前編)中国IPビジネス:東大・電通・弁護士を経て、中国探偵事務所社長から“日本IPの守り人"となった分部悠介…中山淳雄の「推しもオタクもグローバル」第110回
事実は小説よりも奇なり。米国帰りの帰国子女、ゲーセンで名うての“使い手"としてゲームに没頭していた一青年が、東大・電通を経て弁護士になり、経産省で海賊版つぶしをしているうちに中国にのめりこみ、現地で探偵会社を自腹で買収して初めての起業。中国を相手取、2006年に中国知財法の制定にも日本側からの海賊版対策にも寄与した経験をもつ。その一方で、2010年代には一介の探偵事務所でありながら、世界を席巻する中国経済で日本IPを広げていく支援も行う。何度人生をやり直しても、こんな道はたどることがないだろうというキャリアを歩んだ分部悠介氏のインタビューから、以前取材した中国市場のダイナミックな変貌が、この20年どうやって実現したのかを解き明かしたい。
■ゲーム狂の帰国子女。東大のエリートコースも高田馬場のゲーセン道場破り。梅原大吾にぼろ負けし引退。
――:自己紹介からお願いします。
分部悠介(わけべゆうすけ)です。現在中国でIPフォワードという、日本企業の中国・東南アジアへの進出支援を行う事業をやっておりまして、グループ全体で100人弱。「海賊版対策の探偵事務所」からスタートして、今は「日本映画やIP商品の中国展開支援」、「日中アニメ共同制作」、「中国向け広告事業やタレントの中国進出支援」などの事業もやっており、日本企業の中国・東南アジア展開を「守り」の法律面から「攻め」の事業面までトータルサポートする事業を展開しております。
――:分部さんの人生は大変面白いのでちょっと時系列から順にいろいろお聞きしていきたいと思います。昔は相当なゲーマーだったと聞きました。
1977年愛媛生まれで神奈川育ちです。小学5年から中学3年まで親の転勤でニュージャージー州にいて、学芸大附属に3年間通ってから東大に入りました。
高校時代はまだ親が米国にいて、学生寮暮らしだったんですよ。だからその時代はもう……ゲーム一色でしたね。小学生の時からゲーム好きで、米国行ってもそれは変わらずでした。私の場合、米国に親と一緒に行くにあたって突き付けた条件が「ファミコンを持っていくこと」でしたからね笑。
――:1980年代後半の米国だともうファミコンはNES(Nintendo Entertainment System)が普及していたんですか?
NESは普及していましたが、最新のファミコンのソフトは遊べなかったので、変圧器を使って日本のファミコンを持っていってNYでも毎日のようにゲームしました。ですが、とにかく米国のテレビだと“映りが悪い"んですよ。祖父に無理いって『ファイナルファンタジー』や『ドラゴンクエスト』を徹夜で並んで買ってもらって、それを送ってもらって日本の友人たちと時差なく遊んでました。あとはNYの日本人学校の友達と「三国志同窓会」つくって徹夜でプレイしたりとか。親もさすがにやりすぎだというのでアダプター隠されたり、怒られたりしながらも、ゲームに夢中だった時代ですね。
――:それで高校から突然一人暮らししたら、それは生活がヤバいことになりそうですね。
はい、お察しの通り日吉の学生寮だったので、日本に戻ってきたら「ゲーセン」にドはまりするんです。ちょうど『ストリートファイターⅡ』の全盛期だったこともあり、もう日吉のゲーセンに入り浸りですよ。ゲームセンター荒らしみたいな状態になっていて、その周辺ではわりと有名な“使い手"になっていました。他にも好きだったのは『ヴァンパイアハンター』(1994)とか『CAPCOM VS. SNK』(2000)ですね。
――:カプコン愛ですね。以前お聞きしましたが“他流試合"で、東京中のゲーセンを回っていたんですよね?
一番ゲーセンにハマっていたのは高校~大学1年までですね。大学に入ってゲームサークルを立ち上げて、秋葉原や横浜、池袋のゲーセンで強いとウワサのプレーヤーと対戦していたんです。大会に出て優勝したりとかもしました。
一番通ったのは高田馬場の「BET,50」ですね。高田馬場には有名なゲームグループがあったんです。お互い名も知らない東京各地の強いプレイヤーが集まって戦い続けて、もう『北斗の拳』みたいな世界でしたね笑。その頂点にいたのが梅原大吾さんでした。
※梅原大吾(1981~):1994年の中学生時代からゲームセンターで有名な存在で、『ヴァンパイアハンター』で286連勝した逸話なども残っている。1998年の日米ストリートファイター世界戦で優勝し、テレビ東京でも放送され、その後カプコンオフィシャルの全国大会3連覇。2010年に米国企業と契約し日本初のプロゲーマーとなった。
――:いまじゃ国際弁護士の分部さん、その高校・大学時代のゲーム狂の姿が想像できません笑。
これはお恥ずかしい話なんですが、私の場合、ゲームはリアルの充実度とちょうど正反対なんですよ。小中校とテニスやっていて高校ではテニス部部長までやっていたんですが、当時付き合っていた彼女に振られたことがきっかけで、やさぐれてゲーセンに入り浸ったのが最初なんです。大学も同じ動機で、最初はテニサーでノリノリでやっていたんですが、夏休みに好きだった相手が先輩と付き合い始めてしまったこともあり、実は「逃げ道としてのゲーム」という側面が否めないんです。「どうせ、俺はゲーセンの中でしか生きていけえねや」という気持ちが、ゲーセン荒らしへの道を加速させてたんですよ笑。
ただ辞めるきっかけがありました。それが梅原大吾さんなんですが、「凄いのがいる」と聞いて戦いに行ったら、本当にものの見事に瞬殺されたんです。みんなが順番待ちして申し込みしている状態だったので、あっちは覚えてすらいないと思います。ただあまりの実力差に唖然として。あとから彼の本を読んだら「1日ひとつだけ強くなる」っていっていて、毎回の闘いをちゃんとストイックに振り返って修正点をあげているんですよね。ああ、これは勝てないな、と。これがきっかけで「中途半端にゲームやっていても意味ないや」と思ってだんだんゲーセンから足が遠のくようになりました。彼にコテンパンにされなかったらいまもだらだらゲーセンで続けていた可能性もあるので、本当に感謝です。
――:それがきっかけて弁護士を目指した話を前回お伺いしました。でも実は分部さんって文Ⅰ(法学部)じゃなくて文Ⅱ(経済学部)だったんですね。
そうなんです。漠然とビジネスの勉強がしたかったのと、当時文Ⅱは一番時間があって自由な印象だったので、入学は文Ⅱでした。それで梅原事件があってから、なにか資格を勉強しようと思って。学部から考えると公認会計士なんでしょうけど、「会計士はたぶん自分とはタイプが合わないだろうな」と感じてたんです。そこで、民法の授業が結構面白かったのと、当時、高校・大学の先輩で、司法試験の業界で非常に有名でもあった伊藤真先生に影響を受けていたこともあり、先生の経営する伊藤塾で弁護士資格を勉強し始めました。それで大学5年生時の1999年に司法試験に合格して、2000年に経済学部を卒業しました。
■弁護士にならずに在野に下り、カプコンか電通か。『千と千尋の神隠し』映画出資でエンタメ最前線に。
――:本当に珍しいことに、司法修習にいかずに就職したんですよね?(司法試験を受けた後1年間の修業期間、そのままいかない比率は1-2%程度と言われる)
純粋に法律の勉強が面白くて司法試験にチャレンジした経緯であったので、なにがなんでも弁護士になろうとは思ってなかったんですよね。もったいないとまわりからは驚かれました。実は、まだ未練がましくゲーセン熱が残っていて、ゲーム会社に就職しようと思ったんですよ。そんなとき、自分が大好きなゲームを開発したカプコンの方にお会いさせてもらう機会があって、「君は弁護士になった方が良い」と諭されたんです。
その当時、『リング』『らせん』などの邦画や、カプコンの大ヒットゲーム『バイオハザード』などがハリウッド映画化されるようになり、映画の方は結構ヒットしたのに、版元である日本企業にはあまりお金が入ってこなかった。それはハリウッドの契約実務をはじめとする米国の法律実務に詳しい日本人弁護士がおらず、しっかりとした契約交渉ができていなかったからなんですよね。米国には弁護士が多くて、エンターテイメントの業界にもどんどん人材が流れて、キャスティング専門とかスポーツ専門とか専門ごとに分化までしている状況だった。こうした状況を踏まえると、今後日本でもエンターテインメント分野の弁護士が必ず必要になってくると思ったんです。
弁護士事務所で働くことも考えるようになったのですが、当時日本の大手弁護士事務所では、どこもエンターテイメント・知財分野の業務をあまりやっていなかった。エンタメ業界の会社側が弁護士に頼むという発想がほとんどなかったんですよね。弁護士は案件を通じて成長するものなので、何の案件もなければ何も始まらない。やはり案件を経験できる企業側で経験を積んでいかないと何もできないのではと思いました。あるとき電通勤務のOBの方にお会いする機会があり、同社の中にコンテンツ取引専門の部門ができて、幅広くコンテンツ取引の現場に関与できる、という話を聞いたんです。それは面白そうだと思って、面接させてもらった結果入社することができ、しかも希望したエンタテインメント事業局に配属されました。
――:現在のコンテンツ事業局とは違うんですか?
私が配属された事業部が、電通としてははじめてのコンテンツ事業を専門的に取扱う部門で、映画・アニメ・音楽・キャラクターライツ・海外番販などの対応をしていました。電通は、どこまでいっても広告会社なので、本業の広告業務に比べると、売上規模なども相対的に小さい部門でしたが、電通の新規事業部門として期待されていた部門の一つでした。コンテンツ事業の性質上、売上の波もあって、その後部門の統廃合などもあったようですが、今も電通の中で事業継続されております。
――:電通ではどんな仕事をされたんですか?
映画やアニメ番組への製作出資、ハリウッド映画の買付、海外放送局への番組販売、キャラクター、アーティストライブなどへのタイアップ……本当に広くコンテンツ事業を手掛ける部門で、それぞれ担当されていた先輩社員の方々の下で、本当に色々な経験をさせてもらいました。
映画の案件では、まだジブリさんが今ほど有名ではなかった時に『千と千尋の神隠し』への出資案件に携わらせてもらった件が思い出深いです。映画完成前の絵コンテや原案をみても、正直よくわからなかったのですが、結果的に大ヒットになりました。自分が全然映画を見る目がないことを痛感しましたね笑。
他にも『ロード・オブ・ザ・リング』の日本での配給について、松竹さんと一緒に担当させてもらったり、電通が製作出資していた邦画『ホワイトアウト』では、当時のKDDIの携帯(cdmaONE)を広告商材として映画中に登場させたり、当時日本ではまだ珍しいプロダクトプレイスメント案件だったのではないかと思います。他にもアニメ『星のカービィ』やスヌーピーの日本生命キャンペーンなど、多くのタイアップ商品の監修などをやらせてもらいました。
――:やはり電通に入ったのは正解でしたね。黎明期にコンテンツ業界の最先端事例、海外事例も手掛けているじゃないですか。法律の知識は生かせましたか?
基本的には、事業のサポートや一年生としての事務作業がメインであったので、法律知識を使っていた割合でいうと、全体の1-2割もいかないんじゃないかっていう印象でした。でもまさにやりたかったハリウッド映画関係の契約書のやりとりに関与できたのはとても大きな財産になりましたね。結果的に3年弱電通にいた後、退職して1年半の司法修習に行くことになります。
――:電通でたっぷり働いたあとに、なぜ後から司法修習に行くことにしたのですか?
電通は楽しかったんですよ。ずっといたかったくらい。でも業務しているうちに私の法律知識も資格持っているだけだと役に立たないな、と。実践的な契約交渉などは、やはり弁護士として経験を積んだ後でないと対応できないことを感じて、どこかのタイミングで一度弁護士にならないとだめだ、と考えるようになりました。
ちょうど電通も、会社が上場しようとした時期で、色々と組織変動の話がありました。私がいた部署も他の大きな部署に吸収される流れがあり、幅広い仕事に関与できなくなることにも悩んでたんですよね。当時はまだ転職が今ほど一般的ではありませんでしたが、他社から転職してきた先輩の「分部、転職という決断の時って明確にあるのよ。人生タイミングが重要だよ!」という一言にハッとして。それで思い切って、このタイミングで、一度弁護士になる道を選びました。
■2004年経産省の模倣対策専門官。弁護士が中国に派遣されて海賊版つぶしの探偵に変身
――:2002~03年で司法修習を受けます。弁護士以外の選択肢もありますよね?
よくご存じですね。司法修習を経た後は、裁判官、検察官の選択肢もあって、修習時代に、それぞれ経験させてもらうことができます。検察官時代は、実際の犯罪被疑者の取り調べなども担当させてもらうのですが、検察研修時代、「分部くんは取り調べが上手い!」と、検察官にならないか誘われたこともありました。大学卒業して、社会人経験がないままま、被疑者の方々の取り調べを担当するのはなかなか容易ではない印象ですが、電通時代、結構色々なタイプの先輩方に揉まれて過ごさせてもらったことが活きた感じでしたね。
――:どこの事務所に入るんですか?
電通に入る前に比べると、知財を扱う弁護士事務所も増えた時代でした。いくつか小規模な事務所で、知財専門というところも出てくるようになりましたが、知財という分野が今後グローバルなビジネスの中でも重要になると思っていたので、当時グローバル企業法務を中心に企業法務を中心に取り扱っていた四大総合企業法務事務所を中心に事務所訪問などさせてもらいました。その中でご縁をいただいた、長島・大野・常松法律事務所に入所させてもらい、いよいよ弁護士として知的財産権法務の仕事に携わることになりました。忙しかった電通時代以上に忙しい生活を送り、3年目を迎えようとする中、突然経済産業省への出向の話が出てきました。
――:2004年に経産省に出向された件ですよね。
当時「知的財産立国」が謳われる中、経産省に「中国その他新興国における日本企業の模倣品・海賊版商品を専門的に対応する専門部門」が新設され、中国政府との交渉などが本格的に展開されていました。知財の専門弁護士の募集もあって、当時所属弁護士事務所も官庁や企業など外部に弁護士を出向させて経験を積ませようという機運もでてきた時期でして、私に同ポジションへ志願しないかという打診がありました。
私は実はほとんど興味がなかったんです。電通を離れて、ようやく弁護士としての知財の仕事も軌道に乗ってきた時期でしたし、役所の仕事も正直、堅苦しいイメージであまり良い印象はありませんでした。でも当時の所長は、官庁や企業への出向を重視するにあたって、今回のポストの内容や社会人経験などを踏まえて、私を最有力候補として考えていたようです。私も最初は断っていたんですがかなり強く背中を押されて、事務所生活3年目に経産省に出向することになりました(5年以上たってから外部に留学や出向をすることが一般的だった時代なので、イレギュラーな出向である)。
――:弁護士試験も、司法修習せずに電通就職も、事務所所属後にすぐに経産省出向も、分部さんはすべてがイレギュラーで歩んでますね笑。それで経産省の職員になるんですね?
はい、経済産業省の模倣品対策・通商室「模倣対策専門官」というポジションにつきます。2年の出向期間でしたが、結果的にこの仕事にどっぷりハマることになり、2006~09年の3年間そこにいました。
日本の家電メーカーから自動車、事務機器、ベアリングのような部品にいたるまで大量のニセモノが中国を中心に世界中に出回っていたので、それを取り締まるのが主なミッションでした。アニメなどのコンテンツ商品についても、海賊版DVDが問題にはなってましたが、日本産業全体のニセモノ被害の中ではまだ数%に満たない規模。コンテンツ企業側も海賊版だらけの中国市場なんてみている人は皆無でしたので、その被害などはほとんど無視されているような状況でしたね。
当時のコンテンツ業界は、個社で対策を取ることは稀で、CODA(コンテンツ海外流通促進機構、2002年設立)という団体が、国の予算をベースに、まとめて日本アニメのDVDの摘発などをちょこちょこやっていた、という程度でした。中国政府との交渉を開始した当初は嫌がられましたよ。2001年にWTOに加盟していた時に、中国の知財法も一通り整備されましたが、そのとおり執行されておらず、ほとんど形だけの法律となってしまっていました。米国や日本政府から海賊版の摘発について口酸っぱく要請していたのですが完全な塩対応。ところが、2006年中国の国家計画「第十一次5ヵ年計画」で、突然国をあげて知財法をしっかりやっていくぞという方針にガラリと変わり、一気に風向きが変わったんですよ。「日本はどうやって知財法を発展させてきたんだ?こっちもしっかりやるから、教えてくれ」というモードに様変わりしました。
――:なんと、それは知らない話でした。中国の知財法は2001年のWTO加盟ではなく、2006年の5ヵ年計画から。しかも日本の経産省の意見なども入っているんですね。
はい。中国政府は、言うなれば日本の知財立国政策自体をマネしたようなもので、日本のみならず、諸外国の知財法制度をよく研究していました。私も日本の知財法学者や裁判官などの力を借りながら、日本政府の立場で中国の知財法の改正に意見をどんどん入れていってキャパシティビルディングしていったんです。中国側の10以上もの知財に関わる部署と対面で話していきましたが、これが大変勉強になりましたね。当時は中国語がまったくできなかったので、通訳を通してでしたが、そのダイナミズムの面白さに引き込まれていきました。
でも同時に「見えていないこと」がいっぱい出てくるようになるんです。日本の知財法をそのまま取り込むんじゃなくて、逐次彼らなりのアレンジがあるので、「なぜこういうアレンジの仕方をするのか?」みたいな疑問がどんどん出てくる。背景にあるものの膨大さを理解し始める中で、これはいつか中国に住んで、中国語で理解していかないと何も分からないなと思ったんです。
――:スゴイ!この時点で中国市場で身を立てようと思えた人ってほとんどいなかったと思うんです。期限付きで3年間終わった時にどうなるんですか?
3年の間、多くの日本企業の知財部門の方々とたくさん交流させてもらって、現場状況はよく伺っていました。確かにこの期間、中国の知財法制度はどんどん改善されていきましたが、それが全国の隅々まで確実に執行されていくまでには時間もかかり、未だ完全に解決したという状況ではありませんでした。
また当時の中国における模倣品問題の課題は、半分はこうした法制度の問題だったのですが、もう半分はニセモノの元を探し出す「探偵会社」の問題が大きかったんです。当時の摘発プロセスはこうです。ニセモノを作る工場や卸業者などを発見するために専門の探偵会社に依頼し、見つかったら情報提供料を支払って、行政警察に正式に差し止め請求を出す。ここで重要な役割を果たす探偵会社自体が、結構な割合ででっちあげの情報を提供したり、ニセモノ工場自体をその探偵事務所が経営して上澄み部分だけを摘発して料金をもらったり、と大変困った状況だったんです。これではいつまで経っても、日本企業の模倣品・海賊版は減らず埒があかないと思いました。そもそもちゃんとした探偵会社が少なすぎると。
――:ちょっと、解決しようとするには膨大すぎて匙を投げたくなる話ですね……。
3年の出向期間が終わって事務所に戻った後、2年間の自由な研修枠がもらえる時期が来たんですよ。当時、私がいたような大手企業法務事務所では、たいがいアメリカの大学で1年、その後現地の弁護士事務所で1年働いて帰ってくるというパターンなんですが、私はそれを中国市場の理解に充てようと決めました。中国の探偵事務所に1年在籍させてもらいながら中国語を勉強して、もう1年は現地の弁護士事務所で研修したいと申請を出したんです。
――:友人の弁護士はほぼ米国いってますね。たまーにシンガポールというのもありましたが、それも最近ですからね。中国にいく弁護士は他にいたんですか?
ゼロでした笑。今でこそ大手事務所は中国・アジアへの研修は普通にいますが、当時の所属事務所では中国へ研修行く弁護士ははじめてでしたし、そもそも「探偵事務所に籍を置きます」ということ自体が理解の枠を超えてました笑。まあ止められましたよ。戻ってきたときの弁護士のキャリアは大丈夫かとかなんだとか。最後は「もう勝手にしろ!」みたいな形で、なかば逃げるように中国に渡航したわけですが。
――:現地の探偵事務所は協力してくれるものですか?
もともと付き合いのあった探偵の中でまっとうなところに行きましたし、現地でも日本弁護士が中に入ってやってくれるというのは箔もつくようでしたのでWINWINでした。いくつかの探偵事務所に籍を置かせてもらいましたが、知らないうちに「経産省で偽物対策していた分部弁護士が所属しています」みたいなPRをしていた事務所もありました笑。
1年目は語学勉強もしながら上海の探偵事務所に通い、2年目は北京の弁護士事務所に研修の籍を移し、日本の権利元企業から管理手数料をもらいながら探偵コーディネーター的なことをやってました。探偵らの仕事を間近で見ている中、悪質な探偵とそうでない探偵を見分けるポイントも分かってきて、しっかりやっている探偵達とのネットワークも増えていきました。
所属元の日本弁護士事務所の研修期間が終わる2011年頃には、事務所でも中国法務案件がだんだん増えていたようで、「中国案件が増えている。事務所に戻った後は、知財だけではなく、中国が関連するM&Aとかファイナンスとかもやってくれ」みたいな感じで言われたのですが……。ここが人生の転機でした。中国に身を置いて模倣品の現場で日々戦う中、まだまだ日本に戻るべきではないのではないかという迷いも出てきていて、それが転職の分岐点になりました。結論として私は探偵になることを選びました笑。
■私は探偵になりました。ヤメ弁護士が中国で探偵事務所社長からスタート
――:パワーワードすぎますね、「私は探偵になりました」笑!!
事務所に戻って恩を返したいという思いは強かったのですが、結果的に退職しました。正直、偽物対策って別に儲かる仕事じゃないんですよね。だから弁護士事務所で海賊版対策事業をするなんて仕事にならない。でも3年経産省でやって、2年中国現地で探偵事業をやって、周り見渡しても私以外誰もそんなことをやっていない。このまま日本に帰って「普通の弁護士事業」をしたら、ここまでやったことはどうなってしまうのか、悪質な探偵がまた跋扈してしまうのではないか?この目の前の模倣品を放置して逃げることになってしまわないか?という思いや不安がどんどん強くなりました。
もちろん弁護士事務所を辞めるのは私にとっても大きすぎる決断です。日本でも起業なんてしたことがないのに、まだ言葉も中途半端な中国で、たった一人でというのは無理筋だとは思ってました。当時の北京は空気も悪くて、PM2.5などが社会問題になっていた時期。生活環境としても、日本とは比べ物にならないほど悪かった。
でも……なんかワクワクしてきちゃったんですよね。住んでみたら寿命は縮むだろうなとも思ったり、とにかく中国では無茶苦茶なことばかり起こって大変な日々だったんですが、その一方でとても刺激的な場所だとも思ってました。一応探偵事業でもそこそこ案件をまわしていましたし、物価が安い中国で自分1人だけならばなんとか食えなくはないなと。それで当時、よく一緒に仕事をしていた、ちゃんとしていた探偵達に声をかけて、正式に一緒にやろうと誘ったところ快諾してもらったので、事務所の経営権を買わせてもらうことになったんです。
――:あ、探偵のほう買ったんですか!?
はい、上海と広州の20数名のチームの経営権を買わせてもらい、リブランディングして、正式に一緒に仕事を開始しました。それまであった個人としての貯金を使い果たして、34歳、弁護士事務所を辞めて、中国で探偵事務所社長として始めたのが今のIP フォワードです。
会社情報
- 会社名
- Re entertainment
- 設立
- 2021年7月
- 代表者
- 中山淳雄
- 直近業績
- エンタメ社会学者の中山淳雄氏が海外&事業家&研究者として追求してきた経験をもとに“エンターテイメントの再現性追求”を支援するコンサルティング事業を展開している。
- 上場区分
- 未上場