【連載】声優ユニットP・劇団運営からプロレス団体社長に抜擢されたMr. イベント屋-岡田太郎…中山淳雄の「推しもオタクもグローバル」第95回
2023年11月にブシロード社はそのプロレス事業の大きな体制変更を発表した。元新日本プロレスの社長も歴任した原田克彦氏に代わり、ブシロード社の若干36歳の岡田太郎氏を新社長に昇格。同時に新日本プロレスの取締役にも任命。それと同時にSTARDOMの創業者でもあったロッシー小川氏が独立し新団体を立ち上げ、5名の選手が脱退を表明した。歴史をさかのぼればプロレスの歴史とはこういうものだったと思うようなムーブだが、2012年に新日本プロレスのグループ入り以降は比較的安定成長を牽引してきたブシロードとしては急激にダイナミックな体制変更となった。今回はそうした改革の根本にあった事業を、現STARDOM社長の岡田太郎氏にインタビューを行った
【目次】
■危機に瀕した超成長企業STARDOM、2023年末の大改革で36歳を社長抜擢
■徹夜の試験勉強中に、新日本・WWEからプロレスにハマっていく
■プロレス研究会所属の大学時代。イベント屋としてのデビュー経験
■2年のイベント屋経験をもとにブシロード入社。肩書問わずお客さんの前にプロとして立つ覚悟
■大プロジェクトの失敗でキャリアの暗黒期。救ってくれたのはミルキイホームズの仲間
■10年ごしで悲願のプロレス事業へ。「外様」としてプロレスを海外に羽ばたかせる
■危機に瀕した超成長企業STARDOM、2023年末の大改革で36歳を社長抜擢
――:自己紹介からお願いいたします。
ブシロードの岡田太郎です。現在は女子プロレス団体STARDOM(株式会社ブシロードファイト)の代表取締役と、新日本プロレスリング株式会社の取締役をしております。
――:すごい人事でしたね!まさかブシロードの30代中堅社員が女子プロレス団体の社長に、新日本プロレスの役員に、というのはビックリしました。
そうですね、もともと僕は2013年にブシロードグループに入社したときから、プロレス事業をやりたいと希望していたので10年越しの夢が2023年11月の大きな体制変更によってようやく叶った形でした。
――:STARDOMは2019年末にブシロードが買収してから非常に好調に見えました。何か体制を大きく変更しないといけないような状態だったのでしょうか?
成長痛だったと思います。2020年2億円から2023年15億円と売上は7.5倍に成長していたのに、社員としてはそれほど増えずに20名体制。社内組織も混乱していましたし、選手の方々にもだいぶ無理を強いていました。早く手をいれたほうがいい、という予兆は2023年夏ごろにはすでに耳にしておりました。
出典:SPEEDA、IR、ケーススタディ「新日本プロレスの挑戦」などから著者作成
――:予兆というのはどういうものでしょう?
2023年4月に横浜アリーナで5,539 名を動員し、過去最大の動員数を記録していました。その時点では選手も社内もすごく無理してなんとかそこまで持ち上げたんですが、翌期に入ってさらにハイアップな目標を立ててしまっていた。そこで選手の欠場や運営のミスなども出始めて、お客様の不満も出てくるようになっていました。
年間120試合を約40名弱の所属選手と、20名のスタッフでまわしているわけですからね。筋肉ができていないのに、とにかく運動量だけを倍々で増やすようになっていて、業務過多で選手も休場がでていても無理に試合を組んで内容への満足度を損なったり、経験値の浅いスタッフでまわしていたことでお客様への対応も雑なものになっていたのではないかと感じます。
――:数字はすごかったようにも認識しています。特に2023年からはSNS戦略がかなりうまくいっていて、公式YouTubeはフォロワー数40万人から120万人、月間の視聴再生数も1.2億回を記録しています。
デジタルマーケティングがうまくいっていて、もともと団体旗揚げの2020年から徐々に伸ばし、この1年間が2023年春のフワちゃん出場などもあり一番数字もあがっていました。ショート動画への転換が急激に視聴を集めるようになっていましたね。ただ、だからこそ視聴としても来場者としてもどんどん増えたタイミングで、体制の不備が如実に出てしまった。
顕在化したのが2023年11月5日の牛久大会でした。会場を借りている時間を認識間違いしてしまっていて、試合開始時間を遅らせてのスタートになったんです。そのアナウンスも前日に、そして明確な謝罪もなく、という形でした。
出典)Social Insightより著者作成
――:確かにあれは事故でしたね。社長交代のジャッジもあのタイミングだったのかと察します。
その直後体制の変更が必要ということで翌週木谷社長からも連絡がきて、「岡田、12月からスターダムの社長ね。20日(11月)にはリリース出すから」と通知がありました。11月18日の大阪大会では選手に体制変更の発表をし、11月20日に会社としての正式発表となっています。
――:相変わらずのスピードですね。では岡田さんとしては10~11月の1カ月の間に想像もしていないダイナミックな変化に直面したということですね。
それでも半年前から予兆あったことに、手当てが遅かったんじゃないかと木谷社長的には感じているんじゃないかと思います。2023年12月はブシロードグループに参画してずっと好調できていたスターダムが初めての単月赤字となりました。もうこの体制のまま成長曲線を目指すだけだと、お客様はついてこない、ということが数字としても明らかになるタイミングでした。
■徹夜の試験勉強中に、新日本・WWEからプロレスにハマっていく
――:岡田さんは生まれ育ちのなかでいつごろからプロレスに触れたんですか?
1987年の神奈川生まれでずっと野球少年でした。土曜日に新日のG1 CLIMAXが生放送でやっていたのが最初に見始めたところですね。
――:そうか、1990年代ってテレビ朝日の『ワールドプロレスリング』が深夜帯に移って(1994年)、普通の子供たちが見る手段がほとんどなくなっていった時代かと思ってました。
意外に見ることができたんですよね。ちょうどK-1や総合格闘技が盛り上がってきたタイミングで、キックも総合もプロレスも面白いな!と思ってみていた記憶があります。ただ中学入って試験勉強の合間合間で深夜に一人でプロレス観るようになってハマっていきました。
――:中学受験していたんですね。確か岡田さん、いい学校入ってましたよね!
麻布中学・高校です。教育熱心な家庭という感じでもなかったんですが、父を早めに亡くしていたので母親に楽させたいという気持ちもあって、受験勉強頑張ってましたよ。人生で一番勉強していた時期かもしれません笑。
その時に『ワールドプロレスリング』と、あとはテレビ東京でやっていた『WWE』(1992-94年独立UHF局、1998年からSKY Sports(現:J Sports)で放映。2001-02年はテレビ東京が深夜枠で、2003-05年にフジテレビが関東ローカル局で放映)に衝撃を受けるんですよ。なんだこれは!と。2002年のザ・ロックvsハリウッド・ハルク・ホーガンを見て、そこからは格闘技よりもプロレスにどんどんのめり込んでいきました。
――:あのころは総合VSプロレスで新日本がピークアウトしていく時期でもありましたね。
キックも総合も面白かったですけど、やっぱり僕にはプロレスが一番でしたね。総合やキックがどんどん戦略的に洗練されていく途上で、逆に防戦優位で面白くなく感じるようになっていました。その反面でスカッとさせてくれるプロレスにWWEからハマり、新日本や、その他の団体もケーブルテレビで見てました。ちょうど中学・高校時代のころで、毎週『週刊プロレス』も欠かさず読んでましたよ。
――:まわりにプロレス好きの友人はいたんですか?
少なかったです。僕が一番詳しくて、まわりは「闘魂三銃士が~」とちょっと話題にでるくらいのものでした。逆に野球部の練習が激しくなっていって、昼~夜は野球の練習、深夜は次の日に備えながら毎週のワールドプロレスリングを欠かさずに見ていました。
――:(一緒にプロジェクトでも働いてきた)中山としては岡田さんがあんまり勉強コツコツしてた姿が想像できないです笑。
いや、そうですよね。でもホント進学校なのに野球部が厳しかったんですよ。多摩川沿いで毎日筋トレ3時間で、スクワットなんて1日300回から激しい時で1000回とかしてましたからね。その野球で鍛えた体と、夜間に見まくっていたプロレスの結果として、大学でプロレス研究会に入ります。
――:それが岡田さんの特殊性を象徴してますよね。僕は正直初めて「大学でプロレスやってました」というメンバーに会いましたよ笑。
大学は同志社に行きました。当時はHGさんがテレビに出ていて、そこから「学生プロレス」ってものがあるのを知りました。最初にそこが受かったものだから僕は「よし受験は終わった」モードに完全に入ってしまって。それ以外は全部落ちちゃったので、縁もゆかりもなかった関西にいきました。
――:なるほど、そうした経緯で関西での大学時代になるんですね。
僕は昔っからそうなんですが、「これがやりたい」がはっきりない人間でした。色々出会ったら「よし、そこで頑張ろう!」と思ってしまって。昔から親に公務員になれと言われて育ったので、就職もまあそういうのもいいかな、と。大学も、まあ関西でもいいかな。のちにブシロードに入って出会った声優ユニットのプロデューサーも、「よし!そこで頑張ろう!」と。
そうやって流れ流れて、今ようやく自分が一番好きだったプロレスができているから、不思議なものです。
■プロレス研究会所属の大学時代。イベント屋としてのデビュー経験
――:2006年に同支社に入学されて、そもそも最初に「プロレス研究会」に入るのって相当勇気いりません?人前で裸になるわけですし、
立命館と合同でやっているんです。毎学年5-6名入って、両校で20名くらいの小さなサークルです。なにより「進学先が関西だった」というのは一個大きい要因かもしれません。誰も友達もいない場所だったから、いっちょやってみようと思って、思い切った“転職"ができたのかもしれません。
――:プロレス研究会から実際にプロになったり活躍しているものなんですか?
棚橋弘至さん(1996~99年立命館大学時代にプロレス研究会に所属・レスリング部にも参加)ですよね。まさか今一緒に隣り合わせで仕事することになりましたが、学生プロレスの星ですよ。他にレイザーラモンさん(RG、HGがプロレス研究会に所属)がいたり。小中高とずっと野球で鍛えてきたわけだから、学生のアマチュアならそれなりにできるんじゃないか?と思っちゃったんです。
でも、正直当時の大学プロレス研究会って「体育会系」じゃなくて「バリバリ文化系」といったほうが正しいんですよ。誰でもレスラーって名乗れちゃうし、普段練習しない人とか、ガリッガリのレスラーもいたりしました。いらっしゃった先輩方もいろんな方がいました。
――:確かに学生プロレスみると・・・パフォーマンス集団的なノリがありますよね。
部室にいくとアニメやゲームなどオタク系のモノばかりが転がっていて、僕もあえなく影響を受けて、大学時代はプロレス+アニメ漬けですよ。「涼宮ハルヒの憂鬱」「らきすた」「マクロスF」「けいおん」とか。
大学生らしい青春とは無縁ですよ。「彼女つくるなら破門」と真顔でいわれる世界ですからね笑。1年目の合宿で「みなさん彼女いるんですか!?」とワクワクで聞いたら、次の日から飯に呼んでもらえなくなるような、「ダメ文化系」雰囲気あるサークルでもありました笑。留年率も3割くらいでかなり高くて。僕がストレートに卒業できたのは奇跡だったかもしれません。
――:逆に身体的な面を除いて、プロレス研究会でしか学べないことってあったんですか?
実はイベントづくりはかなり勉強になりましたね。自分達で対戦カードを決めて音響演出を考えて、その数時間を観客が注目してくれる内容を手作りで詰めていくわけですからね。パンフレットやHPを作って、当時はまだ黎明期のSNSや動画配信サイトなんかも利用して。しかも自分がパフォーマンスを行うタレントでもある。マイクで司会や取り回しも行う。そういう意味では現在の仕事につながる予行演習はこの大学のプロレス研究会に原点がありますね。
■2年のイベント屋経験をもとにブシロード入社。肩書問わずお客さんの前にプロとして立つ覚悟
――:2010年に大学卒業後に最初はアニメイトに就職されます。これはどういう観点で選ばれたんですか?
最初は電鉄系に就職したかったんですよ。不動産ディベロッパーをやり、グループ会社に広告もあるし、色々なことができる上に安定もしている。だから東急・小田急・西武・東武といった社会インフラ系的な会社や銀行などを受けながら、同時にオタクでもあったので玩具会社なども受けている中のエンタメ1社がアニメイトでした。
いまや新卒の人気ランキングトップ100にも入るような企業になってますよね。最初に配属されたのがムービックプロモートサービスで、着ぐるみショーやプラレール博を開催する会社でした。そこからアニメイトに異動になって、店舗のリリースイベントやライブの物販などをやってました。ここらへんは大学時代の延長で本当に「イベント屋」という感じですが、1年半で辞めています。
――:2013年にブシロード入るまでは結構転々としてましたよね。
アニメイト辞めてちょっと遊んでから、プロレス・格闘技の映像制作会社に入ったけどすぐ辞めてしまって。次はファンクラブ運営の会社に入ってビジュアル系バンドやアニメ・スポーツ系のファンクラブ運営をしたり。この間に、ちょっとした映像編集とかイベント設営、座席の組み方とか、やっぱり「イベントを作ること」を専門でやっていた感じですね。
――:そうした中でブシロードはどうやって入ろうと思ったんですか?
はじめの転職の際に1回書類で落ちたんですよ。でも2012年10月20日の両国国技館の大会で(2012年に4月に新日本プロレスの株式をユークスから買収したばかりの)木谷さんが会場前で1人カードのプロモーション行っているのをみて「やっぱり木谷さんは面白いな。木谷さんのもとで働いてみたいな」と。
当時のブシロードはトレーディングカード中心の会社ではありましたが、アニメもあるしプロレスもあるし、色んなイベントもやっていたから、どう転んでも面白いことができそうだと思ったんです。2回目にもう一度履歴書を送ったら、どういうわけかその時はあっさりと内定になって、2013年1月に入社しました。契約社員からのスタートでしたが。
――:なるほど!そんな出会いだったんですね。当時のブシロードはどのくらいのサイズでした?
(現在は600名近くになる)ブシロードも当時は100人いないくらいだったと思います。響ミュージック配属で、響ラジオステーション、そこの配属になりました。大学卒業後3年弱の経験しかなかったので、実質第二新卒ですね。ラジオのアシスタントプロデューサーから始まって、2013年4月からブシロードメディアを立ち上げるぞ!というタイミングですね・・・上司が消えるんです。
――:ホント人事異動と抜擢こそがブシロード文化みたいなところありますよね。
先輩が休職するというので、3か月目にしてラジオのチーフディレクターですよ。他のメンバー3人(後輩)もほぼ僕と変わらない経験値でした。入社3カ月の契約社員が責任者のプロジェクトってどうなのよ、と「今日はなんて日だ!」と思ったんですが。その後10年のなかで「今日はなんて日だ!」を経験したのは5回、6回じゃきかないかもしれませんね笑。
――:非常によく分かります笑。『探偵オペラ ミルキィホームズ』とはどこで関わるんですか?
2013年6月で最初のミルキィのライブツアーがあったところでファンクラブスタッフとしてアサインされます。そこから入社後最初の大仕事が、14年4月のブシロード7周年ライブです。13年の秋に指名されたんですが、横浜アリーナを貸し切って、1万人席の会場でμ's(ミューズ、『ラブライブ!』に登場する女性9名の第一組目のユニット)もミルキィもいれたライブをやることになったんです。「岡田はライブをつくれ!」という話になり、コレもまた「なんて日だ!」ですよね。
もう未経験すぎて、高すぎる予算表だしたらその場で木谷社長にもめっちゃくちゃ怒られて。「入社1年未満の契約社員で、こんなに怒られることある!?」って衝撃を受けました。
※『探偵オペラ ミルキィホームズ』:2010年12月にPlayStationPortableのアドベンチャーゲームソフトからはじまったメディアミックスプロジェクトでマンガ・小説・ブラウザゲーム・カードゲーム・アプリゲームなど多くの派生作品を生んだ。2010年から統括プロデューサーを務めた中村伸行氏が2016年1月に引退(その後コロプラに転職)したのを機に、第二代目統括Pとして岡田太郎氏が就任し、2019年1月にプロジェクト休止となる。
――:まあある意味、異動と抜擢のなかで全員プロとして求められる会社ですからね。全員が背伸びで、せいいっぱいやってる感じはありますよね。
もう激動の1年でしたね。2014年1月に前任ののぶちゃんP(中村伸行)がアプリゲーム(『トイズドライブ』2014年12月リリース~16年5月サービス終了)に集中していくからライブまわりは全部岡田がみて、と言われて。そこでミルキィのライブPとしての仕事が始まります。
試合にでるなら年次って関係ないですよね。お客さんの前にたったら、全員が1選手だから。まだ半年だからとか、契約社員だから、とか思っていたら、もう一生その立場からあがれないぞ、と、当時の自分にも、今の若手にも伝えたいですね。
■大プロジェクトの失敗でキャリアの暗黒期。救ってくれたのはミルキイホームズの仲間
――:2013年1月ブシロード入社、2014年頭にはミルキィのライブP、それがコンテンツ全体の統括Pになるのはいつごろですか?
完全に統括Pになったのは2016年1月からです。激動の2013年を経て、覚悟がきまった2014年、そして2015年は激しくすぎゆくばかりでした。ミルキィも武道館ライブ(2012年12月)から、アニメ(1期:2010年10-12月、2期:2012年1-3月、3期:2013年7-9月、4期:2015年1-3月)やったり、ゲームもどんどん出ていくし、とにかく新しいことばかりで目まぐるしかったです。
――:岡田さんはどうやって声優ユニットのP(プロデューサー)を覚えていくんですか?先輩もいない、経験もない中で、どうやって学ぶんですか?
僕には3人のメンターがいたんです。自分でかってに思っているだけですが…『アイドルマスターの石原D、『ラブライブ!』の木皿P、そして『ミルキィホームズ』ののぶちゃんP。この3人と近しくさせていただいて、どうやってタレントさんにも積極的に関わってもらい一緒にコンテンツを盛り上げていくのか。支えてくれるファンとはどんな付き合い方をするのか。日本でメディアミックスといったらこの3タイトルでしょ!という時代でした。その3人と一緒に仕事をできたのは本当に財産ですね。
でも今振り返ると、当時の僕は「イベント屋」から一歩も脱していなかった
――:それはどういう意味ですか?
その後中山さんともご一緒したプロジェクトで感じられたかもしれませんが、僕には「プロデューサー視点」がなかったんです。お客さんのためにいいものをつくりたいというディレクター目線のままで、目の前の勘定はするんですけど、全体の収支計算したりプロジェクトを成り立たせるための動きとかそうした点が足りていなかったと思います。
――:まあ年次としては仕方ない気もしますけどね・・・この時代プロレスとはかかわりあったんですか?
毎年の人事面談(木谷社長が全社員と1on1で面談を行う)は毎年の年頭所感のように「今年こそはプロレス事業できませんか?」と社長と面談では言ってました。「ま、落ち着いたらね」というやりとりを何度も何度も繰り返してましたね。ただイベントもアニメもゲームも面白かったので、自分としては今後もそこで落ち着いちゃうんだろうなという感じもしていました。
――:僕はよく聞いてましたが、この2017年くらいが岡田さんのキャリアの暗黒期だったと聞きます。
2017年4月ですね。ブシロード7周年ライブの経験があったので、ブシロード10周年ライブの統括責任者になります。これが本当に大変でした。僕の全体俯瞰の弱さがモロに出てしまった。
ちょうど中山さんもシンガポールで入社されたタイミングですよね。バンドリが大成功していたブシロードで、なんとかミルキィをもりたてたいとプロデューサー稼業をしながら、同時にブシロードの全コンテンツをまとめていかないといけなかった。
――:かなり無茶なスケジュールでやっていたイベントですよね。
そうなんです。ギリギリでの予定を詰めながら、横浜アリーナはたった1日(24時間)しかとれなかった。1万人規模のイベントなのに、当日設営、当日リハーサル、当日バラシですよ。
――:いや、あれは聞いたことないレベルのイベントスケジュールでしたよね。しかもサイズも大きいですからね。
しかもそれを外部のキャストさんもいっぱいいるなかでコントロールしないといけなかった。「ミルキィ」も「ラブライブ!」も「バンドリ!」もあるなかで、キャストだけでも50人以上がわちゃわちゃになってリハーサルしないといけなかった。午前中(というか当日深夜から)設営をしながらリハしていって、大きいライブに慣れていないユニットはどんどん時間も押すし、それでどんどん後ろ倒し、開場時間も遅らせるような事態になりました。とにかくカオスのなかで統括をしていた僕の携帯は数分単位で鳴りっぱなしでした。
――:木谷さんも当時まだシンガポール在住でしたからね。。。
外部向けにはなんとか体裁を保つ形でしたけど、明らかにキャパオーバーな僕が1人大混乱しながらまわりに迷惑をかけまくって、いろんな粗も多かった。
「盛大にやらかした」ことで僕のキャリアはどん底です。社内の評判もその後がた落ちで、その後は所属もいくつか転々としながら、何をやってもうまくいかなかったんです。いまだから言いますけど、転職活動もやってました笑。もうブシロードでやれることはない、と感じましたね。
――:よく逃げ出さずに続けましたね。
ミルキィなんです。実は統括Pももう岡田に任せられんというので半分外れた形でした。でも失意のどん底の僕に最初に声をかけてくれたのが橘田いずみさんでした。そして三森すずこさん、徳井青空さん、佐々木未来さんも加わって、ミルキィのキャスト4人が「岡田、なんとか武道館実現させてよ」と声をかけてくれたんです。
会社としては「バンドリ!」が稼ぎ頭になって、『レヴュースタァライト』や『D4DJ』といった新しいメディアミックスプロジェクトが次々に立ち上がっていく。そうした中でミルキィのファイナルライブは最初は小さめの場所で終幕するような構想もあったんです。でもそれじゃダメだ、4人の最後こそ華やかなところでやりたい!と、4人に押される形というか、もう4人に花道飾ったらそれで退社しよう!という気持ちで奮起しました。「ミルキィに花道をつくる」が最後会社と僕をつなぐ唯一の線だったんです。
――:なるほど、それが2019年1月の「ミルキィホームズ ファイナルライブ Q.E.D.」(日本武道館)ですね。
はい、2017年半ばからは本当に毎日会社にいくのも鬱屈とした気持ちになるくらい地獄の1年半でしたけど、もうあの「卒業コンサート」というプロジェクト1つだけが僕の気持ちを繋ぎとめてくれてました。木谷社長も「まあ、これをやるのはお前しかいないよな」という感じで、だんだんそのライブの仕切りは僕の仕事になってきました。
無事やりきったときに、木谷社長が皆の前で「いいライブだった!」という一言があって、関係者のみなさんも声をかけてくれて。その瞬間、それまでの1年半が全部報われたような気持ちでした。本当に途中で辞めなくてよかった。当時のブシロードの中ではもう大きな収益をもたらすようなビックプロジェクトではなくなっていましたが、僕はあの記憶は一生忘れないと思います。
――:その後風向きは変わってきたんですか?
周りも「お前根性あるじゃん」と言ってくれるようになって。ただこうした経験のなかで「単なるイベント屋じゃだめだ」と思うようになって、一皮むけたプロジェクトを経験しました。中山さんのプロジェクトですよ!
――:おお!ここで『アサルトリリィ』になるわけですね。
TBSさんとシャフトさんとポケラボさん、マルイさんも入った大規模なメディアミックスプロジェクトで、中山さんがエグゼクティブP、僕がプロデューサーとして入りました。しかもその主たるコンテンツはアニメやゲームに並んで、僕自身がキャリアの原体験にもなっていた「舞台」です。コロナの真っ最中でのアニメ放映が延期になったり、舞台の実施も恐る恐る、それをブリリアホールで5000人以上動員の興行を実現して。
――:あれは本当に大変でしたよね。イレギュラーなことばかりをとにかく力業で乗り切りました。あのプロジェクトはそれまでのものとは違っていたんですか?
収益面とか利害関係とか、交渉ってこうやってやってプロジェクトのお金を動かしていくんだ、という「プロデューサー業務」を学んでいったんです。それはそれまで自分がやってきたディレクター的な業務とはずいぶん違いました。アニメはまだ経験していましたが、アプリゲームなんて僕には初めてでしたからね。
――:たしかにそのあとぽんぽんと出世してきましたよね。
いやいや…22年にブシロードミュージックの副部長になり、実際にプロレスにかかわりだしたのは2022年にその立場で入場曲の制作などをやり始めたところからです。22年7月に劇団飛行船の取締役になり、23年5月に社長になって舞台演劇の世界に入っていきます。この時に会社に花を贈ってくれたのがムービックプロモートサービス、新卒で僕がいた会社ですよ!
――:なんと!それはうれしいですねーーー
他にもブシロードに来る前、ブシロード入社してすぐにご挨拶した人とも一緒に仕事をすることも増えてきました。
■10年ごしで悲願のプロレス事業へ。「外様」としてプロレスを海外に羽ばたかせる
――:実際にスターダム社長をやってみていかがですか?
2023年11月中旬に発表してから現在まで(2023年3月末インタビュー時点)、実質休めた日は数えるほどもなかったです。土日も大会はありますし、最近は海外出張なども増えてきて・・・なかなか大変です。
――:米国2位のプロレス団体AEWのオーナーであるトニー・カーン氏とも写真撮ってましたね!?ちょっとあれはびっくりでした。
今のスターダムにとって海外展開はかなり大きい機会ですからね。YouTubeチャンネルも海外比率高いんですよ。10%くらいインドからの視聴者だったり。今年の4月もアメリカでスターダムメインの大会を開催しましたし、海外の団体とアライアンスを結んで選手自体が海外に挑戦する機会やSTARDOM自身も共同事業で海外公演をやったりといった機会を探っています。
――:じゃあ今後も海外展開は積極化されるんですね。あっちからみて日本のプロレスって需要はあるんですかね?
全然ありますよ!今もSTARDOMの動画配信「STARDOM WORLD」海外からの視聴者も多く、ほとんど海外向けにローカライズされていない状態でも日本の女子プロをみたいというファンは多いんです。
それに米国という世界随一の巨大なプロレス業界にとって「日本」ってずっと謎めいたブランドがあった国なんです。日本で修行して戻ってきたらスターになっていくような“日本の道場"が一つのブランドになっているくらい。そのくらい日本のプロレスは試合の質もファンの期待値も高い市場なんです。GDPだけの競争では負けている日本も、急成長している米国市場とともに大きくなれるポジションはあります。
――:そもそもプロレス団体の社長、というポジションはこれまで声優ユニットPや演劇団体社長などもやってきた岡田さんにとってはどうなんですか?
まさに「総決算」で、これまでたどったすべての総合力を試されている気がします。学生時代から好きだったプロレス、それをイベント屋としては最高峰ともいえる団体の運営責任をもち、声優ユニットPのときのようにレスラーではありますが女性タレントと同じようにどう信頼関係を築いていくのか、劇団をやってきたときのようにスタッフのモチベーションをマネジメントしながらやれるか、メディアミックスプロジェクトでの複数ビジネスを重ねてどう収支のバランスをとっていくか。とにかくなんでもやらなきゃいけなくて、これまで1つ1つこなしてきたことが一気にきた感じがします。
――:STARDOMは選手の脱退などもあったり、先ほどの単月赤字もありますし、あまり楽観視していられる状況でもないんですよね?
はい5名の選手が脱退しました。それでも残っているレスラーの皆さんは、STARDOMを今以上に盛り上げてくれます。まずは今の売り上げを横ばいでも維持しながら利益を確保し、選手にとってよりよい環境を整えることが2024年は先決だと思っています。だから2024年はいままでのように売上増を目標にしてないです。「その中身を整え、体質を変えながら、次の飛躍の準備をする」1年だと思っています。
――:ブシロードは2012年の新日本プロレス、2019年末のスターダムのグループ入りでプロレス文化を広げていった会社です。いまは分岐点かもしれませんが、岡田さんはプロレスの未来をどうみていますか?
あえて今のポジションだからの発言ではありますが、正直いまのままでは限界がある、と感じてます。新しい変化に対して村社会性がもともと強かった業界で、外に対する感度は必ずしも高いとはいえないです。今でも「昭和の黄金時代すごさ本当にわかってる?」みたいなマニアのマウントが横行している業界です。とにかく「外から入ること」「外にでていくこと」に対してほかの業界よりも保守的であると感じています。
そうした中で、自分はアニメやゲームといった業界がどう外と連携して市場を大きくしてきたか経験させてもらった人間です。そうした経験をもって、アニメなどの文化がここまで伸びたようにプロレスも伸ばしていきたいと思ってます。
この夏にはスターダムが新日本プロレスの子会社となります。(6月28日付での株式譲渡が4月に発表された)新日本に近づいていく、いわゆる新日本化というよりは、新日本プロレスとスターダム、両方のブランドをしっかりと確立することが第一。そのうえで経営を効率化してより高い数字を達成し、日本のプロレス業界全体を盛り上げていけるようにしていきたいです。
会社情報
- 会社名
- 株式会社ブシロード
- 設立
- 2007年5月
- 代表者
- 代表取締役社長 木谷 高明
- 決算期
- 6月
- 直近業績
- 売上高462億6200万円、営業利益8億8200万円、経常利益18億9800万円、最終利益8億400万円(2024年6月期)
- 上場区分
- 東証グロース
- 証券コード
- 7803
会社情報
- 会社名
- Re entertainment
- 設立
- 2021年7月
- 代表者
- 中山淳雄
- 直近業績
- エンタメ社会学者の中山淳雄氏が海外&事業家&研究者として追求してきた経験をもとに“エンターテイメントの再現性追求”を支援するコンサルティング事業を展開している。
- 上場区分
- 未上場