【連載】中山淳雄の「推しもオタクもグローバル」第37回 キャラクタードール市場開拓史:日本を支えた縫製技術がドール市場を生み出した

中山淳雄 エンタメ社会学者&Re entertainment社長
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「ドール(人形)」の歴史は深いが、ことアニメやゲームと連動する「キャラクタードール」となると実はその発展は意外にも新しい。この領域は20世紀末頃から発展してきたものであり、フィギュアやプラモデル同様にキャラクター全盛期となるこの20年ほどの間に他のメディアとの距離もどんどん近づいてきている。今回は(おそらくは)ドール業界初となるドール・アニメ・ゲームのメディアミックスプロジェクトを推進したアゾンインターナショナル社にその歴史と業界の発展について話をきいてみた。

 

■ドール市場約100億円、成長基軸のフィギュア/プラモデルにキャッチアップ

――:自己紹介からお願いいたします。

アゾンインターナショナルの早園です。藤沢市に本社を置き、ホビー玩具の企画・製造・輸入・卸・販売をやっており、現在の主軸でいうと「ドール(人形)」を中心に展開をしております。

 
――:中山もブシロード時代にメディアミックスプロジェクト『アサルトリリィ』で大変お世話になりました。アゾンさんは「ドール」市場って日本有数の会社さんで、ぜひそのなりたちをお伺いしたいと思ってインタビューさせていただいております。

その節は中山さんにもお世話になりました!色々勉強になったプロジェクトでしたね。「オタク市場」としてのドールのとしては2000年前後から語られるようになりました。


――:もともとは「女児玩具」(387億円:2021年時点)とか「ぬいぐるみ」(279億円)の範囲で玩具市場のなかに包含されてきたのがドール市場ですが、それとは別に、矢野経済研究所では図1のように「プラモデル/フィギュア/ドール」の3市場で分類されています。

ざっくり100億円と聞いてます。ドールは必ずしも成長トレンドではない状況ですが、フィギュアやプラモが成長して300億円を超えている点をふまえるともっと拡張可能な市場と考えます。

 

注1. 国内出荷金額ベース
注2. 2021年度は予測値(2021年9月現在)
出典)株式会社矢野経済研究所「「オタク」市場に関する調査(2020年)/(2021年)」


――:前回壽屋さんインタビューでも分析されたポイントですが、すでに造形ができあがっていて“鑑賞"をメインにするのが『フィギュア』で、比較的安い。それに対して自分で組み立てや彩色を行っていく“クラフト"性の高い『プラモデル』はやや高額、そこに服装やシチュエーション要素まで加わるのが『ドール』ですね。そのくらいクラフト性と装飾性は随一といったジャンルなのかと思っています。日本で40万人超のユーザーがいると言われています。「ドール業界」が立ち上がってきたのはいつごろなのでしょうか?

1990年代後半ごろでしょうか。メディコム・トイさんの「リアルアクションヒーローズ」などをはじめ、ドール素体をコアにして、布服とソフビパーツを被せてヒーローを表現するというポージング可能なフィギュアを作り始めたんです。このころ続々とホビーメーカー各社からキャラクタードールが発売されるようになりました。現在皆が語っているような大人がコレクションとして買い集める「ドール市場」は、21世紀に移る頃からで実は結構新しい業界なのです。


――:ちょっと詳細はアゾンの歴史・変遷を振り返りつつ、またお聞かせくださいませ。


 

■世界一の「絹の道」:戦後の横浜繊維業で財をなした父の二度の起業

――:早園さんは二代目社長ということなんですよね?

正確にいうと創業後1年で早逝した父親、それを継いだ母親、そして僕が3代目といううことになります。アゾンの前身は「湘南スクリーン」という1988年設立の捺染用のシルクスクリーン型の製版業ですが、これは父の二度目の起業なんです。

シルクスクリーン型というのは、スカーフやハンカチ、服地などを染色する際に使用する型でデザイナーから依頼される絵柄を元にクリアなフィルムに手描きでトレースしたものをポジとしアルミ枠にシルクスクリーンを張り乳剤を塗って紫外線で感光させるプリント型の製造手法です。インクジェット式の普及前はこのスクリーンが一般的でした。

祖父の早い死で熊本から出てきた父が夜学に通いながら母親のところに婿養子に入り、一から事業をつくったのが横浜での一度目の起業でした。その1960~70年代前半は高度成長期で景気もよくて、母親も絵を描く(フィルムにトレース)のが得意で多くのナショナルブランドや国内ですとケンゾーとかヨージヤマモトなどアパレルトップの仕事を請負い、横浜市南区の長者番付でも数年連続で父が出てくるような時代で、自分は当時は気が付かなかったけどなかなか「おぼっちゃま」な生活をさせてもらっていました。

※ケンゾー(KENZO):1970年に高田健三がパリでオープンしたコレクション、93年にLVMH傘下に入った
※ヨージヤマモト:1972年に山本耀司が設立したY'sで77年東京コレクション、81年パリコレクションにデビュー。


――:今、藤沢市湘南台を拠点にされてますが、八王子~横浜の国道16号線沿いって「日本のシルクロード」と呼ばれていたエリアですよね。「生糸」は19世紀~20世紀前半の日本輸出品1位かつ世界消費の半分以上を独占するほどの特産品、戦後復興を支えて1975年前後までは日本の主力産品でした。そのメッカである、横浜でお父様が事業されていたんですね。

そうなんです。でも70年代の後半、オイルショックあたりを契機に「不景気産業の上位が繊維関係」という時代に入りました。更に事情があり、新会社を設立しようと数億円かけてチャレンジしたんですけど土地問題のトラブルがあって、それがパアになってしまったんです。

今でも覚えてますが、ある晩一家でほぼ夜逃げ同然で横浜から茅ケ崎に移動しました。それでも、翌朝に父母が「やっぱり最後まで責任を全うしないと」と2人横浜に戻って債権者会議に出向いていったんです。あの2人の背中は忘れられないです。


――:当時の債権者会議の凄惨さって今では想像つかないレベルで、債権者や雇った代理のサービサーに取り巻かれ強い口調で催促されたりしていた時代ですよね。

生活を立て直すためと、ご迷惑をおかけした分を減らすため、父親は慣れない調理器具や健康器具などのセールスなど何でもやったんですけど、最後はやっぱり「自分の武器で戦わないと」ということで冒頭の「湘南スクリーン」を1988年に第二創業ということで新たに起業しました。その時はすでに癌が体中転移していたので、もう長くないとわかっていたので、母も自分もそれを受け継ぐ覚悟で支えました。


――:早園さんは最初から事業を継ぐつもりだったんですか?

最初は漠然としていました。オートバイ屋などで働き、その後起業願望もありましたので、自分でイベントグッズなどを取り扱うOEM供給の商売はじめていたのですが、父がニ度目の開業をした際に自分の商売ごと持ち込み一つの会社として一緒にスタートしました。


――:業績はどうだったのでしょうか?

実は80年代末はまだバブル絶頂期で、事業としては悪くなかったんです。当時神奈川県内に同業が60社ほど存在したのですが、アナログ的な手法が多い業界にワークステーションなどを使用しハイテク化を行うと直ぐに上位5社に入りました。従業員もたちまち30名規模にまで増えたんです。クライアント元はブルーミング中西とかネクタイのアラ商事などに、日本スカーフ振興会や捺染会社を通して製品を納入していました。

しかし繊維業界は世の中より一足早くバブルが終焉し、90年代中盤になるころには発注元の大手アパレルメーカーからの仕事が激減する事態に陥りました。困窮して翌月給与を払えない!という状態にまで陥って、30名いた社員にその告知をしたんですけど…誰も辞めないんですよ。他で仕事を探して転職してほしかったんですが、最後まで皆が残るという話になってしまい、困ったけど気持ちは嬉く、励みになりました。

――:19世紀後半~1980年ごろまで日本の繊維・染めなどの産業は世界最高峰だったと思うんですよね。アパレルもすごかったですし。なぜこの産業はこんな急に凋落してしまったんでしょうか?

今思うと日本の染色業界のマイナス点は「外部ライセンスありきの商売」に傾注しすぎたことだと思っています。描き起こしから製造まで全ての工程を丁寧に造り、せっかく高い完成度で仕上げているのに自らのブランドで売らず、海外のメジャーブランドのロゴをライセンス取得して販売しているので、作り手としてのブランドは残らなかったんです。高い技術はあってもそれを自らのブランディングとしなかった、本当に勿体ないですよね。

 

■ピンチ流転、ベトナムの縫製工場稼働でキャラクタードールの服飾メーカーに 

――:30名の従業員を抱え、バブルもはじけて、早園さんは母親とともにどのように事業を再興させるのですか?

ハンカチ・スカーフの染色に変わる仕事を探す必要がありました。台湾・韓国に異業種の仕事を探しに行ったり、沖縄で米軍雑貨の払い下げを買い付けたりしながら、様々事業の種を探しました。そこで出会ったのがベトナムだったんです。

弊社の最寄り駅「湘南台」は隣接している大和市に1970年代後半にインドシナ難民(主にベトナム・ラオス・カンボジア)を受け入れる「大和定住促進センター」があることから多くのベトナムの方がおり、その中に「ホーチミンの有力者に顔が効く」という人に出会ったんです。


――:それが現在もあるアゾンのベトナム縫製工場の始まりなんですね!1990年代のベトナムってなかなかデンジャラスな時代ですよね。

ちょうどドイモイ政策(刷新:1988年から本格化した、社会主義体制に資本の誘致などを積極化していく方針転換)もあった時期ですが、片腕がなかったり、目が見えない方などもいて、戦争の残り香が感じられる時代でした。

当時ベトナムへの交通手段は関西空港からベトナムエアラインとのコードシェア便しかなく、しかも火曜・木曜の週2便だけ。最初の渡越は関空の乗り継ぎをするために、羽田に向かう京浜急行各駅で1人青物横丁で特急の通過待ちをしながら、俺は何をやってるんだ、、、という気持ちになったことを憶えています。

タンソンニャット(ホーチミン)空港も、地方の私鉄の駅のようなチープなつくりで、とても蒸し暑く、入国審査も1-2時間平気で待たされるような環境でした。中心地から少し離れると道路もダートで砂煙が巻き上がり、ウマなども走ってました。


――:よくもまあ、そんなところで工場開設しようと思いましたね!?

安く作れる、というのが最初にありました。政府役人も月給3000円の時代で、大卒エリートでも月給6000円。賄賂でももらわないとみんな食えない時代で、感覚的には日本の1/20くらいの人件費でしたね。その顔役の方の紹介もあって実際に縫製のテストしてみたら、服を縫うのがすごくうまかったんですよ。ミシンに慣れていたからか、技術レベルも高かった。これはいける、と思ってベトナムで製造委託を開始したのが1994年ですね。


――:このころにハンカチをやっていた時代から、ドールの服飾をやりはじめるんですよね?

ちょうど90年代半ばからの特撮やアニメブームのなかで「キャラクタードール」というジャンルが立ち上がり、タカラさんで商品化がはじまっていました。メディコム・トイさんもちょうど設立されたころで、リアルアクションヒーローで仮面ライダーに服を着せて1-2万円で売るといった商売ができ始めていたんです。

それで仕事がある程度まとまって発注を受けられるようになって、あっというまにタカラ、メディコム・トイ、アルフレックス、アオシマなど10社以上のクラインアントがついていきました。


――:まさに「ドール」というか「プラモ/フィギュア/ドール」が一緒くたに“大人向け"でビジネスができはじめる黎明期のど真ん中という感じですね。初期でも結構商売は十分に成長していったのでしょうか?

まだまだ安定して運営できる売上にはあともう少し、という部分はありましたが、当時新しかった「オタクビジネス」と、高度成長期のベトナムという前向きなキーワードに関わることが出来たので、多くの希望が持てるようになりました。


――:ベトナムはその後順調に稼働するのでしょうか?

いや、実は・・・仕事のフローとして、クライアント>弊社>その顔役の会社>工場というスキームでしたが、その顔役の方が弊社を抜かし直接弊社のクライアントに営業を始めたんです。彼らの事情を考えると仕方ないことなのですが、こうなると弊社としても自前でベトナムに事務所を開設せざるをえませんでした。お互い商売敵という関係になり、遂には手を引けと脅されるようにもなってしまって、「ベトナムの土は踏ませない」と、ここでは書けないような言葉で脅されるようになってしまいました。ちょっと今では考えられませんが、配下の人に事務所に乗り込ませ、弊社の駐在員のパスポートを没収させたり、納品直前の製品を取り上げられたり、変な噂を流布されたりと様々な嫌がらせを受けました。


――:えええ!!日本からでしたけど、そこは完全に「途上国ビジネス」ですね。脅しってことは結局お金ですよね?

パスポートは2億円請求されましたね。それで返してやるって。しかし、値切って値切って100万円で済んだんですけど笑。当時ベトナムで事業を試みた日本人の起業者や商社の方とか50人くらい会いましたけど、だいたい騙されたりして、開業にまでいたらないケースがほとんどでした。そんな中でウチはどうやって開業できたのか分からないほどの奇跡だと思います。開業時に駐在員を引き受けてくれた方は今でも自分のベストパートナーです。

 

■受託から自社開発へ。2000年自社オリジナルドール「サアラ」は500体即完売 

――:自社でオリジナル衣装の企画開発を始められます。

受注が安定しないキャラクタードールのOEMで、仕事の緩急があるとせっかく育てたベトナムの工員もやめてしまうので発注の安定化と自社のブランディングを推進するためにオリジナルプロダクトのドール用の着せ替え衣服・グッズを作りはじめます。


――:でもそれまでは受託でしたし、キャラクターも衣服も完全にゼロベースなわけですよね。どうやって売り始めるんですか?

こうして自社オリジナル製品が出来てくるのですが、次は販路ですよね。ワールドフォトプレス社の「フィギュア王」にのせてみようかとアプローチしたら、白黒1/4サイズなら数万円で掲載出来ることがわかりまして、まだ次世代技術で出たばかりのデジカメ(30面画素)を買って、Photoshopも高価な時代だったので雑誌についていた無料のペイントソフトを使って、TIFでデジタル入稿をしました。その甲斐あって良い反響をいただけました。
※フィギュア王:雑誌・ムック本を出版している株式会社ワールドフォトプレス社から1997年2月に創刊されたフィギュア専門雑誌。

――:この写真の雑誌のように、ドールに着せて売るわけですね。中身のドールはどうしたんですか?受託先のお客さんとも競合するから、ちょっとデリケートな事業展開ですよね。

そう、衣装だけ乗せるとサイズ感がわからないから人間の服と勘違いされてしまう。それでモデルとして着せ付けるドールは必要なんですが、自社のドールは存在してないし、しかも受託だからクライアント先のドールメーカーさんに当然ながら遠慮もありました。でも、黎明期の業界だからでしょうね。各メーカーさんもとても協力的で、タカラさんなんかは©だけ入れてくれればいいから、とジェニー人形の使用許可をいただけました。温かく支援してもらって、それで業界が一緒に大きくなっていった感はあります。

このドール衣服事業はアゾンインターナショナル(早園さんのHayazonoのアルファベットからちなんだ会社名)という別ブランドでやっていたんですけれど、このころには祖業のスクリーンに対してドール向け商品の売上が会社全体の9割という状況になってきたので、会社も2000年にアゾンインターナショナルと吸収合併となり、ドール関係が主の事業になりました(2006年に株式会社化)。


――:ドール事業は創業10年以上たってからの事業転換だったんですね。しかしベトナムにドールにと新しい業界にどんどん展開されているのを、元からの従業員はどんな感じでついていらっしゃったんですか?

スカーフ、ハンカチのトレースする仕事は、実はもともとアート色が強いので親和性がありました。ドール衣装の企画製造にシフトすること自体は割とスムーズ受け入れられたと思います。


――:オリジナルの衣装が売れて、今度はドールそのものも作っていくわけですよね?

2000年に初めて出した自社ドールが「サアラ」です。当時はキャラクタードールの市場は本当に未成熟でした。テンプレではりつけたようなおおらかなマスク、衣装もサテンが多くマジックテープではめるだけの簡素なもの。髪も凝った植毛は難しく「おままごと用の人形」というジャンルから派生した延長線だったので、大人のコレクター向けに革新的にカワイク本格的なものを作ろうと思い、候補を探すことになりました。

このころイラストレーターや漫画家、コレクターの間でドールのマスクを自分で描くことが流行り始めていたのです。既製のドールの顔をシンナーで消し、新たに塗料で好きな顔にリペイントした作品を、徐々に普及してきたインターネットにアップしたり販売したりする中で、作家のM.D.C(思い当たる)さんのドールマスクが人気を集めていました。

ぜひ思い当たるさんの描いたマスクを量産したいとメールを出したんです。それでちょっとした奇跡なんですけど、メールを出した数秒でメールを受信しまして。思い当たるさんからなんですよ。当時の送受信のタイムラグから考えると、ちょっとさすがに即答すぎるなと思ったら、まったく同じ瞬間、同じタイミングであちらもアゾンに商品化してほしいというメールを送っていたという。それで運命だと思って、彼女の描いたマスクでドールを量産しました。

――:思いが通じ合ったような奇跡的なタイミングですね!サアラはどのくらい売れたのでしょうか?

社にある電話全部並べて7~8人で待機してFAX対応などもしようと準備していたら、最初の30分で500体が完売でした。本当に驚きました。


――:すごいですね!1個8,000円ですよね??そんなにドールニーズが強かったんでしょうか?

当時の市場に存在したのは子供向けドールやヒーローものがメインでしたから、そこにかなり本格的に可愛さを追求したドールが登場したので、急激に需要を満たした感じはありましたね。我々もそこまでの反応は予想していなかったですが。


――:顔の表情、こうして見ると現在の各社のドールにも基礎として引き継がれていますね。2000年前後のキャラドールって、たしかによくある90年代アニメ風の顔でシールで貼り付けたような感じですもんね。たしかに「サアラ」が本格ドールとして受け入れられた理由は今でもわかります。

 

©思い当たる/AZONE INTERNATIONAL

その日の夕方には郊外のKBooksという書店で8000円のサアラが16万円で転売されていました。ああ、これは新しい市場を開けそうだなと感じていました。
 

▲写真は1999年~2000年の製品、今では珍しくないがドール用の靴を本格的に合皮や布で量産化に成功、当時はほぼ大部分のメーカーのドールシューズはプラスッチ製だった。


――:その後2005年「えっくす☆きゅーと」シリーズ、2014年「リルフェアリー」などを発売し、アゾンはドールメーカーとしての位置を確立していくわけですね。かなりオリジナルが多いですけど、ドールの世界ではフィギュア・プラモのようにIP中心にはならないんですか?

オリジナル6割・版権キャラ4割って感じですね。版権キャラは「似ているかどうか」もとても大事な要素ですが、そうなると実はドールとしてのかわいさを犠牲にしなければいけないこともあるんです。逆にオリジナルはドールとしてのかわいさを追求しているものなので、意外にオリジナル製品の需要が強いというのも業界の特徴かもしれません。版権キャラで、似ていてかつドールとしてもカワイイというのがもちろん一番ですけれど。

「えっくす☆きゅーと」はシリーズで25万体売れている大ヒットシリーズになりました。女児向けも含めるともちろん「リカちゃん」が過去最大のドールという扱いになりますけど、コレクターホビー向けという限定を設けるのであれば弊社のこのシリーズがトップクラスで売れたドールだと思います。

 

 

■メディアミックスプロジェクト「アサルトリリィ」資本参加 

――:アサルトリリイはドール初のメディアミックスプロジェクトで、2017年ごろからアニメ製作委員会の動きが始まり、舞台演劇が幾度となく展開され、2020年10-12月にアニメ化、21年1月にアプリゲーム化していきました。最初原作者の尾花沢先生が普通にアゾン社員としていたんですよね?

尾花沢(原作者)はもともとアルバイトで2005年ごろにウチを手伝っていたんですが、一度事情があり退職するんです。でもその後2011年ごろになってから、「アサルトリリイ」をドール化企画として持ち込んできたんです。じゃあ彼の運営するacusと一緒にアゾンで商品化して売り出していこうとなりました。


――:そもそもドール業界って尾花沢先生のように「原作をつくる」習慣はあるものなのでしょうか?ほかにもああやって世界観・キャラクター設定を考えている方はいらっしゃるのですか?

オリジナルドールを作る際にはキャラクターの性格や背景ストーリー、相関関係などは設定します。ただアサルトのレベルまで作り込む(近未来に巨大生命体ヒュージ(敵モンスター)が地球を殲滅する危機のなかで決戦兵器「CHARM」をもつ10代のリリイ(兵器を扱う少女たち)が戦いの中で様々な人間群像劇を見せる、キャラクター数も数百にわたるかなり幅広い原作設計になっている)ケースは珍しいです。

アゾンでもほかの原作を作っていますが、そちらではチームで作っていることが多いですね。


――:いわゆる一般向けのドールとはちょっと違っていますよね。服の着せ替えはできますが、顔のパーツは付け替えできるし、髪も植毛ではなくソフトビニール、なによりも装備している武器がかなり精巧につくられているのが特徴的でした。原価もだいぶ高そうですね・・・

「アクションドール」という呼び方をしています。実は武器は金型なので、たくさん数が出るのであれば、それほどではないんです。ただ一般的にドールって髪は植毛(1/12アサルトリリィはPVCヘッド)だったり、服やシューズは全部手縫いなので、基本的にはフィギュアやプラモに比べるとたくさん売れてもなかなか生産が追い付かないですし、1体あたりの単価は決して大幅に安くはならないんです。

 
――:なるほど、労働集約的で手作り部分が多いんですね。

アサルトをはじめドールの場合、部材点数がかなり多いんですよ。大部分の量産が終わっているのに例えばブラウスだけとか靴下だけなどの一部の部品が届かないから完成品として出荷できない、といったこともよくありますしね。

ドールはこの20年新規参入してくる量産メーカーは少なかったです。多くの玩具製造メーカーの成り立ちはプラスチックや金属加工から入り、金型量産するケースが多いように感じます。しかしドール服の様に、染や縫製などの手法を用いた繊維業界出身の玩具・ホビーメーカーは少ないのかもしれません。手縫いで一つ一つ手作業で造るのは量産には向きませんからね。


――:ベトナム縫製工場は絶対的な競争優位ですね。2011年からメディアミックス・プロジェクト化するまでしばらく時間があきますが、その期間はアゾン社としてアサルトリリィはどう感じられていたのでしょうか?

実は立ち上がりからそんなに売れている感じではなかったですね。他のドールに比べると工程も作り方も新しいので、作った7割くらいが売れないと赤字になってしまう。

ただそれでもコナミさんの『武装神姫』(2007年発売開始、2012年アニメ放送)が出てきていましたし、こういったジャンルが大きくなるのではないかと各社が得意分野を持ちよって(弊社だと布製品)「市場をつくる」感じはありました。ドールはドール業界の中で閉じこもるのではなく、キャラクターフィギュアのような世界からもユーザーを行き来が出来るようにならないといけないという思いもありましたから。


――:尾花沢先生、設定どんどん考えますよね?アサルトのメディアミックス化の企画書をもちこんだ時点で、すでにドール化された20~30体以外にも、当時リストみたらもう100キャラ以上考えてあるんですよね。これ、どこまで深く設定を考えているんだろうと驚いた記憶があります。

好きなんですよね。当時ラジオ会館6Fにお店があって、店長やりながら企画考えてたみたいです。でも本人も本格的にやりたいというので、店長をやめて企画や設定に専念するようになってもらいました。


――:2016年から演劇集団『私立ルドビコ女学院』とコラボで舞台をつくっていきますよね。あればどういうつながりで演劇化していくんですか?

実は趣味の車友達の1人に、元俳優で新宿の劇場運営をしている方がいまして、度々そこで上演する演劇を観ていました。その中の一つがピウスさんの『ルドビコ女学院』だったんです。最初は「アイドルの演劇?」と勘違いしていたのですが観てみたら、脚本も演出も演技もクオリティが高く、とても感動的で百合的な要素もあり「これアサルト出来るんじゃない」と思い、その場で尾花沢に電話して「観てきて」と誘いかけたんですよ。本人も「(アサルト)出来ますね!」となりまして、「アサルトリリィ×私立ルドビコ女学院 vol.1『シュベスターの祈り』(2016年4月)から年1~2回のペースで舞台演劇を作っていきました。


――:演劇の少し前に、ノベルも出されてますよね。

1冊目『アサルトリリィ〜一柳隊、出撃します!〜』 はマイクロマガジン社から2015年に出して、弊社としても初めてのメディアミックス化となりました。2冊目『アサルトリリィ アームズ』はアゾンから17年7月にグッズ扱いで出版しています。どちらも笠間裕之さんに執筆いただき、『閃乱カグラ』で有名な八重樫南先生にイラストにしていただいて、ここでキャラの原型がビジュアルとしても完成していきます。


――:実際にこうしてノベルや舞台があることで他の会社が興味をもつようになって、それでメディアミックスプロジェクトに発展していくわけですね。

ノベルを読み込んでくれたTBSさんの女性で、とてもアサルトリリィを気に入っている方がいらっしゃったんですよね。アニメ化の候補として推していただき、アニメ化が決まりました。アニメ制作会社のシャフトさんが制作を引き受けていただき、ブシロードさんが幹事役としてプロジェクトを推進し、アプリゲームの開発会社としてポケラボさん(GREEグループの開発会社)が入って、最初は想像していなかったようなレベルで大きな歯車がまわるようになっていきました。以前からルドビコ女学院をやってくれていたピウスさんが制作に入って、ブシロードさんと一緒にやった舞台演劇も好評を博しました。


――:実際に2020年にコロナ過で大変な中、10-12月にアニメ放映にこぎつけ、21年1月にアプリゲーム『Last Bullet(ラスバレ)』がリリースとなります。このあたりは一筋縄でいかないながら、アニメにインパクトを受けてゲームの改修が入ったりなど、記事にもなっています。

 

■ドール発メディアミックスから新機軸「D-Tuber」でドール業界の確変を狙う 

――:実際にアニメ化・ゲーム化して、原作のドールがたくさん売れるようになる、という効果はあったのでしょうか?

ドールの特性上、アニメやゲームで好きになった人がすぐに買いに行くものではないんですよね。一番売れた「白井夢結」のドールで5000体くらいでしょうか。これまでに作った作品に比べて、よく売れていると言えます。ただ弊社としてはアニメ製作委員会に入ったのも初めてですし、他のメディアと一緒にキャラを動かしていくことを経験した点では本当に得難いプロジェクトでした。

私の知る限り、ドール出身の作品からアニメ化・ゲーム化してメジャー化していったものはないんです。だから普段他の業界とは接点が強くはないドール業界、ドールユーザーが、このプロジェクトを通して盛り上がってくれたという効果が一番大きかったのではないかと思います。


――:そもそもドールとアニメというのは必ずしも相性がいいものではないのでしょうか?

実はドール市場はこのコロナ過で加速するアニメ市場とは比例せず、若干下り坂なんです。数年前がピークで・・・というのは当時「キャラクターもののアニメ」が流行していたんですよね。

でも最近のアニメってハーレムものやキャラアニメは少なく、むしろ「世界観自体を楽しむ」アニメが多い。ほっこりしたファミリーものやシリアスなバトルもののアニメが好まれるなかで、実は認知度こそ高いけれど、じゃあ1つ1つのキャラをドールにしたときに売れるかというと、そうでもなかったりもするんです。

だからアニメ化すれば売れる、ということではなく結局「アニメを通して好きになったキャラクターを、コレクションとして遊ぶもの」であって、世界観やストーリーよりも「キャラクターありき」の派生商品なんだろうなと思います。

――:そもそもアゾンがドール市場で黎明期にこの市場を形成できた理由はどういったところにあったと思いますか?

3つあると思っています。まずは「アジア最後の経済の砦」と呼ばれたベトナムで縫製工場を90年代のうちに切り拓けたこと。2点目にインターネットの流通タイミングです。あれで小ロットでも多くのファンを見つけることができ、またドールのようなニッチな商品でもファン同士がつながってそのカルチャーが育成される時代になりました。3点目が、大人がホビー玩具を買う時代に入ったことです。


――:たしかに、「オタク市場」としてピックアップされはじめるのが2004年、それまでは“ひきこもって消費はつつましやか"とみられていたものが、きちんと一定の熱量をもった購買者としてみられはじめるのは2000年代半ばくらいからですよね。そのタイミングで、キャラクタービジネスからではなく、縫製や衣服のプロフェッショナル側からこのキャラクター産業に入られてきたというポジションがすでに大きな優位性があったものと感じてます。これからはアゾンさんとしてどんな展開を考えられてますか?

「えっくす☆きゅーと」も「アサルトリリィ」も今後とも盛り上げていきますが、実はそれとは別に最近ちょっと新しい取り組みとして考えているものもあって、たとえば「D-Tuber(Doll Tuber)」というのがあります。

VTuberが流行しているなかで表側はドールとして、裏側はそれを構成する声優のキャラクターとして、ユーザーとの新しいコンタクト方法になればと思って、最近商品化に向けて取り組みを始めています。撮影するスタジオを探すのにも一苦労してますが、新しいことばかりでこれはこれで面白いです。
ぜひこちらの動画も今後ぜひウォッチしていただければと思います。

 

▲アゾン社が送るD-Tuber「からふるDreamin」

 

 

会社情報

会社名
Re entertainment
設立
2021年7月
代表者
中山淳雄
直近業績
エンタメ社会学者の中山淳雄氏が海外&事業家&研究者として追求してきた経験をもとに“エンターテイメントの再現性追求”を支援するコンサルティング事業を展開している。
上場区分
未上場
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