世界エンタメ特集「成都編#2」パンダ経済圏-ハローキティ以前に日本で“Kawaii"を育てたパンダの功績

中山淳雄 エンタメ社会学者&Re entertainment社長
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前回成都が中国きっての二次元都市となっているところを取材した。この地で一番の観光施設といえば「パンダ基地」、年1220万人も集客する一大テーマパークだ。現地をみてまわるなかで、そもそもパンダという存在自体に興味がわいた。同時期に和歌山アドベンチャーワールドからパンダが成都に返還されることになり、来年には上野動物園の最後のパンダもいなくなる、という話を聞いたからだ。パンダはいつ日本にきて、どんな影響を与えたのだろうか。今回は和歌山アドベンチャーワールドと中国成都の取材を通して見えてきた、パンダを通じた日中外交史について解説を行う。

 

【主な内容】
かわいいを「輸入」したパンダ、『パンダコパンダ』にみるキャラクター創世記
あまりに脆弱なパンダの生存戦略、「かわいい」は生存要件になりうるのか
贈与から繁殖へ、アドベンチャーワールドの成功で変わるパンダの外交役割
一点豪華主義のパンダ、年1200万人集客の一大テーマパークビジネス

 

■かわいいを「輸入」したパンダ、『パンダコパンダ』にみるキャラクター創世記

2026年以降、約30年ぶりに日本はゼロパンダ時代に突入する。和歌山県白浜町のテーマパーク「アドベンチャーワールド」では、ジャイアントパンダが31年間飼育されてきたが2025年6月、ついに中国に返還されることになった。1994年に「パンダ外交」の一環として来園したのが1994年、それ以来このアドベンチャーワールドは世界の中でも有数の「パンダ生産地」であった。そして来る2026年2月、上野動物園に最後に残されたシャオシャオとレイレイの2頭が中国に返還され、日本にはパンダが一頭もいなくなる。

パンダとエンタメに何の関係が?実は1972年に上野動物公園に中国からカンカンとランラン、パンダ2頭が寄贈されたタイミングで、日本では大ブームが起きた。「生きたぬいぐるみ」とも呼ばれる愛らしい容姿に人々は虜になる。入場者の列は上野公園まで2メートル続き、年間入園者数は700万人、1年間で“パンダ宛ファンレター"は4000通も殺到した。その爆発的人気にあやかって東宝が公開した『パンダコパンダ』は東映動画(現:東映アニメーション)にいた高畑勲氏(監督)と宮崎駿氏(演出)の合作である。ちなみに東映は当時絶不調、『キングコング対ゴジラ』などで儲けていた東宝でないとこうした出資は難しかった状況だろう。

2人は『ムーミン』(1970)に大きく影響を受け、小田部羊一氏とともに『長くつしたのピッピ』のアニメ化を試みて原作者から許諾が得られなかった失意の中、東宝の「パンダもの」という指令にあわせて、作りかえて本作に至った。この『ムーミン』や『パンダコパンダ』はその後、『アルプスの少女ハイジ』などの世界名作劇場アニメシリーズにつながっていく。同時にキャラクター雑貨の世界では、パンダにイヌ(スヌーピー)、ネズミ(ミッキーマウス)と動物が次々に流行する中で「次にウケる動物は何か」という社内アンケートを取り、そこで出てきた人気ランキングからクマ(コロちゃん)とともに生まれたネコが『ハローキティ』として日本のキャラクター史をけん引する大成功事例につながっていく。

このように1970年代はパンダもその一端となって、日本で最初ともいえる“かわいい動物ブーム"が生まれ、それが後のアニメやキャラクターの世界に大きな影響を与えてきたことを考えると、今回のゼロパンダ事件にエンタメ業界としては反応しないわけにはいかない。

 

▲1972年11月、上野動物園で初めて日本の地をパンダが踏んだ

  

■あまりに脆弱なパンダの生存戦略、「かわいい」は生存要件になりうるのか

食べ物は99%「笹」のみ。生命線である竹が60~120年に1度開花して枯れるタイミングがあり、1種類の竹に依存している地域ではパンダの一斉餓死などが起こってしまう。食物が体内にとどまる時間が短く、栄養摂取の効率も悪いため、とにかく大量に竹を食べ続ける必要があり、カロリー消費をおさえるために極力動かない。暑さに弱いのでエアコン付きの部屋でないとダメ。

生物は自分の体に最適なものを食べているわけではない。むしろ“住み分け"として他種がよせつけないものだからこそ、食い合いが起きずに生存に有利という理由であえて体に合わないものを食べているケースも多い。それがコアラのユーカリであったり、パンダの笹というわけだ。クマ科のパンダは、体の消化器構造としては実は肉食獣のそれと違いがない。すでに200万年以上も笹を食べ続けているというのに、いまだに草食に対応した消化器を進化させるには時間が足りないのだ。パンダが食べた笹はほとんどそのまま排出され、1か月に1度は腸を一新するために「粘膜の塊」を排出する必要がある。肛門からでるその痛みたるや、凄まじいものだという。

偏愛という点においても、生物界においてパンダほどえり好みが厳しい生物も稀だ。世界に2000頭足らずという数にも関わらず、オス同士の争いに勝った「勝者のオス」ですら、メスは容姿・性格が気に入らなければ拒絶され、縄張りあらしとしてむしろ攻撃されることもある。だからマッチングはパンダという種にとって最も重要な局面であり、パンダに見せるための性教育用ビデオがあるくらいだ。実際にはほとんどが人工授精で子供が生まれている、というのもうなずけるほど、難しい。発情期は1年間に数日と限られたタイミングしかない。

果たしてなぜパンダはこの生存競争を生き残ってこれたのか。パンダは中国以外に生息せず、しかも揚子江上流で年間平均気温20度以下、標高2600~3500mの高山・竹林である成都周辺にのみにしかいない希少種中の希少種である。限られた場所で、他種と競合しない食べ物を限定することで、地球の片隅でずっとひっそりと生き残ってきたのだ。

 

▲パンダが「発見」されて150年。政治の道具として華々しいデビューをした50年前

 

パンダが四川省で「発見」されたのは1869年、フランス人宣教師が見つけた。すでに西欧では博物学の機運があり、探検による稀少な鉱物や種を蒐集(かいしゅう)していく文化があった西洋人がみつけたもので、地元の中国では食肉としても毛皮にしても利用価値の低いパンダは特に重要視されていなかった(1920~30年代は欧州人の狩猟してコレクションをする「パンダ狩り」への許可も出している)。

これを中国自身が政治的に使い始めたのが1941年、日中戦争において欧米の協力を取り付けるために米国に贈呈したのがパンダ外交の始まりと言われる。生け捕りにされたパンダが米国で人気となり(1937年シカゴのブルックフィールド動物園で公開されると3か月で32万人が殺到、それ以降、ニューヨーク・ブロンクス動物園、セントルイス動物園、ロンドン動物園で次々と公開)、これは欧米との協力関係を調達するのに有用、となった。アヘン中毒者が多く、「怠惰で病弱である」というイメージすらあり、日本軍の進行が悩みの種だった中国にとって、(オーケストラなども手段の一つだったが)「中華民国は平和を愛する文明国だから日本軍との戦いを支援してほしい」(家永真幸『中国パンダ外交史』2022講談社)とブランドを入れ替え、メッセージすることに成功した。

そんな「パンダ外交」が日本に向けられたのが1972年。まさに9月に日中国交正常化が行われ、その象徴として10月に「中国から日本への贈り物」として上野動物園にカンカンとランランが贈呈されたことに端を発する。当時の日本では当然ながらパンダのことは誰も知らない。当時、外務大臣だった大平正芳氏は「パンダ(大熊猫)って何ですか?熊と猫の間に生まれた子どもですか?」と返答したという。

日本きってのパンダのインフルエンサーといえば黒柳徹子。戦前にカメラマンの叔父がアメリカ土産にもってかえったパンダのぬいぐるみからはじまり(ちょうど1937年のシカゴの世界初パンダブームで量産されていた米国産のぬいぐるみと想定される)、1968年にロンドン動物園で見た時から日本でも積極的に意見を発信する“ひとり追っかけ"だったと後述している。

1972~80年の間に中国は8か国(米、日、仏、英、墨、西、北朝鮮、西独)に対して、計16頭ものパンダを送っている。1949~71年の間には計7頭であったことを考えると、戦後冷戦レジームのなかで国交関係回復に努めた中国にとって「パンダを送る」行為がいかに外交の武器として役に立っていたかを証明している。

 

 

そこから70~80年代は日中友好ブームであり、タイミングごとにパンダの贈呈がなされる。ランランが死ぬとホァンホァンが3頭目として贈呈(1979年の大平正芳首相(当時)による対中ODAの返礼という見方もある)、カンカンの死後は日中国交正常化10周年となる1982年にフェイフェイの贈呈。この新たな2頭の間に人工授精で生まれたのが「チュチュ」(残念ながら43時間で死亡)。2頭は翌年に「トントン」(1986)を生み、1972年以来の日本のパンダブームが再燃することになる。だが日中国交正常化20周年の1992年以降は、トントンもリンリンも死に「パンダゼロ」となる。日中関係が良好なときにはパンダが贈呈され、悪化したときにはパンダゼロになる。まるでパンダは「日中関係の行き先を占う試金石」のようだ。

 

■贈与から繁殖へ、アドベンチャーワールドの成功で変わるパンダの外交役割

だが1980年代に入り、中国にとってもパンダは「贈与」する余裕もないほどの希少種になっていった。もともと1970年代に約2500頭しか残されておらず、1980年代後半は1200頭まで減少。1984年にワシントン条約の最も絶命の危機に近い附属書Iに分類され、商業的な取引が原則禁止となる。中国が最後に「贈与」できたのは、1982年に上野にきたフェイフェイであった。ちょうど毛皮目当ての密輸事件などで逮捕者がでていたのもこの時期だが、中国において1978年にはじめて人工授精に成功するとパンダはちょうど自然破壊が世界的アジェンダとなるなかで「守るべき種」としてその位置づけが変わってくる。

この守るべき種であるパンダを、中国・四川/重慶というホームカントリー以外で、唯一無二といえるほど繁殖成功させてきたのが、ほかでもない和歌山アドベンチャーワールドなのである。同施設は1978年「ワールドサファリ」という名前で開園した動物園だった。驚くべきことにこの白浜町は「人口2万人」。そこに年間100万人近くが来園するのだから相当な集客装置になっている。

当時日本各地で「宮崎サファリパーク」(1975)「九州自然動物公園アフリカンサファリ」(1976)「秋吉台自然動物公園サファリランド」(1977)「東北サファリパーク」(1978)などが次々に誕生していたタイミングである。1978年に開園すると初年度140万人越えの大にぎわい。だがあらゆる動物園・植物園、アミューズメントパークがそうであるように、最初のボーナス期間が終わるとリピーターが出ない限り、パークの集客は減り続ける一方だ。3年で100万人を割るようになり、1979年には遊園地施設・水族館も導入、園名も「アドベンチャーワールド(以下ADW)」へとより総合的なテーマパークへと変貌させる。だがその努力の甲斐もなく、1980年代半ばになると70万人と初年度の▲5割減。このままでは園の存続自体が危ぶまれる状態だった。

危機を救ったのは1988年に設立された「オルカスタジアム」、それと同時にジャイアントパンダ2頭を導入したことで入場者数減少は反転し、1992年には11年ぶりとなる100万人越えを達成する。こうした成功体験の末にADWが考えたのが「繁殖目的でのパンダの貸与」であった(山本雅史『笑顔あふれるテーマパークの秘密』2020幻冬舎)。

上野動物園における1972年のランランとカンカン、1986年に生まれたトントンと1988年のユウユウ(1988)で、日本でもパンダの繁殖が可能なことが証明される(どちらも人工授精による繁殖)。だがそんな上野がゼロパンダになったのが前述したように1992年。もはや「贈与」という手段は希少種保全のために許されない状況。そこでアドベンチャーワールドが利用したのが1994年の「ブリーディングローン制度」、一定期間繁殖を目的とした飼育動物の貸し借りができる制度を“世界で初めて"活用し、永明(えいめい)と梅梅(めいめい)を借り入れた。もちろん無料ではない。レンタル料は2頭で年間1億円と言われる。

そこからが伝説の始まりだ。2000年に「良浜」がアドベンチャーパークで生まれてから、この動物園では合計17頭が生まれる。上野動物園ですら早逝したものも含めて5頭がこの半世紀で生まれたパンダだ。世界中で60頭超が貸与されている現在に至るまで10か国以上で繁殖研究はなされてきたが中国成都以外にはアドベンチャーワールドほど「外国産パンダ」を生み出した施設はほかにない。

 

 

ことを成したのは永明、もはや「伝説のパンダ」である。中国本場ですら人工授精が多い中で、2頭の妻をめとり、19年間の間に16頭もの子供を作ってきた。しかも、すべてが自然交配である。20歳(人間でいえば60歳を超える)になった2014年には、双子の桜浜・桃浜ももうけている。永明は1年に数日の発情期を見逃さずにアプローチをするのが上手く、やさしく穏やかな性格が受けているという「稀代のパンダたらし」である。ただその偏食はすさまじく、排ガスがついた都会の竹は決して口に入れなかった。大阪の岸和田や兵庫の丹波篠山からわざわざ取り寄せた良質の竹を、好んで食したという。こうした、パークの努力と奇跡のパンダの邂逅により、00年代・10年代は和歌山の地が一大パンダ生産地になっていたといえる。

 

 

永明は2023年に中国に返還され、「日中友好特使」に任命される。その功績はもはや十分なものだろう。本場・成都の成都ジャイアントパンダ繁殖研究基地(以後パンダ基地)においてもアドベンチャーワールドとの30年にわたる共同研究の成功を祝して、永明の返還のタイミングで下記のように記念モニュメントが飾られている。

痛手も大きかろう。アドベンチャーワールドにおけるパンダの31年間の経済効果は累計1256億円と試算され、平均にすれば年40億円ほどの集客効果を保ってきた計算になる(宿泊客56%、日帰り客44%で計算)。1人1万円とすれば40万人だ。年100万人を誘致する同施設にとって半分近くが「パンダ目当て」ということにもなる。四半世紀来の目玉になっていたパンダを失うことで、2026年以降同施設は次のアイコンを探しだす必要がある。

 

▲2025年6月、4頭(「良浜ラウヒン」(24歳)「結浜ユイヒン」(8歳)、「彩浜サイヒン」(6歳)、「楓浜フウヒン」(4歳)との別れを惜しんで、ファンが施設に殺到。土日は2時間待ちの長蛇の列だった。

 

 

中国成都でも繁殖戦略はうまくいきはじめ、2000年代前半には1600頭と反転。2010年代半ば以降で2000頭以上と回復の兆しを見せている。日本からは多くが返還されゼロパンダになる反面、2010年代にも中国のパンダ外交の勢いは強まるばかりだ。カナダ(2013)、ベルギー・マレーシア(2014)、韓国(2016)、オランダ・ドイツ・インドネシア(2017)、フィンランド(2018)、デンマーク・ロシア(2019)とパンダの「貸与」は次々と続いている。

ではなぜ日本はゼロパンダになってしまったのか?推論として白浜町の責任者が新台湾政策を掲げていたことなども挙げられ、直近の中国にとっての日本への見方も無関係ではあるまい。パンダは決して無色透明なものではなく、あくまでこの80年間中国の外交戦略の一環でありつづけ、日中の関係性を占う一つのシンボルでもあったからだ。

 

▲2014年アドベンチャーワールドで生まれ、2025年に中国に返還された桃浜 

 

▲成都パンダ基地でも元気に動き回っていた(2025年7月撮影)

 

 

■一点豪華主義のパンダ、年1200万人集客の一大テーマパークビジネス

動物園は営利企業にはない使命がいくつかある。「エンタメ:レクリエーションのため」というのは第一目的ではなく、「自然保持:種の保存のため」「教育:教育・環境教育のため」「学術:調査・研究のため」も含めた4つの目的がある。それがゆえにエンタメとして収益だけを求めるのではなく、自然保持・教育・学術観点で園を存続させる必要もある。この使命がときには阻害要因となって赤字のままにその施設を維持運営する甘さにもつながり、1980~90年代の日本の一大テーマパークブームのときには供給過多により日本各地で「ハコモノ行政」と同様に問題にもなった。

前述したように1970年代はレジャーブームと団体旅行のパッケージビジネスが隆盛し、動物園・水族館が乱立。そこに輪をかけたのが円高不況で日本経済が沈没しかかったタイミングに地域振興や内需拡大を掲げてリゾート法(1987年)が税制優遇措置となって日本全国でテーマパークが乱立する。鉄道・バス・不動産といったインフラ系の事業者が行政と一緒になって、50以上ものパークが各々数十億~数百億円といった巨額の投資を吸い込んでいったのだ。だが正直その時期から存続できたパークは半分もなく、いまやレガシーとして負債化しているものも少なくない。

以前、私はシャボテン公園の経営改革を取材・論文化したことがある(根来龍之・中山淳雄『20代社長のテーマパークV字回復~政財界を巻き込む伊豆シャボテン公園の改革事例~』早稲田大学IT戦略研究所2021)。同施設も改革の目玉は「元祖カビバラ露天風呂」という、集客の目的になる一点豪華主義な施設・イベントの創設だった。これは『美女と野獣』エリアに750億円かけた東京ディズニーランドも、『ハリー・ポッター』エリアに450億円、『スーパー・ニンテンドー・ワールド』エリアに600億円を投じたユニバーサルスタジオジャパンも同様だろう。

1987年に中国成都で設立された成都ジャイアントパンダ繁殖研究基地も、当然ながら研究としてのパンダ保存の目的で建てられているが、同時に展示を行うことで一つの巨大なテーマパークとなっている。敷地は540ヘクタール、「東京ドーム」64個分、「東京ディズニーランド」10個分のサイズである。すべて徒歩で歩き回ると2時間あっても端までたどり着かない。ここに現在200頭を超えるパンダが生息しており、年1220万人もの観光客が詰め寄せる。入場料だけで年2.5億元(約500億円)、周辺の主要商業地区も含めると売上は約10億元超(約2000億円)にも及ぶ。ここは成都では断トツNo.1の観光地であり、中国全国的にもトップ5に入る集客をほこる施設である。

かといって研究部分がおろそかというわけではない。1994年時点ではこの基地にいるパンダは18頭にすぎなかったのだ。それが2023年時点で237頭と12倍まで増やすことができたのはこのテーマパーク&研究施設による資源集中と商業的な成功もあいまって研究者をも惹きつけ、エンタメと自然保護・教育・学術のハイブリッドがうまくいっていることのなによりの証明だろう。

 

 

このパンダ基地が成都のIP開発に及ぼす影響は無視できない。なぜなら現地で1万社ほどがパンダ関連のグッズを量産しており、MD開発力そのものがパンダからアニメ・ゲームIPに転用されるポテンシャルも秘めている。西柚熊猫社は世界50か国以上で5万体以上もの模型パンダを販売し(これで売上の25%を占める)、創業からたった数年で1000万元(約2億円)をこえたという 。パンダとともに共生してきた成都は、そのケイパビリティを二次元コンテンツに遺憾なく発揮しているのだ。MDとしての再現力も高く、この精度で作り出す商品開発力もある。

 

▲非常にリアルな「生まれたてのパンダの赤ちゃんの人形」というコンセプトの商品

 

▲パンダ基地においてパンダぬいぐるみは数えきれないほどの商品点数となっている

 

 ▲ぬいぐるみばかりでなくフィギュア化、キーホルダー化など商品化のバラエティも十分

 

 

本質的には「研究対象」である動物を、「ショー」の対象としてみるか、「ペット」のようにただ愛好対象とするのか、「展示物」として顧客目線もいれたビジネスへの昇華を行えるのか。動物園・水族館・植物園といった“いきもの"を取り扱うビジネスに携わるものはすべてこのハザマで思い悩むことだろう。少なくとも以前サーカスでパンダに芸をさせていた1970年代のような展示は今後許されないが、ただただ研究対象としてのみ研究者が接しているだけでは、種としてコストをかけて保存していくことに税金を使うにも正統性が保てないだろう。

パンダにとって人気者でありつづけ、「Kawaii」が維持されることによって、この2000頭弱の“脆弱な種"は人間とともに共生していくことができる。これはスポーツやキャラクターにとっても通じるものであり、必要不可欠なものではないエンタメが続いていくためにも通底している話だ。

会社情報

会社名
Re entertainment
設立
2021年7月
代表者
中山淳雄
直近業績
エンタメ社会学者の中山淳雄氏が海外&事業家&研究者として追求してきた経験をもとに“エンターテイメントの再現性追求”を支援するコンサルティング事業を展開している。
上場区分
未上場
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