宇宙軍2代目参謀長、元ガイナックス副社長井上博明。手塚治虫との思い出を大いに語る(前編) 中山淳雄の「推しもオタクもグローバル」第139回
「宇宙軍」という学生たちが立ち上げたSFサークルがあった。早稲田漫画研究会に所属していた高橋信之氏が浪人時代に立ち上げた団体で、彼らはオイルショックなど就職困難な時代に、いまでいうベンチャー起業のようなことをして1980年代に一大勢力になっていった。初代総帥の高橋氏の人生録を前回取材したが、今回は2代目総帥(1979~87年)となった井上博明氏がその後手塚プロ、ガイナックスをたちあげていく1980年代のプロセスについてインタビューを行った。この1980年前後という時代は『ヤマト』『ガンダム』が生まれ、SFとロボットとアニメが惑星直列した時代だった。なぜあの時代の「オタク」たちは今、これほど大きな産業を築き上げることができたのかについて迫りたい。
■SFオタクが鉄道屋をあきらめて「家事手伝い」からアニメ制作デビュー
――:井上さんの紹介からお願いします。
井上博明と申します。中山さんが以前取材なさった高橋信之さんから引き継いで、SF同人サークル「宇宙軍(Space Force)」の2代目代表をやっておりました。1985年にガイナックス副社長として入社して(89年には辞めているんですが)、作品としては『火の鳥2772』『鉄腕アトム』に始まり、『レンズマン』『オネアミスの翼 王立宇宙軍』『天地無用!』などのプロデューサーをやってきました。直近は10年ほど吉備国際大学の専任教授をやっていて、現在はベンチャーのAiHUB社でエグゼクティブ・プロデューサーとしてAIアニメのプロデュース(2025年6月〜)をやっております。
――:ガイナックスといえば「元祖オタクを生み出した会社」というイメージです。岡田斗司夫さん(1958~)や庵野秀明さん(1960~)など有名人を多く輩出しており、井上さんご自身は「いわゆるオタク」な生まれ育ちだったんでしょうか?
1958年生まれで、庵野くん世代よりちょっとだけ年上なんです。私自身はそんなに「オタクオタクしていた」という感じでもないんですよね。小学校にあがるくらいのタイミングではじめてのTVアニメ、『鉄腕アトム』(1963)が始まるわけだから一応ドンピシャの世代だったんですよ。『オバケのQ太郎』(1965)も見ていたし。それでも中学校にあがるころにはアニメ離れが始まり、『マジンガーZ』(1972)あたりが最後ですね。僕の時代は小学校を出るともうアニメは卒業。その後もアニメを見続けている人のほうがおかしい、くらいの印象でしたよ。ただ『宇宙戦艦ヤマト』(1974)だけは松本零士さんファンだったので観ていますがね。
小学生の頃から当時はジュブナイル小説と呼ばれた小説(今はラノベ)を読み始めました。小松左京さん・筒井康隆さん・星新一さんなど1960年代にSF小説をかいてきた作家の作品にも傾倒してました。むしろテレビよりも、そういった小説を読んでいたほうが当時の私の少年時代でしたね。
――:SF・ジュブナイル小説というのはどういうものだったんですか?
米国の科学小説を子供用にリライトして読みやすくして書かれてました。あかね書房、岩崎書店などが『世界少年少女SF全集』なども出していて、そこにドーンと影響を受けてはじまったのがハヤカワ書房ですよ。近所の図書館の子供室で本を1日7冊も借りてたけどそれを2日くらいで読んでまた次を借りに行く。そんなことを繰り返しているうちに図書館の子供室の本は読みつくしちゃいましたね。アニメから卒業してSF小説をみたり、テレビで大人向けドラマとかを見ていましたね。
――:SF小説、米国の流行が日本にうつってきたんですよね。
科学小説からの派生ですね。手塚治虫先生もSFにハマってましたし、1950年代というのは米国でSF黄金期があったんですよ。アイザック・アシモフとかロバート・ハインラインなどもデビューして。日本でも海野十三さん(1897-1949)とか戦前の国内SF小説もあるにはあったんですが、ブームになるのは1950年代後半。テレビ・映画・文学と一緒に米国からSF小説がどんどん流入した時代です。
――:のちのアニメ雑誌ブームのような感じだったのでしょうか?
出版業界はまだまだ「SFを扱うとつぶれる」とか言われていましたね。日本での一番最初のSFブームでいうと室町書房の「世界空想科学小説全集」シリーズですね。「遊星フロリナの悲劇」アイザック・アシモフと「火星の砂」A・C・クラークがどちらも1955年に発売されてます。その後講談社なんかもSFに入っていくんだけど売れなくて撤退しています。ハヤカワ書房ももともと芝居系の雑誌なんかをやっていたけど、翻訳物を通じて推理小説をはじめ、そこからSF小説に入っていく。私もハヤカワが出す『S-Fマガジン』(1960-2015)なんかを読んでましたね。
「SF小説」というジャンルになったのはちょっとしてからの1960~70年代でしょうか。追いかけるように東京創元社も参入し、こういったものを読んでいた人たちが「宇宙塵」というSFサークルを作るんですよ。
――:「宇宙塵」(1957~2013に発行された日本最古のSF同人誌)ですね!これが宇宙軍にもつながっていくわけですね。
SF小説集団が同好会として開いたのが始まりです。その前の江戸川乱歩の時代までは探偵小説「宝石」(1946~64)という推理小説雑誌がメインでした。星新一さんもそれでデビューしてますしね。
初期そういった環境のなかでSF同人誌を書いていた人たちから豊田有恒さん(1938-2023、虫プロのあとにTBS)や眉村卓さん(1934-2019)などが出てきて、それがアニメ業界にも入ってくるんです。アニメにはそもそも科学が分かる人がいなかった。『鉄腕アトム』と『鉄人28号』が1963年に最初のTVアニメとして、またSFアニメとして2大ヒットとなり、アニメは儲かるぞとSFとアニメが接合していったんです。『スーパージェッター』(1965)あたりでSF作家がライターとして入るようになって、『8マン』(1963-65)で小説家の平井和正さん(1938-2015、『幻魔大戦』など)を起用していくようになります。
――:アニメ→SF小説ときた井上さんはある意味オタク第一世代の黄金ルート辿ってるわけですね。
中学に入ってからは「撮り鉄」でしたね。まだちょうどギリギリ蒸気機関車が残っていた時代です(1972~75年ごろに全部電車に切り替わっていった)。そこでSLブームが終焉して、私がハマったのはブルートレインです。そういう憧れもあって、将来は鉄道の仕事につこうと、国鉄へのルートがある専門学校のような岩倉高校に入りました。
――:1973年に入学された岩倉高校というのはどういう学校だったんですか?
岩倉は国鉄と関係性が深いので、ホントはダメだったんだろうけど毎月月末に構内にバイトの募集が張り出されるんですよ。「上野駅10人」とか。しかも僕は鉄道研究部に所属していたから、先輩方はみんなそこでバイトやってる。おいしい固定駅は全部先輩が独占していて、新入生は毎回違うフリー駅にいってバイトしてました。
――:どんな仕事だったんですか?
私がやっていたのは「手荷物・小荷物」のセクションです。70年代半ば、全国に荷物を送るには国鉄か郵便局の2択しかなかったんですよ。それで渋谷駅の預かり所で日給2800円のところ、力仕事もいる仕事で3200円とちょっとよい給与でバイトしていました。都内の駅は荷物を列車から下ろす場所が無いので汐留と隅田川と言う荷物専用駅から各駅にトラックで運んでいて、私は渋谷駅の小荷物手荷物扱い所で来た荷物を下ろし、送る荷物を積み込んでいました。そのお陰で荷物を積むのは未だプロなみです(笑)。
鉄道オタクでしたからね…そのまま国鉄に就職する、というのが当時の岩倉高校的には既定路線でした。でも、当時は国鉄のなかで組合活動がさかんで、駅長/助役/駅員の間でとにかく中間管理職の助役は大変な仕事だった。仕事やらせろという駅長の命令に対して、組合としては認められない。なんなら団交するぞと脅しもかけられ、その板挟みにあって、年10数人もの助役が自殺していくような世界だった。1970年安保に挫折した人々があさま山荘事件をおこしたり、よど号ハイジャック事件、丸の内爆弾事件なんかもあって、とにかく薄暗い時代でした。それで嫌になって私は「家事手伝い」になるんです。三公社五現業(日本国有鉄道(JR)・日本専売公社(JT)・日本電信電話公社(NTT)の3公共企業体、郵政(郵政省)・造幣(造幣局)・印刷(国立印刷局)・国有林野・アルコール専売(新エネルギー・産業技術総合開発機構)の5つの国営官庁企業)なんて言われていた時代です。
■玩具がアニメを席巻する。1970年代、誰もがMD事業にとびついた
――:1963年のフジテレビ×虫プロの『鉄腕アトム』からTVアニメの時代が始まります。1960年代のアニメ制作業界はどんな感じだったのでしょうか?
アニメに入っていったのも最初にフジテレビ、次にNETテレビ(日本教育テレビ、1977年に全国朝日放送=テレビ朝日に改称)、そしてTBS、日テレという順番でアニメが立ち上がっていく。でもそのころに肝心のアニメを創れるのは、東映動画と虫プロとTCJ(現エイケン)しかなかった。
TV局では一番早かったフジテレビは、アニメジャンルを独占しようと虫プロだけじゃなくて、タツノコなどを抱え込んでいた。東映動画をもっていたNETテレビは『狼少年ケン』(1963)です。後発のTBSはTCJ(現エイケン)もあったけど『鉄人28号』で忙しくて、作れない。それなら「伊賀の影丸」(1963、TBS)をやっていた人形劇団ひとみ座に「子どもの人形劇やってるからアニメもできるよな?」ととんでもない理論で作らせるんです。ひとみ座でこの「伊賀の影丸」をプロデュースしていた藤岡豊さんがTBSから話を持ってきて、ひとみ座を離れ独立して東京ムービー(現:トムス・エンタテインメント、1964年設立)を設立しました。「東京ムービー」という社名は元ひとみ座代表の清水浩二氏が命名したと伝えられています。東映動画の人材もひっぱってきて、『ビッグX』(1964~65)ができました。TBSはそのあとアニメスタジオを社内に創っちゃって、『8マン』や『スーパージェッター』を制作していきます。
アニメって出発点の1960年代は東映動画、虫プロ、TCJ、タツノコ、東京ムービー、この5社から始まっているんですよね。
――:当時からアニメーターの貧困問題みたいなものはあったのでしょうか?
(待遇問題は)もっと後になってからです。アニメは東映動画が出発点だが、60年代の頭くらいまで「東洋のディズニー」を目指していた時代です。本体東映の組合活動がアニメ産業にも流れていて、正直、当時の東映動画や虫プロは待遇がよかった。虫プロが大きくなっていた頃は、当時まだ珍しかった自家用車を持ったり、田舎ですが家を買ったりしているスタッフもいましたよ。NHK朝ドラ「なつぞら」(2019)ってアニメーターの小田部羊一さんの奥様、奥山玲子さんがモデルですよね。そこでも語られていますが、当時のアニメ業界はおおらかな時代でした。
――:5社しかなかったアニメ制作が拡がってくるのはどのタイミングなんですか?
虫プロが倒産したところ(1973年)からですね。ちょうど東映動画も調子が悪くてリストラしたものだから、当時の小さかったアニメ産業でどんどんそのメンバーが独立していった。そこから大きくなった会社の代表例がサンライズ(1972年虫プロから独立)やマッドハウス(1972年虫プロから独立)、グループ・タック(1968年虫プロから独立~2010年倒産)ですよ。
――:1960年代のテレビアニメは儲かったんですか??
テレビ30分番組の枠でアニメを作ろうとすると、当時少なくとも500万は必要で、それでアメリカから既存の番組を50~60万で買っていた。翻訳も入れると100万くらいですよね。それで手塚は100万でいいよ!といって『鉄腕アトム』を赤字で始めちゃうんですよ。でも蓋開けてみたらアトムのMDが1話に対して400-500万分くらいは売れたと言われており、正直儲かりました。同じように『鉄人28号』も『狼少年ケン』も『スーパージェッター』もMDで売れました。
それをみてテレビ局も1話250万円とか出すようになるんですよ。広告代理店も入って補填したりしながら、というのを萬年社が始めた。あとから読売広告社や旭通信(ADK)が参入してくるんです。テレビも代理店も別に著作権もとらないおおらかな体制です。アニメ制作会社-テレビ局-広告代理店がみんなでアニメとMDで儲けようとした時代で、制作会社は結局1話300万くらいはもらってたんじゃないかと思います。1960年代は十分にアニメは儲かっていた時代なんですよ。
――:いつからアニメは儲からない、貧しいみたいな状態になっていくんですか?
1970年代でしょうね。視聴率は稼げると夕方帯はアニメだらけになってアニメ製作本数も増えるんだけど、それ以上にアニメ制作会社がどんどん増えて、粒が小さくなってしまう。タイトルが増えすぎてMDも売れなくなってきて、そういうなかでおもちゃ屋がスポンサーになっていく。アニメから玩具、だったものが、玩具からアニメになっていくんです。
この「玩具からアニメ」の流れの出発点は『マジンガーZ』(1972)です。バンダイグループのポピーが「超合金」ブランドを立ち上げ、ダイキャスト製の重たいロボット玩具が大ヒット。それまでアニメを支えていた菓子メーカー、文具、子供靴が縮小するなか、玩具メーカーがスポンサーに取って代わるターニングポイントになりました。
――:いわゆる玩具化前提のためにどんどんSF化していきますよね。
『超電磁ロボ コン・バトラーV』(1976)ではポピーが合体ギミックの「DX超合金」を展開して大ヒット。そしてサンライズが作った『無敵超人ザンボット3』(1977)、『無敵鋼人ダイターン3』(1978)ではクローバーがメインスポンサーとなり、玩具メーカーがアニメの企画段階から深く関わる時代に入ります。
『機動戦士ガンダム』(1979)はその集大成で、クローバー、ポピー、タカトクトイス、日東科学など複数社が玩具を展開しました。ただ、メインスポンサーのクローバーの合金玩具は正直あまり売れなかったんですよ。そこに目をつけたのがバンダイ模型です。彼らは『宇宙戦艦ヤマト』のブームの中で、低単価のプラモデルを大量に売るという展開で大成功を収めていた。その成功体験を引っ張ってきて、放送終了後の1980年7月にガンプラを発売したら、これがアニメ再放送・再評価の波に乗って突然爆発的に売れましたよ。このガンダム・ガンプラの流れがそのままバンダイによるサンライズへの資本参加(1994年)につながり、今日まで続くガンダムシリーズの基盤を作りました。設立後4-5年はサンライズの名前を使わず、東映動画の下請けで『勇者ライディーン』(1975)とか色々作っていったんですよ。
――:60年代子供向けで『オバQ』のような菓子メーカー向けのアニメは、なぜサンライズのようなSF・ロボット玩具に切り替わっていくのでしょうか?
それ以前のTVアニメって「視聴率とれるもの」がメインで『あしたのジョー』(1970-71)など劇画モノが多かったんですよ。それが1970年代に入って作品数が一度減ってきて、お菓子会社のスポンサーもつかなくっていった。そこでMDのムーブメントを起こしたのは『キャンディ♡キャンディ』(1976~79)ですよ。『魔法使いサリー』(1966-68)や『ひみつのアッコちゃん』(1969-70)みたいな“女玩"ラインで昔からコンパクトとか売れていたけど、キャンディの玩具は驚異的なほど売れました。
――:それがバンダイグループのポピー(1971~86年吸収合併)がやっていた「キャラクター玩具」分野ですね。
そうです。バンダイに対して、タカラもちょっと入っていって、トミーはキャラクター玩具にはいかなかったですね。基本はタカトクトイズとかポピーなどが競り合っていて、そのうちのメインがサンライズがやっていたアニメだった。タツノコプロは1973年に子会社「タツノコランド」を設立して、自社キャラクターのプラモデルを製造し(販売は今井科学が担当)、スポンサーにもなっていましたね。
■第二代宇宙軍参謀総長→ファントーシュアルバイトから、手塚プロBチームへの入社
――:高橋さんが浪人時代の1976年に宇宙軍を立ち上げます。どういう出会いだったんですか?
宇宙軍の募集が「S-Fマガジン」(1960~2015)と「奇想天外」(1974~90)に広告が出てたんです。宇宙軍というのは、当時スペースオペラの翻訳でSFファンから人気が高かった※野田昌宏さんが洒落で「宇宙軍大元帥」と名乗っていたのにちなんで、ご本人から承諾を得て「SFで遊ぼう」という趣旨で立ち上げたサークルなんです。
その洒落精神から、軍隊の階級を申し込み順に上から割り振るとしたら全国から申し込みが殺到しまして、結果的に300数十人が集まりました。『スター・ウォーズ』(1977)からのSFブームの追い風もあったし、当時のSFサークルというと創作同人や研究が主流で、星新一さんのファングループ「エヌ氏の会」(1973年)、小松左京さんの「小松左京研究会」(1978年)、光瀬龍さんの「東キャナル市民の会」(1975年)といった作家ファングループが出てきていた。その中でも野田昌宏さんは人気が高くて、そのファングループという看板が効いたんでしょうね。
※野田昌宏氏:1933~2008、1958年からSF同好会「宇宙塵」に参画、「日本SFファングループ連合会議」初代議長。フジテレビに入社し「ひらけ!ポンキッキ」などを制作し1976年退社後は日本テレワーク設立に参画。テレビ制作の激務の傍ら、エドモンド・ハミルトンの『キャプテン・フューチャー』シリーズ(1974年~)や〈スターウルフ〉シリーズなどスペースオペラの名作を精力的に翻訳し、日本へのスペースオペラ普及に大きく貢献した。また『スター・ウォーズ』(1978年、角川書店)をはじめとする旧三部作のノベライズ翻訳も手がけ、フォースを「理力」と訳したことでも知られる。翻訳を継続的に行い、1995年に『「科學小説」神髄』で第16回日本SF大賞特別賞)
――:めちゃくちゃ面白い話ですね!その階級割り振りは、今でいうNFTのナンバリングですね!?野田さんの名前+階級付与というのが成功ポイントだったんですね。
そう、だから殺到したんですよ。早ければ早いほど「宇宙軍」でいい階級が手に入るって。それで最初は50人くらいかと思っていたんですよ。宇宙軍の階級は、最高位が野田さんの「大元帥」、その下が会長の高橋さんが就く「参謀総長」で、以下「大将」から始まって「3等兵」まで順番に割り振る仕組みにしていた。当時同時期に設立したSFサークルって100人にも満たないのが普通だったから、50人くらいで全員に階級が行き渡るかなと思っていたら、結局集まりすぎて、階級はあげられなくなっちゃったんだけど。
高橋さんは高校時代からプロ意識あってデザイナーになろうとおもって高校から印刷所でアルバイトしていたんです。「フリータイムズ」っていう当時「ぴあ」のような雑誌があって、その編集部にも入り込んでいた。フリータイムズの見開きにも、「宇宙軍の部屋」とか作っちゃっうレベルで(笑)。その雑誌が第三種郵便で送れるので、それに便乗して宇宙軍の会報を同報していたんですよ。だから宇宙軍はSF感度の高い人材を集めていたし、その反響も凄いものがあった。
――:ちなみにどこでも野田さんが出てきますね、、、!?
野田さんは親分肌の方でしてね。元々吉田茂の家系で麻生一族の一員という、精神的にも物質的にも裕福な方でした。仕事場にSFファンが会いに来たら飯を奢ったり、資料をあげたりするんですよ。宇宙軍にもその様に接して頂いていて、私個人にも野田さんの会社から色々仕事を回して頂いたり、野田さんのSF活動のお手伝いをしたりして、野田さんのご自宅の鍵を預かり様になりました。その縁で私の仲人にもなって頂き、私の親分です。

▲宇宙軍主宰の野田昌宏大元帥の星雲賞受賞を祝う会
――:仲人してもらう関係だったんですか!?井上さんは当時何をしていたんですか?
鉄道学校を卒業して行き場がなく、いやいや家業(襖の仕事など)を手伝っている中で、いまでいうサブカル系が好きになっていくんですよ。特に映画は、高校時代に年間300本くらい見てましたね。まだビデオレンタルが始まる前の時代で、TVか映画館で見てました。当時は映画封切りも1000円のロードショー館と700円の2番館(公開終了した作品を上映する映画館)、映画3本で500円で見れる3番館(2番館で上映終了したものを上映する映画館)まであった。銀座のロードショー見た後に、三軒茶屋や北千住・浅草の3番館をハシゴしたり。土曜日は学校終わると着替えて3番館で3本みたあとに22時スタートの5本立てオールナイト、その後朝一始発の山手線を3周する間だけ睡眠して、そのまま三鷹の小屋にいって観る、で2日間かけて10本映画見る、みたいなことを続けてました。
――:映画は不況だったとも言われますが、そういう2番館・3番館をカウントすると今想定されているよりもよっぽどみんな映画を見ていた時代なのかもしれないですね。
あとは東京だったからというアドバンテージも大きかったですね。映画をみる場所には事欠かなかった。新宿駅をデモ隊が占領しているからって電車がとまっていたり、神田の古本街にいくと催涙ガスの匂いがあったり、「政治と向かい合っている時代」でしたね。ほとんど大学行かずに卒業したり、高校でも途中でドロップアウトしてしまうような方もいましたね。
あと宇宙軍の手伝いでアニメイベントの仕切りなんかも経験してました。1978年に「アニメディアカーニバル」といって千葉セントラルプラザ(パルコのような商業ビルで、その中にあったホール)を2日間借り切り、堀江美都子さん(1957~『キャンディキャンディ』主題歌・『ひみつのアッコちゃん』声優)と水木一郎さん(1948~2022、『マジンガーZ』主題歌)をゲストによんで千葉で同人誌即売会(FTM主催でやっていた)をやったり。そういうのを手伝ってましたね。
――:宇宙軍参謀総長は1977年に高橋さんが初代、井上さんは1979年となってます。
2代目代表をついだのは、1979年の正月です(井上氏はその後ガイナックス立ち上げ後の1987年12月まで在任)。中山さんが前に取材したように、高橋さん自身は本当に仕事志向が強くて、立ち上げ1年後の1978年にはもう自分の編集プロダクションをまわすのに多忙を極めていた。彼を待っていると全然会の運営が進まなくなっていて、それで私が手をあげたんです。静かなクーデター(笑)を起こして2代目参謀総長になります。
――:まだその時点ではアニメは関係なかったんですね笑。
家事手伝い兼宇宙軍参謀総長でしたね(笑)。でも親と喧嘩して家事手伝いの折り合いがわるくなり、1979年から季刊「ファントーシュ」(1975~77・78~80、日本で最初の活字アニメ雑誌。自費出版でアニドウ代表の並木孝氏が発行責任者)でアルバイトをはじめてます。この雑誌は77年に一度廃刊になっているんですけど、虫プロにいた廣瀬和好さん(『宇宙戦艦ヤマト』で色彩設定などもやっていた)がアニメの仕事しながら「雑誌を作るんだ!」とファントーシュを引き継いだんですよ。当時、高橋さんは千葉から東京進出の拠点としてファントーシュでアルバイトをしていて、私は映画の仕事がしたくて、アニメーションも映画の一種だと思っていたので、家を出た中で高橋さんの居候という形でファントーシュに転がり込みました。私は映画ファンだったけどアニメファンではなかったですし、すごくやりたい仕事、というわけではなかったんですが(笑)。
でもこれが今につながりますね。協力して頂いていたアニメスタジオ——虫プロ(1977年に新虫プロとして再開)やタツノコ、白組など——に出入りするようになるんです。思い出としては、聖蹟桜ヶ丘にあった日本アニメーションへ、森康二さん(1925~1992、東映動画・ズイヨー映像を経て日本アニメーション所属)の原稿を頂きにお伺いしたことがあって。あの東映動画の名作『太陽の王子 ホルスの大冒険』(1968)や長編のキャラクターを手がけ、『長靴をはいた猫』(1969)の主人公ペロを作られた方だと感激したのは懐かしいですね。
――:雑誌「ファントーシュ」ではどんな仕事をしていたんですか?
ファントーシュは「スタジオあかばんてん」という高田馬場のアニメスタジオに居候のようにして作っていたんです。私は雑用係でして、原稿の回収や、雑誌ができたら車で契約書店に届けたりしていました。ミニコミ誌なので取次には扱ってもらえないから、直接書店に持ち込むしかないんですよ。編集室には車がないので、近所の手塚プロに「車を貸してください」とか「台車を貸してください」とか、下っ端の私が頼みに行くわけです。そういう縁で手塚プロとも仲良くなっていきましたね。
■「火の鳥2772」でみた地獄、放送3か月前の急増チームによる手塚プロの制作“焼き畑農業"
――:その後手塚プロに入社することになりますが、どういう関わり方だったんですか?
ファントーシュに転がり込む前に、高橋さんからの紹介で1週間だけ手塚プロで24時間テレビのアニメの仕事があって手伝いをしたことがあったんですよ。当時の24時間テレビは手塚アニメを目玉にしていた、日テレが手塚を口説いてチャリティでアニメを流していた。78年の開始から2時間のテレビスペシャルアニメを毎年つくっていました。
――:なぜ1979年に声をかけられたんですか?
当時手塚プロは大変な状況でした。市川崑監督が1978年に作った劇場版「火の鳥」(東宝配給、配給収入7.2億円)をきっかけにアニメ部を復活させました。1973年に一度止めていたアニメ制作を始めるんですよ。最初はもう5-6人みたいな規模でした。日本テレビから『24時間テレビ』の中心に「愛は地球を救う」をテーマにした手塚治虫スペシャルをやりたいという話があって、『100万年地球の旅 バンダーブック』(1978)を製作したら、視聴率28%をたたき出しましてね。これから毎年やっていこうとなりました。実はその裏で鉄腕アトムの復活も始まっていたんですよ。そんな小規模な体制なのに80分のTVスペシャル作品を作るぞ!と言い出した。アニメスタッフ40-50人かきあつめて、マンガをやっていたチームを押しやって、アニメ・マンガ両体制でのプロダクションが始まっていた。
――:どちらの作品ですか?
『火の鳥2772 愛のコスモゾーン』です。1980年3月公開なのに、その前の1979年11月の時点でも、まだ全部の2/3くらいしか終わってなかった。「先生、終わりません、もう無理です!」と社内中から悲鳴があがっていた。それを聞いて手塚先生、「間に合っていない部分は私のあがっていない部分の絵コンテですよね?今あがっている分だけ作ってください。私がこれから描く分は別でなんとかするので」と、Bチームとしてのアニメ部門を立ち上げようとしたんです。
そこに選ばれたのが私です。なんかいつもうちに来ているファントーシュの井上っていうのがいるじゃないか!となって手塚プロから編集部に電話がかかってきました。「今度、火の鳥のX'mas Partyやるから来ない?」って。当時は3食もままならない困窮状態だったので「やった、一食分浮くぞ!」と私は喜びいさんでかけつけるんですよ。そうしたら、食事とともに話があると。「いまのウチの現状知ってるよな?これこれこういう経緯で手塚先生の新しいチームを作らないといけなくなった」と。1979年12月でしたね。
――:それで手塚プロに入社するんですね!?1980年3月公開映画に、1979年12月にチーム組成って・・・(絶句)。
おおらかな時代でした(笑)。まずは下っ端の制作進行として私がアルバイト入社します。当時はファントーシュで月5万円のバイト代、でもアパートが月3万円だからカツカツなわけですよ。でも手塚プロに入れば、1日4000円だという。30日働けばなんと月12万ももらえるぞ!と心が揺れるんです。さらにですよ、「毎日の夕食代、600円出す」と。それで堕ちましたね。私は熱心な手塚ファンでもなかったから、本当に「金で釣られた」んです。
その足でファントーシュに行って、「今日でやめさせてください」と言いに行ったら怒られましたね。でも行き先が手塚プロと分かるや否や、まあ分かったそれは仕方ない、となりました。翌日にはスタジオにいったんですが、そこからまともに自宅に帰れない生活が始まりました。
――:え、どういうことですか??
その「Bチーム」というのがとんでもない急造チームで、急遽借りた広目の事務所にまずいくと、机4つしかないんですよ。手塚先生に、アニメーターの坂口尚さん(1946-95、漫画家で手塚先生のお弟子さんでアニメは『リボンの騎士』で演出デビュー)、そこにのちに手塚プロの役員にもなる1個年齢上の清水義裕さん(1957~、1978年『バンダーブック』の制作進行から手伝い、大学を卒業した1981年に手塚プロに入社)ですよ。スーパー学生で、24時間テレビのときに制作進行でアルバイトで入ったんですけど、翌年には学生ながらもう制作主任に取り上げられていた。2年間みっちり「24時間テレビ」やってる間で鍛え上げられて、清水さんは学業に戻っていたのを急遽呼び戻して、手塚先生に絵コンテを上げさせて仕事を回しろと。それ以外の雑務は井上にやらせろ、ということで私の机がありました。
――:1970年代にあんまり見なくなっていたSF・鉄道少年、宇宙軍には入っているけどまだ一年目のバイトというのが井上さんのキャリアですよね?アニメ制作というのはわかっていたんですか?
アニメの作り方はファントーシュのバイトでなんとなく知ってた、くらいのズブの素人です。それを「こうやれ!」と言われるままにやってました。1週間もすると机がどんどん増えて20個くらいに。とはいってもプロのアニメーターや背景、仕上げの方々も増えてはいたのですが、制作は私以上の素人がまずは20人ばかり集められたスタジオで、手塚プロが伝手がある大学の漫研という漫研に声をかけて、引っ張り込んだ人材です。「手塚治虫と働けるよ!手塚プロでアルバイトしない?」という誘い水できた学生ばかりでした。
1日中大量にコピーをして人間ソーターになったり、絵の具を仕上げに渡すために大瓶からちょっとずつ小瓶に移す仕事とか、そんなのばかり。私はそんな事を指示しながらちょっとずつアニメ制作には詳しくなりました。学生たちは不満の声がいっぱい。「手塚先生と働けるって聞いたのに、一体どこに手塚先生がいるんだ!?」と。
――:カオスすぎますね。
約束が違うと、大量に人が入っては大量に人が辞めていきました。本当に「人材の焼き畑農業」ですよ。清水さんは先生に仕上げてもらうために(≒逃げないために)、片時も先生のそばから離れられない。その1979年12月から1980年2月までの間にBチームは最終的には60人超の人材が関わるようになってましたよ。
仕上げをやってもらう女の子たちも多くて、でももうどうにもこうにも間に合わないから寝泊まりしてもらうための2段ベット買ってきて、カーテン付けて、ギリギリ寝てもらえるスペースは作った。そんなチーム全体の本来の仕事である制作進行以外にも環境や食事の手配なんかもしていて、もともとのAチームと違ってBチームは愚連隊、使い勝手がよいだけで集められて、扱いもよくなかった。Aチームには新宿駅近くのプリンスホテルを10部屋くらい借り切ってそこで寝泊まりしながらずっとスタジオに詰めて仕事をさせていた。でもBチームだとそういうのもなくて、夕食のお弁当すら出ない。
――:プロを雇ったAチームと、急造のBチームで全然扱いが違うんですね。
火の鳥の制作予算も当初2.5億だったが、実際4億くらいかかっちゃって予算もギリギリ。でも1週間ほぼ睡眠もとれていないみたいな人たちだから不満もおさまらない。手塚プロの隣の喫茶店に朝電話かけて、「モーニング10個おねがいします」とご飯頼むんですけどね。本来はそういうのもプロデューサーがサインしてくれないと経費にできないんですよ。いまだから言えるけど、サイン偽造してなんとか食べ物調達して無理言って不機嫌マックスな彼らに仕事を終わらせてもらうしかなかった。仕上げの女の子からは「モーニングにパフェをつけて」とか言われて、そういうのもなんとかしながらなし崩し的に注文して運び入れて、食わせて、作ってもらって…というバタバタバタバタした仕事をしていました。
12月に入社してから終わるまでに手塚プロから歩いて5分ほどのアパートに通算10日程しか帰れずの状態の中、私の代わりをやれる制作経験者も入って来て何とかなって来たら、音響作業の雑務に行ってこい!と。
――:恐ろしい職場に入っちゃいましたね…。
音響作業はアオイスタジオでやっていたのですが、ARは何とか終わらせてDB作業になっていたのですが、フィルムが上がって来ない。だけどスケジュールを考えるとだましだましでも進めないとならないので、音響スタッフと監督や演出をスタジオに閉じ込めていた作業現場に放り込まれました。やる事はプロデューサーの指示での食べ物の買い出しや、音響作業の中でフィルムに不備があればスタジオに連絡したりで、アオイスタジオに一週間泊まり込んでいたら、次は編集に行け!でした。
フィルム編集は現像をお願いしていた東洋現像所(現在のIMAGICA Lab.、編集・MA・カラコレ・合成・テロップなどを行う日本の3大現像所の一つ)の中にある貸編集室に編集さんを音響作業と同じく押し込んでいました。もう2月に入っていた中で配給の東宝がこのままでは公開に間に合わないと考え、「この1週間は24時間フル稼働してくれ」と。
――:24時間稼働というのは…?
通常は朝8時に未現像フィルムを入れたら夕方に現像して貰う、というスケジュールなんですけどね。それをどんな時間に入れてもその2時間以内に対応する、みたいな感じです。Opticalという合成も中2日かかるのを1日でやってくれるとんでもないスケジュールで、その現像所の労務責任者の方は3日目に胃痙攣で救急車に運ばれてしまいました。寒い冬でしたけど、私は編集室の前の廊下に段ボールを敷いて寝ていましたね。そこに夜中の1時とか逐次、現像があがってきて、私はそれを編集に引き渡しながら撮影済みのカット確認とか編集さんから撮影の問題が有った事をスタジオに伝える事をしていて…最後の1週間はほとんど記憶がないレベルですね。
――:すごいです。そんな難工事を潜り抜けて、ついに完成させるんですね!?
いや、間に合わなかったんですよ(笑)。一番最初に東宝の会場だった試写会には。東宝も何年かぶりの手塚アニメーション劇場映画、ということで大々的に宣伝していた。公開日は絶対に飛ばせない。なにがなんでも死ぬ気で作れ、と言われて、なんとか間に合ったのは2回目の試写会。2回目は講談社などの出版社が連合試写会やってくれてそこにはなんとか間に合うんですけど…おそるべきことに、みんながボロボロになって作り上げた映像をみて、手塚先生が一言放つんです。「うーむ、気に入らん。直す。」と…もう絶句ですよ。
合計120分あった中からギリギリ5分のミュージカルシーンをばっさり削っちゃうんです。「ああ…この5分のために全員が1ヵ月もかけたのに…」と、疲れ果てたなかに絶望の底に突き落とされるような感じです。
――:凄まじすぎます。それで手塚プロの仕事を続けると判断した井上さんは、その時点で“才能"がすごいです。
「このあと『鉄腕アトム』つくるんだけど、やるか?条件はおんなじだ」と。その時も『火の鳥』ほどひどくはならない、とか言われるんですよ。そんなことは絶対なかったですね(笑)。
アトムの場合は、そんな地獄が毎週続くことになりました。知ってたら絶対降りてましたね。でもそんな仕事を手塚プロでやってたもんだから、その後何があっても驚くことはなくなりましたね。どんな過酷なプロジェクトでも「これとこれがあれば、できるよな」という感覚が身について、お金はおいておいてもとりあえず間に合わせる、ということはできるようになりましたね。

■ガイナックスにつながるDAICON3、岡田斗司夫・武田康廣・庵野秀明・赤井秀美ら学生たちのゲームチェンジ
――:ガイナックスの岡田さん、武田さんとはどういうつながりだったんですか?
岡田斗司夫は第一次募集で関西から宇宙軍に申し込んできていました。1978年にSF大会を芦ノ湖でやったんですけど、その時に(岡田氏は大阪電気通信大学「SF&アニメーション研究会」1年目)に大阪からきていて、顔見知りになりました。東京本部だけでは会員フォローが出来ないので各地の有志に支部を作って貰い、大阪は年賀状で私が大阪に行くので集会をする事を知らせて、そこから大阪支部が立ち上がりました。そうした中で(私が参謀長になりたての時に)1979年にSF大会を大阪でやりたい!と相談をもってきたんです(SF大会は開催場所に応じて、東京のTOKON、東海のMEICON、大阪のDAICONと呼称されていた)
――:どうやって、岡田さんたちはDAICONを主催するんですか?
DAICONを主催するにも、SFファングループ連合会議(初代議長が野田さんです)に申請しないといけないルールも知らなくて、彼らは先に会場を押さえちゃってたんです。1979年は名古屋のファングループが申請していて、そこでやることも決まっていた。それでどうしようとなって、SF大会と別にSFショーを設けたらいいんじゃないか、と。「おれが野田さんに話つけておくから、SFショーを主催したらどう?」と。それで岡田は大学で知り合った武田康廣(1957~、当時近畿大学でSF研究会に所属していた)と1979年にSFショーをやる事になりました。
その延長線上で、(1980年はTOKON7が浅草公会堂で開かれた)1981年の8月にDAICON3を森之宮ピロティホールで開こうということが決まってくるんです。主催の岡田たちがそこで上映した自主制作アニメーションが庵野秀明・赤井秀美らと作った伝説の回になっていって、1982年の『愛國戰隊大日本』とか1983年の『帰ってきたウルトラマン マットアロー1号発進命令』につながっていくんです。
――:そうか、「SFイベントの企画者」としての岡田さん・武田さんがいて、DAICONの過去2回(1964、1971)とは違うメンバーで開催したのが1981年の第3回なんですね。
なぜいまもDAICON3がこんなに話題になるかっていうと、当時からすでにSFの古い世代はいたんですよね。筒井康隆さんとか宇宙塵が第一次SFブームだとすれば、我々はSF第二次ブームの担い手だった。でもDAICON3は大阪芸大の庵野くんとかも入って、みんな学生たちがノリだけでつくっちゃた。だから面白いものになったんだと思います。
――:その時は井上さんはまだ手塚プロ1年目、ですよね?DAICON3は実際に見に行ったんですか?『ブレーメン4』が1981年8月23日で、DAICON3ってほぼ同じ8月22-23日ですよね。
はい、いきましたよ。『火の鳥』が終わって、手塚プロはテレビ鉄腕アトムと毎年の24時間テレビのスペシャルアニメを作っていました。その中で『ブレーメン4 地獄の中の天使たち』(1981)を作っていました。外注にだした会社がひばりヶ丘にあって、手塚先生(総監督)は清瀬に住んでいて、高田馬場の会社に通っていらしゃっていて、気が向くと間のひばりヶ丘のスタジオに現れました。手塚先生はアニメの仕事が好きなのでちょくちょく途中でスタジオに顔を出すんだけど、寄っていくと「私、ちょっとやります」と作業を始めちゃうんです。気に入らないところがあると勝手に直す。でも手塚先生ってけっこうすごい切り貼りする人で、天井の素材をそのまま床にもってきちゃったり、本来やらないような使い方で背景の部分をバリバリ切っちゃうんですよね。
それが「ブレーメン4」ならまだいいのだけど、そこにあった他社向けの作品で撮影が終わっていないものもパッパとってバリバリ切り抜いちゃったりする。その1カット分が丸々なくなっちゃうようなこと。制作スタジオから手塚先生を何とかして欲しいと泣きが入って、先生に対応する為に清水さんとアトムの制作進行をしていた私を派遣する事になりました。
――:いやあ、相変わらずクオリティというかなんというか、手塚先生の天才ぶりを表すストーリー満載ですね。
清水さんはそういうのがうまくて、先生が来る前にこれはまずいという背景画は全部かくして、撮影がおわっている背景を最初に先生が来そうなエリアにばらまいておくんです。それを先生はその通りにばらまかれて撮影が終わっているものを使い始めるので、そうやって大惨事にならないように事前にこちらで準備していたりしました。
私はアトムを離れる当たって「手伝ってもいいけど、8/22になったら大阪DAICONいくからね?」といってました。金曜日の夜に大阪にいく予定だったんですが、案の定、終わってないんですよ。その日は徹夜で作業して、結局は土曜日の朝まで『ブレーメン4』をやってました。私はもう約束していたんで「僕、先に行きますから」と大阪に向けて出発しました。でも大阪会場でケロッとその後手塚先生もきてるんですよね。あれだけ徹夜続きの中、いくらSF好きっていってもあのまま本当に大阪まで来たのか…と驚きましたね。
――:彼らの“学生アニメ"はどうだったんですか?
最初、出来上がる前に岡田たちが見せてくれた素材に驚きましたね。彼らは工業用のセルシートを切って使っていて(既定のものを1枚ずつ買うより安かった)、ちょっとだけ小さかったり。ふつうは3つ穴でとめてその上で描いていくんですけど彼らはそれすら知らなくて文具屋で買ったパンチで穴あけているから2つ穴だったり。カット袋もないから、手塚プロで余っているやつをもっていってあげたりしました。DAICON4のときはさすがにふつうの作り方になってましたけどね。
アニメのこと何もしらない素人集団がつくった作品はどんなものかと思ったら、そのDAICON3のアニメで衝撃を受けました。「すげえなこいつら」と、その映像の結果だけみて驚きましたね。
――:手塚治虫先生が「何かが足りない」と言ったとか(OPアニメに手塚キャラがいなかった)。山賀くんが手塚をみて、「あれは誰?」という台詞が衝撃でしたが…(笑)。このへんは『アオイホノオ』で大変熱読しました。ああいった話はどこまで本当なのでしょうか?
岡田刺繍店が経営的にうまくいかなくなっていて、そこで家にスペースがあったのでそこで学生たちを大量に囲いこんで庵野くんとアニメ作るんですよね。家のなかにブランコがあったりとか、とにかく描写も細かい(笑)。どうなんでしょうかね。結構記憶で描いている話も多いのでなんともいえないですが。山賀くんがアニメあんまり見てなかったり、絵が描けなかった、あたりは本当ですね(笑)、少なくとも当時は。
1983年にDAICON4を開催したときにはもう岡田もゼネラルプロダクツ(SFグッズ専門店を両親からの出資で設立)を作ってましたし、もっとしっかりしている感じでした。でも手塚先生もよもやそのときに彼らがアニメ制作会社をつくるなんて想像もしてなかったんじゃないですかね。彼らが作ったのはそのDAICON3,4のときの2本だけですね。
■天才手塚との経験で3年目でプロデューサー、日本最初のCGアニメ技術に触れる
――:井上さんはどうして1981年10月に手塚プロからどうして転職されたんですか?
『火の鳥』や『アトム』で2億円ほどの借金になって、手塚プロではもうアニメを直接やらない、ってなったんですよ。それで次はどこで働こうかな、となって東京ムービー系テレコムとサンライズとマジックバスの3社から声がかかりました。マジックを選んだのは『はだしのゲン』(1983、劇場アニメ)を映画で作るので制作主任(デスク)にならないか?という昇格込みのお話だったんで、給与もあがるし制作進行の仕事も飽きていたのでそれならいいなと思って入社しました。
結局『はだしのゲン』はなくなって、そのまま『キャプテン』(1980)をやったんですけどね。もうボロボロになって働いていたものだから「もうアニメはいいかな」という気分にもなっていた時期でした。1年したらエムケイに転職しています。
――:2回目の転職ですね。エムケイはCGアニメ会社でしたけど、どういう経緯だったんですか?
最初は小松左京さんが監督をやって『さよならジュピター』(1984、東宝映画)をつくるためにイオという会社(1981~)を作ったというニュースを聞いたんです。そこの会社に行きたいです!紹介してくださいと親分の野田さんに言ったら、「あそこにはいくな!あそこはうまくいかないから。フジテレビ時代の元同僚がコンピューターグラフィックを始めたのでそこに行け!」と言われました。
MK COMPANY(エムケイ)は1974年にフジテレビから独立した金子満さん(1939~2018、フジテレビ入社後に南カリフォルニア大学に留学、MGMで研修などをうけて独立、「日本のコンピュータグラフィックスの父」と言われる)が設立した会社です。彼がいわゆる“山師"型なんだけど、奥さんも女優の浜美枝さんだし、当時フジテレビで野田さんの同僚だった。USCにも留学しているから英語も堪能だったし、ハリウッドメジャースタジオとも接点をもっているようなスゴイ人で、その上に東宝の副社長のご子息でその後講談社・東宝・ポニーキャニオン・日本テレワークから出資を集めてJCGL(ジャパン・コンピュータ・グラフィックス・ラボ)という会社を作るんですよ。日本で最初のCG会社ですね。会社を回すために講談社がグレゴリー・ペックらが主演していたアメリカMGMの映画が原作の作品のフルCGのTVアニメ「子鹿物語」(1983~85、世界初のCGテレビアニメと言われる)を作ったり。同じくMGMが原作権を持っていたSFの古典作品の「レンズマン」をアニメ映画化権も持ち込んでいて、因みに最初ジョージ・ルーカスが作りたいと申し込んで、断られたから『スター・ウォーズ』をつくった、といわれる作品ですね。

▲スターウォーズエピソード1を観る会に集まった宇宙軍メンバー。左から2番目が井上博明氏
――:なぜ日本人でそんなタイミングでCGに全振りできたんですかね?
1970年代末って世界のCG2大拠点はNY工科大学とユタ大学だったんですよ。USCにいたことでつながりがあって、NY工科大のCG技術を日本に輸入したのが金子満さんでした。彼がつくったJCGLは最終的には1988年にナムコに吸収合併されました。その後、JCGLの技術的遺産や知見は様々な形で受け継がれました。例えば、1991年に設立されたセルシスが開発し、日本のアニメ業界の標準となったアニメーション制作ソフト「RETAS!(レタス)」も、セルシスの創業者が「セルアニメーションをシステム化したい」という理念のもと開発したものであり、JCGLが目指したデジタル化の系譜に連なるものです(なお、直接的にJCGLのシステムを元にしているわけではありませんが、当時のCG・デジタルアニメーション開発の流れを汲んでいます)。
――:JCGLってその後のナムコのアーケードとか鉄拳とかにも生きてるんですよね。1990年代のナムコはCG技術で世界トップだったって聞きますよ。
そうなんですよ。最後にナムコの未来研究所になったところです。『ゴルゴ13』(1983)と『レンズマン』(1984)が日本のCGアニメの出発点ですよ。
――:ちょうどCGブームでしたね。『トロン』(1982、制作費1700万ドル、興行収入5000万ドルでDisneyが作った秀作)なんかも一大ブームでしたよね。
「トロン」は、実はかかわり合いになりかけてたんですよ?マジックバス時代に東京ムービーで仕事をしていたら米国からの仕事だよといってコスプレした役者の写真を「これをトレースする仕事だけどどう?」と言われて。外注で韓国に1枚500円で出せるから、1000円って吹っ掛けたらどうかなみたいな話をしました。そしたら東京ムービーはさらに倍で1枚2000円みたいな話までしちゃったみたいだったたんですよ。結局、彼もハリウッドも市場相場はわかってて、台湾にダイレクトで注文したほうが安いだろう、ということで結果失注しちゃったんです。もったいなかったですね、あれでやっていたら歴史に名が残ったのに
――:しかし1980年末の手塚プロ→マジックバス→エムケイと、濃厚ですよね。当時のアニメ業界ってこんなにポンポン出世できるものだったんですか?
プロデューサー業務はアシスタントでしたけど1983年の『SF新世紀レンズマン』で初めて経験しています。エムケイは『あしたのジョー』をやっていた出﨑統さんのお兄さん(出﨑哲さん)の会社で、3年弱、だから確かに早い方なんでしょうね。普通なら5-6年は修行しないといけないポジションでしたけど…やはり手塚先生という稀代の天才の下で2年間、アニメの制作進行でやっていたことが財産になっていたんだと思います。
■ガイナックス創設秘話。宮崎駿・押井守・バンダイが支えた新興のアニメスタジオ
――:それではぜひガイナックスに入る経緯を聞きたいです。
そのエムケイはJCGLの経営に集中するのでアニメ製作を閉じるということになって私も次の行き先を探そうというタイミングでした。そんな時に岡田が山賀博之(1962~、大阪芸大で庵野秀明と同じ寮だったところからアニメに興味を持ち始める)と一緒に企画をもってきたんですよ。後から聞いたらゼネプロの人間関係が崩壊したから、大阪から逃げてきたんですよね。私はその時知らなかったんですが。
――:岡田さんも「アイデアの1は自分が、その後の9で企業と調整したりを山賀くんがやっていた」と言ってますね(笑)。2人は当時からパートナーだったんですね。
山賀くんはアニメを作れる人間ではなかったけど、岡田は岡田でアイデアマンだったけど壁打ちができる相手が必要だったんですよね。そんな彼らが最初にもってきた企画というのが、のちに『王立宇宙軍 オネアミスの翼』(1987)になるものだった。すでにバンダイもスポンサーでついている、と。
――:最初にお金を出したのはバンダイなんですよね。バンダイ側はなぜ学生にお金を入れる、という話になったんですか?
あのときのバンダイで窓口をしていたのが渡辺繁さん・鵜之澤伸さん、2人とも主任だった時代です。宮河恭夫さんもその後ちょっと巻き込まれたのと、その後亡くなられちゃった浅田さんも含めて4人は全員同期なんですよ。
DAICON3で渡辺繁さんが彼らを発見して、面白い!となったのが始まりです。渡辺さんたち自身はポピーでおもちゃの開発営業から、1982年から六本木で始めたビデオレンタルショップ「Emtion」のつながりで1984年にたちあがるバンダイ映像事業本部(王立宇宙軍製作に伴って設立)に参加しています。ここらへんはバンダイ2代目の山科誠さん(バンダイ創業者山科直治の長男:1969入社、1980~99バンダイ社長)が立ち上げた事業ですね。スタジオぴえろとやった『ダロス』(1983)が1本目ですよ。ここでOVAはいいじゃないか、となって、次はオリジナルつくろう!となったんです。声をかけたのがDAICONでアマチュアでアニメを作っていた岡田たちです。
※渡辺繁(1957~、1981年バンダイグループのポピー入社、83年にビデオレーベル「EMOTION」設立、世界初のOVA『ダロス』制作し、その後『王立宇宙軍 オネアミスの翼』『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』などのプロデューサー。1997年バンダイビジュアル社長、2006年エモーション社長、2011年にグループを退社し2018年より元アニプレックス社長植田益朗氏とSkyfall設立
※鵜之澤伸(1957~、1981年バンダイ入社、83年バンダイフロンティア事業部、92年バンダイビジュアル取締役、ピピンアットマークなどのゲームプラットフォーム事業を推進し、2009年バンダイナムコゲームス社長、2012年ESA第4代会長、2015年アニメコンソーシアムジャパン社長などを歴任し、2023年にグループ退社)。
※宮河恭夫(1956~、1981年バンダイ入社、ピピンに関わり、2000年サンライズ入社、14年に社長就任。2019年にバンダイナムコエンターテイメント社長を経て、2023年にグループ退社)
――:まだアニメ制作黎明期とはいえ、よく学生たちに声かけましたね。
最初は「2000万予算をあげるから、なんか作らないか?」くらいのモノだった。岡田たちは学生たちに飯を食わせながらほぼタダ働きのようにアニメをつくってたから、原価って数十万円みたいな話なんですよ。だからその金額でも出来ると思っていた。
でも私は手塚プロで元請け、マジックバスで下請けを経験してエムケイでプロデューサーをまがりなりに経験してからアドバイス求められて、その王立宇宙軍のアイデアを見ながら、「これ、2000万円で作る気?絶対できないよ」といったんです。舞台も出てくるキャラクターも、2000万円の40~50分でできるようなネタじゃないじゃん?と。岡田はその時はそんな話してもピンときてなかったくらいでした。
――:なるほど。
バンダイも分かってたみたいですね、2000万円じゃ無理だって。アニメーターじゃないとはいえ、ぴえろで押井さんたちと幾つか作ってたから。私がそれまでのアニメ業界の問題点から私なりの理想を入れて、オリジナル作品を作る為の計算をして、素人集団にサポートするベテランや外部会社とか宇宙開発の専門家を入れるチーム編成をしたら3.6億円の予算になりました。バンダイの中でも結構揉めていたみたいですよ。「なんだこれは!東映なら2億ちょっとでつくれるじゃないか!?」って。
それでも渡辺さんが宮崎駿さんから一筆もらって証明していったり、押井さんの名前も出したりしながら上層部を説得していった。宮崎さんは『カリオストロの城』や『未来少年コナン』ではバンダイからパッケージ版出して仕事もしていたので。それで色々あったけど「こいつらにやらせるなら、いいんじゃないか?」と渡辺さん・鵜之澤さんの力で企画を通したんですよ。『幻魔大戦』や『レンズマン』が2.8億円で作られていた時代に、ですよ。
――:バンダイが上場したというタイミングも、この新興企業の新興IPに出資した理由だったのでしょうか?
山科誠さんは2代目でちょうどお父さんと社長を入れ替わったばかりだった(1980年バンダイ社長就任)。まわりも先代の番頭がずらっと並んでいるなかで、山科さんが「父親と違うことがやりたかった」というのもあったんじゃないでしょうか。3.6億円という予算は通りましたけどさすがに社内は喧々諤々あって「とりあえず500万円でパイロット版作らせてからグリーンライト通過させろ」となった。そこで庵野くんを捕まえてマンションの一室で作り始めるんです。
――:庵野秀明さんは手塚プロを経験していた井上さんからみて、どう見えていたんですか?
庵野くんはピカ一でしたね。そこに貞本義行(1962~、東京造形大学在学中に『超時空要塞マクロス』でデビューしたタイミング)も入ってきた。貞本くんもまだ20歳そこそこ、当時はテレコムで下っ端だったんですよ。そういう時に「おまえを中心でいきたいんだ!」と説得されて、彼もテレコムやめてコミットするようになった。そうして前田真宏くん(1963~、米子出身で東京造形大学の漫研で貞本くんの後輩)が入り、監督に山賀くんですよ。彼らが500万円で作ったパイロット版はよい出来で、それでようやく3.6億満額が認められたんですよ。このパイロット版が通ったということで1984年12月にガイナックスを設立するんです。
――:ついに設立ですね。こちらの社名の語源は何なんですか?
井上も設立時から副社長で参画しました。赤井くんが米子出身だったんですけど、米子の方言で「どでかい=がいな」というんです。そこにゼロックスみたいなXをいれるとカッコいいんじゃないかということで語感だけで「ガイナックス」という社名が決まりました。
――:井上さんはどういう役割だったんですか?
もうアニメ制作の経験者が誰もいない中で“ガイナックスの先生"みたいな立場でした。アニメ制作業界では新人みたいなものでしたが、手塚先生の様な天才やマジックバスの下請けの苦労、エムケイでの企画営業の経験や野田昌宏さんの企画力にもまれていたので、学生・素人集団だったガイナックスのマニア・オタクとそうした既存の世界をつなぐような立場でオタクと企業と通訳をしていたものでした。大人の立場でバンダイからは毎月毎月収支報告を求められ、そういうのを私がやってました(笑)。
あと実はこれは自画自賛ですけど、当時としては破格の契約書を結べたんですよ。リクープしたら段階的に%をふやすという条件すら入れてました。4億円の制作費で、バンダイが50%増の利益がでたタイミングから2億円ごとに累進配分、という条件を勝ち取りました。そういう「大人のディール」も私が入っていたからできた、ということはあります。
――:素人集団だと作り方もずいぶん斬新だったんでしょうね。
ガイナックスならではの作り方なんですが、 山賀くんが中心となって貞本くんらアニメーターの前で「芝居」をやるんですよ。こうやってこう動いて、次にこうなって、、、みたいな。山賀くんもカット割はするんだけど絵はぜんぶ“まるちょん"で子供の張りぼてみたいな絵で、正直他のアニメ会社だったら許されないようなレベルだった。でもこの芝居をしてアニメーターが絵コンテ化する、というのが王立チームで最初にやったもんだから、その後のガイナックスの作り方のフォーマットがそれになったんです。面白がる子もいてハマるときはハマるけど、「なんだこの素人じみた作り方は」をそれでバカバカしくてやめちゃうアニメーターもいました。最後にはベテランもいたけどあんまり中堅どころのアニメーターは少なくて、本当に若手集団でつくったアニメ、という感じです。
――:色々なところで語られる伝説的な作品ですけど、興行収入だけでいうと『王立』って3億円くらいなんですよね…。
「王立」は彼らのわがままを最大限詰め込んだ作品です。庵野のために動画マンを育成して、CGをつかいたいといえばデータを出して。そうやって盛り盛りに作っていたので、最終的には赤字でした。アニメーターの給与も安い時代に十分な給与を出せる様にしたり、5000万円くらい残しての予算をたててたんですけど。3.6億といいながら宣伝費も2億円くらいのっかるし、音楽制作で依頼した坂本龍一さんはそれだけで4千万円もかかるんですよ。そういうの積み上げていくと実質は6億円制作の劇場アニメでした。興行収入3億なんだから、そのタイミングでは1/5も回収できていない状態です。
でもね、バンダイの渡辺さんがその後もLDだしたり、VHS・DVDだしたりとバージョンかえて毎年毎年ちょっとずつ売上を重ねていった。驚いたのは10年くらいしたときには、トントンになってたんですよね。だから結果としては損をさせていない。クオリティがよくて口コミで、とあのときはそこまで時間をかけて収益を回収する、ということができた時代なんですよね。
――:10年かけて黒字化…まさにIPビジネスですね!!
それに作品でいろんな関係性ができました。大友克洋(1954-)も会社見学にきてましたよ。『AKIRA』(マンガ1982-90、アニメ1988)をガイナックスがやるって話も実はあったんですよ。生意気にも岡田や山賀くんが蹴っちゃった案件です。これは僕の予想なんですが、大友さんが入ってやると山賀くんの立場がなくなるとふんだからじゃないかと思って(笑)。
――:井上さんは1985年くらいにはいって、89年くらいには退社しているじゃないですか?こちらはなぜなんですか?
岡田はアイデアマンですが、手を動かすわけじゃないんです。それで私が副社長としてバンダイに会計報告なんかをしてました。でもだんだんお金が厳しくなって、吉祥寺の借りてたスタジオも他の会社と交換して縮小したり。給与は払えていたけど、王立のあとのガイナックスは結構厳しかったんです。「トップをねらえ!」(1988~89)のOVAを最後に私もそろそろやめようと思ってました。
そんな折にグループタックの田代さんから「NHKが『海底2万マイル』をアニメにしようとしている」という話がきていた。それで企画手伝ってよという感じで、じゃあアトランティスはどうだのこうだの言って作られたのが『ふしぎの海のナディア』(1990)です。その企画は通って、グループタックが元請けだけど、ガイナックスも作ってくれるよね?となりました。
――:僕も現役で見てましたよ!
NHKの仕事だよね?これ決まったからにはさすがに終わるまでやめられないようなあ、と思いなおしました。しかもさすがにNHKで、その案件が決まると急にガイナックスにも銀行がお金を貸してくれるようになった。NHKのベテランプロデューサーがついて、監督が庵野くんになった。海底をテーマとしながら、そこにマイティジャックの要素を入れよう、となりました。でも我々が作りたかったシリアスなものに対して、NHKはそのプロデューサーも60歳くらいだったし、もっとお気楽なものでよかった。そういう2社のなかの調整を間に入りながらやっていたんです。
20話まで作ったところで、NHKの本読み部屋に突然ゴンゾをつくった村濱章司(1964~、1987年ガイナックス入社後、1992年にゴンゾを設立して代表取締役に就任)と武田と岡田が3人で乗り込んできたんです。「このまま井上をおろすか、ガイナックスが制作するのをやめるか、どっちから選んでほしい」と。
――:え、それは何かあったんですか!?
僕も入って4-5年くらいで、それなりに井上ノウハウもガイナックスに入ったところだった。それと、全く経営に責任を持たない岡田との関係も悪くなっていたのものあって、独立する話をして個人会社を岡田たちに発起人には入ってもらうというシナリオがたっていて、その時は円満退社の予定だったんです。ただナディアの企画が動いてしまって、ちょうどシナリオが20話位まで出来上がって、井上プロデューサー表記が有る第一話が出来上がってきてしまって、岡田からすると井上をはずしも大丈夫だろうというところでスイッチを計画したんでしょうね。NHKのプロデューサーにも受注元の東宝やグループタックに根回しなしでその場で直接、という通告だったので、皆さんずいぶん怒ってました。
東宝とグループタックからは「ガイナックスおろして、井上ちゃんが続けるなら共同制作のタックでやってもいいよ」とは言ってくれたんですよ。でも庵野くんまでおろしてちゃったらあまりに勿体ないと思って、どうせ私も辞めるつもりではあったから「だったら僕が辞めます」となったんです。それが1989年12月、ナディアが始まる3か月前ですね。翌日会社いって荷物整理に行ったら、社内だけは根回しがすんでいたみたいで、誰ひとり寄って来ませんでした。業界内でもNHKに討ち入りしたと話が広がったみたいで半月後に大友さんから電話をもらいました。「いっしょにやらないか」って。
(後編に続く)

会社情報
- 会社名
- Re entertainment
- 設立
- 2021年7月
- 代表者
- 中山淳雄
- 直近業績
- エンタメ社会学者の中山淳雄氏が海外&事業家&研究者として追求してきた経験をもとに“エンターテイメントの再現性追求”を支援するコンサルティング事業を展開している。
- 上場区分
- 未上場