の撮影が教えてくれなかったんですが、まさか『ラストサムライ』とは・・・いやー惜しいことをした。

巴里絵:エキストラは一杯いるんですよ。渡航費もでないから自力で来て、それこそ撮影中のホテルも与えられないのでテント泊している人もいました。

――:『ラストサムライ』は日本を舞台にした映画でしたが、日本の撮影は行われなかったのですか?

リー:残念ながら大規模なロケや設定が無理で、準備段階でも東映や松竹がもっと介入するかと思われたのですが、日本では書写山などの数日だけのロケで終わりました。

――:世界で売れたトップ20の映画ですからね。そういう映画にでたことで、リー先生のキャリアの集大成にはなるんですか?

リー:海外にいくと声かけられましすね。イタリア料理店で「お前、出てたやつだな?」と言われてご馳走になったり。

――:契約書はかなり大変だったんじゃないかと。日本人には慣れないですよね。

巴里絵:大変でした。私が逐一チェックしたんです、契約書だけで何十ページもあるんですよね。基本給プラスで夜の撮影やスタント絡みのときはいくら、とか、色んなオプションもあって。髭の長さから顔から体重・髪型や色まで規定があって、どこまで変えていいかとか、そんなことまで守らないといけない。このチェックで先生のご飯が変わってきちゃうので、陽子にも手伝ってもらいながら必死でした。インディペンデントの俳優で結構謎の仲介業者とか使っていた人は、とんでもないマージンを抜かれちゃったり、色々ありました。

――:髪型まで決められちゃうんですね。

巴里絵:うちの先生は他の仕事もあるからこの長髪を切って欲しくなかったんですよ。それで最初のフィッティングの時にヘアメイクさんと「プロミス」をして、それから地毛でチョンマゲを結おうとすると「鬢付け(びんづけ)」が必要だと。それはNZだと安定供給で調達できないですからね。結局ファイバー入りのワックスでなんとかなったのでプロミス通り、切られずに済みました。

 ▲撮影中の風景。上はトム・クルーズ・・・のスタンドイン(位置決め等担当)。背格好が非常に似ている。

 

――:その後、「マンダム・ルシード」のCMにも2006年に出られます。

巴里絵:この時はガラリと髪の毛も真っ黒に染めて出ましたね。女性のキャスティングプロデューサーの方が、スター年鑑みていて「神様がおりてきて、村山さんだと思ったの!」と直観的に選ばれたようでしたね。

 

■総合武術自然塾:自分の身体の軸を“車検"のように毎日点検し、正しく「立つ」技術

――:基本的には演者として色々されながら、実際どういうタイミングで武術や今の「自然塾」の方向にいくのでしょうか?

リー:武道をやっていると、どんどん身体のこと覚えるんですよ。治せる様になったら潰すのは簡単、というロジックですね。我々は真剣を使った殺陣もやってますからね、立ち回りは本当に神経張り巡らせて、体の使い方を間違えないようにしています。

――:実際に巴里絵さんも膝のじん帯も全治6カ月を5週間で治しちゃったりするし、そんな特別な治療法みたいなものがあるんでしょうか?

巴里絵:リハビリの仕方だと思うんですよ。自然塾でやっているのって身体の正しい使い方とか歩き方とか基本的なことなんですが。普通はケガした足とそうでない足で、治った時にサイズも倍くらい違っちゃうんですが、リハビリ中もいいほうの足にあわせて両方の神経を通しながら歩く感覚をもって体幹トレーニングをやっていたので、治った時もすぐに忍者ショー再開できる状態にはなってましたね。

リー:共通しているのは身体の軸ですね。自分の中心線。重力を感じて、上からピンと釣られている感覚で「立つ」。赤ちゃんのときには皆できているんですよ。でも大きくなるにつれて、パソコンしたりとか前へならえしなさいとかで癖がついてしまって。まあ毎日車検しているのと同じなんです。

――:毎日どのくらい運動されてるんですか?

巴里絵:週3日のレギュラークラスで4時間くらい、他に個人レッスン等もやりプラス2時間は動いてますね。そもそも毎日20キロくらいは最低歩いてますね。私の場合あれだけ動いて来たので一気に運動量を減らすと調子狂うと言うか…

リー:風水からきてるんですよ。陰極まれば陽になる。陰は下に行って、陽は上にあがる。季節の変わり目ごとに身体をそれにあわせていくような感覚、私は生まれが田舎なので自然の中で育ったんです。その子供のときに身体で学んでいたことがどんどん蘇る感覚ですね。

――:(合気道のように小指を掴んだだけで倒されるという実技指導を中山も実際に受けた)なるほど、なんか身体の使い方というのを改めて考えさせられました。

リー:人間の体は8つの層があると言われるんです。肉体の上に、エーテル体、アストラル体、メンタル体、コーザル体、ブッディ体、アートマ体、モナド体。それが皮膚の表面からちょっとずつ層になっていて、エネルギーを出している。その人自身がもっている気配とかエネルギーが出ているんですよね。調子が悪い時って「人の影が薄い」って言われますけど、ホントにその層が削られて薄くなっている状態なんです。

それが外の電波とか電磁波の影響も受けるわけで、総合武術自然塾でやっていることって毎日ちゃんと食べて生活するなかで、それを点検し、調整しながら生きるわけです。まあ“車検"みたいなものですわ。

――:結構芸能系だと、このあたりのことまできちんとされている方多いですよね。

リー:そうなんです、島倉さんなんかもちょうど舞台で歌う直前にね、「村さん、ちょっと気を頂戴」と言ってね、私の手の上から手をかぶせるんです。ちょっとの間重ねながら、うん!と言ってそのまま舞台にサッと出て行かれる。ダンスとか動きはなんとかなるんですけど、歌ってもう調子悪いとホンマに声が出ないんです。

 

 

■テーマパーク凋落期、インバウンド需要から海外に活路を求める。齢73歳の「未知の挑戦」

――:日本時代劇の黄金時代というのはいつごろだったのでしょうか?

リー:1970年代ですね。舞台に大スターが出ていたというのはあの時代が最後だったんじゃないかと思います。1980年ちょいくらいまでは出ていましたが、もう80年代後半・90年代になってくるとテレビ全盛の時代となって、銀幕と舞台とテレビがそれぞれ分かれていく感じがありましたね。

――:逆に1980年代のテレビはよかったんですか?

リー:映画が斜陽になるなかで、テレビでアクションものの番組がどんどん増えましたね。

――:『Dr.スランプ』の鳥山明さんもまさに1983年当時、カンフー映画が大好きで見ていて、そこから『ドラゴンボール』をうむことになります。

リー:面白いですね。80年代はブルース・リーからジャッキー・チェンが出てきてアクションに元気があった。その後はバラエティにも出ていく中で、花博(国際花と緑の博覧会、1990年)がでてきたり、我々はむしろテーマパークブームのなかでリアルの忍者ショーのほうに入っていきました。この時期から日本全国を行脚して出張していましたね。

――:2000年代に入るとそうしたテーマパーク業界が地方からどんどん潰れていきます。お二人もお客さんの入りの減少は肌で感じていたのでしょうか?

巴里絵:我々は当たり前に忙しく働いてましたね。『ラストサムライ』前後が一番最盛期だったかもしれませんね。1日4万人も5万人もくるといった状況でした。東映のギャラも高かったですし。我々は社員ではなかったんですが、業務委託であっても黎明期から一緒にやってきましたし、東映と一丸となってショーを作っていました。もう奄美大島から青森まで通津浦々、日本全国を旅してましたね。

――:どのあたりから厳しくなっていくんですか?

巴里絵:阪神大震災の時も当然関西圏は大変だったのでモロ影響が有りました。そして東映映画村がハードに力をいれて施設にゲームセンター等を作ったりもあったんですよ。でも当て込んで作ってから気づいたんです、当時の高校生はゲームセンター禁止なんですよ。そんなこんなで踏んだり蹴ったりだったり。そして東日本大震災、これも相当ダメージでした。これも含めてテーマパーク離れが明確になるのは2000年代後半くらいかもしれませんね、YouTubeが出てきたあたり。

逆に外国人も出てきてインバウンドに傾斜していくんです。東映にもルネサンスという外国人用の部署が出来て。我々も海外に行って忍者ショーをするといった話がでてきたのものその時期です。正直20年以上ずっと1年360日稼働のような毎日で、そろそろこれいつまでやんねんな、という話になるんですよね。そこに宍戸先生も引退されると言うタイミングがあり、2012年にすっぱり辞めて少し休養していました。私は一ヶ月位イタリアで生活してました。

――:2012年に東映忍者ショーは引退されました。それから最近の10年は海外からの引き合いが強かったですか?

巴里絵:引き合い以上に、我々自身が興味津々でどんどん海外に出ていきました。色々それまでのご縁も有り、上海領事館の日本文化交流会とか北京の刀剣文化交流会とかベトナムの世界武道会とか。ドバイの見本市にJETROさんの企画で出たら、うちの忍者&刀&侍の(映像コンテンツ)展示が一番の人気になっていましたし。どこのブースのスタッフも集合しちゃって「従業員の皆さん、持ち場に戻ってください」ってアナウンスがされるくらい。この4年間はルーマニア「East meets West」にも出ています。
色んなお話頂きます。100話くらい映像つくってくれないか、アニメにしたらどうかゲームにしたらどうかと言われたり。でも我々、演者じゃないですか。もう作ることの話になると赤ちゃんみたいなもんで。

 

▲ルーマニアで2人がゲスト招待されている「East meets West」

 

――:映画もとられましたね。

巴里絵:「鬼剣伝サキ」(2014)ですね。クラファンのように当時京都の地元の議員さんが「東洋のハリウッドと言われていた太秦を蘇らしたい」と仲間内で800万集めて下さって。私が行きがかり上プロデューサーにもならせて頂いたんですが、初めて企画段階から関わって、出演もして作った作品です。ただ13話予定が途中5話で制作費が切れてしまって。KBS京都で放映の運びになり、5話分を総集編にして100分の映画にしたんです。

京都みなみ会館で2週間上映し 英語翻訳してロンドンのBFI(国立英国映画協会)でも上映しました。この半ばマンガチックな世界観は、高齢者向けの時代劇じゃなく、ゲーム・アニメに近づけて、昔で言うと『仮面の忍者 赤影』(1967、横山光輝原作、フジテレビ)みたいな子供や若者が観る時代劇にしたくて。いわゆる、次世代の時代劇ファンの開拓です。実際ハマって100回みましたっ!て子供もいましたよ。

――:よく演者のお二人が慣れないプロデューサー業務まで引き受けられましたね?

巴里絵:やっぱり時代劇という場がなくなってしまうことにさみしさがありました。北米でいうと西部劇みたいなものじゃないですか。撮られたり上映したり見られたりを繰り返していかないと、なくなってしまうもんなんだと思います。購買欲の薄い高齢者ばかりがテレビで無料視聴ししかも視聴率本意になると、高齢者が好きな話ばかりになってしまうばかりかスポンサーも結局潤わないから、制作費も厳しくなる。現在はまた違うフェーズに入ってると思うのですが、10年ほど前は本当に時代劇か無くなってしまうと言う危機感がありました。

それで懇意の関係者でこんな感じの自主映画をつくったり。これはもうPVだけの3分間のものですけど。このニンジャ創世記とも言える『百地三太夫』の物語でもう一本つくれないかなと思ってます。ずっと限定公開にしかして無かったのですが、今初めて公開します!(→コチラ

 

▲手前のポスターがリー先生の娘さんが主演の自主制作映画『鬼神剣サキ』

 

――:え、めっちゃくちゃ出来よくないですか!?こんなのつくれちゃうんですね!?

巴里絵:3日間で皆手弁当でつくったから何百万もかかってはいません。まあ武器も衣装も自分たちでもってるから、できるんですよね。

――:今後もお二人は海外の公演依頼も続くでしょうけれど、どんなことをされていきたいですか?

リー:ちょうどこの10月6〜8日、ルーマニアでの西洋と東洋の伝統文化と伝統武術の国際交流フェスティバルにも招聘され、演武等披露してきました。本当に喜ばれ、大切にして頂きました。来年も招聘していただけるということで決定したようです。日本との架け橋となる事も勿論ですが、何より自分達も存分に楽しみながら永年身に付けて来たものを活かし、益々修練もしながら、その時に巻き起こる流れを大切に、様々な事に挑戦して行きたいと思っています。

それはきっと映像制作とか作品に出演するとかだけに留まらない感じがしています。【未知への挑戦】、これでしょうか。

 

会社情報

会社名
Re entertainment
設立
2021年7月
代表者
中山淳雄
直近業績
エンタメ社会学者の中山淳雄氏が海外&事業家&研究者として追求してきた経験をもとに“エンターテイメントの再現性追求”を支援するコンサルティング事業を展開している。
上場区分
未上場
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