【連載】調停力はユダヤ仕込み。アオアシ取材原案協力とスポーツマーケをこなすブロックチェーン界の起業家-上野直彦 中山淳雄の「推しもオタクもグローバル」第96回

中山淳雄 エンタメ社会学者&Re entertainment社長
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上野直彦氏はとらえどころがない。スポーツライターのはずが、人材ハンティングからクラブマーケティングをこなし、ブロックチェーン業界とスポーツ界をトークンエコノミーでつなぎながら、トヨタのような大企業のWeb3事業も牽引する。誰の薫陶を受けたのかと問えば、マンガ原作の大家の小池一夫と日本ロケット開発の父糸川英夫と答え、聞けば90年代プレミアリーグ創設期に英仏でクラブにインタビューをしまくっていた過去とイスラエルでユダヤの学びにどっぷり使っていた時期もある。『アオアシ』原案をつくりあげた切り口を聞こうかと始まったインタビューは作家・投資家・起業家としての過去と「調停者」としての気概へと思わぬ方向へ深まっていった・・・

  

   

■小池一夫劇画塾の卒業生、なでしこ取材から『アオアシ』受賞に至るまで

――:自己紹介からお願いいたします。

上野直彦と申します。スポーツライターで、『アオアシ』の取材・原案協力(第1〜17巻)をさせていただきましたが、メインの仕事としてはブロックチェーン事業で、自分の会社を興しながらトヨタのブロックチェーン事業も推進しております。並行してサイバーエージェントはじめ7-8社の顧問やアドバイザーをしたり、九州産業大学の教授として教育にも携わっております。

――:上野さんのご経歴が多様すぎて、いきなり困惑しております笑。スポーツライター経験から『アオアシ』の原案作り、までは理解できるのですが、そこからトヨタのブロックチェーン事業と大学教授という職業が全く結びつかない。

わかりづらいですよね笑。僕の仕事はシンプルに言うと「メディア・コンテンツ制作(マンガ原作等)」3割、「スポーツマーケティング」3割、「ブロックチェーン」3割なんです。最初はYahoo!のスポーツビジネスのライターなどをやっていたんですが、どんどん転がってこんな形になりました。

――:いや、でも逆に僕には合点がいくんですよ。『アオアシ』っていやに「組織の金言」みたいのが多いじゃないですか。経営者に『アオアシ』ファンものすごく多くて、普通に出版界で育っただけの視点じゃないなとは思ってました。

経営者ウケがいいマンガでよく出てくるのは『アオアシ』と『キングダム』ですよね。葦人がサイドバックにコンバートされた回が一番取り上げられますが、あれなんかまさしく組織を生かすために本人の目先の志向を変えさせて、最終的には本人にも一番向いている配属を決めるとか会社にありそうな話です。

なによりアオアシは基本的に“指導者の物語"なので福田達也の視点もそのままマネジメントですよね。『キングダム』は百人長、千人長、とわかりやすい出世とマネジメントのストーリーですよね。どちらも「才能を開発する」という社員育成や企業成長の話によく似ています。

 

 

――:上野さんはどうやってマンガの原作者になったんですか?

サラリーマン時代から脚本とか原作を書けるようになりたいなと思ってシナリオ学校に学びにいったんですよ。そしたら横で漫画原作講座もやっていて、トイレで講師をしていた小池一夫さん※とばったり会ったんです。突然横に来て、「おう、やっぱりお前らと会うと懐かしいなあ!」と言われて。たぶん人違いですよねと言ったら、君名前は?と言われてそこから仲良くなってご自宅まで通って個人指導を頂いてました。

――:え、あの劇画村塾の小池一夫さんですよね!?

そうなんですよ。もう正式な塾は開いてなくて。高橋留美子さんとか板垣恵介さんとかを生んだ伝説の塾だったので、僕も願ったりかなったりで個人指導してもらえたことが本当に大きかったです。兄弟子に鍋島雅治(『東京地検特捜部長・鬼島平八郎』の原作者)などもいて、土日を使ってキャラクターの立て方とかマンガ原作の書き方を毎回ご自宅まで勉強しに通っていました。

※小池一夫(1936-2019):『子連れ狼』『ゴルゴ13』などに関わったマンガ原作者で梶原一騎と並んで1970-80年代の漫画ブームを牽引。1977~88年で「劇画村塾」を開き、卒業生に高橋留美子、さくまあきら、原哲夫、堀井雄二、板垣恵介などクリエイターを多く育てた伝説の漫画塾。2000年代に入って何度か断続的に開かれていた。

――:いやー、伝説の原作者ですよ。梶原一騎さんとかともつながってるんですかね?

もちろん。もう顔もコワモテだから、出版社のパーティとかでいくと小池一夫さんのところに、梶原一騎さんが「オウ、オジキ!」って寄ってきて抱き合うような仲だったみたいですよ。同い年でしたしね、お二人とも。

――:しかし“トイレで間違えられた"だけなのに原作者としてはものすごいエリートコースにのっかりましたね。でも実際習うのと実践は違いますよね。どうやって最初の漫画を作ることになったんですか?

のちになでしこジャパンに入る川澄奈穂美選手ですが、彼女が日本体育大学4年生のときの2006年の試合ですでに見ていたんです。その時に何かすごく心にひっかかっていて。よくあるじゃないですか、「このアイドルや芸人さん、実はめっちゃ売れるんじゃないか?」みたいな。

それから川澄選手をずっと追いかけて周辺取材をするようになっていたんですが、なでしこが2011年ドイツワールドカップで優勝となったときに彼女の活躍を見ていた小学館の担当者から突然連絡があったんですよね。「一番詳しい方ですよね?マンガにしてくれませんか?」と。そこでプロットもある程度できていたので、すぐに完成して、『なでしこのキセキ川澄奈穂美物語』として発売されました。

それなりにヒットした作品だったんですが、そこで出来た縁から『ビックコミックスピリッツ』の副編集長さんから(『ブラックジャックによろしく』の佐藤秀峰さんを発掘した凄い人!)「Jユースの漫画をやりたい」と連絡を頂いたんです。

――:どうしてそのお話を受けようと思ったんですか?

もともとトップチームも日本代表も好きなんですが、2013年ごろにブラジル・ワールドカップ最終予選に向けて取材していて日本のサッカーにさらなる成長には育成が重要だと思ったんです。「日本代表はこのままでいいのか?」と行き詰まりや閉塞感も感じていて。

ただ15-17歳くらいの舞台の漫画ってほとんどが高校サッカーなんです。それで人真似はしたくないし、ユースだったら今までと全然違うものができるんじゃないかと乗らせてもらった感じです。

小林有吾先生のアイデアでマンガとして人気を出すなら試合の話が半分、オフピッチ(日常生活)の話が半分。そこに恋愛要素もいれて・・・という具合で完成したのが『アオアシ』です。小林先生はFC愛媛のファンでサッカーは大好き。一度進んでいた中で色々あってこの話を降りていたらしいです。でも「サッカーに詳しい人をつけるから」ということで副編集長の説得もあり、一緒にサッカー作品を作りましょうとなりました。その後は小林さんと僕と集長の3人で作っていった形になりますが、あくまで漫画は漫画家のもの、「アオアシ」は小林先生のものです。僕が担当したのは1~17巻(2019年6月)まで、「取材原案協力」になっていると思います。

――:あれだけのユース情報を取るのは大変だったかと思います。今、僕もちょうどスペインのバルサユースとの闘いを連載で読んでますが、あそこまでの構想は最初からあったのでしょうか?

3年半取材に費やしました。2015年連載前の2014年から某ユースにはりついて取材をしていて、14~17年くらいは毎週の連載をしながら原案やネタを考えていました。ここまでのラ・リーガにくるところまで、連載が続くとは思っていませんでした笑。僕は1998

年のトヨタカップで、レアル・マドリーの試合を生でも観てからずっとラ・リーガ(スペインリーグ)オタクです(笑)

――:アオアシは2017年マンガ大賞4位、2020年第65回小学館漫画賞と数々の受賞をし、2024年1月時点で累計2000万部を突破する大ヒット作となりました。ここまで有名になると逆に「実際と違う」みたいなことも言われたりするんですか?

厳密にやろうとすると確かに齟齬は色々出てきます。葦人たちが1巻でユースに入るときに「コントロール・オリエンタード(Control Orientado:ボールを自分のコントロールしやすいところにトラップする)」があるじゃないですか?あれはスペインだと10歳未満の子供の段階でやる練習なんですよね。高校生のユースでは、もうできていないといけない。そういった齟齬は専門家から言わせると「間違ってる!」とよく指摘を受けましたが、あれはあくまで葦人の成長物語を描く漫画です。ある意味そういったものには目をつむらないと物語として面白くないと思いました。

――:以前樹林伸さんにもお話聞く機会ありました。『シュート!』のときも女性作家だった大島司さんはサッカーやったことなくて原作者として色々教えながらお話の展開を考えていったと。

おおー僕は今でもナンバーワンのサッカー漫画が『シュート!』なんですよ。一番感銘を受けたサッカー漫画かもしれません。樹林さんとは一度対談の機会を頂きました。KAYACの柳澤大輔さんがモデレーターで、樹林伸さんとけんすうさん、コミックス・ウェーブ・フィルムの川口典孝さんと僕との回で、大変盛り上がりました。

――:原作者同士でもよくつながっていらっしゃるんですか?

同じサッカー漫画では皆つながってますよ。綱本将也先生(『U-31』『GIANT KILLING』原作者)とも大武ユキ先生(『フットボールネーション』漫画家)とも仲良しで、よくやり取りします。

  

■プレミアリーグ発足時にイギリスで取材、海外から戻って驚いた日本のサッカーメディア

――:そもそも上野さんはどんな子供時代だったのですか?サッカーは昔からやっていたんですか?

1965年姫路生まれで、サッカーは小3で始めました。1974年W杯で優勝したドイツ代表のゲルト・ミューラーに憧れていました。中学校の時にサッカーサークルを自分で立ち上げたりしてましたね。4つの中学にあったクラブをまとめて1つのチームにしてしまって、結構強かったので神戸の新聞で取り上げられたりもしていました。

でも一度在日朝鮮の学校にボッコボコにやられるんですよ。11-1とかで。彼らは当時からショートパスも多用していて、いろいろ聞いたり調べたりしながら、朝鮮が東欧ルートからサッカーコーチが入っている地域だということも分かりました。チェコの指導者だと聞いています。そういったことを子供なりに研究して「だから日本は北朝鮮に勝てないのか…」と当時の環境を嘆いたりしているような子供だったことが、のちのスポーツライターの仕事につながったのかなと思う時もあります。

――:めっちゃくちゃ早熟ですね!当時から自分で何か作ったり、調べたりするのが得意だったんですね。高校もサッカーですか?

高校は柔道でした笑。一応黒帯までいきました。基本、相撲でもプロレスでも格闘技大好きです。だからずっとサッカーというわけでもないんですが、見る側としては興味があったんです。しかも、それは国内というより欧州サッカー。『三菱ダイヤモンド・サッカー』(1968-88放送のサッカー情報番組)じゃなくて確かNHKの深夜に『世界のサッカー』?のようなタイトルの番組があったように思います。ゲルト・ミュラー(1945-2021, バイエルン通算515ゴールで歴代最多)とかヨハン・クライフ(1947-2016、ペレ、マラドーナと並ぶ最高選手と評される)を紹介した番組にはりついてましたね。

実は高校2年の途中からしばらく学校いってなかったんですよ。歴史が好きで色々自分で本読んでたらもう授業で覚えることがなくなっちゃって。試験でもフランクリン・ルーズベルトのセカンドネームまで書いてたりしました。その年号に何の意味があるんだ!といちいち反発しているうちに、学校いかなくなってしまいました。

――:なんか天才型ですね・・・

いやいや、全然そんなことはないです・・・。結局普通に進学し、普通に就職しました。そこで5年間働いた後に、友人のツテをたどってふらりと世界を放浪しようとおもって1991年にイギリスに遊びにいったことが最初のスポーツライターの仕事のきっかけです。

――:というのは?

1992年、ちょうどプレミアリーグができた時じゃないですか。現地にいて取材ができる状態にあって、日本のメディアも興味深々だった。某有名スポーツ媒体からの依頼を受けてそこで友人がロンドンエリアなど、僕がマージーサイドと担当をわけて、黎明期のイギリスのプレミアリーグのサッカークラブを方々を取材してまわったんですよ。今と全然違って当時はまだまだスタジオも荒れ放題で、インタビューにいってもすぐにリバプールの広報宣伝部長が出てくるような牧歌的な時代でした。そういったところから放映権でバンバン商売ができるようになって各クラブがビジネス化していくプロセスを目の前で見てきた経験は貴重でしたし、僕のスポーツライターとしての視点を磨いたのは1990年代のプレミアリーグなんです。これが原点です。

――:日本にはどのくらいの期間で帰ってくるんですか?

その後に同じ取材でフランスにも滞在したあと、ゆかりがあったイスラエルにも滞在し、1995年になって日本に帰ってきました。日本ではJリーグも始まってましたから、その後もいろいろな媒体で記事を書かせてもらいました。北澤豪(1968-、元サッカー日本代表、現在日本サッカー協会参与)さんは今も仲良くして下さり、神戸は女子サッカーが盛んだったのでそこにも関わり始めました。

でも日本に戻ったら戻ったでガックリきてしまって。完全に「記者クラブ」の世界で、各社が同じ情報を融通しあいながら“掟"みたいなものがしっかりある世界でした。あるJクラブの番記者をした時です。昨夜のチャンピオンズリーグのGKのプレーを質問して、Jリーガーも快く答えてくれたのに、メディア関係者に呼び出されて「皆の前で、海外のサッカーの質問なんかするな!」と怒られたり。信じられないかもしれませんが、これ本当なんです。

海外にいって取材ができる記者自体が本当は希少だった時代なのに、村社会のルールを乱すような海外上がりの記者は生意気にしか見えないんでしょうね。日本のサッカーメディアの未来は正直暗いな、と・・・色々悩んだ時期でもあります。そういったなかでも小澤一郎さんや北健一郎さんとかは光ってましたけどね。

※小澤一郎(1977-)早稲田大学卒業後、サラリーマンを経て2004年にスペインにわたりバレンシアCFの練習に参加。そのブログが注目され、『スペインサッカーの神髄』『アギーレ 言葉の魔術師』などスポーツジャーナリストとしていくつも著作を執筆。
※北健一郎(1982-)「ストライカーDX」(学研)の編集者を4年勤務後に独立。2021年ウニベルサーレ創業。「なぜボランチはムダなパスを出すのか?」「サッカーはミスが9割」など著書多数。

 

■小池一夫/糸川英夫のメンターの元、イスラエル留学。世界の調停役を目指す

――:ちなみに1990年代前半、イスラエルは何をしに行ったんですか?

これを話すと長くなるんですが・・・僕には2人のメンターがいるんです。1人が小池一夫、そしてもう1人糸川英夫博士なんです。『わが家の歴史』(2010年フジテレビ)で高嶋政伸さんが演じた日本のロケット開発の父と呼ばれる人なんですけど、その人から強く勧められていたんですよね。イスラエルには一度行ってこい!日本人はユダヤ人に生き方を学べ、と。

※糸川英夫(1912~1999):日本の宇宙開発・ロケット開発の父。1935年東大工学部航空学科を卒業後、ジェットエンジンを開発していたが陸軍の命令のままに動かされることに疑問を感じて当代助教授に就任、そのまま研究者としてのキャリアを歩む。戦後はGHQの指導で日本の航空機研究が禁じられていたが、1952年渡米時に米国の宇宙ロケット計画を知り、それに追いつく第一歩としてロケット旅客機開発に着手。1955年に“ペンシルロケット"として発射試験に初成功。1956年日本ロケット協会を創立し、1967年に東大を退官し組織高額研究所を設立。著書『逆転の発想』はベストセラーとなり、日本の未来を予測した『ケースD-見えない洪水-』で小説も発表している。音楽やバレエを愛好し、60歳で貝谷バレエ團に入団していたり、破天荒なエピソードも多い。

――:糸川先生はロケット開発者で東大教授だった方ですよね?上野さんとどういう接点が?

糸川先生の本に感動して、19歳のときに手紙を送って会いに行ったんですよ。兵庫から東京まで。大変気難しい人だったんですが、直接お会いしてお話したら色々教えてくれて。

僕自身がもともと協調性に欠けているところがあって、昔から体育祭や文化祭が大の苦手だったり、集団行動が大嫌いでした。「ネクタイを締めているような大人になりたくない」とか「この人何やってるかわからないような人になりたい」と思っていたんです。糸川先生もまさにそういう一人だったんですが、自分とユダヤのつながりなども話していたら「お前、とにかくイスラエルに行ってユダヤ人を学んで来い!日本は本来、イスラエルと手を結ぶべきなんだ。日本は大国に挟まれ、むしろ調停役としての立ち回りが必要なんだ。日本はユダヤ人やイスラエルから学んで世界の調停役になるんだ」みたいなお話をされていました。

――:19歳に対して刺激が強すぎる意見ですね笑。上野さんご自身もユダヤ人と関わりがあったんですか?ご実家のお仕事とか?

いや、実家は普通の神戸のお菓子屋さんをやっていた家です。ただ祖母が戦後ユダヤ人家族のベビーシッターをやっていたんです。その時のお付き合いで僕が生まれた時からユダヤ教のお祭りだったり、ユダヤ人家族とのお付き合いがあって、ずっと幼少時代からイスラエルとのつながりを感じて生きてきたんです。それで糸川先生の言葉もひっかかってたし、どうしても一度行きたくなって、イギリスとフランスを渡り歩いたあとにしばらくイスラエルでも生活をしていました。半分ヘブライ語の勉強もあってウルパンにも通うんですが。

ユダヤ人って超個人主義なんですよ。日本の先進国的集団主義とは対極的なところがあって。14回企業を失敗した人も、「15回目トライしようとしているのが素晴らしい!」とほめたたえるところがあって。そんなものだから人口10万人くらいしかいないエリアなんですがシリコンバレーのようにどんどん起業家が生まれている不思議な国でした。

――:なるほど、上野さんが色々特別な動きをしている背景がなんとなくわかってきました。ユダヤ人のように動いているから、今に至っているんですかね笑。

21歳から株式投資をしていました。1人でどこにでもいったり、金融にも興味をもって色々やっているところはユダヤ人仕込みなのでしょうか笑!?「会社に所属する」という感覚も、最初の5年間の会社勤務以来ないですし、シナリオライターの学校に通ってマンガ原作を学んだり、スポーツライターしながらマーケティングのお手伝いをしたり、ブロックチェーン投資をして上場したりなどほとんど1人でやってきてはいます。でも、同時にチームや仲間なしではやっていけないもの充分わかっています。チームや仲間には本当感謝しています。

――:スポーツはライターだけじゃなくてスカウティングやクラブ経営みたいなことまで手掛けられてますよね。

神戸の女子サッカークラブのINAC神戸レオネッサのスカウティング担当を2010年から数年間やっていましたね。ブロックチェーンも最初はスポーツつながりですよ。「投げ銭コミュニティ」や、スポーツビジネス×トークンエコノミーを構築しようと2014年にAGI Sports Managementを設立しています。

このころは色々スポーツを立て直さないと、と思ってNewspicksで「ビジネスはJリーグを救えるのか?」みたいな特集もやってました。

――:そうか、それでブロックチェーン事業も始めてるんですね。

直最初のスマートコントラクトのことを知った時は“世紀の発明品だな!"と思ったんです。ビットコイン関連は2016年から投資を始めて、ちょうど2021年12月に一部のイーサリアムを残して、ほぼすべて売りました。個人的には仮想通貨で損はしていないです。

――:そんな上野さんがなぜトヨタのブロックチェーンラボのメンバーになったのでしょうか?

2022年のワールドカップの後にいろいろな仕事が一区切りついて、もともと好きだったタイに移住しようかと思って準備してたんですよ。そしたらトヨタの上長のAさんからご連絡が、「ちょっと会社に来ない?」とみたいな感じでした。いってみたらトヨタのブロックチェーンラボの業務委託ということでご提案を受けました。社内の反対押し切ってUberにも投資しちゃったような先見性の塊のような人で。やっぱトヨタくらいになるとサラリーマンの次元を飛び越えたような人が管理者にいるんですよね。

僕もトヨタの看板があると各界のいろんな方とともつながれるし、その人と仕事するのは大変刺激的なので、これはちょっとやってみてもいいだろうと思ってその場でお受けさせていただきました。でも、トヨタクラスになると想像以上にハードシングな面もあり、学びながら前進している感じではあります。

 

 

■ユダヤ人のように国境・産業・世代の調停役に。

――:こうしてみると3人分くらいの人生のお話になりました。「メディア・コンテンツ制作」では2000年代に小池一夫さんに弟子入りし、2012年『川澄奈穂美物語』で原作者デビューして、2014~2019年ごろまで『アオアシ』原案で携わる。「スポーツマーケティング」では1992年プレミアリーグの留学から海外に強いスポーツライターとして活躍し続け、トークンエコノミーとつないだり、チームのスカウティングまでも手伝っている。「ブロックチェーン」では2016年から個人的にも投資をはじめ、直近ではトヨタフィナンシャルサービスの戦略企画部でブロックチェーンラボで働いている、ということですね。これからはどんなことを考えていらっしゃるんですか?

まさに3割ずつという感じですね笑。これからも同じで「メディア・コンテンツ制作」と「スポーツマーケティング」と「ブロックチェーン事業」です。その意味では中山さんも似た立ち位置ですよね。また2社目の上場の準備も進めています、領域はFinTechです。中身は言えませんが(笑)

――:確かに僕もエンタメ軸ですがメディア側もコンテンツ制作もマーケティングもやってますね笑。ブロックチェーンは記者的な立ち位置に過ぎませんが。

僕はアイデア好きでプロジェクトマネジメント(PM)が大好きなんですよ。その反面コンサル嫌いで、ただ批評家のように意見をいっているのが性にあわない。だからこれからも面白そうなプロジェクトを見つけては1人で入っていって、PMでまわすということを続けていくんだと思います。

――:マンガ原作はまだ他にも続けられてるんですか?

アカツキの香田哲朗さんのところで、Webtoonマンガの原作やってます。新波歩先生との『ハイバス』なんですが、Gリーグ(NBAゲータレード・リーグ、NBA選手育成のために運営されたプロバスケリーグ)のお話です。このあいだはその取材でニューヨークへいっていました。

――:香田さんといい、上野さんが繋がっている人との重なりがすごくてさっきオフラインでもだいぶ盛り上がっておりました。さっきWeb3業界の人の話になったらほとんど知り合いですよね。

渡辺創太(1995-、Astar Network創業者、Forbes JAPAN「世界を変える30歳未満の30人」)も慶應の学生の頃から仲いいですし、Gaudiyの石川裕也(1994-。Gaudiy創業者、『ガンダムメタバース』技術顧問)も創業前後からよく地元のファミレスで色々話してました。面白い人がいると自然と出会って繋がっている感じがします。

――:上野さんのアプローチの仕方(中山にも突然Linkedinで会いたいですとメッセージいただいた)もネットワークもすごいんですよね。そういうところに“ユダヤ人"感を感じてしまう笑。

最近はもっと若返りしてますよ。いまは20歳代の人たちでとても面白い起業をしています。

――:上野さんがポリシーとしていることってありますか?

誰よりもはやくやって、誰よりも早く引く、ですね。イーサリウムはそれが功を奏した感じもあります。あと大事なのは「経済新聞は読まない、あるいは読んでも信じない」かもしれません笑。既存の知識の枠にとらわれているとそれ自体が思考のフレームになっちゃうんですよ。

先ほど言ったように「ネクタイを締めている大人になりたくない」という高校時代の思いが結果的にそのまま現在の自分を作ってきた気がします。組織や既存のフレームにおさまらないということが新しい人と出会ったり新しい知に触れる機会を増やすんですよね。中山さんもまさにそうですが「この人何やっていんだろう?とわからないような人」のほうが豊かだったり、儲かったりしてますよね?笑。もしこのインタビューを読んでもらえる若者がいれば、ぜひそういうところを目指してほしいなと思います。

 

会社情報

会社名
Re entertainment
設立
2021年7月
代表者
中山淳雄
直近業績
エンタメ社会学者の中山淳雄氏が海外&事業家&研究者として追求してきた経験をもとに“エンターテイメントの再現性追求”を支援するコンサルティング事業を展開している。
上場区分
未上場
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