【連載】中山淳雄の「推しもオタクもグローバル」第57回 【マレーシア編】バンダイナムコスタジオマレーシア、欧・米・アジアの中継地点クアラルンプールで見えたゲーム開発の激動

中山淳雄 エンタメ社会学者&Re entertainment社長
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今回のマレーシア特集は2016年設立のバンダイナムコスタジオマレーシアである。グループのゲーム作品を代表に、日本から様々なデザインを受注し、マレーシア首都クアラルンプールのPetaling Jaya(中心部から2.6km西)に位置する。実は記者である私自身が7年前に設立にかかわっていた思い入れがある会社でもあり、今回はその3代目スタジオマネジャーになる内藤氏に話を伺った。果たして日本のゲーム・アートがどんな形で作られているのか、このコロナ過でマレーシアからみる景色がどう変わったのか。

 

 

■設立6年のゲームデザインアート会社、3代目マネジャー

――:自己紹介からお願いいたします。

バンダイナムコスタジオマレーシア(BNSMY)の内藤洋介と申します。2000年に日本のバンダイナムコスタジオ(BNS)に入社しまして、ゲームのアニメーターとしてキャリアを歩んできましたが、2018年からこちらマレーシアに赴任し、2021年4月からCOO(最高執行責任者)を担当しています。

 

――:いやーついに「古巣」のインタビューができて大変うれしいです!中山も2013~16年にバンダイナムコスタジオに所属してまさにマレーシアの設立の仕事していました。

淳雄さんの話はいつも聞いてましたよ。バンダイナムコスタジオシンガポール(BNSS)所属のときに、BNSMY設立準備されていて。ご活躍されてましたよね、スタジオでの海外拠点発表会も拝見してました!あれはバンクーバーのトップされてたときかもしれませんが。マレーシアは開所式のときは、まだいらっしゃったんですか?

※バンダイナムコスタジオは2012年にバンダイナムコゲームス(現バンダイナムコエンターテイメント)からスタジオ機能を新設分割された開発会社で、コンソールゲーム・モバイルゲーム等の開発を行っている。その海外開発展開の一環で2013年にシンガポールとバンクーバーにグループ初の海外開発スタジオを新設。2016年にシンガポールの子会社という形で、アートデザインのマレーシアスタジオが設立された。

 

▲BNSMYが入るpetaling JayaのParadigm Mall

 

――:あ、開設式は出られてなかったんですよ。ちょうど16年8月くらいまで設立のお手伝いをしていて、開所式があった16年9月にブシロード・インターナショナルに転職してしまったので。

そうなんですね。久々にBNSMYに来られて、いかがですか?

 

――:すっごい発展してますね!まだ何もないがらんどうの時代だったので、6年もたつとこんなになっているんだ、と驚きました。僕の時代でちょうど25名くらいのスタートだったので・・・

現在は140名のスタジオになってますね。開発メンバーが120名で、背景チーム、キャラクターチームで約30名ずつ、2Dデザイン専門のコンセプトアートチームで約10名、アニメーション専門チームが約25名で、日本人の駐在が4名ですね。そこにPM(プロジェクトマネジャー)が通訳メンバー含め20名ほどです。

 

――:当時池田進一さん(BNSSのアートディレクターでBNSMYの初代責任者として赴任)とゼロイチでやっていくのは結構リスクだよね、という話になって、ちょうど僕がリクルート時代にM&Aをやっていたのでその経験も生きました。そこに5-6名新規採用して、最初のマレーシアチームを作っています。内藤さんは何代目のマレーシア責任者になるんですか?

ずっと石井誠さん(バンダイナムコスタジオ取締役)が管掌役であることに変わりないんですが、この現地責任者ポジションでいうと中山さんとやっていた池田進一さんを初代として、中村彰司さんが2代目、僕で3代目になります。

 

――:基本的にグループの仕事ですよね?

はい、BNSを含む日本案件が多いですね。バンダイナムコグループのトップIPのプロジェクトができるというので、そこは結構人材採用の強みになっていますね。『鉄拳シリーズ』『テイルズ オブシリーズ』などを中心に、現状でも20件ほど案件が走っています。

 

――:どのくらいの比率で外販できているのでしょうか?

親会社にあたるBNSから来ている案件が6-7割くらいなのですが、これを50%くらいに保ちつつ、バンダイナムコエンターテイメントやバンダイナムコオンラインなどのグループ会社、そこに他のゲーム会社の案件なども増やしていこう、というのが目標でもあります。

 

――:そうですよね、以前から関西圏の大きな会社さんだったり、意外にライバルの大手ゲーム会社さんから仕事受けたりもしていましたよね。

バンダイナムコグループだけではなく日本のゲーム業界全体に貢献できる会社でありたいので、そのあたりは広くお話しています。受託会社としての守秘義務もしっかり守りますので(秘匿案件に関してはセグメント化されたクローズな環境で作業をしており、親会社やグループ会社にも知らせていない匿名案件などもある。未発売のゲームならではの配慮である)その辺も安心してお任せいただける体制にしています。

 

――:相場的には日本の半分~2/3くらいの人月単価で受けられているんですかね。

そうですね、競争価格でだんだんあがってきていて、マレーシアの一部大手ではほぼ日本と変わらない単価で(欧米発注先からするとそれでも安価)受注していたりもします。そういった会社は高額で人材を引き抜くこともあって、ここ数年の採用競争は本当に熾烈です。品質を担保できるメンバーをしっかり確保しつつも発注価格はおさえつつ、バランスをとっていく必要があります。

 

■キャリアの分岐点「スマブラ」―天才との仕事で飛躍したキャリア

――:バンダイナムコスタジオは2006年のバンダイと統合前のナムコ出身者が多い「バンダイナムコグループで最大規模の内製ゲーム開発会社」ですよね。社員数は諸々いれると1500名にもなっていたかと記憶しています。内藤さんはマレーシア赴任まではどんなことをされてきたんですか?

ゲーム開発は基本的にプランナー(企画)、エンジニア(プログラム)とデザイナー(アート)に分かれますが、私はデザイナーのなかでもずっとアニメーションを専門にやってきました。モーキャプ技師からキャリアを始め、『ソウルキャリバーシリーズ』や、『大乱闘スマッシュブラザーズ for 3DS / Wii U』などに関わってきました。

 

――:日本で約20年間の中で、アニメーターとして一番キャリアがあがったプロジェクトは何ですか?

それはもう間違いなく一択で、スマブラですね。ご存じの任天堂さんのタイトルで、(有限会社ソラの)桜井政博さんがディレクターとして指揮されてました。私はそのチームでアニメーション部門の責任者を担当させていただいてました。

 

――:まさに天才ディレクターですよね。このあいだ岡本吉起さんとの対談でもめちゃくちゃ面白い内容でした。

ホントに凄かったです。伝説の人ですよね。

 

――:私の友人が桜井さんと仕事したのがキャリアの分岐点だったと言ってましたが、実際どんな感じでしたか?

アニメーションや企画どころか、サウンドもエフェクトもUIも、なんならプログラムに関するものも広い意味では見られてますから。つまり全てを把握されてます。こうしてほしい、というのが頭の中に明確にあるディレクターですよね。こちらが生半可に作るとだいたいNGが出て、それをスポーツのコーチのように薫陶を受け続ける感じです。自分が35歳のときなので青春と言うには遅すぎますが(笑)、あのポイントでアニメーターとしてのキャリアがぐんと伸びましたね。間違いなく青春でした。

 

――:どのくらいの期間を一緒にプロジェクトされてたんですか?

Wii Uと3DSのバージョンをやってましたが、数年間単位の期間です。

 

――:当時、そういう開発多かったですよね。僕も他社で開発案件やってるときは土日もほぼ業務してましたが、、、休めたりはするのでしょうか?

いや、休みはあるんですけど、もう頭の中がそればっかで。桜井さんの指示に従うだけでしょ?みたいに他から言われることもあるんですが、ぜんぜんそんなこと無くてクリエイティブだらけです。それに加え毎日何かしら起きる自分のチームの問題、他のセクションとの多くの調整。休日も頭の中はグルグルグルグル回転しちゃって、体は休めているけど、おちつうっことはできなかったです。

 

――:内藤さんもスマブラの大変ながらも最高の数年間があり、その先にマレーシア赴任もそこのキャリアとしての成長の先にあるんですね。

そうですね。前代の中村彰司さんにはスマブラ時代を含めずっと見ていただいていて、その後マレーシアに僕が呼ばれたのはスマブラの数年間を “やり切ったから"だと思ってます。粘り強く取り組んだ部分だったり、泥臭いところだったり。そうしたものも評価していただき、こうして「スタジオを任される」というのはアニメーターとしてはかなり珍しいキャリアと思います。しかも海外ですからね。

 

――:スタジオマネジャーをやってると、アニメーターとしての腕がうずいたりしないんですか?また自分でゲームを作りたいとか。

うずくほどの腕じゃない可能性もありますが(笑)、こちらに来てからはどんどんマネジャー業務が中心になっていて、アニメーションを作ることは無くなりました。でも個人的にはスマブラ for 3DS / Wii Uで「世界で1500万人が遊ぶ最高のゲーム作りに貢献できた」という最高の数年間があって、ある意味「やり切った」気持ちもあります。あのテンションであれだけのものを作れたから、いまは「次のステップ」としてのスタジオマネジャーをやるべきタイミングなんだ、と心から思えてますし、やりがいがあります。

 

■ゲームアニメーションとPM業務、マレーシア外注の仕事のさばき方

――:BNSは300名くらいアーティストがいたと思いますが、いわゆるアニメや映画のアートとは違いますよね?

モデラー(ゲーム内で動かすキャラや背景などのモデルを3Dでくみ上げる)で200名くらい、アニメーターで60名(モデルをどう動かすかを指示する)ほどと思います。アニメ会社のアニメーターと違うのは、ユーザーの入力に対してキャラをどう動かすのかという手触りのとこが一番でしょうか。それに「ゲームへの実装」に関しプログラマやゲームデザイナーといった他職種との調整が常に発生するところも違いとしてありますね。

 

▲6年間で何もないところから、150名サイズのスタジオまで変貌した

 

――:製造業でいうところの「すりあわせ技術」の特徴が強いですよね。アニメなど映像のほうが原画から動画に、と工程ごとにパス渡しができるモジュラー型ですが、ゲームだとアート素体が企画とプログラムとどう連動するかを考えないといけない「すりあわせ型」だからかなり手戻りがあって、アニメーター自身もわりと企画やプログラムのところに首をつっこんでいかないといけない。

そうなんですよ。だから一口にアニメーションといっても、他業種から入ってくるケースのほうがどちらかと言えばマレーシアでは多くて、アニメ会社からきた人が「やっぱり映像のほうがいいや」で戻ってしまうケースもありました。

 

――:マレーシアではここに「言語」という変数がまた入るんですよね。PM20名というのは僕の時代には想定になかったんですか、どういう役割ですか?

工程管理や通訳など含めてプロジェクトがスムーズにまわるように立ち回るのがPM(プロジェクトマネジャー)ですが、最初の3人が優秀だったんですよ。それで3人を基軸にこれから日本から任される案件も増えるから、このポジションを増やすぞと、現在の20人までふやしていきました。全員が日本語と英語を使いこなします。

 

――:どういうところからスタートするんですか?

ExcelなのかMSのTeamsなのか、みたいなテクニカルな部分はもちろんおさえつつ、一番大事に取り組んだのは全員の認識のベースを「そろえる」ところです。プロジェクトが多数動いていると、発注側との折衝も頻発します。本質的なポイントは何なのか、相手からするとどう見えてるのか、じゃあどう動くべきなのか。日々起きる多くの問題をケーススタディの場によく使わせてもらってました。裏方に徹するPMという役割がしっかり機能することでマレーシア側も効率的に動くことができるようになりました。

 

――:こういうのってマレーシア側よりも、むしろ日本側の調整が苦労しますよね。企業特性、部署特性もありますが、やっかいなのは担当者特性で、それぞれ担当者ごとにこだわりがあったり外注先に求めるものも異なります。ツールもこっちが未経験のものでも「問答無用でこれを使え!」みたいな時もありますし、無茶な要求したときに、リモートだから折衝が難しいですよね。

海外だからよくわからない、というところで本人が意図していないのに無茶な要求につながってしまったりもしますね。だからPMが大事で、発注側と制作側の間に入って全体スケジュールの優先順位からその推し引きを調整するバッファーになります。「建物を2年後に完成させることが大目標のときに、部屋の配置や階層ごとにどう埋めていくかをステップに基づいて調整していく」みたいな感じです。もうビルがいつまでに作らないといけないのが決まってるのに、一部の家具ばかりに集中しちゃったり、そもそも1階が出来てないよね、みたいなこともたまにはあるので、そういうときにもPMが活躍します。

 

――:ベトナムでも外注スタジオを視察してきたことがありますが、そういう環境でしたね。そもそも5~10人のテーブルがクライアントごとに部屋に分かれ、勤務時間中は常時Zoom(当時はSkype)でつなぎながら「あ、ホンさん。いまいいですか?」みたいに隣の席かのように日本の担当者から個別で指示がいったりとか。

はい、マレーシアでもそれと同じ体制を取ることもありますね。要求される開発体制は毎回違うので、それに合わせスムーズに様々な制作体制が取れるようになってきました。日本からの要求にこたえながらようやくBNSMYとしてもPM中心にプロジェクトごとに相手先の満足のいくサービスをつくれるようになる中で、良いコミュニケーションは何よりも大事と言えますね。

 

――:BNSMYとして、あたらしい機能に挑戦したりもするんですか?自社で何か開発したりとか。

自社ゲーム開発まではなかなか踏み込めないんですが、実は4年前からスタジオ内のR&D活動の一環として続けてきた映像制作チームが先日ようやく新しい案件を受注したんです。トータルに技術力を高め時間をかけて取り組んだ甲斐があってようやくお金いただいて発注受けるレベルまでなってきました。

 

――:4年間!凄いですね。確かに開発ってそういう地道なところがありますよね。

 

■無風な日本と激動のマレーシア、異文化に身を置くことで知った世界の胎動

――:ちなみにコロナの影響というのはどうだったのでしょうか?

マレーシアは日本より厳しくて、2020年3月に国境も封鎖したまま、完全に2年近くストップ、です。ロックダウンといって取り締まりの厳しい時期はスーパーや薬局くらいしか空いてないし、ライフル抱えた軍隊が区画を封鎖していたり。うちは最初18年に単身赴任してきて、19年から2年間は妻と子供たちがマレーシアに来て一緒に生活できていましたが、2020年のロックダウンとともに外出すらほぼできなくなり、2021年夏に帰国。そこから今に至るまで一人暮らしです。

 

――:マレーシアは近隣にリゾート島なども多いですし、お休みに色々観光にいったりとか、そういうのとかは・・・

せっかくなので家族で「島」にも色々行きたかったんですがパンデミック中はどこも行けずで。ロックダウン中にマレーシアに赴任してきたメンバーは観光らしい観光も全くできてなくて、もう2年にもなるのに、観光したのは「バトゥ洞窟」くらいというつわものもいます。

 

――:それ、車で30分でいけるやつですよね笑。僕みたいな数日観光客が足伸ばしていくような・・・。なるほど、この2年弱はホントに仕事以外できない感じだったんですね。

はい、もう憧れの駐在ライフとは程遠かったです。ただ、世界全体でどの国もこの3年は皆似たような感じだったのかなと思いますが。

 

 

――:今後マレーシアタジオとしては何か目標などあるのでしょうか?

日本本社からは300名体制にするくらい頑張れ!と言われますね笑。大きくしたらしたでコスト側の不安もありますし、習熟度も考えながら少しずつ増員しているのが現状です。あとは外販比率をあげていったり、もっと難易度の高い案件もとっていけるように頑張りたいです。幸いスタジオ自体はずっと黒字ではやってきているので、成長スピードも気にしながら、という。

 

――:それは素晴らしいですよね!初年度からずっと黒字だったと聞いてます。マレーシアの競合関係ってどんな感じなのでしょうか?老舗のLemon Sky(2006年設立、『The Last of us』や『Fire Emblem Warriors』などを手掛ける)やPassion Republic(2009年設立、『SEKIRO』や『エルデンリング』、『Diablo』などを手掛ける)も好調ですよね。

バンダイナムコグループとも昔から付き合いの深いLemon Skyはもう400名規模、Passion Repblicが150名規模まで来ています。他も含めて100名規模のデザインスタジオが何個も並ぶようになったことがマレーシアのアートデザイン産業を牽引してますよね。

 

――:マレーシアは何よりMdecという政府外郭団体による誘致が有効にきいていて、バンダイナムコスタジオの展開も「条件を満たした企業は10年間法人税0%」という産業誘致条件(MSCステータス、と呼ばれる)によって展開してきました。あちらはまだ有効ですか?

はい、淳雄さんのころにまさにその条件をクリアしていってこのスタジオが出来てますよね!6年目になる今もその恩恵にあずかってますし、その後もOLMさんやDelux Games(でらゲー)さんなど日系企業がマレーシアに展開してきました。

 

――:最近はそこに、ソニーのPlaystation Malaysiaもできました。彼らもあっという間に100名規模になってきていて、だんだん人材も枯渇してきてますよね。

シニア層の確保が大変ですね。マレーシアでの平均給与は物価差により日本より低いですが、シニア層になると日本と同レベルかそれ以上のサラリーでの転職も増えてきました。マレーシアでは産学連携の思考がとても強くOne AcademyやKDUなどアートスクールや大学でアートデザインを学んでいる学生が毎年何百人と卒業していきます。その新卒を育成しながら、海外も含めたシニアデザイナー層を確保して、産業全体を押し上げてきた感じです。そこにPM層として日本語・英語を使える非ゲーム業界の人材も入れていて、最近はBNSMYも直接日本から業界で働きたい人材を現地での即戦力として採用しました。

 

――:それはいい傾向ですよね!シンガポールもマレーシアも、欧米も皆ダイレクトに海外支店に採用応募する気概があるのに、日本人だけホント動かないですよね。僕もバンクーバー時代年間1000通くらいアプリケーションもらってきましたけど、その3~4割はカナダ国外なんですよね。しかも中国・韓国の方が非常に多いのに、日本人だけ少なかった衝撃で。

でも少しずつそういう応募に手をあげる方もでてきた感じがします。まだ僕らは100名超のスタジオですが、マレー系も中華系もインド系もいて、多国籍文化を背景に考え方もそれぞれ違う。日本から来て人によっては英語で全然コミュニケーションできないところから、少しずつ理解していく。語学だけじゃなく、そういう環境に身をおくことそのものが、学びになっているなと僕自身感じます。

 

――:やはり内藤さん自身も国内にいたときと感覚は違いますか?

日本でずっと育って日本でずっと開発して、今思うと「それって怖いことだな」と思うことがあるんです。先人達がつくってきた日本国内のゲーム産業の中でやれるのは幸せなことです。けどマレーシアの多国籍性やダイナミズムにあふれるゲーム産業という環境に身を置いたときに「世界がこんなに動いているのに、日本だけ無風すぎないか?」というのは本当にあって。ゆでガエルじゃないですけども。

気づかなかったことが多すぎますよね。日本はずっと言語的・文化的な障壁に守られていて。けど今のゲーム業界は欧米や中国のパワーが強く、マレーシアにもその市場の影響力がどんどん濃くなっています。高額の案件が発注されたり、マレーシアの人材でもびっくりする給与で引き抜かれてたりします。そういったことに、日本の中だけでゲーム開発していると良い意味でも悪い意味でもほとんど影響受けません。

逆に海外で生活してみると日本の良さというのは本当に無限にあって。総合すると自分の価値観もひろがっているのだと思います。

 

――:欧米の会社がグローバルな環境づくりを何十年もやってきているから、学ばされますよね。

数年前にマレーシアにも開発拠点を置いたラリアンスタジオというオンラインゲームの会社のやり方はなかなかにグローバルで。地球全体を幾つかの地域に分割して、欧州、ロシア、アジア、北米と地球をぐるっと囲めるように拠点を置いて。とある地域で太陽が沈む頃には次の地域で開発を引き継ぐような24時間体制での開発体制です。そうした環境を構築するのは大変な労力もコストもかかりますね。比べて、マレーシアでそこまで展開しようとする日系大手ゲーム会社はまだないですね。

『原神』のMihoyoとかTencentなんかも、シンガポールはもちろんマレーシアでもたびたび名前を耳にします。そういう出入りのなかで日本のゲームやIP自体は入ってきても人材や企業が還流していないことには危機感も感じます。

 

――:最後にメッセージなどありますか?

弊社としてはまだまだ日本人を含む多くのアーティストやPM人材を募集しています。ここまで話してきたようにマレーシアでキャリアを積む、というのは非常によいと思います。若ければ若いほど得られるものは多いでしょうし、キャリアを積んだ方にも活躍の場はたくさんあります。ゲーム業界以外のキャリアの方も含めて、ぜひアプライしていただければと思います。

 

会社情報

会社名
Re entertainment
設立
2021年7月
代表者
中山淳雄
直近業績
エンタメ社会学者の中山淳雄氏が海外&事業家&研究者として追求してきた経験をもとに“エンターテイメントの再現性追求”を支援するコンサルティング事業を展開している。
上場区分
未上場
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