【連載】中山淳雄の「推しもオタクもグローバル」第84回 華僑になった日本人:難易度AAA、世界最大の中国市場で日本ゲーム展開に挑戦

中山淳雄 エンタメ社会学者&Re entertainment社長
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中国モバイルゲーム市場は4.5兆円、日本の約3倍である。2010年代を通じて「世界ゲーム市場の半分は中国」と言われる巨大市場を形成しながら、むしろ中国市場の展開の難しさに日系企業は撤退の一途をたどっている。ちょっと5年前にでも遡れば日本のゲームももてはやされ、輸入しようとMG(ミニマムギャランティー)を積んで獲得されていたのだが、いまではあまり見向きもされない国産ゲームの牙城のような市場になってしまった。Switchの公式許諾が出たのが2019年、世界に冠する任天堂・ソニーのゲームがようやく中国展開できるようになったのもつい最近の話なのだ。果たして中国に日本のゲームは根付くのか。今回はインディー・カジュアルゲームなど草の根での中国進出活動を行っているゲーム会社社長の高橋玲央奈氏に話を伺った。

 

【目次】
世界最大のゲーム市場を目の前に、続々と撤退していく日本ゲーム企業
小6からゲームソフト開発のスーパー中学生、早熟すぎた天才が就活に至るまで
30歳初ディレクター作品ウルトラマン、いきなりモヒカン・ウルトラマン化して円谷ドン引き
「Pacman」「クレヨンしんちゃん」で中国展開、語学ゼロから半年で中国人妻に求婚
華僑となり、移住後にコロナとなった。中国在住6年でみえた世界

 

■世界最大のゲーム市場を目の前に、続々と撤退していく日本ゲーム企業

――:自己紹介からお願いいたします。

高橋玲央奈(たかはし れおな)です。現在日本ではグラティークというゲーム会社、中国では厦門玲央奈軟件(レオナソフトウェア)有限公司という会社を運営しております。いま中国側では厦⻔(アモイ:上海と香港の間にあり、どちらからも飛行機1.5時間の距離)に拠点があり、主に総経理の薛(セツ)と2名に業務委託の10名程度を入れて、日本ゲームの中華圏展開、中国ゲームの日本or第三国展開をしております。

――:いま上海のインディーゲームイベントWePlay(中国版のBitsummitのようなもの)で取材をしております。

はい、弊社もこちらにブースを出して出展しております。日本ゲームの中国展開代理店の役割をしていて、コロナ禍以降中国に気軽に渡航できなくなった企業様のゲーム・プロモーションを共同ブースの形で出しています。今回もってきているゲームの目玉はビサイドが手がける『LoveLive!』シリーズの最新作「幻日のヨハネ – NUMAZU in the MIRAGE –」ですね。

 

 

――:コロナの3年間でほとんどの日系企業が中国市場展開をストップさせていました。そうした中で現在もこの市場に向けて展開に熱心な企業ってあるんですか?

「中国にいるゲーム会社、オレ以外いない説」というのがあって。僕も中国に住み始めて6年くらいなんですが、この期間はむしろ「日本企業が撤退していく」歴史だったんです。もちろんバンナムさんとかコーエーさんとかDeNAさん、KLabさんとか上海のゲーム会社はまだいくつかあるんですが、他の会社のものをもってきて展開するような事業をやっている会社ってウチ以外見たことないんですよ。

――:確かに中山も2014~17年くらい、日本のモバイルゲーム買いたい需要といろいろやりとりしてきましたが、ホントに聞かなくなりました(『ミリオンアーサー』『FGO』『刀剣乱舞』など様々に展開されたが、2019年『バンドリ!』2020年『プリンセスコネクト』が出た時期を最後に、日系タイトルの展開は急激に減少)。

輸入ゲームでどうにかなる市場じゃなくなりましたよね。もはやオンラインの世界では世界最大のゲーム市場が中国でしかも売上の9割以上が中国産のゲーム。他国企業はそもそもパブリッシュできないですし、中国の提携先に任せるとしても外国産ゲームには「版号」が必要で内容を確認して半年~数年かけて許可を得てリリースするような状況です。2017年を境に、オンラインゲームの許可が厳格になり、2018年に審査が半年以上ストップする事態が起こり、その後ようやく許可申請はじまったとはいえ、海外のゲームで中国市場に届いているものはほんの一握りです。

――:こちらIPForwardさんの資料ですが、海賊版で「盗る」市場から、土豆・Bilibiliなど映像会社がアニメを、Tencent・Neteaseがゲームを「買う」市場だったのが2012年ごろ。そこから版号による外資コンテンツ締め出しなどによって、自国で「創る」市場ができたなかでmihoYoのように「創る」で世界的成功を収めるゲーム会社もでてきました。

出典)前瞻産業研究院「中国移動遊戯行業研究報告2020」ほか

 

――:だからこそ、今回のWePlayで大変驚きました。バカーの斎藤さんがにゃるらさんと作ったインディーゲーム「Needy Girl Overdose」が100万本売れていて、インディーゲームのパブリッシャーPlayism さんも何本もタイトルをもってきています(関連記事)。実はPC向けは中国市場にも大きな制約なくリリースできている。

すごいですよね。ここの出展している作品の大半はインディー開発者のものですし、「版号」をとらずに中国リリースしているものです。売り切りゲームに関しては実は規制が強くないんです。あくまでオンラインでずっとやりとりできてしまうゲームで、青少年に悪影響を与えているからと厳しく規制されてきました。ただPC向けの買い切りゲームはその対象にはならなかった。

――:本イベントで一番目立っていたのが日本インディーの「Overdose」だというのが衝撃でした。制作者のにゃるらさんは初めて(?)の中国出張で空港からはぐれてしまった経緯が、現地でどんどんツイートされて。

ただこのOverdoseですら、まだ「中国を席巻している」というところまではいっていないんです。Steamとしても最大の市場である中国にはまだまだタップできていない。

 

――:なぜ福建なんですか?

妻が福建省だからというのが大きいのですが。コーラの値段すら違うんですよ。コーラ1つが5元(100円)の上海に対して、普通に売っている値段が福建だと3元(60円)なんです。住宅となると3-4倍違います。

 

■小6からゲームソフト開発のスーパー中学生、早熟すぎた天才が就活に至るまで

――:ぜひ単身中国で活動されるようになってきたのかという経緯をお伺いしたいです。レオナさんはかなり早熟でしたよね、小学校の時からプログラミングとか。

物心ついたときからゲーム大好きだったので小学校の時には将来ゲームを作ろうと思ってましたね。小4のときに家にあったNECのPC98をいじりはじめて(それは古すぎてアプリ作れなかったんですけど)、中学入学式前の春休みにマックを買ってもらって、そこからアプリづくりをはじめてます。小学校で夢を発表するときに、皆野球選手とかなんですけど、僕だけ「ソフトウェア会社社長」と書いてました。皆、笑っていましたね。

――:ゲームクリエイターというのはわかるんですけど、ソフトウェア会社社長ってのはちょっと分からなかったんでしょうね。

そうなんですよ。経営者に憧れがあったんですよね。たぶん早めにニュースの取材など受けて表に出ていた影響ですね。鳥越俊太郎さんの「ザ・スクープ」(1989~2002)という番組があってそこで「ゲームアプリを開発するスーパー中学生」といって取材も受けてたんですよ。

――:中学生でテレビデビューしてたんですか!どんなゲームを作っていたんですか?

メダカを育てるパズルゲームとかですね。最初Mac向けの開発ツールを使いながら、Windows向けアプリも出していって、月20本とかは売れてましたよ。

中二のころには一橋大学とか電気通信大学とか多摩地区の大学が連携して運営していた「多摩起業家育成フォーラム」というのがあって「ベンチャー甲子園」というイベントで賞ももらってました。高校1年になると新聞のインターネット特集のライターの仕事をもらうようになって、「朝日中学生ウィークリー」で連載をさせてもらってました。「ネットの羅針盤」というタイトルですね。

――:ちょっと中学・高校で成功しすぎてますね!レオナさんって何歳なんですか?

1984年生まれですね。『インストール』など芥川賞受賞した綿矢りささんと同い年です。高校時代がちょうど2000年前後のドットコムバブルと重なっていて、ちょうど最初のネットの走りの時代にあたっていたおかげで、結構早めに色々な経験をさせてもらいまいた。

――:そんな状態でよく学校で勉強し続けられましたね。

いや、もうとっくに勉強に興味はなくなってましたね笑。大学にいく暇あったらもう会社を起業しようと思っていて、むしろ高校も中退しようかどうか迷っていたくらいでしたからね。でも高校3年のときに多摩大学でAO入試やっていた野田稔先生が、自分が指導教官やってやるから大学にはとりあえず入学しろと誘っていただいて。日テレの『ズームイン!!SUPER』(2001~11)でコメンテーターやっていた方なんですけど、それで多摩大学経営情報学部に推薦合格しました。

――:大学の勉強は楽しめるものなんですか?

結果、行ってよかったんですよね。経営学とか会計の授業もあって、実際体系的にプログラムを学ぶ授業もありましたし。これは会社経営に必要だろうと思って、人生ではじめて勉強がおもしろいと思えた時期でしたね。

――:そもそもそれだけ「起業」に振り切ってましたが、部活や友人関係ってどんな感じだったんですか?

ずっと帰宅部でしたね。ただ高校の時に「ドットコム同好会」を立ち上げました。最新PCが並んだパソコン室があったので。それで高校1年で最初から部長でした。中学・高校ではPCで一緒に遊ぶ友人もいましたよ。

――:そこまで小・中・高を早めにビジネス側に振り切ってしまったレオナさんは、大学ではどんな感じだったんですか?

それが・・・結果的には大学在学中には全く成功しなかったんです。ちょこちょこゲームつくっていただけで、大学も大学で色々忙しくなっちゃって。自分1人で企画からプログラムからやっているものだから、そもそもたいしたゲーム作れないんですよ。副業でベンチャー企業にも入って動画サイトづくりなどもやっていたんですが。

それでいつの間にか卒業のシーズンになってしまって、就活したんです。リクルートとかオラクルとか。でも最終面接で「数年したら起業する」というと、落ちるんですよ。「うちにホリエモンは要らない」とか言われて笑。当時は起業家=ホリエモンのイメージだったんですよね。それで2007年にNTTデータシステム技術(現・NTTデータフィナンシャルテクノロジー)というNTTデータの金融システム部門をやっているSIerに入社しました。

 

■30歳初ディレクター作品ウルトラマン、いきなりモヒカン・ウルトラマン化して円谷ドン引き

――:NTTデータだとどんな仕事をするんですか?業務系のシステムってゲーム作ってた人でも面白く感じるものなんですか?

情報システム系の部署に配属されて、国レベルの大規模決済システムとか、銀行の金融商品取引法対応とか、名簿の名寄せのシステムとかを作ってましたね。いや、結構勉強になりますよ。なんだかんだこれだけ多くの人の生活に影響するような大規模なシステムを作る作業ってココでしか勉強できなかったので。ただ3年くらいやっているうちに、やっぱり自分でゲームのサービス作りたくなるんですよね。

それで退職してフルタイムでMBAにいったんですよ。実家の八王子から比較的近い一橋大学のMBAで国立に通いました。

――:MBAって2年間でお金もかかりますし、かなりの人生投資ですよね。

一橋MBAすごくよかったですよ。人生のコスパでいうとかなり高かったです。ネットワークも広がったし、友達との海外旅行で初めて中国に行きました。ちょうど上海万博のあった2010年に上海・杭州・蘇州・広州・香港・マカオを周遊したのがMBA1年目での最初の中国経験です。重いレポートとか修士論文を書いたこともあって、今も僕がゲーム白書とかで色々書いているのってこのときの経験も大きかったです。

――:卒業後の就職活動はどうだったんですか?

リクナビネクストで紹介されるのはSierばっかりなんですよね。NTTデータの経験しか見られなくて。そこで一番ユーザー向き合いに近かったMTIの経営企画のポジションに入るんですが、事業を作るというより管理畑の仕事が多くて、それですぐに辞めてゲーム開発ベンチャーのアプリカに入社します。

――:だんだん知っている経歴に近づいてきました。

森尾紀明さん(ジー・モード、アプリカ、ソライルを経て現在マスタッシュ創業)が社長で副島雄一さん(モンスターラボ、アプリカ、DLE、Activ8、ウェルプレイドを経て現在Netease顧問等)も同期入社で営業をしていました。僕もサブディレクターでゲーム運営の数字まわりから始めるんですけど、1か月したところで角川のIPで運営していた妖怪大戦争というゲームのディレクターがいなくなっちゃうんです。それで運営を引き継いだら評価してもらえて、今度は新作でウルトラマンのゲームを出すけど期間が短い。お前、やってみないかと。30歳にして、ほぼ業界としては未経験なまま、リリースまで残4カ月のところから自分がディレクターになってアプリを完成させました。

データベース、バックエンドシステムや画面構成をできるだけ既存ゲームから流用しつつ、ウルトラマンらしいゲーム部分をしっかり作り込むのに時間を割いてなんとか間に合わせました。

――:中山のDeNA時代の同僚たちが作ったe-Dragon Power(ユニデン出資で2013年に始まり、2021年解散)でリリースされた『ウルトラマン 大決戦!ウルトラユニバース』のアプリ(2014.2~15.12)ですね。

最初の1年はe-Dragonからリリースされていたんですが、途中でゲーム事業撤退となってそこから円谷プロダクション自身がパブリッシュする形に移管しました。2年ほどでしたが、e-Dragonのタイトルとしては一番売りあがっていましたし、そこそこの成功タイトルではありました。中山さんもご存じのリクルートでポケモンカードなどを作られた香山哲さんもはいっていたプロジェクトです。

――:いやーリクルート系だと伝説の人です。直接はお会いしたことないんですけど。レオナさんは非常に早熟でしたけど、商業的な企業発ゲームを出したのはそのタイトルなんですね。

高校・大学でいいゲームが創れなかったことが僕の挫折体験になってたんですよ。組織でちゃんとしたゲームをチームで作りたい、と思っていたので願ったりかなったりでしたね。2年で終了になったのは本当に残念でした。

――:ウルトラマン好きだったんですか?

実は子供時代に成城にいて、東宝スタジオや円谷プロの近くに住んでたんですよ。近所の子供向けにゴジラとかウルトラマンの撮影もしてましたし、ボーイスカウトの先輩が円谷さんで怪獣がずらっと並んだ倉庫に入れてもらったこともあって。あれからずっとウルトラマンは大好きでした。でもその頃はウルトラマン冬の時代で『ウルトラマンG』(1992)との写真が残っています。

 

――:今ではトレードマークになっているその髪型も、この作品中に「ウルトラマンヘア」としてデビューしてたんですよね。

ニコ生で「電人☆ゲッチャ!」(2013~)という番組があってアプリのプロモーションで出演することになったんです。プロデューサーも社長も出ないなら、じゃあDの僕が、といったときに目立とうと思っていきなりこのヘアスタイルで登場しました。

 

――:みんな衝撃じゃありませんでした!?突然ハードモヒカンにして登場して。

目が点になるってこういうことだなと思いましたw。円谷の人は・・・正直ドン引きしてましたね。でもそのまま企画が続いて、ウルトラマンレオナがゼットンと戦うとか色々な企画に発展していきました。

 

■「Pacman」「クレヨンしんちゃん」で中国展開、語学ゼロから半年で中国人妻に求婚

――:2007~10年がNTTデータ、一橋MBAを経て2012年にMTI、そのまま3年間アプリカで経験を積んできましたが、そのあとが独立ですよね?

アプリカにいた3人と独立して2015年に作ったのが現在も所属しているグラティークです。当時ちょっとずつカジュアルゲームの波が出てきて、それを作ろうとなっていたんですよ。政策金融公庫で借金してIP×カジュアルで作り、ナムコカタログIPプロジェクトで『マッピー対決!ネオニャームコ団』(2015年10月)『ひっぱりマッピー大作戦』(2015年12月)を出したり、『激ムズ!! とにかく明るい安村さがし』(2015年11月)などを出していきました。広告課金が主体のカジュアルだと人数ボリュームがいないと厳しい。国内向けでは難しいなら、グローバルに出ていかないといけないという段階だったんです。

――:おお、なるほど。ちょうど僕もお会いしたのがそのあたりですよね。

そうなんですよ。僕の英語は中学レベルでしたし、海外でビジネスしたことはなかった。

でもどうやら北米で成功している日本のカジュアルゲームがあって「Pacman256」(2014.11、バンダイナムコスタジオバンクーバーと『Crossy Road』のHipstarWhaleが開発した作品)というらしいと。コレ、すげえ上手いモデルだな!と思っていたところに、ちょうど2015年9月のTGS(東京ゲームショー)でそのPacman256のTシャツきて動き回ってたのが中山さんで声をかけたんです。「もしかして、256つくった人ですか?」って。

――:いやー日本じゃわりと知られてなかったのもありますし、いきなり超モヒカンの人に話しかけられて驚きましたよ。バンダイナムコスタジオバンクーバーが『Crossy Road』のHipstarWhale社と開発したタイトルです。

僕はずっとあのタイトル追いかけてたので、偶然会えて感動してたんですよ笑。それで勇気づけられつつ、単身海外のカンファレンスにいって海外でパブリッシャーを探していたんです。当時ブシロードさんがアプリカ開発で出していた『クレヨンしんちゃん 炎のカスカベランナー』などの中国展開を探ろうと。

――:そしてまた再会するという笑

2016年9月に僕も初めての中国カンファレンス出張をしたんですが、そこにバンダイナムコでPacmanやってたはずの中山さんが、ブシロードの海外担当役員になって講演をしているという。

――:いや、あれは僕も初めての中国カンファレンス参加だったんですよ笑。バンダイナムコスタジオシンガポールの中山で呼ばれてたけど、講演した月になったらブシロードシンガポールの中山でやっているという。

そして、そこにブシロードが後に出資することにもなる元ソニーのプレイステーション中国展開をやっていた大和田さん※も、ブシロード取締役の広瀬和彦さんもいて4人で飲みに行きましたよね。

※大和田健人氏:2000~2013年ソニーコンピューターで上海・台湾などに赴任して海賊版がはびこる当時中国市場でゲーム浸透に向けた開拓を行ってきた。2014~2018年にインドネシアBandungでPtoPでゲームを配信できるプラットフォーム事業を展開。本連載開始前に大和田氏にインタビューを行っている。

――:数奇な運命とはこういうことか、という感じですね。あの2016年9月を境に4人がそれぞれ違うビジネスをやっていくことになりました。僕がレオナさんに敬意にたえないのはあのときに「英語苦手なんです」「中国語は全く分からない」といっていた人が翌年に中国人の嫁さんと結婚して移住してたのがあまりに衝撃でした。

はい、「クレしん」の中国展開の仕事を抱えつつ、大和田さんのインドネシアゲームプラットフォームと内製ミニゲームづくりで厦⻔(Xiamen、アモイ)にいくんです。2017年6月のことです。そこで出会ったのが今の妻で、その場で惚れて結婚しました。

――:それがちょっととんでもない話というか。さすがに、その場で求婚したわけじゃないですよね?

その時は1週間の滞在だったので「明後日の土日空いているから、初めて中国に来たし観光を手伝ってほしい」というのをWeChatで連絡したんですよ。直接の会話は全部大和田さんに通訳もしてもらって。僕は中国語しゃべれないし、あっちは日本語も英語もわからない。WeChatと百度翻訳でとにかく必死で会話してました。

――:別にレオナさんが普段からナンパするようなタイプじゃないですよね?

いや初めてですよ、そんなことしたの。なんかすごいビビッときたんですよね。女性慣れもしていないタイプなんで、ドッキドキですよ。大和田さんも「え?中国語しゃべれないのに土日デートするの!?」みたいな感じで驚いてました。

そのあと毎月2週間ほどアモイに出張をするんですが、その毎回必死で中国語勉強しているので、なんかみるみるこいつ中国語上達しているぞ、と。それで出会って4カ月の2017年10月に結婚しました。

――:いや、衝撃の一言。16年9月の初中国出張、17年6月でレストランで出会った人に惚れて4カ月で結婚したら中国語ペラペラになっていた件。

だから2週間ずつの滞在ですが、3回目くらいには結婚指輪を買って山頂でプロポーズしたらあっちも喜んでくれて、17年8月にはそのままご家庭にいってご両親に挨拶しています。そのまま移住して、2018年には子供も生まれました。今では中国人の親です。

その時点では聞き取りはわかるけどしゃべれる量はまだまだで、住み始めたり講演などするようになってからの上達ですよ。

――:高橋さんがアモイでする普段のFBでの投稿が中国と日本の文化差を感じさせる“文化人類学的"でめちゃくちゃ面白いんです。およそ日本人には想像できない環境、文化ですよね。

中国は一人っ子政策(1979~2014)なのですが、妻は3人姉妹の末っ子でさらに弟や従兄弟、従姉妹が無数にいて世界中に親戚もいます。みんな世代がバラバラでそれぞれその国や地域ならではの事情に飲み込まれて波乱万丈の人生を送っています。なのにみんな国際感覚は皆無に等しくて地元の閩南語(福建省南部独自の言語で台湾や在外華僑社会の共通語でもある)で交流しています。

海外でも現地に同化せず自分たちの文化を守る生活をしているんですね。生まれ育ってきた日本とは文化が違うからもちろん子供の育児の仕方も全然違うし、当たりが強すぎたりといったときに日本の本を読ませたり(本人はほとんど本読まないんですが)、日々こうした「異文化」を妻との間でも感じ続けますよ。僕にはそれが楽しくもあるんです。

 

■華僑となり、移住後にコロナとなった。中国在住6年でみえた世界

――:名実ともに“華僑"となったレオナさんですが、この6年ほどの間で中国のゲーム業界はどのように移り変わったんですか?

中山さんもご存じのように、2012~17年くらいは日本で出たゲームをMG出して中国でもローカライズする「買う」モデルが通用したんですが、正直当たったものって『FGO』(2014~Aniplexの大ヒットゲーム。中国版は2016~)くらいしかないんですよね。それも2017年から版号問題で、どんどん厳しくなっていく。

むしろ中国のゲームを日本市場に出そうというのがAimingさんとかブシロードさんがやっていたモデルが出始める。そしてそれも通り越してmiHoYoとかYostarとかが中国企業単独で日本市場に展開していったのが2018年以降ですよね。逆に中国市場で活躍する日系のモバイルゲーム企業はほとんどなくなりました。

――:2018年には「クレしん」の簡体字版もリリースされたり、色々2年分の努力が結実した形でしたが、逆にそうした事業展開が先細っていったタイミングだったんですね。

はい、逆に中国市場のリアルをきちんと届けていかないとということで、2018年は色々メディアや執筆活動に力も入れましたね。HTMLでのゲーム開発の本を、マッハ白書で執筆して自費出版したら意外に話題になって、その後は「HTMLゲームの高橋」になるんですよ。受託で食いつなぎながら(日本のグラティークは富士通「らくらくフォン」向けに中高年齢層向けのミニゲームプラットフォームを開発・運営していた。2023年製造中止)、中国でのゲームイベントでも日本代表として呼ばれて講演したりしていました。

出典)厦門玲央奈軟件(レオナソフトウェア)有限公司の紹介資料より

 

――:僕も2023年に5年ぶりくらいに中国出張するようになって、驚いていたところです。バンダイナムコ時代に「いまさら中国展開で勝てるのか?」と思っていたくらいの2015年になってから万代南夢宮商貿有限公司が展開されましたが、むしろ今バンナムが一番老舗で勢いがあり、当時いた多くのモバイル系の会社はほぼ中国撤退しています。

それが「中国にいるゲーム会社オレしかいない説」につながります。コーディネートできて、ゲーム企画から開発、パブリッシングできて、現地企業とつないで、とか一気通貫でゲームに関わる事業できる日本人って僕以外にいないんですよ(おそらく)。それは僕がアプリカの時代も含めて「全部はじめてのことしかやっていない」ことで身体で覚えてきた経験値なんです。

――:『FGO』くらい、という話はありましたが、実際にゲーム業界での成功事例って本当にないんでしょうか?

小さな成功はあるんですよ。ただスケールしていない。コンソールの落とし切りであれば、日本のゲーム性自体は出来がよいのでじわじわ広がっています。オンラインのガチャゲームだとマネタイズの部分でいろいろな混ぜ物いっぱいなので、日本の遊び方が中国で通じないんですよ。だから今、コンソールとPCで「本当のゲーム部分のところ」が再認識されて評価される時代になっていくんじゃないかと思います。

――:確かに中国企業や韓国企業の日本市場への展開の仕方は段違いだなというのは実際感じました。

そもそも日系企業は皆ライセンスアウトが基本ですよね。現地拠点をつくる会社も少なければ、その拠点を活用して現地のリアルなマーケティングまでやっている会社はほとんどいません。こうやってWeplayのようなイベントやってますが、実際にここまで来て売ろうとしている日本企業の少なさを感じますよね。

――:天才アプリ開発小学生の時代がありながら、基本的には海外と縁がなかったレオナさんが、30歳過ぎてからいきなり難易度の高い中国にこんなに溶け込めたのはなぜなんですか?

僕は昔からなんですけど、「人と違うことをする」が身体に染み付いているんですよ。小学校で3回くらい転校していて、アウェーな空間に入っていくときに何かしらで目立つ必要がありました。それでゲームづくりだったり、ウルトラマンヘアだったり、テレビに出たり、ちょっと人と違うことでめだとうとしているところがありました。

いきなり中国にいってチャレンジしたときも、自分以外にこの国でゲーム業界に根付こうとしている人がかなり少なかったんですよね。ココだ、と思った瞬間に飛び込んでしまう癖がありますね。

――:中国も「人と違うこと」だったんですか?

最初中国に来た時に「僕も華僑になりたいな」と思ったんです。故郷のつながりでこんなに世界中にビジネスを広げている人たちがいる。一方日本人は落下傘で個々人・個々企業が単独で降り立ってビジネスをしていて、波になるどころか粒のままにつぶされてしまっている。

――:それはありますね。「落下傘的に」「散発的に」やっていることで、日本企業としての海外展開は失敗している事例に事欠きません。

これだけ10年以上ふわっとやってきて中国市場を席巻するような大ヒット(中山さんが別途取材されているウルトラマンやポケモンなどのカードゲームやグッドスマイルカンパニーさんのフィギュアなどは別かもしれませんが)は、日本企業は産めていないんです。その事実は事実として受け止めないといけない。

でも、運をひきつけるためのチャンレンジだけはずっとし続けなきゃいけないと思うんです。最初からうまくいかないと思ってやってたら永遠に成功できないですよ。この中国に限ってはそれに値するほど広大で巨大な市場があります。華僑の人たちは実際にそれをやってきました。何十年とその土地に根付いて、ふんばって現地でのビジネスを開拓していくんです。今僕は結構第三国との取引も増やしているんです。インド企業を手伝ったり、パキスタンの会社が中国進出するのを手伝ったり。そういった企業群と比べても、日本企業の「おとなしさ」は課題だと思います。

――:大本営が海外のコンテクストから遠い、というのは一番大きそうです。実際意思決定するポジションの人がガンガン海外に出ていますという企業は数えられるほどです。

それは僕も夏に4年ぶりに日本に戻って思いました。他の国であればそんなことないんです。日本だけ、中国現地で今何が流行っていて、市場がどうなっているかという情報が全くといっていいほどない。「ゲーム大陸」も個人がずっとボランティアでやってきたんですが、この1年ずっと休止しちゃってたんです。その1年の間に中国市場を過小評価もしくは無理だとおもって手びく意見が多くなっていって、すぐに内向きになってしまう日本文化の構造的な問題もあるなと感じました。

――:あーなるほど、市場情報はJETROがもっとコンテンツ業界に近づいていかないとという議論もされてますね。

行政支援も必要ですよね。アモイは中国全土の企業をソフトウェアパークに誘致しまくっているんですが、あとでわかったのは「税金の取り方が違う」んですよね。中国って所得税の税率が低くて「増値税」(物品販売・役務提供・輸出入に応じて発生する税金、BtoB取引の消費税のようなもの)として企業間の取引によってしか地方行政の財政が潤わないんです。だからどんどん企業を誘致して赤字にさせてもどんどん取引させるんですよ。日本って黒字になると損をするから、社内経費の形でどんどん使うじゃないですか。あと行政担当者も日本の2年ルーティン異動はないです。プロフェッショナルな人材はずっとゲーム業界にはりついている。特筆した結果を出すスーパーエリートはどんどん異動させるけど、同時に産業ごとにずっとはりついている人材もいる。

――:なるほど、情報整備や行政支援までそういった点でも中国の事例はインサイトにあふれてますね。

会社情報

会社名
Re entertainment
設立
2021年7月
代表者
中山淳雄
直近業績
エンタメ社会学者の中山淳雄氏が海外&事業家&研究者として追求してきた経験をもとに“エンターテイメントの再現性追求”を支援するコンサルティング事業を展開している。
上場区分
未上場
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