Netflix人気作を生み出した音響・映像・ゲーム会社:由良浩明が天才バイオリニストを辞めて起業家になった理由…中山淳雄の「推しもオタクもグローバル」第107回

中山淳雄 エンタメ社会学者&Re entertainment社長
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FFやドラクエ、ジブリなどゲームやアニメ、映画から次々と名曲と呼ばれる音楽が生み出されてきた。かつては社内のプランナーが片手間にサウンドをつくるような時代から、いつしか世界的な作曲家や演奏家が関わるようになり、2015年にはロンドン交響楽団がFF音楽をオーケストラ演奏する時代に入った。保守本流の世界三大オーケストラ楽団が映画やゲーム音楽に着手する10年以上前からオーストラリアでそれを先導していた人物がいる。日本生まれオーストラリア育ち、元国際コンクールを総ナメにしてきた天才バイオリニスト由良浩明が創設したエミネンス交響楽団である。今回は彼自身が映像会社をもちNetflixシリーズ『機動戦士ガンダム 復讐のレクイエム』の制作では、サンライズの共同制作として、アニメーションプロデューサー・音響監督としても関わることになった経緯とともに、日本のエンタメに音楽がどのように入ってきたかのインタビューを行った。

 

■3年半かけたNetflixシリーズ版『機動戦士ガンダム 復讐のレクイエム』

――:自己紹介からお願いします

由良浩明(ゆら ひろあき)と申します。『機動戦士ガンダム 復讐のレクイエム』をサンライズさんと共同制作しているSAFEHOUSEの代表をしております。会社は3つ経営しておりまして、音響製作のWHISTLER、ゲーム開発会社のAREA35、そして映像会社のSAFEHOUSEの代表をしております。

――:3つも会社を創業されているのですね。もともとオーストラリア出身のバイオリニストとお聞きしております

そうですね。1980~2000年代はずっとオーストラリアで育ちまして、ずっと私自身がバイオリニストではあったのですが2009年に日本に戻ってきて、今回は2019年に設立したばかりのSAFEHOUSEでゲームエンジンのUnrealをつかって『機動戦士ガンダム 復讐のレクイエム』の制作を行いました。

『機動戦士ガンダム 復讐のレクイエム』公式サイト

 ©SOTSU・SUNRISE

 

――:Netflixにて世界独占配信中の『機動戦士ガンダム 復讐のレクイエム』ですが、ゲーム開発のミドルウェアであるUnreal Engineをつかって製作されたという珍しい事例です。これはどういう経緯ではじまったのですか?

プロデューサーの櫻井大樹さんが、『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ』(2021)の日本以外の独占配信をきっかけに「Unreal Engineでガンダムシリーズを製作したら面白いんじゃないか?」というところで、バンダイナムコフィルムワークスさんからもご提案があり、その制作会社として弊社にお話をいただきました。

――:Unrealだけで映画・映像を作ってしまうというのは他にもある事例なのでしょうか?

当時は、事例がない話でした。ゲームエンジンだけで映像を全部つくりきってしまうというのは相当な作業でした。リアルタイムレンダリングができるので、最終的な画をすぐにみれるといった利点もありますが、お金も時間もかかります。全員にとって新しい取り組みだったこともあり、約3年半かけて弊社としても会社の命運をかけた作品となりましたが、いまのところガンダムファンの皆様にも好評で本当によかったなと思っております。

――:ガンダムシリーズとしても初の世界配信向けの作品で、なにより「白い悪魔」とすら呼ばれた“ガンダム"が、ジオン軍からするとこんなにも怖い存在なのだ、と。逆にザクが大好きにもなりました。

リアリティの追求が本作のテーマでもありました。日本と海外では「戦争への考え方」がそもそも違うんですよ。今回は欧州戦線という欧州ならではの「戦争が近くにある世界」からみたガンダムというところを描くことに集中したとのことで、監督のエラスマス・ブロスダウとも考えていまました。

――:すでに生みの親・富野由悠季監督から複数のクリエイターの手に引き継がれて語られるガンダムシリーズですが、どなたがこの物語をつくっているのでしょうか?

ストーリーは脚本のギャビン・ハイナイトですね。彼がものすごいガンダムファンなので、その提案をベースにバンダイナムコフィルムワークスさんと協議しながら決めていった形です。メカデザインが山根公利さんです。

今回製作指揮をとったブロスダウ監督はドイツ出身でガンプラからマンガ、そしてアニメ作品にとはまっていくなかで、当時OVAで欧州にも流通していた『機動戦士ガンダム 0080ポケットの中の戦争』(1989)にすごく影響をうけていたんです。戦争モノを「一年戦争」の世界観のなかで構想したら面白いのではないか、という提案から始まり、今回にいたります。

※ギャビン・ハイナイト(Gabvin Hignight)(1975~)米国人脚本家、『ミュータントタートルズ』『Transformer: War for Cybertron』などを手掛ける
※エラスマス・ブロスダウ(Erasmus Brosdau)SAFEHOUSE所属監督、Crytekアートディレクター出身。2011年頃からミニチュアゲーム『ウォーハンマー40,000』のファンムービー『The Lord Inquisitor』の制作に着手。

 

 

■財閥御曹司、宗家と分かれてバイオリンで“手に職"を志したオーストラリア移住時代。特待生で国際コンクールを総ナメ

――:由良さんはご実家が有名な財閥とお聞きしてました

由良浅次郎(1878-1964)が興した化学工業の財閥があって、その一族です。第一次世界大戦のときにドイツから染料の輸入が途絶えて、死活問題だったんですよ。それで自前でアニリンの合成製造に成功し、国内の染料メーカーを守ったんです。フェノール(消毒剤・爆薬の原料)の合成にも成功したことで、これがニトロの原料にもなるというので海軍の山本五十六などともつながりをもって大きくなっていった由良財閥ですが、戦後は財閥解体の憂き目にもあい、戦時債務の未払いもあって1945年民事再生法の第一号対象となりました。

――:なるほど、かなり縮小されてしまった財閥なのですね。

私自身はそのなかで分家の一族ということになります。祖父が分家の四男、そこから爆薬の分工場を長男が継いでいて、祖父・父の代で有宏化学工業という会社を創業しました。私自身も実はその会社の専務という形で名前だけは連ねている格好で、今も家業とのつながりは続いています。

戦後は花王さんと仕事をしてきた会社なのですが、その祖父と父が喧嘩別れしたところから私の人生も激変します。私は1981年東京生まれで、その後は神戸の芦屋や岡山の玉野市などを転々としていたのですが、6歳のときに突然オーストラリアに引っ越すんです。

――:なぜオーストラリアだったのですか?

父はもともと祖父の会社で工場長をやっていたんですが、そことは関係を断って縁もゆかりもない土地に移住するんです。カナダやニュージーランドなど幾つかみた中でオーストラリアへの移住を決めました。私もオーストラリアにいってからバイオリンを始めるんです(父はその後、祖父が亡くなるタイミングで、日本で継承することになる)。

――:何もないところでいきなりの海外移住、かなりダイナミックな判断ですね。親族が音楽家家系だったわけではないんですが?

母親がピアノでパリの音大を出ていました。でも父方は誰もやっていたわけではなく、当時家業が大変だったこともあって、母が「どこにいっても取り換えが効かないスキル」ということでバイオリンを始めさせたんです。

――:由良さんは音楽が好きだったんですか?

好きも嫌いもない年齢で始めました。異国の地で大変だったこともありますが、母は自分の人生を賭して本気でスパルタ教育でした。バイオリン練習したらゲーム30分!とか『風の谷のナウシカ』見ていいよ、とか完全にエサに釣られてバイオリンやっていたところから始まりました。それが毎日3時間からどんどん増えていって、高校のときには1日13~15時間弾いていたようなバイオリンづけの生活でした。10歳では最初のコンクールデビューを果たしています。

毎年お盆や正月って日本に帰るじゃないですか。ああいうときに「1位とれなかったら帰れないよ」ってプレッシャーかけられるんですよ。だから日本に行きたい一心で頑張るし、逆にそのくらい1位になることが当たり前になっていた。

――:世界的なバイオリニストの競争環境でいうと“6歳で始めるのは遅い"ほうだと思うんですが、10歳でコンクールに出るのはすごいですね。英語の習得なども大変だったと思いますが。

明らかに「遅かった」ですね。でももともとメンタルが強かったのととにかく負けず嫌いだったので、みるみる上達はして、小学校高学年~中学校ではもうコンクールの常連になっていました。練習し続けられるという意味では才能があったんだと思います。

言語は苦手なほうでしたね。苦労なく話せるなとなったのは、中学校くらいになってからです。たぶん能力が非言語のほうにひっぱられていたんだと思います。バイオリンだけじゃなかったんです。学校ではラグビーや空手、バスケもやっていて成績もよかった。フェンシングに関しては州で2位とか、かなりいい成績残しましたよ。発育がよくて12歳まではオーストラリアでも体が大きいほうだったんです。中学校でどんどん抜かれていきましたが・・・。

――:それに、クラシックの世界で身をたてようとしたら、とんでもなくお金もかかりますよね?

はい、だから中学校からは私立大学(Scots College)に入って、音楽のスカラーシップをもらっていました。週4日で学校のほかにプライベートレッスンがあるんですが、1時間$100で、プライベートでピアノや音楽理論を勉強していた費用などもいれると月間でもう$3000近くかかるんですよね。そういった費用を学校側がサポートしてくれるんです。ただそのかわり実績も出さないといけないし、中学・高校になるともうスポーツは全部やめさせられてしまうし、バイオリン漬けの生活になります。

――:勉強はできたんですか?

わりと頑張り屋なのでちゃんとスコアも取っていましたよ。高校3年でUAI(University Admission Index:大学入学基準)もとってしまって、スコアも96.9点。もうあと1-2点あれば弁護士も目指せるよ、という成績でした。ただそれもバイオリン同様に95点でプレステ買ってもらえる、96点だったら近所中逆立ちして歩くわよといわれて、そのくらいのレベルの成績はとれていましたね。欲しいものが多い年ごろでした。中学校の時代にはどうしてもPower Macでフォトショップをしたくて、当時は200万円もするようなとんでもないスペックのものでしたが、それも何かの引き換え条件にねだっていたくらいで(条件達成したのに言い訳をつけて買ってもらえませんでしたが笑)。

まあ結局そういう「欲しいモノが手に入る」とか「母親が喜ぶから」といった理由で最初は始めているんですが、途中でやっぱり自分が一番でないと我慢できなくなってくるんですよね。「玩具・マンガ・ゲームが買ってもらえるからやる」でやってたものが、徐々に「負けるのが嫌、とにかく1番を取り続ける」という自らごとになっていきました。18歳の時に国内・国際コンクールで18セクション中17個で1位、いわゆる「17冠」だったのにそれを「1個落としたね」と言われて悔しく思う、くらいにすべてにおいて世界的バイオリニストであることにこだわっていた時代でした。

――:音楽と勉強に相関関係はあるのでしょうか?

意外にあると思います。バイオリンって物凄く「指を動かす」じゃないですか。あれの癖付けがあって理系での問題をとにかく逆算するのが得意なんですよね。問題を解くよりはあてずっぽうで数字を代入していって逆算してを超高速で繰り返す。こういうのは実はバイオリンやってたからできている演習法じゃないかと思います。

――:由良さん、結構なゲーマーですよね。それだけバイオリンに勉学にと集中した生活をしているのに、どうやってオーストラリアにいながら日本のエンタメにキャッチアップされていたんですか?

近所にマンガ喫茶とまではいかないけど、マンガが置いてあるお店があってそこで読んでいましたね。『Dr.スランプ』や『お~い、竜馬』(1986~96、『ヤングサンデー』連載)が好きでしたね。少年ジャンプは毎週祖母から送ってもらっていたんです。でも途中で1週間荷物が遅れたりすると、もう致命傷ですよ。「え、クリリン死んでいるんだけど?なんか突然超サイヤ人になってる!」みたいな感じで笑。

ほかにも『SDガンダム』とか『バーコードバトラー』(1991)なども送ってもらっていましたね。でも使い方がわからないんですよ、まわりの友だちも誰もやっていないわけですから(ちなみにオーストラリアのバーコードはめっちゃ弱いモンスターしか出なかったんです笑)。だから『コロコロコミック』が命綱でした。使い方はコロコロで学んでやっていましたね。米国のおもちゃはあまり面白いと思えなかったんですよね。唯一ハマったのは『ミュータントタートルズ』(アニメ1987~)くらい。普段はゲームは週末のみ1日30分(それ以外の時間はすべてバイオリン漬け!)など制限されていたんで、セーブポイントまで間に合わない、みたいな非常にストレスフルなゲーム環境だったので、日本に帰った時には『聖剣伝説2』(1993)を必死にやりましたね。母親がいないことをいいことに、皆があきれるくらい延々やってましたね。

――:それだけ「日本のアソビ」にハマっていて、オーストラリアの友人と話は合うんですか?

ファミコンはまわりでも大人気でしたよ。でも現地では『NES(Nintendo Entertainment System)』なんですよね(シアトルの任天堂USAから発売)。私だけ一人「いやいや、これファミコンだから!」と主張し続けてましたね。なにか日本からは面白いものがバンバン生まれるし、日本人として誇らしい気持ちもあったんです。シャワートイレ(ウォシュレット)もあるし、日本に憧れがありました。勤勉で真面目な人たちがいて・・・でも2009年に戻ったら、パンドラの箱でしたね。ちょっと想像していたキラキラとしていた日本人のイメージはちょっと変わりました。

――:以前お伺いしたときにキャリアの初期にBlizzard社と仕事したことがメモリアルだったといってました。PCゲームも結構やっていたんですか?

やっぱり制限されていた分、大人になってからゲーム相当やるようになるんですよ笑。『World of Warcraft』(2004)はログイン連続700日間とか、相当やりこんでますね。そういう解放された期間とゲーム関係の仕事をしはじめる時期は連動してますね。

 

■20歳にしてプロ10年目。輝かしいキャリアを捨ててエミネンス交響楽団を起業

――:中学・高校と音楽特化の学校に入られましたが、そのままプロになるのではなく大学に在籍されたんですね?

あ、プロかどうかでいうとずっとプロなんです。稼ぎ続けていたので、もう20歳超えるころには「社会人10年」みたいなメンタリティに育ってるんです。ただ大学については父親から「大学くらいは出ろ」と言われていたので、社会的なステータスも考えると、とシドニー大学の音楽課に進学しました。この20年でシドニー大学の世界大学ランキングがぐんぐん伸びたのでいまでは難関大学になりましたね。

――:Wikipediaで拝見すると、この大学時代にバイオリニストとして多くの成果を残されています。音楽家としてのキャリアで一番ノリに乗っていた時期はいつごろなのでしょうか?

2002~03年でちょうど21~22歳くらいのころでしょうか。江藤俊哉国際コンクールで優勝していた時期です。NZのギズボーン国際音楽コンクールで2位になったり。Wikipediaは正直全部は反映されていないんです。当時毎週のように世界各地のコンクールに出場していたので、ファイナリストになったり業績になるコンクールや、小泉首相やターンブル首相の前の演奏、各大使のイベントなどなど1つ1つ数えていくとA4で7ページくらいになっちゃうんですよ。毎年スカラーシップも何かしらもらっていて、お釣りが来るぐらいの状況でした。

※由良氏のバイオリニスト業績(Wikipediaより)

チャイコフスキー国際コンクール、ヴィエニャフスキ国際ヴァイオリン・コンクール、仙台国際音楽コンクール、ユーディ・メニューイン国際コンクール、パガニーニ国際コンクールなどに日本として数々の国際コンクールに出場する。驚異的なテクニックを長所と誇り、音量と音のパワーに特化したイヴァン・ガラミアン派の演奏スタイルにより国際コンクールには適していないが、2002年ギズボーン国際音楽コンクールでは第2位と観客賞、第7回江藤俊哉ヴァイオリンコンクールでは優勝している。

――:なぜ20歳そこそこでバイオリニストとしてここまで音楽を極めていたのに、やめてしまったんですか?

もうある程度「技術勝負の限界点」みたいな世界線になっていったんです。ミスなく完璧に弾くというのはスタートラインに過ぎなくて、あとはプレゼンテーションや自分の解釈、なにより「どの先生についているか」ということがパワーとして大きくてそれで優勝するかの結果にすら影響してくるんです。そうした中で、自分としては事業で色々な話が展開されるほうが面白いと思うようになっていたんです。

――:フィギュアスケートでいうと「技術点」のほかに「アート点」がありますよね。ああいったものでしょうか?

そうですね。もう、そのくらいになってくると“政治の世界"も発生します。どのくらい先生がクラシック業界でパワーをもっているか。誰に師事するか。アジア人の先生はやっぱり下に見られるんです。私が師事していたのは中国人の先生で、自分ではバイオリンはひけないんだけど教えるのは滅法うまかった。彼に師事していた後輩でいうと一番成功したのはレイ・チェン(1989~、台北生まれブリスベン移住。4歳でバイオリンを開始し、2009年エリザベート王妃国際音楽コンクールで優勝したのちにソニークラシカルと契約)でしょうか。彼をみていると自分も続けていればよかったと、後から悔しくもなりましたけどね笑。

では政治力のある先生につけばいいじゃないかと言われますが、そういう道を追求するには、私も気が強すぎたんです。ザハール・ブロン先生に誘われたこともありましたけど、「お前は俺の生徒になれ!」みたいないわれ方をして、反発して断っちゃいました。そのくらい反骨精神が強いタイプでしたね。

※ザハール・ブロン(1947-):カザフ・ソビエト社会主義共和国で生まれ、1960~1966年にグネーシン音楽大学でボリス・ゴールドシュタインに、1966~1971年にモスクワ音楽院でイーゴリ・オイストラフに、それぞれ師事。指導者としての力量が国際的に著名ケルン音楽院、チューリッヒ音楽院教授を務めており、彼のスイスの私塾は「ザハール・ブロン・ヴァイオリン ・アカデミー」と呼ばれている。

――:大学時代に自分で事業を始められたと聞いています。どんなことをされたんですか?

2002年にエミネンス交響楽団を作りました。ちょうど22歳のときですね。私の原動力って「怒り」からくるんですよ。シドニー大学時代にコーラスを教えていたんですが、途中でNPO法人のリーダーが出てきて「俺がやるからお前は教えなくていい」と取っていかれて。こっちはタダで教えているのに!と思って悔しくて自分で交響楽団を作りました。

私自身がバイオリンでプロでしたし、まわりのトップ級のタレントをいれていたので学生で立ち上げたといいながら完全なるプロ集団でした。そこで2004年に「A Night in Fantasia 2004」というコンサートをやったときに植松伸夫さんをご招待したところオーストラリアまで足を運んでいただいたところから始まり、口コミでみるみる日本のゲーム音楽のお仕事をいただくことになったんです。光田康典さん、下村陽子さん、崎本仁さん、椎名豪さんなど,著名な作曲家の方々ともオーケストラコンサートをとおして関わるようになり,気づけば,スクウェア・エニックスさんを中心にゲーム業界で音楽制作のお仕事をさせていただけるようになっていきました。

※植松伸夫(1959~)CM音楽や日活ロマンポルノの音楽制作から始まり、1986年に坂口博信に誘われてスクウェア入社。『FF』シリーズ、『クロノ・トリガー』など多くのゲーム音楽を手掛け、2004年退社後はSMILEPLEASEを設立。
※光田康典(1972~)専門学校卒業後1992年スクウェア入社、『FFⅤ』『聖剣伝説2』『ロマンシング・サガ2』などを手掛け、1998年退社後フリー。

下村陽子(1967~)大阪音楽短大卒業後、カプコン入社、『ストリートファイターⅡ』を手掛け、1993年にスクウェア転職。『聖剣伝説』などを経て、2002年退社後フリー。

※崎元仁(1969~):学生時代に即売会でデビュー作品を販売し、『Revolter』が『大戦略』に採用されたところからスタートし、『FFタクティクス』に関わったのちにスクウェアサウンズに入社し、『ベイグラントストーリー』の音楽を全編担当。2002年に並木学、岩田匡治とともに有限会社ベイシスケイプを設立
※椎名豪(1974~)大学時代の就職試験46社に落ちて、1997年ナムコ入社。『テイルズ オブ レジェンディア』で初めてRPG楽曲を手掛け、交響楽団のテイストなどを入れ込み高い評価を受ける。『ゴッドイーター』『THE IDOLM@STER』などの楽曲を手掛け、2017年に退社後フリー。

――:なるほど、2004年、23歳のスクウェア・エニックスさんが始まりなのですね。00年代前半はオーストラリアでも日本のゲームは人気だったんですか?

それなりに普及していましたね。特にFFシリーズでいうとFF7(1997)ではなくて、FF9(2000)が一番人気があったんですよね。日本ではFF7(1997)ばかりが目立ってますけど、海外で最初に売れたFFシリーズってFF8(1999)でその後FF9以降もどんどん人気になるんですよね。日本での人気順とに違いがあるでいうと、ジブリも『もののけ姫』(1997)ではなく、ちょうど『千と千尋の神隠し』(2001)あたりからすごく人気になっていました。そうした私の趣味もあって、エミネンスで演奏していたのはFFとかジブリとか

、日本のエンタメが中心でした。

――:オーケストラ楽団ってとにかく“お金がない"印象です。運営費はどうまかなっていたんですか?

私は結構それまでにお金は貯めていたんですよ。バイオリニストとしての収入ももちろんありましたし、実はエミネンス交響楽団以前に高校時代から自分でPC系の会社を立ち上げていました。GeForce3(Nvidiaのグラフィックチップ)欲しいな、とか『カウンターストライク』(Valve社が2000年に開始したFPSゲーム)やりたいなと思って、PCの会社を作っていました。JALオーストラリア支社のサーバー構築したり、日本郵船の社長のPCでOSのインストール入れ替えの仕事をしたり。Windows NT(OS)って3(1993~95)とか4(1996)の時代って日英でVersionが違っていて、結構そこまでのレベルではなくてもビジネスになっていたんですよね。その仕事はエミネンスを始めて忙しくなってきたところでやめてしまいましたが。

――:起業に軸足を移すのは怖くなかったですか?

最後にパガニーニ・コンクールに出た2004年ごろを最後に、ソロのバイオリニストとしては引退しています。バイオリニストって本当に“手に職"なところがあって、私もそれなりに実績があるので食えなくなったら1時間5万円とかで教えていれば十分に給与は稼げるんですよ。だからまあ食えなくなることはないだろうというのがあって、どんどん広がっていったビジネスのほうに興味が強くなっていきました。まさかここまで大きな組織をつくっていくというのは当時想像もしてなかったですが。

 

 

■YouTubeで世界知名度を得たエミネンス交響楽団、クラシック王道の人材がアニメ・ゲーム業界に流出する時代

――:よく音楽家をやりながら、起業したり事業化としてのキャリアも追及できましたね?正直由良さんがなんでもできすぎるのでビビってます。

負けず嫌いなんですよ、基本的に笑。なんでもできないと気が済まないので、とりあえずずーっと粘着質にできるようになるまで失敗しても、成功するまでやり続けます。

思い返すと両親の体質をそのままそれぞれ受け継いでいるんだと思うんですよね。父親は経営者でしたので、話としても仕事の話ばかりするわけです。一方で母親はピアノとバイオリンばかり。それぞれから薫陶を受けていたことで音楽家としてのキャリアを積みながら、どこかで経営者としても独り立ちすることを考えていたのかもしれません。

――:どういうタイミングで「演奏」の仕事から、「作曲・音響」の仕事をもらうようになるんですか?

最初に『Warcraft』にドはまりしていた関係でDiabloの仕事を頂いたんですよね。アレンジアルバムを作ってみないか、と。これが(Blizzard社のトップ3タイトル『World of Warcraft』『StarCraft』『Diablo』の3作の音楽オーケストラバージョンである)『Echoes of War』(2008)の仕事で、当時2000~3000万円くらいかけて大掛かりにアルバム1枚作るんです。バンダイナムコゲームス椎名豪さんと大谷幸さんがアレンジをくわえて、エミネンス交響楽団で製作しました。それが当時はじまったばかりのYouTubeで何百万回も再生されて反響を呼んだお陰で、エミネンスとしての名前も知れ渡って、それから色々な仕事を受けるようになりました。

――:確かにエミネンスはYouTubeを巧みに使って広がりましたね。今検索しても「ハウルの動く城」とか「Chrono Cross」の2006-07年の黎明期にアップされた動画がザクザク出てきます。日系の会社の仕事はいつごろから始まるのですか?

同時期です。崎元仁さんが最初の仕事ですね、作曲家よんで仕事くれるようになったのは。あとは『デルトラ・クエスト』(2001年エミリー・ロッダの小説からはじまり、日本で2007年にアニメ化・ゲーム化)で元BECの女性プロデューサー山本恵里香さんからもお仕事もらいました。初めてのアニメ作品でいうと「ロミオとジュリエット」(2007)ですね。

――:ゲーム音楽ってお金をかけない印象あるんですよね。

はい、もちろんオーケストラ一団体を動かすような音響にこだわったプロジェクトはそんなに多くないです。2009年にオーストラリアから日本に移住して色々案件が増えていくのですが『ゼノブレイド』(2010、任天堂で発売されたWii向けRPG)では「英語で歌える歌手を探してほしい」と光田さんに頼まれました。この『ゼノブレイド』からはシドニー大学で後輩だったサラ・オレインさんが歌手としてデビューしていきましたね。

※サラ・オレイン(1986~)オーストラリア出身のヴォーカリスト・ヴァイオリニスト。日本人で音楽家の母とマレーシア人の父の間に生まれ、2006年にシドニー大学入学、2010年に最高点で卒業。2010年『ゼノブレイド』のヴォーカル担当後、2012年からユニバーサルミュージックと契約。

――:そうしたなかでゲーム業界の音楽ってどういう位置づけだったんですか?経歴を拝見していると、ゲーム名曲を手掛けた巨匠たちってそれ以前、別に芸大・音大出身というわけでもないですよね?

植松さんはもともとCMや日活ロマンポルノ出身でしたし、久石譲さんもミニマル・ミュージックをやっていたくらいで「音楽の本流」ではなかった認識です。エミネンスがゲーム音楽をやっていたのも、クラシック会の人間からしたら「邪道」でしたしね。

でも北米でも同じように映画業界が盛り上がってきたときに映画音楽が本格化するんです。米国ですらもともと音楽家としてのホンモノはクラシックを目指す、という風潮があるくらいでした。ただ映画業界のほうがお金が集まるようになって、生オーケストラでお金をかけて楽曲をとるようになり、最近では特にゲーム業界が映画業界をマーケットシェアで越したときに、ゲーム業界もそこに加わるようになってきた、ということだと思います。

※久石譲(1950~)国立音大出身、20歳のときにミニマル・ミュージック(音の動きを最小限に抑えて、パターン化・反復させる現代音楽)に影響を受け、現代音楽の作曲家になる。1974年『はじめ人間ギャートルズ』でテレビアニメの音楽を初めて手掛け、1982年自身の事務所「ワンダーシティ」設立。1984年『風の谷のナウシカ』から始まり、『君たちはどう生きるか』まで39年間すべてのジブリ長編アニメーション映画の音楽を手掛ける

――:以前聞いた話ですが、今現在でもクラシック音楽の本家本流の人たちからすると「クラシックで生きていけない人がやるもの」という認識がどこかあるんですよね。これは政治・学者⇔商業界の世界にもあるような構図ですが。由良さんのように王道クラシックからゲームにきている人はいるんですか?

似た経歴、というか育てたという感覚に近いですが、三好智己(1993年生まれ、オーストラリアに移住し、エミネンス交響楽団を経て『ソウルキャリバーV』からゲーム音楽作曲家としてデビュー)とかですかね。うちの母のピアノの生徒だったんですよ。『デジモン』と「いけにえと雪のセツナ」の曲など今は日本に拠点を移して活躍してますよ。ケビン・ペンキン(Kevin Penkin:1992年オーストラリア生まれ、ロンドンのロイヤル・カレッジ・オブ。ミュージックで学び、植松信夫とのコラボなどを経験し、ゲーム音楽を手掛ける)もクラシックから出ていきました。彼らのようなクラシック音楽の本流にいる人間も、「久石譲になりたい」とアニメやゲームの世界を目指すようになってきたという意味では大きな時代の変化を感じます。

 

 

■YouTube活用、クラシック王道の人材がアニメ・ゲーム業界に流出する時代。

――:楽曲って普通は日本のゲーム会社だとどう作るんですか?

日本ってサウンドディレクターを作曲家がそのままやってしまうことも多いんです。でもよい楽曲をつくるスキルと、その作曲を客観的に作品と合うかディレクションするのはまったく別物なんです。声優のことや音響のことまで作曲家が専門性をもってやれるわけじゃないです。

私もクラシック業界からきていたから若いころはずいぶん尖がってました。1週間前に楽譜が届いたり、現場で思い付きのように修正依頼がされた時にはキレてしまって、某社のプロデューサーさんに対して「5分のタイムロスを5分の損失を思われては困ります。70人もあつめて演奏をしている時点で、5分のロスは5分×70でロスになるんですよ!?」と詰め寄っちゃったりもしていました。ホント生意気な青年だったと思うんですが私の中ではもう10年プロでキャリアをもった本気の覚悟でやっているんですよね。

――:エミネンスで演奏を受注する、というのが仕事のメインなんですか?

はい、最初は演奏の指揮なんですが、その際の「録音監督」というのが私の初期の仕事です。『戦場のヴァルキリア』(2008、セガ)は、初めて音楽的解釈を自分としてもうまく入れられた作品でしたね。『白騎士物語』(2008、レベルファイブ)などもよくできたと思います。

『涼宮ハルヒの消失』(2010)の「Ready?」も自信作です。新海誠さんの「Promise」(2009)というアルバムなども収録しました。

――:こういうのはどこまでアニメやゲームの内容ができあがった段階で「音をつくる」ところに着手するんですか?

脚本というかコンテみたいなものができた段階で発注がきます。いちおう場面や流れはわかるんだけど、普通の人がみるとよくわからない状態くらいだと思います。完成品があってそれにあわせて作るわけではないですし、発注側もどういう音楽にしてくれというのが明確に定義されているわけじゃないから、そこに解釈や創造の余地があるんですよ。

――:2010年代に入って、由良さんの仕事はどう進化していくのでしょうか?

プロデューサー達と関係性ができるようになって、直接発注を受けて仕事の幅も広がっていくんです。録音監督だったものが、だんだん音響全体を取り仕切る音響監督であったり、そのうちに映像なども含めたプロデュース業務になっていくんです。

2009年から日本に拠点を移し、2010年にWHISTLERを設立しました。でもそうやって仕事内容をどんどん深めていくに従い、いろいろな軋轢も生まれるんですよね。もともとは作曲家がやっていた業務なのに、それを盗ってしまったような形になったり。日本の中では当たり前なことが、ほとんどオーストラリア育ちの私には難しいことも多く、悩むことも増えました。「〇〇さんは気を付けたほうがいいよ」みたいな“ささやく話"も多くて、半分外国人の自分には理解できなかったり。そういう人とは距離をおくようにしていましたね。

――:バンダイナムコグループとも何度も仕事されてますよね?

バンダイナムコさんとの最初の仕事は『SOULCALIBUR IV』(2008)でその後『SOULCALIBUR Broken Destiny』(2009)、『機動戦士ガンダム エクストリームバーサス」(2010)と続いていきます。『Ace Combat Joint Assault』(2010)や『SOULCALIBUR V』(2012)など、結構この時期にお仕事させていただいてます。ソウルキャリバーの時はかなり時間もかけて作りました。演奏だけだったら10日間くらいで完成させちゃうんですが、作曲のディレクションなど一番最初から考えると1年くらいはやりとりしていたと思います。

――:頼むところによって結構違うものでしょうか?

はい、音響全般は作品をサポートするためにしか過ぎないんです。作品自体の前に出ることは許されない。そういう本質を外して作曲家が代表しているサウンドプロダクションって音楽優先で考えがちなところがあるんです。でも本当はアニメでもゲームでも原作である大元のファンのためのものですよね。私らが作っているのは音楽作品ではなく、あくまでエンタメの一部としての音響にすぎないので、いかにその作品とファンの関係性を壊さずにその原作の世界観をファンに満足してもらう形でつくっていくかが大事です。

たとえば「セリフを聞かせたい場面で音楽が前に出すぎている」っていうのもよく起こるんです。ファンはそのキャラのそのセリフがききたいはずなので、そこで音楽のトーンは落とすのが正解ですよね。

――:1作品の音楽をまるまる担当した作品はどこがはじめてなんですか?

スクエニの『いけにえと雪のセツナ』(2016)でボイスもとって、音楽もとって、音響もとってと全部フルスタックで担当しました。全71曲ピアノオンリーにして、ゲーム的に“切ない"をキーワードに作っていったBGMでこれは「ゴールデン・ジョイスティック・アワード」(1983年から続く英国のゲームアワード)でBest AudioとPlayStation Game of the Yearの2部門でノミネートされたんです。ただちょうど『OverWatch』(2016)と同じタイミングだったんですよね。あっちの内部がどう作っているかも知っていましたし、全体的にリソースのかけかたが違うので難しいだろうなとは思いました。

――:やっぱり北米のゲーム音楽と日本のゲーム音楽では差が大きいのでしょうか?

こちらが北米の音響スタジオを使って作るということも予算によっては可能ですよ。ただ、やっぱり英語×音楽の面で「ハリウッドにナメられているな」と感じることはありましたね。日本から発注されてやっているのに「作ってやっている」感じがでていたり。

著名なハリウッドのピアニストで、どう聞いてもピアノが間違って演奏されているんですよ。撮り直し要求したけど、あっちは「絶対間違ってない!」の一点張り。私は絶対音感あるんで、100%間違ってますと言い続けて機械で聴いてみたら、やっぱりズレていた。3時間待たされてそのピアニストもしぶしぶ再演しはじめるんですが、「この3時間は請求しませんので・・」と言われて。当たり前だろう!と。

私を知っていたワーナーブラザーズのコーディネーターが「お前、気を付けといたほうがいいぞ。今目の前に座っているのは“本当のミュージシャン"だからな?」と忠告してくれてたんですけどね笑。そのくらい、音楽がわかっている人間で英語できちんと交渉できて相場がわかっている人間がこちらにいることが大事なんだなと思いました。

 

■音響・ゲーム・映像3社を束ね、IPが作れるクリエイティブ・ベンチャーを目指す

――:映像などをやるようになったタイミングはどこなのでしょうか?

2015年『Under the Dog』(イシイジロウ原作、Kevin Penkin音楽、キネマシトラス制作のアニメ作品)ですね。ここで初めてアニメのプロデュース業務にも入りました。ソニーミュージックの百瀬慶一(1965~、SME音楽プロデューサー、「愛しさとせつなさと心強さと」プロデュース)さんらにアニメの基礎知識勉強させてもらってはじめました。それまでリグがなにかもわからなかったんです。

――:確かに「勉強してキャッチアップして」という精神は6歳のバイオリンのときから一緒なんですかね。音楽家あがりの底力を感じます。あとはキーになる人との出会いが大きそうですね。

ほんとに色々な方に学ばせてもらいながら一歩ずつなんですよ。アニメは大友克洋さんの右腕といわれる小原秀一(1956~、『アニメ監督』からも直接薫陶を受けて学ばせてもらいました。ゲーム業界でもスクウェア・エニックス、バンダイナムコなどいろいろな会社で一流の方々とお付き合いしてますし、そんな方々も私のバイオリニストやエミネンス交響楽団としてのキャリアをリスペクトしてくれるから成り立つんだと思います。

そういうところから2016年にゲーム会社AREA35を設立し、2019年にSAFEHOUSEを作って、という中で少しずつ自分も映像を理解するようになっていきました。

――:それが『機動戦士ガンダム 復讐のレクイエム』にもつながっていったんですね。音響とゲームはわかるんですが、どうして映像制作会社をつくったんですか?

Blizzardのプロジェクトで一緒にやっていた鈴木卓矢(1980年生まれ、スクウェア・エニックスのVisualWorks入社。米国のBlizzard EntertainmentでSenior Artistを経て2014年に帰国。)とエラスマス・ブロスダウ(ドイツ・Crytek出身のArt Director)でなにかやりたいねとなったときに「今後のCG業界はリアルタイムレンダリングだ!」と一致しまして2017年につくった映像会社です。もう最初は10人分のMayaのライセンス費用だけで赤字が出て大変なところからスタートして、今回のプロジェクトにまでこぎつけました。最初は「本当にガンダムでの3D映像化なんてできるのか!?」というのもありましたが、Netflixさんとバンダイナムコフィルムワークスさんの尽力があって、ここまでくることができました。

――:現状会社のサイズとしてはどのくらいなのでしょうか?

WHISTLERとAREA35、SAFEHOUSEの3社あわせて国内で60名、ドイツの監督チームや台湾のアニメーチームなども入れると80名強といったサイズです。すこしずつ資金調達しながらやってますし、手戻りも多い開発なので正直赤字で製作しているということも、結構あります。

――:いまこの3社が同じオフィスに入って作業しているんですよね。今後はどうしていきたいというのはありますでしょうか?

だんだん業界での認知度もあがってきたのでよいお仕事の話はもらいます。むしろ今の段階ではそれを精査して、音響・ゲーム・映像すべてを製作できるグループとしてプレゼンスをあげられるような作品をやっていきたいですね。自社IPをつくることにも挑戦してますよ。

弊社はスタークリエイターを中心に生まれたスタジオって感じじゃないんですよね。華やかな話ではないかもしれませんが、各業界でキーになるような優秀な人材を集めてできた映像会社、ゲーム会社、音響会社として今後もゲーム業界・アニメ業界に貢献していきたいですね。

 

会社情報

会社名
Re entertainment
設立
2021年7月
代表者
中山淳雄
直近業績
エンタメ社会学者の中山淳雄氏が海外&事業家&研究者として追求してきた経験をもとに“エンターテイメントの再現性追求”を支援するコンサルティング事業を展開している。
上場区分
未上場
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