【連載】中山淳雄の「推しもオタクもグローバル」第47回 リアル“サカつく"―ワールドカップ4年ごとに人生激変!鎌倉インテルFCのオーナーになって目指すはWeb3による「公営化」

サッカークラブのオーナーになる、という壮大な夢をかなえた男がいる。しかもゼロから地元でもない鎌倉という土地で、シンガポールからリモートで事業をしている。資金源は協賛金とクラファンと、Web3トークンだという。あまりにチグハグな組み合わせに一瞬思考がフリーズしかけたが、よくよく話を聞いてみると、これは地方振興とファンダムによる稀有な成功例だということが分かってきた。ひとまず足を運んでみようと、彼が目標として掲げるシンガポールのTampines Hub、そして神奈川県大船からモノレールで3駅のところにある「みんなの鳩サブレースタジアム」を訪問して取材を行った。

 

■シンガポールから鎌倉に新設のサッカークラブを作った2018年

――:自己紹介からお願いいたします。

四方健太郎(よもけんたろう)と申します。J8(神奈川県2部リーグ)にあるサッカーチーム鎌倉インターナショナルFC(通称:鎌倉インテル)の代表をしております。現在シンガポールに在住しており、コロナが始まる前は1ヶ月のうち、2週間はシンガポール、1 週間日本、1週間は他の東南アジアどこかの国という生活をしておりました。この3年は基本リモートでの経営でしたが、最近ようやく日本に渡航できるようになりました。
 

▲“ボーダーを越えて行け"鎌倉インテルのホーム「みんなの鳩サブレ―スタジアム」


――:鎌倉インテルは「海外に展開できる地方サッカークラブ」を四方さんご自身で2018年1月に設立され、Wikiでは「本邦初かもしれない、PPT資料から生まれたサッカークラブ」となっています。なによりシンガポール在住の四方さんが、地元でもない鎌倉でサッカークラブを作った、ということ自体が驚きです。

色々突っ込みどころが多いですよね笑。アクセンチュア出身というところも邪推されて、最初のころは「シンガポールで大富豪になった元コンサルがスポンサーになって作ったクラブだろ」と見られたりもしていました。私自身は色々な経緯があって、コンサルを辞めてから「世界一蹴の旅」としてワールドカップに出場する32か国を1年かけてまわったことでサッカークラブや関係者とつながりが出来、その後独立して教育研修の会社をやりながら始めたのが今回の鎌倉インテルです。


――:じゃあ実際は富豪でもなければ、自腹でお金を拠出しているわけでもない、ということですかね。

本業の教育研修事業で生活していますが、そこはそんなに普通のサラリーマンと変わらないはずです。クラブには10名以上のスタッフがいますが、そこは確かにJ8相当(神奈川2部リーグ)のチームとしてはずいぶんコストをかけていると思います。選手もアマチュアですし、私自身も無給でやってますが、このスタッフ含めた人件費は入ってくる収入のなかでやりくりしている状況です。


――:サッカークラブとしてはどうやって収入を維持してるのでしょうか?

通常J1やJ2といったトップクラブには存在する入場料、放映権といった収入はありません。協賛金と鳩スタの施設貸し出し、グッズ収入と、子供たちのサッカースクールのお月謝、あとはクラウドファンディングやWeb3トークンで支援いただいたお金が主な収入源となっています。


――:新時代のサッカークラブですね!どちらかというとメジャークラブは選手に荷重にコストをかける構造になってますが。

有名選手などにお金をかけて一時の人気でお金を稼いだとしてもそれは「フロー」にしかならず、むしろスタッフ部門の充実のほうが「ストック」になります。動けば動くだけ地元との関係性も強くなるし、ホームページやSNSも増強され、スタッフ部門の人件費を厚くするのはチャレンジングでしたが、やっただけの甲斐があります。


――:そもそもJリーグがJ8まであったことが驚きでした。

実際はJ8というのは無いんですが、J1から数えて8番目のリーグという意味です。 皆知らないですよね。詳しい人でもJ1(18 チーム)かせめてJ2(22チーム)・J3(18 チーム)くらい。Jリーグからのクラブ単位での分配金もJ1(3.5億)、J2(1.5億)、J3(0.3億)のみが対象で、降格すると当然それも減ります。でもその下には社会人サッカー、企業の部活などを中心とするJ4相当(JFL:16チーム)やJ5相当(関東リーグ1部:10チーム)、J6相当(関東リーグ2部:10チーム)とあり、鎌倉インテルとしては神奈川リーグのJ7相当(14チーム)、J8相当(32チーム)、J9相当(117チーム)のなかに所属しています。年間を通して1-2チームしかあがっていけないこともあり、J7~9クラスとはいっても、いつも競争は熾烈です。鎌倉インテルも初年度にJ8に上がることができましたが、今年J7に上がれるかどうかが瀬戸際というところです。


――:J1-3の57チームの下にも何百というチームがいて年1回最大2チームだけが入れる、という状況ですもんね。日本のサッカー人口の底深さを感じます。 

実は今週末が勝負のタイミングで、いま昇級トーナメントのハザマにあるんです(12月18日)。そこで勝てばJ7入り、負けても来年1月の結果次第であがれるかどうか、というところです。


――:鎌倉インテルは設立経緯もそうですが、クラウドファンディングでグラウンド、フィナンシェでトークン募集をしたり、かなり精力的に新しい手法を取り入れられてます。

そうですね、Web3は私自身も考え方を大きく変えられました。実は現在「地方創生」という枠で東北にある某プロジェクトにも関わることになりそうです。この5年間、というよりコロナでシンガポールから出られなくなった3年間の間にいろんなビジネスにチャレンジすることになり、鎌倉インテルの運営方法も様々な革新がありました。鎌倉インテルの成功事例を大学や官公庁、Jリーグの方ともお話する機会が多く、そうした中で私自身も地方創生文脈でいろいろ取り組みを増やそうかと考え始めている時期です。


――:いや、ホント画期的ですよね。シンガポールにいるオーナーがリモートでチームまとめながら、東北の地方創生プロジェクトに関わっていたり。


 

▲“日本出張中" Wi−Fi完備の鳩スタ併設のベンチでリモートMtgする四方氏

 

■ワールドカップ版日暮熟睡男、4年ごとに人生の転機が訪れた24年間

――:四方さんの人生についてお聞きしたいのですが、実は意外にもサッカーをずっとプレイされてきたわけじゃないんですよね?

この仕事しているのと身長が高いのもあって(四方氏は187cm)サッカー物凄くうまいと勘違いされるんですが、実は小学校の2年間と、中学で1年弱しか正式に部活・クラブのサッカーはやってないんです。

小学校でサッカーと野球をやってきたんですが、中学で川崎市の桐光学園のテニス部に入ります。当時桐光はスポーツでも学業でもあの有名な桐蔭学園の2番手で、「桐蔭のベータ版」みたいな学校だったんですよ。でも僕が中学に入った年に、その桐光が準決勝で桐蔭を破り、決勝では味方のGKの退場の10人チームで最後PK戦に勝って選手権に出たんです(1993)。あのときはもう感動の嵐でドーハの悲劇と相まって(1993年ワールドカップ決勝の出場を賭けて日本vsイラクで敗れた。カタールでの試合であった)、学校中が盛り上がったんです。


――:おお、なるほど!じゃあそれでサッカー部に転部したんですか?

ちょうどテニス部の監督と折り合いが悪かったので、中2の冬にサッカー部に入って1年ほどやりました。それでも途中から入ったほぼ初心者だし、身長も当時でも180cmくらいはありましたが、それでも一軍に出られない自分へのふがいなさも感じてました。高校に上がるともう1年上にはあの中村俊輔もいるし、桐光はその後選手権出場の常連強豪校になったので自分には無理だと思ってテニス部に入ってます(桐光は1993、95、96と神奈川代表に選出。その後も2006、08、11-13、15-16、18、21と桐蔭学園・日大藤沢と伍する神奈川サッカー三強の一角であり続けている)

でもJリーグがあり、ワールドカップがあり、桐光がノリに乗っていた時期だから、部活に入らないまでもサッカーに関心ある人が凄く多かったんです。そこで僕自身が同好会をつくって、自分のテニス部の活動がないタイミングに集まったり、公園で遊びながらサッカーはやってました。近所の車のディーラー会社のサッカークラブと試合したり、それが終わったら、当時自宅に会ったマックPCでかちかち戦評つくって教室に張り出しておくと、また新しい人が入ってきたりとか。


――:じゃあ緩くサッカーとはつながりを続けてたんですね。そして四方さんと言えばまさにワールドカップ(W杯)ですが、2022年カタール大会に至るまで24年間、全6回を現地で見続けてきました。最初が1998年、大学1年生だと思うのですが、そもそもよくフランスまで行けましたね?

これ、本当に凄くて、当時VSNという人材会社が論文書いて通ったら1000人単位(一般から500名、内定者・社員から500名)をフランスW杯に連れていくっていう企画があって、そこに通ったんですよ。渡航費、ホテル代から現地での船上パーティ代から全てですよ。メイテック創業者の関口房朗さんの発案ですが、これで人生変えられましたね。大学1年生のときの6月です。


――:僕も人材派遣業界にいたので知っています。入社式で闘牛したり、ボブ・サップを招待するような凄い発想の会社でしたが、ホントバブル時代の就職って凄かったんでしょうねえ・・・

英語は高校でちょっとホームステイしたくらいでほとんど話せず、大学あがったばかりで右も左もわからない僕が一番若い年代としての参加者でした。大学院生や社会人まで連れ立ってフランスにいき、世界中のいろんなところから人が来ていて、夜は夜で22時超えてもパーティをしている。もうめっちゃくちゃ刺激になったワールドカップで、あのVSNの1998年がなかったら今の自分はないですね。パブロフの犬のように、「ワールドカップ」と聞くと涎が垂れるようになってしまった笑。思ってみたら、その時に見たのも「日本VSクロアチア」でした(本インタビューはカタールWC決勝の1回戦日本VSクロアチアでPK戦負けの直後に行っている)。


――:20歳前後の学生にとって、とんでもないゴールデンチケットですよね。大学は4年間テニスサークルにいらっしゃって、2002年にアクセンチュアに入社されます。これは02年の日韓ワールドカップのタイミングでもありますよね?

実は日韓WCがアクセンチュアに入社した理由でもあるんですが、“ワールドカップ・パブロフ"になっていた僕としては、社会人1年目で入社した新卒はWCのために休暇なんかとれないだろう、1年就職遅らせようかと考えていたくらいでした。普通の企業に就職活動ができなかったところ、当時アクセンチュアは通年採用で4~10 月の自分の好きなタイミングで入社希望が出せたんです。


――:パブロフ!なんと入社 時期を遅らせてまで行こうと思ってたんですね。たしかに4年前のフランスで原体験があって、そのくらいサッカーに傾倒していたんですね。それで02年8月からはコンサルバリバリという感じですね。

2-3年もするとグローバルプロジェクトに放り込まれ、上司はフランス人みたいな環境で英語も鍛えられていきました。のちに一緒に「世界一蹴の旅」をする村上アシシ※は2年上の先輩でしたね。
※村上アシシ:村上敦伺(むらかみあつし)氏は2000年にアクセンチュア入社で06年に個人コンサルタントとして独立、四方氏とともに『世界一蹴の旅』の執筆者であり、その後2017年には『半年だけ働く。』(朝日新聞出版、2017)も執筆している


――:入社後4年を経ての3回目、2006年ドイツWCはどうだったんですか?

まさにコンサル5年目で多忙を極めていて、実はその時は「もう、今回はいかなくても・・・」とか思っちゃってたんですよね。当時はまさかその後7回もコンプリートするような人間になるとは思っていなかったので・・・

でもまさに先ほどのアシシが2005年の休暇中にドイツのコンフェデレーションズカップなどでサッカーにドハマりしたんですよ。「日本やべえ!日本やべえ!」って騒ぎだして、ずっと見てきた僕からすると「何をいまさら」という感じはあったんですけど笑。 

――:「大人になる」ってそういうことですよね。フツーは仕事に忙殺されて、学生時代のそういう気持ちを整理して、それなりの優先順位をつけていく。まさか、そのキャンペーンが再びゴールデンチケットに、、、??

村上はいい試合が当たらなかったようで、「どうだった!?」と聞いてきたんですよ。あれそういえば俺も申し込んでたな、とホットメール(Gmailもない時代!)を探ってみたら「表題:おめでとうございます」の文字が・・・笑。2枚ペアチケットが当たってました。


――:なんとなんと!それで村上さんと行くわけですね。

村上もぜひぜひぜひ連れて行ってくれというので、ちょうどプロジェクトの区切りで上司も2週間休暇をくれたこともあり、ドイツに行ってきました。村上もせっかくだからキャンピングカー借りてドイツ中をまわろう!と周遊したことが、まさかその後の4年後に世界一蹴の旅につながるとは・・・。


――:そういえば2006年に中国に赴任してますよね。それはWCから戻られたタイミングですか?

はい、その後中国プロジェクトに派遣されて、1年間大連、その後1年半上海にいました。ただもっと大きな転機は、そのあたりで日本から戻って来いといわれたんですよね。それじゃあ面白くないなと思い、そのまま中国アクセンチュアに転籍して、現地採用として残ることにしました。


――:駐在から現地採用への切り替えですね。かなり珍しいですよね。特にコンサルでそういう道を選ぶ人は聞いたことないです。

欧米だと給与水準も良かったりするからケースとしてはままあるんですが、中国ではアクセンチュアでも一例目だったと思います。その後も・・・たしかに僕以外はいないかもしれませんね笑。給与も2/3くらいになるし、それなりに覚悟がいることだったので。


――:これはなぜそんな決断をされたんですか?

うーん、その後のキャリアでもずっとそうなんですけど、「振り返るとよくそんなアホなことするな」という決断を僕はよくしてきたんですよね。それなりに身分があって普通ならやらないことだけど、その時はもっと中国に骨うずめてビジネスしたほうが面白いと思ったんですよね、単純に。待遇とかキャリアとかじゃなくて、こっちのほうが面白いじゃん、みたいな。


――:でもさらに驚くのは2010年のこれまた南アフリカWCのタイミングで退職するんですよね、中国アクセンチュアを。

実は村上はすでに退職後(2006年に独立)だったんですが、僕が中国にいたタイミングで、業務委託で日本アクセンチュアから派遣されて一緒の場所で働いてたんですよ。隔週くらいで飯を食いながら「俺は半年働いて、半年旅をしながら暮らすんだ」といっていて、ホント羨ましかったんです。僕は結構タフなプロジェクトに突っ込まれてヒーヒーいってるなかで、彼のほうが要領よく自由に生きている気がした。

そうして話してるなかで、「次はユーラシア縦断かな~」とか「アフリカ全土まわってみようか~」とかアイデア出している中で「何かテーマあったほうがよくないですか?ワールドカップ出場国32か国いってみるとか」と出てきて、じゃあそれでいこう!と。


――:それで退職されたんですね。毎回、4年間の旅に人生が激変してますね。ここまでの4回全て。まるでWC版の『こち亀』日暮熟睡男(ねるお)のような笑。

※日暮熟睡男:『こちら葛飾区亀有公園前派出所』に登場する架空の警察官。4年に1度の夏季オリンピックにしか目覚めない設定で、1980年モスクワから2021年まで計14回登場した。

 

■世界一蹴32か国の旅とシンガポール移住、鎌倉サッカークラブ構想 で市議会議員とカフェのマスターと意気投合

――:98年フランスWCデビュー、02年は就職遅らせての日韓WC、06年は 中国赴任につながったドイツWC、そして退職して世界の旅に出る10年南アフリカWCですね。ちょっと驚きますが、欧州はまだしも南ア、カメルーン、ガーナ、コートジボアールなどのアフリカ圏、チリ、アルゼンチン、ウルグアイ、ブラジルなどの南米圏、そして北朝鮮にまで行っています。

たぶん時代が違っていたらYouTuberになっていたかと思います。アメブロでブログを発信しながら、「北朝鮮にはいりましたー!」とかLive配信までやっていましたからね。ブログは最高潮のときは20万Viewいきましたし、テレビなどマスメディアからの取材もたくさんきました。一番みられた記事は「長友選手のお姉さんがカワイイ」でしたけどね笑。南アで背番号5番つけた家族がいて、取材したら長友選手の実姉で、写真とっていいよというので記事にしました。バズりました。
 

▲北朝鮮訪問時の四方氏と村上氏
 

▲世界32か国の旅の企画書


――:もともと村上さんも四方さんもバックパッカーだったとはいえ、なかなかチャレンジングな旅をしましたよね。基本的に観光ではとても行かないような国も交じってますし。

21世紀の猿岩石をやろう!だったんですよね。カメラマンがいたり、仕組まれているものではなく、完全に自分たちだけで撮影から編集まで全部やって。スロベニアではラジオで取材されたこともあって、町であった人に「君が32か国をまわっている日本人かい?君たちスロベニア中で有名になっているよ」とまで言われてしまって。でも全世界でサッカーファンが言語わからなくてもつながれたり、どのサッカー協会にいっても快く迎えて頂いたり、もうサッカーに関しては良い思い出ばかりなんですよね。


――:このあたりで、メディアデビューもして四方さんのサッカー業界とのつながりも増えてくるのでしょうか?

はい、そこで選手や海外に興味があるクラブともつながりました。ちょうどJリーグがアジア展開戦略を掲げていて、僕も2014年に「アジアサッカー研究所」を作ります。Jリーグの十数クラブに面談アポイントをとって、アジア展開活動の役にたてないかという活動を続けてきました。

仕事のほうも、旅から戻って「世界における日本のプレゼンス向上に貢献する」というミッションを掲げて、2011年に企業研修事業 を立ち上げます。これが現在、日本とシンガポールなどでやっているスパイスアップという会社です 。


――:2014年はブラジルWCのタイミングでもありますね。

結婚して、 子供が生まれてまだまだ小さかったのですが 、友達とブラジルにいってましたね笑。例によってそこでも転機はあり、ブラジルWC後の14年8月にシンガポールに移住しています。これはスパイスアップの仕事と、アジアサッカー研究所の仕事ですね。


――:タイのチャナティップ選手(Chanathip Songkrasin)選手が2017年に北海道コンサドーレ札幌に移籍したことで、その後タイでのJリーグ人気が沸騰。Jリーグの映像販売が東南アジアに広がるきっかけを作りました。Jリーグは確かにこの時期からアジア展開を積極化されてましたよね。

あれもチェアマンの野々村芳和さん(元コンサドーレ代表取締役会長、現Jリーグチェアマン)の先見の明あってこそではないかと思います。でも勢い込んで研究所を立ち上げましたけど、なかなか難しくて。毎週のように試合があり、目の前の膨大なタスクに積まれている各クラブ単位で、実際に海外展開の話にリソースを割ける状態じゃない、ということを数十クラブと話しながら徐々に理解していくんです。担当者レベルでは意気投合できても、クラブとして国際 化の機運が高まるようなケースはほとんどなかったんです。

一応研究所の動きもあってアジア戦略にのってきてくれたクラブはアビスパ福岡、川崎フロンターレとFC琉球でしたね。


――:野球に比べるとサッカーやバスケは比較的外国人選手の比率も多いですし、世界競技人口もみると海外化しやすい競技ではありますが、、、ただどのクラブも限られたスタッフでまわしている中で、海外にと目を向けられる組織はほぼないのが現状でしょうね。

自分自身、そんなことが理解できるのにも3年かかったんです。2017年になって、「目の前のルヴァンカップより、将来の可能性が大きい海外展開のほうが大事じゃないか!?」とシンガポールで息巻いていたころに、仲間たちと呑み交わしながらサッカー談義をしている際に「じゃあ自分でクラブ作っちゃいなよ」という話になったんですよ。


――:そうそう、場所はどうして鎌倉になったんですか?

出身の横浜だったら分かりやすかったんですが、すでに横浜F・マリノス、横浜FC、Y.S.C.Cと3つもクラブがあったんですよね。それで、どこか国際都市でまだサッカークラブがないところ、と東京・大阪・横浜あたりで探して「鎌倉じゃないか?」となったんです。


――:でもまだその時は鎌倉には縁もゆかりもないんですよね?クラブづくりってどういうところから始まるのですか?

その次の日本出張のタイミングで知人 さんから紹介されて、鎌倉市議会議員の永田まりなさん(鎌倉高校出身でミス鎌倉としてテレビリポーターの仕事の後に2013年に鎌倉市議会議員。19年からは神奈川県議会議員)に会うんですよ。2017年6月です。「なかなか政治家に会うことなんてないしな」と思って、あわててそこで鎌倉インテルの構想とロゴマークを作ってプレゼン資料を用意していったんです。


――:それが「パワポから生まれたサッカークラブ」につながるんですね笑。

まああっちもシンガポールから来た男がなぜか鎌倉に国際的なサッカークラブの話をするというので??だったとは思います。選手も監督もいないし、そもそもお金もあるわけじゃないですからね笑。

その時に実は一つゴールとしてお見せしたのが Our Tampines Hubなんです(本インタビューは一部Tampinesで行われた)。5000人収容のサッカー場、このピッチを囲むように5階建の建物が併設され、体育館やアリーナ、フットサル・テニスコートからボーリング場まであります。なんなら図書館や保育園、介護施設から飲食店まで入り、各所で映画をみたり、ヨガやスポーツをやっている「コミュニティ」がある。

――:いや、これすごいモールですよね。決してメジャーな場所ではないんですが(Changi空港西に車で10分、都心からは東に車で20分の距離)、「スポーツを中心にして過ごす」ことをこんな形にまで追求した場所を私はほかに知りません。

シンガポール政府もActive Singaporeといってスポーツがそんなに得意ではないこの国に健全なスポーツ文化を根付かせようとこういった巨大な組織を何億ドルという予算でつくったんです。これをモデル施設として、今まで多くのサッカー関係者を招待してきましたが、皆一様にこのサイズと実際に現地コミュニティ感に驚かれます。

 

▲Tampines Hub、外観は大きなショッピングモールだが、中には大きなサッカー場が
 

▲サッカー場を取り囲むようにエクササイズスペースが幾つもあり、市民がヨガや映画に興じている

 

▲上の回廊はランニングできるスペースでプールや図書館、フィットネスジム完備


――:永田さんの反応はどうだったんでしょうか?

「え、コレすごくなーーーい!?」って笑。え、この人、素になるとこんな人なんだってくらい驚いてくれました。その後、松尾崇市長のホームページでも紹介されることになります。

いずれJリーグにあがるとしたら、スタジアムも必要だよねというのでGoogleMapで探してたら湘南深沢の大きな空地があるのに気付いたんですよ。この永田議員との話の後にもちょっとこの場所も視察しておこうと思ったら、もうカフェも何もないような雰囲気の駅で・・・

 

▲湘南モノレール「湘南深沢駅」の目の前に現在は鳩スタが広がっている

――:あまり賑わってるエリアとは言えない感じですもんね

実はそこで電話会議をする必要があって、ふっと入った駅前のカフェ(「ブックスペース栄和堂」)で、本屋を改装したコワーキングできるような場所でした。そこでひとしきり電話会議20分終わったら、ふとそのカフェマスターと話がはじまるんです。

「いまどき本屋じゃないだろう?だからさ、俺はここを引き取って改装してね。ここではライブやトークショーをやったりね。人が集まる場所にしたいんだ。」
「僕もこのへん初めてなんですが、目の前の大きな空き地に何かできればにぎやかになるんですかね。」
「俺はね、ここにはサッカーチームが来たらいいと思ってるんだ」

もう“呼ばれている"としか思えなかったですね。僕の鞄の中には、先ほど永田議員にプレゼンした鎌倉インテルの企画書の残りがありました。ふっとそれを見せると、僕もマスターも鳥肌が立つような衝撃でした。「四方さん、これ、本気ですか?」と。

――:できすぎたドラマのような話ですね。議員と話して、グラウンドになりそうな空地を視察したら立ち寄ったカフェのマスターがサッカー構想を持っている 人だったと・・・そもそもその場所ってなんで空地だったんですか?

そのマスターが説明してくれたんですが、昔ベイスターズの2軍の本拠地にする話がとん挫したり、ショッピングモール建設プランも地元住民の反対で凍結したりしたまま、放置された「いわくつきの場所」だったようです。所有としてはJRなんですが、地元が賛成できるような開発アイデアが合意されず、もてあましたまま何かコミュニティに貢献できるものを探していた。たぶん鎌倉に限らず、こういう場所って日本中にあるんじゃないかと思います。

――:そこにヨソモノとしての四方さんが突然サッカークラブ構想を携えてやってきた、と笑 。そのマスターはいったい何者だったんですか?笑

和田正則さんという方で、昔湘南高校で高校選手権にもでてた人で、その後鎌倉インテルはよくこの栄 和堂を拠点に会議していたり、鳩サブレースタジアムつくるときには和田さんのご尽力には頭が上がりません。和田さんは現在鎌倉インテルの“会長"職についていただいてます。(後日和田さんからは「普通のサッカー経験者では持ちえない視点があり、国際化、ビジネスマインド、人材育成などふつうなら出てこないワードがどんどん出てきて本当に新鮮だった」というコメントが残されている)。

 

■J9から始まるリアルサカつく。マレーシアで選手を置いてけぼりにしたサバイバル育成術から「みんなの鳩サブレ―スタジアム」の建設まで

――:2018年ロシアWCの期間に、四方さんはシンガポールから鎌倉インテルを作ります。これが6回目のターニングポイントですね。設立は実際には2017年11月に18年度シーズン参入を決断します。

「鎌倉発、日本初。徹頭徹尾国際化を意識したサッカークラブ」と謳い、「古都鎌倉に、今までの常識をくつがえす、まったく新しい国際型/サッカークラブを通じて、日本や日本人を国際化する」という目標を掲げました。

アジアサッカー研究所やっていたおかげでネットワークだけは広がっていました。最初に声をかけたのは鳥谷部 史、野村総研に勤めながら、ザスパ草津の立ち上げにも協力していた 方で、彼からは鎌倉に移住することを止められました。「鎌倉インテルは最初から海外を目指すというコンセプトこそがユニーク、四方くんがシンガポールに居続けて海外とのパイプをつなげ続けるから意味があるんだ」と。鳥谷部さんには色々メンターのようにアドバイス頂いてます。

もう1名が、吉田健次、今鎌倉インテルのGMをやってもあっており、以前カンボジア1部の「アンコールタイガーFC」を私財500万円投じて存続させ、GMとして活躍していた男です。鎌倉インテルは彼が最初に地元とパイプづくりをして巻き込んでいったからこそ出来上がりました。


――:鳩サブレ―スタジアムもまだ未整備の時代ですよね?どうやって選手集めていったんですか?

鳩サブレースタジアムの開所は21年10月ですからね。最初はホント場所がなくて市内のフットサル場を借りてやっていました。最初の練習は選手1人、翌週に2人。3回目には4人になったけど、いたのが女子マネジャーと小学生の男の子。ホントそんな感じのところからスタートしたのが2018年初頭でした。


――:なんとか人をそろえないといけないわけですよね?

神奈川県リーグの開幕が2018年5月でしたね。3月に練習試合を組んだけど、まだ選手がいない状態でした。2月頭にFacebookで鎌倉インテル設立を発表してなんとか募集しまくって、ギリギリようやく集めた人員で3月3日の試合に臨みました。結果10-1でデビュー戦で勝利を飾るんですが、あの試合は本当にハラハラドキドキでした(2018年末時点で実績は24試合で21勝3敗、登録選手45名、外国人選手1名)


――:著書拝見しました(『ビジョナリーサッカークラブのつくり方』)。面白かったのは、デビュー戦3月から18年夏に急造チームでに海外遠征でシンガポール・マレーシアの試合に連れてきている。これだけでも前代未聞ですし選手に本気度が伝わったと思いますが、さらにジョホールバルで選手を全員「放逐」します。

シンガポール1部チームと試合、ジョホールでジョホール・ダルル・タクジム(マレーシアリーグNo.1クラブ)との試合後に、選手を4グループにわけて「スタッフはタクシーで帰ります。皆は歩くなり、ローカルバスを使うなりしてシンガポールの野口さんの蕎麦屋に翌日12時に集合してください。」と告知しました。

選手は皆目が点になってましたね笑。でも電波少年じゃないですが、海外で勝負をしていくというのはこういうことだというのを伝えたかった。英語しゃべる選手はほとんどいませんでした。LINEで随時報告はもらいながらだったので危険なことにはならず、グループによっては現地人と仲良くなったりしながら陸路で歩いてきたグループもあります。もう全員が“いい顔"で戻ってきました。


――:いやー鍛え方がさすが四方さんという感じですね。18年12月、さっそくJ8への昇格を決めました。その後、どのようにスタジアム構想は進むんですか?

サッカーで試合に勝ったからと言って、勝手にスタジアムなんて作れませんし、そもそもお金もありません。まだまだ信用力も足りません。ただ、口に出していたことで、支援者が集まってきたのは事実です。地域の企業や、篤志家の方、はたまたインターネットを介して、遠方の方々からもスタジアム建設のアイディア自体も応援されるようになってきました。19年シーズンもグラウンドを自前で作るなんて言うのはまだまだ夢のような話だったのですが、20年シーズンの後半に徐々に現実味を帯びてきます。ところが、どうしても予算上あと3千万が足りなくなってしまった。そこでクラウドファンディングで資金を集めようと。それで20年12月に始めたのがCampfireのクラウドファンディングです。
 

▲2020/8~9で349人から260万円集めてコンセプトムービーづくり
 

▲2020/12~21/2で199人から3200万円の募集を集めて芝生スタジアムの設立
 

▲2021/5~6で449人から520万円を募集してクラブ公式グッズを制作
 

▲2022/2~3で460人から1100万円集めて子供も遊べるパークの建設


――:これまで4回クラファンをされ、約5千万円を調達されています。毎回数百名とはいえ、1人当たり数万円~数十万円といった金額が集まっています。これはどのように実現してきたのでしょうか?

地元のサッカークラブって結局「鎌倉」とのつながりがメインじゃないですか。活動としてはサッカーの練習は当然ですけど、同時に地道に地元との結びつきを深くし続ける必要があります。それっていわゆる政治家がやっている活動と同じで、ゴミ拾い活動に参加したり、イベントがあると出展して催し物としてサッカー関係のイベントをしたり。ちょっとずつ認知度が広まり、地元の人たちからの信頼も集まってきます。結局寄付してくれている人はこうして足を運んで手を動かしてつながった人たち、というのはあります。

鳩スタの建設にあたっては「芝生1平米あたり3万円のオーナーシップ」を販売しました。誰もが鎌倉インテルの芝生のオーナーになれるという形で支援額を集めていったんです。


――:そうはいっても他のプロジェクトではこんなにうまくいかないですよね。特に3,000万というのはクラファンのなかでも相当高額なプロジェクトに入ります。

最初リブランディングのためのロゴマークづくりで260万円集まったところでも相当驚きだったんですよ。もう鳩スタで3000万足りないと聞いてお手上げだったので、「もう開き直って集めるしかない!」という感じでした。いかなかったらもう首くくるくらいしか方法ないよね、という瀬戸際で。そしたらグラウンドを皆でつくるんだ!フィールドオブドリームだ!とネットで皆が盛り上がってくれて、結構高齢のおじいちゃんたちも含めて買ってくれた。街のお店やクリニックなどが10口買ってくれたり大口の企業さんが出してくれたり。

もうCRM(カスタマーリレーションマネジメント)に尽きます。クラファンといいながら、Campfireを知らない高齢の方々もいます。PCもっていないからと現金を事務所にもってこられた方もいました。そういう方をシステムではじくことなく、事務所で受け付けてリワードは手渡しでお渡ししたり、そのようなあたたかい顧客対応、ファンマネジメントをきっちりやるということはこだわりました。

――:しかもこの時期はコロナのロックダウン期でしたよね。こちらの影響はあったのでしょうか?

実は相当焦りました。僕の本業の海外研修事業も、コロナ禍のあおりで各企業が一斉に予算を絞っていった時期で、一時売上ゼロにもなったんです。また鎌倉は鎌倉で、一切自分が現地にいくもできず、皆の士気をおとさずに運営していかないとならなくなった。ちょっとしたパニックでしたけど・・・これは皆が経験したことでもありますけど、実はそれはそれでできるような方法を皆模索しましたよね。まるまる1年半の間は一度もシンガポールから出られませんでしたが、実はその期間も活動は止まることなく、鎌倉インテルも推進しました。

残念ながら公式戦の開催もイレギュラーになってしまって、20~21年はJ8からの昇格ができなかったことは悔やまれます 。


 

■民から始まる地元サッカークラブ。「公営化」を目指してWeb3で利益を共有できる仕組みづくりへ

――:クラファンを通して今鎌倉インテルはどういうステータスなのですか?

鳩スタが2021年10月に完成しました。すでに1軍〜3軍にわたる選手は合計約80人が在籍、そこにフルタイムのスタッフが約10人、監督やコーチ、プロボノメンバーやスクール事業もしているジュニアの子供たちも含めると、もう350人以上もの人が関わるクラブになりました。

そこに「芝生1平米オーナー」さんたちが1000名近く、公式ファンクラブ「インテル友の会」が300名、単純計算でも1700名以上もの人たちが関わっているクラブになってきています。SNSのフォロワーも入れると一桁増えます。

 

▲個人の方が寄付金出したが広告するものが特にない、となり、“推し広告"として関係者の参画インタビュー連載『鳩スタ殿の13人』サイトを掲げている


――:個人的にぜひお聞きしたかったのは鎌倉インテルとしてのフィナンシェトークンの発行です。よくWeb3の領域に展開されましたよね?

最初は怪しいと思ってましたよ。後輩が渋谷シティFCでやっていて 、よくもまあそんな金額を集めるなと斜めにみていたところもあります。僕自身がWeb3に詳しかったわけでもないんですが、実はきっかけは南葛SCでした。21年7月にあの「キャプテン翼」作者の高橋陽一先生が運営するJ6相当の南葛SCが3日間で2,000万円を集めた。これは何かこれまでと違うものが動いているぞということで、フィナンシェの田中隆一さんに話を聞いたんですよ。そのときも猜疑心があって「どんな仮想通貨野郎がでてくるんだ!?」とか斜めに見てたんです笑。


――:仮想通貨野郎(笑)。確かに界隈に多いですもんね!

あそこで、ものすごい投資や投機の匂いがしたらやめていたと思います。鎌倉という地域の信頼を受けて動いているチームなので、そういったリスクあることをすべきじゃないと思ってて。そしたら、過去にコンサルティング会社での経験もある 真っ当なビジネスマンで、インターフェースもかなりきちんとしていて。Web3について一個ずつきちんと説明してくれて、「これは、知れば知るほど、クラウドファンディングの成功体験とつながるな」と思いました。


――:どのくらい集まったのでしょうか?

1回目(21年9月)が約2300万円、2回目(22年4月)が約1600万円、そして現在1月中旬までの間で3回目のトークン保有者を募集している状況です。現在までのところ、トークン保有者は約1100人となっています。


――:なぜ鎌倉インテルにはこれだけ支援者が集まるのでしょうか?

ビジョンに共感してくれているというのがまず最初のポイントです。壮大な目標を掲げたことで、初期これだけ優秀なGM、スタッフ、選手が入ってくれたのは明らかに「国際的クラブになる」という最初のビジョンありきでした。

それに加えて、やはりCRMが大きいと思います。一人一人声かけたり、説明会をしたり、「四方さん、よくそんな面倒なことまで」とよく言われます。でもそもそも、売り切りの商売って昔からそんなにあるんでしたっけ?そもそも企業だろうと公的な組織だろうと、本来カスタマーとのつながりってこういうことを当然のようにやるものじゃなかったのかなと思います。お金をもらうって、こういうことなんだと思って、やってます。


――:本当にその通りですね。大量生産大量消費のタイミングで我々の感覚がバグったような気がします。手をかけることなく「いい製品つくればファンがたくさん買ってくれる」というディストリビューションモデルが出来上がってしまって、IPOだって本来は株式を買ってくれる人たちと丁寧にIR・コミュニケーションしなきゃいけない責務をもっている。上場企業って「公器」なわけですからね。でも期待値先行でトランザクションだけ派手な「市場」が巨大化したことで、その面倒さに手間をかけることを忘れてしまった。

そうなんです。ここまでクラファンもトークンもうまくやってるので、簡単にやってきたように見えるかもしれませんが、実は毎回毎回瀬戸際のなかで頭下げまくって足つかいまくってなんとか目標額までもってきたというのが正直なところです。


――:NFTがそうでしたけど、認知度と正比例じゃないですよね。むしろ頑張っている姿をみて、皆が持ちあげるんだという「同じ船に乗る」という経験がプロジェクトを押し上げてくれる。

選挙とかも似てるんじゃないでしょうか。左うちわで誰が推しても当選するだろうと思っている候補者がふっと落ちたりするのってそういう現象なんですよね。危ない、我々がなんとか支えてやらないと、そういう一生懸命さと瀬戸際さがあって、はじめて皆が動く。きちんとコミュニケーションして自分たちが支援を必要としていること、支援が何のために使われて出来上がった成果をもってきちんとお返しする、そういうプロセス全部込みでのCRMだと思ってます。

そういう意味では市民サッカークラブより企業クラブって意外に「ファンがいない」んですよ。「我々が支えている」という感覚がなくて、むしろ「なにかあったら親会社が助けてくれるんでしょ?」というのがあって。

 

▲鳩スタ横の事務所で休日にもスタッフが集まって会議中

――:そうなると「企業が宣伝でやっている」という色をいかに脱色して、プロジェクトを動かす人間がどんな思いでどんな苦労してやってるのか、その人間たちを推すという意味で「本来の上場企業の在り方に戻った」形でWeb3トークンがあるのかもしれませんね。クラファンとトークンの違いはどう思われますか?

全然違いますよね。クラファンは一度きり、トークンは運命共同体になれます。クラファンはそもそも力業でなんとか集めていたところがありました。富裕な地元の名士にお願いして、おりゃーという感じで大きな額を集めるというのが昔からある地元スポーツクラブの生存方法でした。


――:トークンは株式保有に近いですよね。一度お金は預けてトークン化するけど、その価値があがれば皆が喜ぶ。

しかもデイトレやトランザクションで儲けようという人たちじゃないんですよ。ロングホールドし続けてくれている。そういう人たちには、株式と違って、インカムゲインとしての配当があげられない。それなら鎌倉インテルの価値自体をあげていけば、キャピタルゲインとしての含み益がある状態で「トークンもっていてよかった。もっと上がるかも」という気持ちのなかで継続して支援をしてもらえる。本当に同じ船にのってもらえている感じがあります。

いろんなアイデアありますよ。自社株買いならぬ、自社トークン買いもしてみようかなと思ってます。


――:面白いですね!自社トークン買いで 、発行株あたりの価値をあげるっていう方法ですね笑。これから先、鎌倉インテルはどうなっていくと思いますか?

鎌倉インテルは5年前の僕のPPTのなかのアイデアから始まりましたが、もう1,000名以上を巻き込む一大プロジェクトになっており、だんだんPublic Commons(共有財)になってきているなと感じるようになりました。「俺が作ったぜ!」みたいな感覚ってほぼ無いんですよ。いつも白旗あげるように協力を仰いで、助けてくれる人たちが支えて、鳩スタもできたし、チームメンバーも増強してきた。むしろこの鎌倉インテルが作り出している「鎌倉の人々」を結びつける力だったり、動いてくれている機構そのものが、鎌倉市や公的なものの役割を補完しているような気持ちになっています。


――:その事例は最近よく見かけます。「公共」っていつも国とか自治体におしつけられてきたけど、仕組みがトップダウンで作られる時点で人々の望む「公共」の理想とはズレが生じてくる。わりとボトムアップで民がつくったもののほうが営利なのでよっぽど公共性を担保しているなという事例をみます。

皆のためにってつくられた自治体が、なんでこんなに皆に文句いわれるのかと思いますよね。しかも税金使ってるからとプレッシャーも大きく、中にいる人は過大なプレッシャーのなかにあって、ものすごい制約のなかで働いている。だったらトークンで皆が利益者になって、文句言っているヤツがDAOでまわしていきゃいいじゃないか、と。もう今後メタバースもあればリアルにもリモート社会になって住居すら選択的になっている。僕のようにシンガポールいても鎌倉のクラブを立ち上げられる時代です。そういうなかで「選択される場所」になるには、公共の機構自体を変えなきゃいけない。

――:そうなると鎌倉インテルの事例は本当にインサイトにあふれてますね。

よく「民営化」っていいますけど、なんか今後逆の動きがありえるんじゃないかと思ってます。社会に本当に必要なものを民間が生み出して、最後は公共にお返しする。民で必要なところまでもっていったら最後は「公営化」していくんじゃないかと思うんです。僕の存在が全く消えて鎌倉のものになるところが、鎌倉インテルのゴールなんじゃないかと。

――:WCに人生を変えられ続けた男としては2022カタールWCのあとの変化はまさに「日本の地方創生の変革」かもしれませんね!

 

【祝】取材後、アルゼンチンVSフランスでカタールワールドカップが決したその日に鎌倉インテルは神奈川2部リーグ優勝、J7相当の神奈川1部リーグへの昇格を決めた。


鎌倉インテル第三期トークン保有者募集中(1月中旬まで!)
https://financie.jp/users/kamakura_inter/cards

会社情報

会社名
Re entertainment
設立
2021年7月
代表者
中山淳雄
直近業績
エンタメ社会学者の中山淳雄氏が海外&事業家&研究者として追求してきた経験をもとに“エンターテイメントの再現性追求”を支援するコンサルティング事業を展開している。
上場区分
未上場
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