【連載】中山淳雄の「推しもオタクもグローバル」第86回 英国・インド・日本育ち、DJ・ラジオが生んだストリートファイターNaz Chris体育会系魂でエンタメ文化を創造と狂気の世俗和え

中山淳雄 エンタメ社会学者&Re entertainment社長
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つかみどころがない、という表現に最も当てはまるゲストかもしれない。スタイリッシュな風貌、ロンドンで音楽・ダンスのエリート育ちでありながら、ハンドボールで鍛えられた地獄の体育会系。泥臭くテレビ局に潜りこんだかと思えば、日本人ですら知らないようなニッチな漫画やアニメ、テレビ番組をそらんじる。サンスクリット語を操りインドで暫く過ごした期間があったり、米国・英国などにも度々飛び回る。聞けばテリー伊藤氏やDr.マシリト氏に弟子入りするかのような勢いや関係性をみせつつ、時には議員会館でアクティビストとして立ち回る。多種多様な奇人変人を繋ぎ合わせ、イベントを興し、何かを変えようと必死。そんなNaz Chris氏の生い立ちやここに至るまでの経緯をインタビューし、現在のDJ・クラブ等のカルチャーがどんな状態にあるのかについて聞いてみた。

 

 

【目次】
ロンドン生まれの帰国子女、カルチャーギャップに苦しむ
英国帰り帰国子女がマンガにハマり、スポーツにハマる。愛知の熱血スポーツ少女
ハンド人生終わって抜け殻人生。インド2カ月放浪を経て宗教哲学への興味
テレビ局に潜り込みメディアの勉強。クラブでダンス・DJしながらインド哲学オールAの優秀大学生
三度目の三井寿、通い詰めて獲得したラジオ局ADの仕事
ラジオの仕事で悩み、テリー伊藤氏に弟子志願。「空っぽな自分」というDr.マシリトの指摘
6年間芸人の世界に身を浸す。創造と常識の間にある狂気と霊性みたいな才能の"世俗和え"
ロス/ロンドン/日本を行ったり来たり。イベント出会いからNAZWA結成
クラブカルチャーを守る会、アクティビストとしてDJ・ダンス文化を盛り上げる役割へ

 

■ロンドン生まれの帰国子女、カルチャーギャップに苦しむ

――:自己紹介お願いします。

Naz Chris(ナズ クリス)と申します。J-WAVE (81.3FM)「TOKYO M.A.A.D SPIN」でWatusi(COLDFEETとして国内外で活躍するほか、中島美嘉、安室奈美恵等、数多くの楽曲プロデュースを担当)と共にナビゲーターをしております。他にも番組と連動して『TOKYO DANCE MUSIC WEEK』というウィークリーイベントをコロナ禍で立ち上げて主催したり、ダンスミュージックシーンのアーティストやカルチャーの活性化と地位向上のための活動に取り組みながら、アーティストのエージェント・制作会社を起業し、アーティストのみで構成された一般社団法人JDDAの理事も務めています。最近は、プロデューサー業がメインになりつつあります。

 

――:Nazさんとは中山は『エンタの巨匠』で鳥嶋和彦さん、土屋敏男さん、斉藤英介さんとの対談を仕切って頂いて。最初斉藤さんの紹介ですよね。その時のご縁でインタビューさせていただきました。

いや、もう伝説の回ですよ!あれから中山さんとは舞原監督との対談回をやったり、ベンチャー企業のソラジマの萩原さん・前田さん達と対談を企画したりしていますよね。鳥嶋さんも、その後、ドラゴンクエストの堀井雄二さんを呼んでくださって対談したり、遂にレギュラーまで持って頂くことになってしまって!この2人がレギュラーをもつなんて、もっとバズってもいいくらい!(笑)


※鳥嶋和彦さんと堀井雄二さんのレギュラーコーナー『ゆう坊&マシリトのKosoKoso放送 局』スタートのきっかけとなった中山氏の著書『エンタの巨匠』特集 収録風景。

 

――:個人的にはラジオのパーソナリティでこんな深さでグイグイとコンテンツに入り込んでくれたり、盛り上げてくれる人が初めてで、ぜひNazさんをもっと知りたいなと思って声をかけさせてもらいました。

こちらこそエンタメ社会学者にインタビュー頂くなんて恐縮ですよ。私でホントいいんですか? (笑)

――:めちゃくちゃ面白い人だと思いますよ。ラジオパーソナリティで、アクティビストで、ロンドン出身だけどインド放浪歴があって、昔ハンドボールでインターハイに出てたり(しかも日本一)、テリー伊藤さんの弟子(個人的な)だったり、ATカーニー日本法人会長の梅澤高明さんのDJ師匠だったり・・・と情報多すぎてバグるんですよ笑。今日はそれをぜひ整理したいな、と思っていて。ロンドンには何歳までいらっしゃったんですか?そこがエンタメ原体験なんですよね?

年齢は非公表ですが笑、祖父がワーナー系の結構偉い人でその縁で小さいうちから著名アーティストを家に招いて、それこそDJパーティーをやったり踊ったりしていたんです。U2のボノさんとか、ロバート・デ・ニーロさん、ポール・マッカートニーさん等々...光栄すぎるほど偉大なアーティストに当時お会いしたこともあります(あまりに小さな頃でほとんど、うろ覚えですが)。その後、まだ幼いうちに両親の都合で名古屋に移りました。


※里帰りの際、アビイ・ロード・スタジオ前で撮影。

 

――:あ、意外にめっちゃ若い時なんですね。まだ物心つくかつかないかの時期ですよね?

これから長い話になりますが、今思うと家庭環境が少々複雑で、海外に住んでいたことも当時、親戚には公然の秘密になっていたり。めちゃくちゃ怪しいんですが (笑) 。

それで、人生が行き詰ってきたときに、あの時代の記憶がすごく鮮明に蘇ったりするんです。幼少時代や里帰りした時だったんですが、祖父や家族が、60-70年代の音楽が大好きで、ビートルズやローリング・ストーンズはもちろん、当時オアシス、ブラーが世界的ブームになり、UKロックシーンが世界的に台頭していた時代で、80年代後半のマッドチェスターを含め、「マンチェスターが音楽の最先端だ!」という雰囲気もあり、肌感で楽しかったですね。

――:やっぱり英国といえば音楽大国ですよね。日本とそんなに違うものなんですか?

英国だと、極端に言えば、熱狂した人たちは、死ぬまでビートルズやストーンズを聴いているし、かっこいい年配夫婦がナイトクラブで遊び、テクノで踊っていたり。行く先々で音楽の熱狂的なファンがいて、いつでも会話が盛り上がる。音楽ってファッションとの関連性も高いじゃないですか。(特に当時は)服装を見ただけで何の音楽が好きで、ノリもパーソナリティもわかってすぐ仲良くなれるというか、「視覚的にも音楽が感じられる場所」だったんです。そういった環境から、突然名古屋に来て、衝撃的なカルチャーショックでした。

 

  

■英国帰り帰国子女がマンガにハマり、スポーツにハマる。愛知の熱血スポーツ少女

――:小学生直前ですよね、日本に初めて来た感想はどうだったんですか?

完全に「反動」でした。街中で「音楽、カルチャー臭が漂っている環境」が突然なくなってしまって、友達に音楽やダンスの話をしても「何それ?」という感じ。日本だとクラブどころか子供はそもそも夜遊びはダメ、うるさい音楽は毒、変な人にはついていかないで!というカルチャーじゃないですか。完全にロンドンのカルチャーから遠くなった感覚で。友達の家に遊びに行くと、だいたい「ビックリマン集めてるんだけど交換する?」とか「ドラゴンボール一緒に観る?」とか。平和でのんびりしていてなぁと(いい意味です)。

――:UKロック、クラブカルチャーと相反するように、Nazさん自身もかなりオタクなところありますよね。鳥嶋さんの回は狂喜乱舞してたし、ジャンプ放送局の話、一番若いのに一番詳しかったり。かなり謎だな、と。

小学生のときはマンガ家になりたかったんです。ジャンプ・マガジン・コロコロ・ボンボンなんかを愛読してて、当時一生懸命模写してたくらい好きでした。

――:なるほど、英国帰りでいきなり日本のマンガ・ファミコン文化に突入したんですね!!しかし少年マンガばかりですね?少女マンガは?

少女マンガは一切読まなかったです。小学校でも男の子に混じってサッカーをやっていたり。私はもともと「女の子」になるのが嫌いだったんですよ。髪もめっちゃ短髪で、自分のこと「ボク」って呼んでました。今思い返すとそうだったのかな?という感じですが、ずっと男になりたいと思って生きてきました。


※『月刊OUT』、『こち亀ジャンプ』、『Vジャンプ』、『Dr.マシリト最強漫画術』 (すべて本人私物)

 

――:だからこんなに話が合うのか!完全に少年誌カルチャーにハマった僕とおんなじ感覚ですもんね、あと、かなりスポーツ少女だったんですよね?

高2までは完全にアスリートでしたね。小学校は男の子に混じってサッカー、でも中学になると女の子は入部できないんですよね。バスケットボール部はヤンキーばかり、テニス部だとミニスカートを履かされるし、バレー部のブルマなんてありえない。少ない選択肢のなかで唯一ハンドボール部が目につき入部しました。

――:その後、ハンドボール全国優勝の高校に行くんですよね?中学でも相当だったんですか?

いや、実は中学は3年間相当頑張ってたんですが、やっぱりスポーツ推薦がもらえるレベルじゃなかったんです。

マニアックな話ですが、当時名古屋ではN高校が進学校でありながら体育会系の超名門校で、バスケットボール部とハンドボール部がインターハイや国体の常連でした。バレーボール部も強くて、当時の五輪代表選手がよくうちの体育館で練習しにきていたり。それで私は、競技選手としては落ちこぼれたまま、一般推薦で普通科に入学しました。私の代では、高校日本一レベルのチームで、日本にいるとその辺の実業団にも勝ってしまうので韓国遠征で試合とか、男子と手合わせをしたりとか、それくらい強かったですね。

※N高は1981~2006年はインターハイで優勝5回、準優勝7回、ベスト4が3回という日本有数の強豪高校

――:あ、じゃあ「一般」から超難関の部活に入ったんですね?

当時は、日本全国から選抜選手を寮生にして特待生として集めているような部でしたからね、一般生には絶対入れない(特待生は、我々のことを一般生と呼んでいました (笑) )。実は、一般生の「入部」自体が基本無理だったので、クラス担任がバスケットボール部のコーチで、ハンドボール部の監督とつながりがあるというので口をきいてもらったんです。「まあ聞いてみてもいいけど・・・無理だと思うよ」って言われて。そのくらいとにかく根拠もなく自信があり憧れてたところ、結果、見学に来るのはいいよという話にはなったんです。

――:おお、じゃあ可能性はないことはなかったんですね。

でも、完全に放置状態です。敏腕鬼コーチ(監督)で、当時の全日本ジュニアのコーチとして有名な人だったんですが、最初挨拶に行ったら「聞いてるよ、ま、見てれば?」って。体育館3つあるような超スポーツ高校の広い校庭の隅っこで、誰に声をかけられることもなく、7時間近くただただ練習見てるのって修行以外のなにものでもなく・・・。

――:ハンドボール部に入れるとも入れないとも言われないわけですよね?

毎日16~22時 (時には23時) まで。中学では、ハンドボール部の未知の才能的存在でキーパーもフィールドもやっていたんですが、レベチ過ぎてプライドも自尊心もズタズタでした。4月の夜間・屋外でめちゃくちゃ寒くてブルブル凍えてたら、3日目にコーチが声をかけてきて。「君、風邪ひくから帰りな」って。でも・・・脳筋なりに感じ取ったんですよね、これで帰ったらもう「ない」んだろうな、と。それでもちろん引き下がらず、毎日見学し続けるんです。

――:根性ですね。なんか芸人や落語家の弟子入りのような話ですね。

それで10日目になって(わりと長かった!)、コーチに声をかけられて。夜22時の終了間際に「お前・・・そんなにハンドボールがやりたいの?」って。もう内心、キターッ!って感じですよね。もう半泣きで、「先生・・・ハンドボールがやりたいですッ!」って言うという。

――:三井寿!スラムダンクじゃないですか!でも、それ入ってからが地獄なんじゃ?

まさに三井ズムです。翌日は先輩に床屋に連れてかれて「切るよね?」でしたからね。女子も容赦なくスポーツ刈りコースまっしぐらで。はじめて床屋さん方式の前向き洗髪台で顔ごと洗われました(笑)

でもその時は、夢の部に入れたってことでアドレナリンが出まくってますから、気にもならなかったですね (学校では、今年「ザ・根性」が入学したらしいよと話題だったらしい)。1年で500日くらい(それくらい毎日という比喩です!)練習してて、朝6時から8時くらいまでは朝練とミーティング、16時に授業が終わると23時くらいまで練習。当然ながら土日も夏休みもナシです。基本ジャージしか着ず、鉢巻き巻いて授業に出て (ほぼ寝ていて) 青春の高校1年間が終わりましたね。

――:いまのNazさんの風貌からは全く想像できない、、、w

根拠のない自信はあったんですが、結果は全くダメでした。50m走も7秒切るくらい、遠投も50m投げられるし、1000m走もいつも一番だったのに、そんな私が一番ビリでした。才能やセンスでくるような人間には、どんなに努力しても追いつけない。人生では時に「努力」が隙間を埋められないこともあるということを知る日々でした。毎日誰かが殴られて気を失ったり、顔面に至近距離からボールをぶつけられてボコボコに、翌朝、ボクサー顔になって投稿する先輩たち・・・それがなんでもない日常の風景という部でした。今じゃありえない。

 

■ハンド人生終わって抜け殻人生。インド2カ月放浪を経て宗教哲学への興味

――:でもそんなに苦労して入った高校ハンド部は途中で辞めるんですよね?どういうきっかけがあったんですか?

一番仲良が良かったチームメイトのCが、突然失踪してしまったことですね。

失踪から数日たって私に電話があって、「死のうと思ってロープも買って首吊ったけど死ねない・・・」と。「どこにいるの!?お願いだから死なないで!」って言っても「言えない・・・見つかったら殺される」の一点張りでおしえてくれなくて。監督は、そんなヤバい状況にまで部員を追い込んでいました。

それでその後に、監督から連絡がきて「(Cから)電話あっただろ。どこにいるんだ!?」と。その時に「言えないんで」を繰り返して(長野ってことしか知らなかった)協力しなかったことで、そのあと急速に監督や部との関係も悪化してしまいましたね(幸い失踪したチームメイトは学校に戻りました。すぐに退部になりましたが)。

――:しかしそんな肉体的にも精神的にも疲弊していくNazさんをみて、ご両親はどう反応してたんですか?

死ぬほど心配していました。日々、顔や目を腫らして帰ってくるような状況で、親も「限界だから監督に電話する!」というんですが私が止めていました。もうその時は「悔しいから、やめたくない」が強くて、親には何があったか一切言いたくないし、生産性のないただの負けず嫌いでした。

――:じゃあ友達のショッキングな失踪や監督との反目があってやめるんですね?

その後すぐではないんですよ。その後、冷遇されながらもしばらくは粘るんですけど、自分なりにすごいコツを掴んだ瞬間があって。「あ、これなら追いつけるな並べるな、やり合えるな」というブレークスルーの瞬間。でもそのやり方で結果が出てきていたにも関わらず、先輩から「(そのやり方では)うまくいかない!」と言われた瞬間、何かがプツンと切れてしまったんですよね。なにかそこはかとなく...精神の梯子をはずされた気がして、そこで一切練習に行かなくなってしまいます。

――:それは学校もいかなくなったんですか?

はい、部活=学校だったので、もう完全に糸が切れた凧のようにグルグルと脳が旋回する感覚で。今思うと燃え尽き症候群だと思うんですが、どうでもよくなって、学校にも行けなくなりました。

結局、退部して普通の女子高生に戻るんですが、抜け殻で。抜け殻というより“もぬけの殻"。競技でトップ取って、オリンピックに出て、日体大か筑波大にいき、アスリートとして競技にも従事しながら教員資格をとっておきつつ実業団に入る、というのが想像していた将来のキャリアでそれ以外の予定は皆無でした。そうして人生にポッカリ穴が空いたことで、鮮明にその隙間を埋めてくれたものが、こどもの頃、マンガ部屋をもっていた父の影響でハマっていた漫画やアニメ、ゲーム、音楽、映画やテレビとかそういった時期の人生のアーカイブでした。


※『ファミコン神拳 奥義大全集』、『三条陸 HERO WORKS 』、『ドラゴンクエストシリーズ』ソフト等 (すべて本人私物)

 

――:とてもわかります。自分の存在意義が失われたときって、歴史によすがを求めるんですよね。自分の原点をもう一度探しに行く感じなんですね。

その時に、精神科医、ソーシャルワーカーだった父が唐突に誘ってくれたんですよ。「お前、インド行くか?」って。

――:あ、インドで放浪していたのって高校生なんですか!?お父さんは何かインドに縁があったんですか?

高校生の時と大学の途中です。父は、海外放浪願望と癖が強くて、立花隆さん・開高健さん・椎名誠さんをよく好んで読んでいて、インドや宇宙、神秘なものに人一倍強い想いがあったにも関わらず、インドには一切いったことがないという(笑) つまり繋がりはなく好奇心だけ。

まあそんな父が、ガイドしてくれるインド人がいるからと、そのガイドさんに私を預けてさっさと帰国して、と(笑)。当時の父の心境を推測するにきっと"獅子は我が子を千尋の谷に落とす"だったんでしょうね。その後、私はガイド1人と、2カ月くらいインドに滞在して。


※ガンジス川の最上流部に向かう途中、デーブプラヤング付近で撮影。

 

――:衝撃すぎますね!?インドって治安としてはそんなに安全といえない国・時代ですし、普段からそんなにダイナミックな家庭なんですか?

さすがに母は激怒してました (笑) 。そのガイドと父は初対面でしたし。でもそんな荒療治しなければならないくらい、私のもぬけの殻っぷりがひどかったということだったんでしょうね。今や死語ですが、部の"スパルタ"によって鍛えられた筋肉が落ちて一月半で10kg〜くらい痩せましたし、全てが激変して。

デリーとアグラとジャイプールとその周辺、その他を2カ月くらいかけてガイドと回って、とにかく色々なものを吸収しました。アグラのタージマハール城があまりにキレイで、3日間毎日無言で3日間、ぼけ〜っと座っていた時もずっと隣にその人がいてくれて。まあちょっとは恋しました。あぁ恋する気力が残ってたんだ、私生きてるな、みたいな。

――:そのガイドもすごい責任ですよね?1人女子高生を預けられて。

若いのに経験も豊富で品があって映画『RRR』にも出てきそうな美しい男性で、すごくいい方でした。2カ月間つきっきりで世話してくれて、ゴアやコルカタのスラムにも連れて行ってくれたり。そうしたあらゆる人たちの「生」や「人生」の世界線を体験したことで、"現実はムダとムラという混沌に満ち満ちている"。だからたったこの瞬間に起きたに過ぎない小さな鳥籠の中の矛盾や挫折だけに囚われていたも意味はさほどないのだと、そしてそういったムラとムダの世界線の果てにある人生の意味、自分が生きる意味を「知りたい」という"欲求"が芽生えてきた訳です。抜け殻にスポン!と、なにか答えのない大きな命題がホールインしたことで、急に生きる活力みたいなものが湧いてきたというところです。

 

 

――:閉ざした感性に穴があいたんですね。それは父親にもそのガイドにも感謝ですね。

ホントすごい経験ですね。

漠然と「私は不幸、人生積んだ」と思っていたところに、生半可なことでは理解できない「生」の儚さと不思議さにある奥行きと魂の密度、ものの捉え方とその角度があるんだということを教えられた旅でした。

帰国すると高校生活的には、受験シーズンに入っていました。自分はブラックリスト(当時は、退部の時点でブラックリストに載せられた)入りしてるし、勉強も全くしてきていない訳だから、とにかく今から間に合うことを何かしないととなったんですが、インド旅の影響から「インド」「仏教文化」「哲学」「宗教」と学部・学科に付いているところは、関東〜中部〜関西圏を中心に願書を出しました。そして最終的には、受験戦争を乗り越え、最初は愛知県内の仏教系の大学に進学することになりました。(2回程中退しているため、最初の大学です)

 

  

 

■テレビ局に潜り込みメディアの勉強。クラブでダンス・DJしながらインド哲学オールAの優秀大学生

――:ちょっとここまででDJ・ラジオとのつながりが中々見えてこないですねw

メディアとのつながりでいうと、実はインドから帰国してからも、毎週のように東京に通い始めてました (中学の頃からたまに通っていたんですが)。EXILE HIROさん、TOKYO B-BOYZのCHINOさん、Katsuさんがやっていた (ダンス) スクールに通ってました。親バレしないよう今までためたお年玉などを使っていましたね。おたく期〜抜け殻期~インド修行期もありますが、中高生の頃から東京のスクールに通っていたんです。

――:インド帰りだから行動力が確変してますね笑。しかしよくそんな決断を・・・

何か色々なものが吹っ切れてたんでしょうね。でも徐々に資金が底を尽きてきて。それで、稼がなきゃ好きなことも続けられない!ということで、最初は原宿の洋服屋さんでアルバイトしていたんですが、東京でバイトするんだったらメディアという選択肢もエンタメに近いな!という(若い)考えから、フロムAか何かで見つけたフジテレビの某所にアルバイトで入ることになりました。

――:え、未成年ですよね??しかも名古屋の?

・・・それは時効ということにしてもらえたら、ありがたいです(陳謝)。面接なのに、"ザ・ダンスレッスン帰りです!"っていうジャージ姿でお台場まで行ってる時点で、履歴書以前に落とされる要素しかないというか、社会性ゼロです (苦笑)。でも、大変寛大で優しい面接官 (部長さん)で、「どうしたいの?この先なにがやりたいの?」って言って下さって。で、仕事の面接で絶対にやらない方がいいこと=ありのままの気持ちを包み隠さず全力でぶつけてしまって。そしたら「うーーーーん・・・気持ちは分かった。君がいい奴なのも分かった。あとで連絡する」って。

――:2度目の三井寿ですね!そして・・・

なんと!1週間後に合格の連絡を下さって (今となれば部長は命の恩人です)。ということで、見事東京のテレビ局内で採用(!)して頂いて(笑)。新幹線やバスでスクールに通い、その足でお台場で働いて交通費の補填をしていたんですね。でもそのアルバイトが憧れの東京ライフを体験させてくれましたね。めざましチーム、めちゃイケ!チームと会って、ワ―――!っと (心の中で) 盛り上がってしまって (完全にミーハーですね)。

 

 

――:でも正社員でもなく制作でもないですよね?テレビ局に入りたい、という野望からすると入口が違うのでは?とも思うんですが。

現在、それが可能かは分からないんですが、そのスタッフ証で休み時間に局内をウロウロしていたんです。スタジオのドアが開いているところにコソコソっと入っちゃったり。そしたら目の前に放送作家の鈴木おさむさんがいらっしゃって、そっと話しかけたり (完全にヤバイ人です。絶対真似しないで下さい!申し訳ありませんでした)。

――:もともとハンドボール時代に封殺していた「ミーハーな部分」が全部出たんでしょうね。

その時にちょっと台本を見せてもらったりとか、こうやって収録しているのかとか、勉強させて(空気だけ盗ませて)頂いていました。(それ以外にもゴミ置き場などで....)

――:東京にバイト&ダンスで通いながら、その後大学にも進学されるんですよね。

そうですね。卒業したら修行で山に入り、将来お寺を継ぐので「4年間、遊びまくるぞ!」というお寺の後取りの男の子が多く通う学部だったんですが、私は、そんな中で、結構真面目に勉強してオールAをとるという類の"世を忍ぶ仮の姿"の大学生を演じていました (笑) 。

――:4年間、お坊さんのタマゴが遊び倒す大学w。意外に大学1年は優等生だったんですね!

実はインドから帰ってコツコツとサンスクリット語や仏教史なんかを勉強してたんですよ。それで担当教授のドアに悪戯で「私は、ヒンディー語が喋れますが、先生は喋れますか?」ってデーヴァナーガリー文字で匿名の挑戦状を張り付けておいたんです。そしたら、次の授業の頭に教授が強い口調で「これ張ったの誰だ!」って。授業後に名乗り出たら「お前はもう学校こなくていいよ!こんなに出来る奴はいなし、こんな勉強はうちのゼミでもできないぞ。」って。


※インド北部アグラにあるタージ・マハルにて友達と。(1983年にユネスコの世界遺産に登録)

 

――:なかなかひねりの効いたいたずらですね!そのくらい周りからも浮いていた感じだったんですね。

1年生のうちに3年分の単位はとり終わって、教授からもなんだか、大学を超えたところで勉強しろとお墨付きもらいました。その後も大学院生と勉強した後に、再びインドに渡り、現地有力者の方の推薦で現地の大学に短期で通わせて頂いたり(この内容に触れると6時間程かかるので割愛します笑)。テレビ局で垣間見たメディアの世界と、ダンサーとしての将来、さまざまなことが頭の中を渦巻いていて、とにかく今興味のあることに何にでも自分次第で携わることができ、混沌に悶々としていられるのはメディアの現場なんじゃないのか!?という若気の"前のめり感"に襲われるようになっていきました。

それで、夜通し踊りながら好きな音楽も楽しめて、さらに業界人との出会いもあるということで、ダンスイベントを通じて知った都内のナイトクラブに通い始めることにしました。

 

■三度目の三井寿、通い詰めて獲得したラジオ局ADの仕事

――:ようやく近づいてきました。今のクラブ&DJもその頃からの通い倒しの結果なんですね。

(今だから言えるのですが)未成年時代に、当時東京の若手ダンサーの登竜門と呼ばれたイベント「CONNECT」、TRFのSAMさんとROOTSのKOJIさん (ROOTS/ALMA)が主催していたイベント、ほかにもTOKYO B-BOYZの「B–BOY NIGHT」MASAMIさん主催の「B-GIRL NIGHT」にも参加していました。そうした人気イベントが開催される事で有名なR?Hallに通い詰めていたんですが、そこは、『元気が出るテレビ』の企画「ダンス甲子園」でも人気を博した“れいかんやまかんとんちんかん"や、マライア・キャリーのバックダンサーとしても著名な伝説のダンスユニット“ELITE FORCE"のPVのロケでも使われていた、当時のダンサーの聖地みたいなところなんです。

――:全然知らない単語がいっぱい出てきます・・・2000年代の渋谷クラブカルチャーの聖地に未成年時代から通い詰めてたんですね。

またまだあります笑。HARLEM(渋谷のHIP-HOPの聖地ともいうべきナイトクラブ)でレジェンドDJやラッパーの先輩方々とよく乾杯させて頂いていたのをきっかけに、ラジオとの繋がりも手繰り寄せることができたんです。「そういえば、Nazちゃん、音楽やメディアの仕事したいっていってたよね?『SOUL TRAIN』のMC RYUさんが今日来てるよ?」と。

当時はテレビ局やクラブに出入りしてても、結局は「ただのアルバイト、ただのダンサー」なわけで。どうにか片足だけでも“業界"に突っ込みたくてRYUさんに相談しました。そうしたら私の師匠筋にあたるダンスの先生がRYUさんと仲が良く、たったそれだけで信用してもらえて心底嬉しかったことを覚えています (ここでは、履歴書では通じないストリート・ヒエラルキーというか、絆というものの強さを噛み締めることになりました)。

――:おおーでは、例によって弟子入り希望のムーブが始まる感じですね・・・?

その時、RYUさんから「今、いくつ?」と聞かれて。もちろん逆サバを読んで「23で、もうすぐ24です!」って。「まだ若いね。学生?さすがに卒業してるか。じゃあ見学来れば??」って。

――:これは、まさか3度目三井寿の流れでは・・・?

まさしく。そして同じように放置されるわけです (笑)。まあ当たり前だと思いますね。まだ多少の寛容さが残っていた当時であっても、どこの馬の骨だか分からないような輩で、ナイトクラブからついて来ちゃった子としか認識されないですから。怪しさしかないところを、よく見学までさせて下さったなと思うくらいです。

そこから毎日通います。毎日毎日「お疲れ様です!」と挨拶して、スタッフの方々が働いているところを、ただただ見学させて頂いていました。"明日もいっていいですかbot"と化してましたね (笑)。でも、今回のラジオのは、なかなか長くて、期間的には3ヵ月程だったような気がします。

――:3カ月、仕事にありつけるかもわからないのに、通い詰めたんですね。

でも普通に考えて寛大ですよ。名前も知らない、履歴書も出していない奴をずっと見学させて下さいましたから。もう今の時代なんて、会社にインターンで来た子に、すぐに仕事を任せて、できる限り好きなことをやらせてあげられるようにしてみても1年未満で「ここにいても次が見出せないし、ついていけないので辞めます!」となってしまいますからね。昨年か一昨年か、ひとりインターンを見送った私としては、難しいところだなと感じていますね。焦らすのも任せるのも。でもようは情熱かなという気はしています。(愚痴じゃないですよ! (笑))

――:しかし全然AD募集してなかったんですね笑。結果、こじ開けた、と。

正直、そういうことでしたね(笑)。そして3か月程たったころ、当時のプロデューサーさんから声がかかって。「ラジオやる気あるの?」って。それで・・・「あります!(半泣き)」って。

――:3ヵ月通い倒してて、興味ないわけないよね!?笑

昭和スワッグなんですかね、つけ置きしてから真価を問うのは(笑)。ともかくも、無事に末席に座らせて頂きまして、最初はリスナーさんからのメール(メッセージ)に赤丸やアンダーラインを入れるお仕事でした。非常識な大見得をきって「お金はいらないんで!」と、素人丸出しの絶対やっちゃダメな宣言までしてしまい、本当に若気の至りなのですが、ひと月程はインターンのようなかたちでした。正式に雇用されているわけでもない、半分ファンの延長線上にあるような雑用係的な入り方だったのかもしれません。(昭和にはよくあった手法だと聞いたことはありますが笑)


※写真中央が、MC RYUさん。当時人気を博した深夜番組『SOUL TRAIN』の
ナビゲーターを努め、深夜ラジオの一時代を築いた。

 

■ラジオの仕事で悩み、テリー伊藤氏に弟子志願。「空っぽな自分」というDr.マシリトの指摘

――:世の中、ホントいろんな仕事がありますねえ。。。この業界はそれが普通なんですかね。

この令和の時代にはもう絶滅した幻の採用システムでしょうね。ファンから昇格した素人ではないプロというのは。当時は、ただ「やりたい!」だけが前のめっていて、事務・雑務係としてもレベルが低かったです。細かいミスが許されない仕事なのに、入力ミスが何度も重なったり、局内PCの操作をなかなか覚えなかったり。大きい声と礼儀正しいところ以外、何もいいところがない。惨敗でした。

生放送のスタジオはいわば戦場なので、スピード感と独特の臨場感があります。「ハイ、この後(喋り)いきます!次、1番、頭出しOK!この後、CMいきます!バックアップは何番?確認ok!」って具合で。ホント1秒でも頭出しのタイミングがズレたら最悪にかっこ悪く、PCが固まったら大事故になっちゃうような一瞬の世界を重ねていき最高の1時間を魅せるとか。なんとなく数字やシステムに翻弄されながらついていくしかない時期が続きました。会社に就職したわけではないので特に教えてくれる人もいない中で、とにかく聞いて・見て・メモとって覚えて、失敗して怒られての繰り返しでした。

――:ラジオって深夜帯もあるからかなり労働時間も厳しいですよね?

その時担当につかせてもらった番組が、まさに24時~26時の番組だったので、実働は22時~28時なんですよね。日中にバイトしないと金欠になる。でもバイトで疲れて気が抜けていると、ミスに繋がるし良くない。他にも居場所があると思われたくなく、さらに自分の採用価値を見出してもらいたくて、音楽をとにかくたくさん聴いたり、ライブやクラブに通って情報を足で取りに行ったりすれば睡眠時間がなくなっていくという感じです。

3ヵ月くらいしてからバイト代は出るようになりましたが、それでも暮らすのにはギリギリ足りないくらいの額でした。それでも、なにか別の人生がスタートしている予感がしたこと対する充実感はありました。

――:Nazさんはラジオ局のADの仕事は向いていたんですか?楽しかったですか?

携われるだけでも幸せだなと思っていた時点で、向いてなかったですね (笑)。そういう志が一番、その先に繋がらない厄介で怠惰な事故満足感なので。でもその後、なんとか縁を繋がせて頂いて、専属でやらせてもらった期間や制作会社への雇用も含めて、数年間、ディレクターと構成作家にリサーチの間みたいな動きをしながら働くんです。

ただ結局のところ、自分はディレクターには向いていないというのが次第に分かってきてしまって。当時のラジオって、絶対的なチーフディレクターがいて、その船頭のような導きにセンスや演出、人脈に依存しながら、局がそれをコントロールし統括しながら運営がなされていくケースが多いなという印象だったんです。すごいディレクターは、もう後光がさす勢いでプライベートもイケイケで眩しかった(今はどうしてこんなことに?と思うくらい (笑))。自分はというと、無給インターンからバイトADを経て、じゃあ次どうしたいのって言われて「うっ」となって。とにかくヒットのきっかけをつくりたい、ヒット作に関わりたい、時代の空気を変える何かをやりたい!とは思っていました。

――:じゃあ、慣れてきたころに、また悶々とはしちゃうんですね。テリー伊藤さんともその頃お会いされてるんですか?

はい、ラジオの仕事で出会いました。音楽、お笑い、学者、マジシャン、劇団、タレント・・・とにかくオールジャンルで突き抜けたものを取り扱う深夜番組「SPUNKY JONES」についていて、その番組会議で、テリーさんに生放送で一晩限定のナビゲーターをお願いしよう!ということになって。

自分はアシスタントだったので、番組前は殆どお話しできなかったんですが、逆に放送後の「送り」の際に、マネジャーさんの車両が到着するまで時間があって、その待ち時間に手持ち無沙汰にならないよう、その日の番組の感想と共に「これからもテリーさんのモノづくりを学びたいので、また勉強させて頂きたいです!」という風に伝えた感じでした。テリーさんは、ニコニコ聞いて下さって、あぁなんて優しい方なんだ、生放送終わりの明け方で疲れているのにって。

――:Nazさんはこう見えて、いつもアプローチが体育会系ですよね笑。そして、必ずチャンスをモノにする人。

何の能力もなく、現状センスも定かではない、仕事ももっていけないし、人望もほぼない。とにかく"ない・ない・ないのこぼれいくら軍艦状態"なんですが。手作りの名刺だけそっとお渡しさせて頂いたら、テリーさんが当時のマネジャーさんに「ちょっと、俺の名刺とって」とサッと名刺を出してくださって。帰宅してメールしてみたら「楽しかったよ!今度飯でも行こうよ!」って返信がきて。本当に嬉しかったですね。

そこから繋がって、ご飯にも連れて下さって、その後は、仕事の悩みや相談を打ち明けるようになりました。それでもテリーさんは決して甘くなく、かといって突き放したりもせず「とにかくラジオならディレクターだよ。ディレクターにならないとダメ。あともっと仕事を広げたいなら、ヒットをつくれ、自分の看板になるものを持て」と。

――:なるほど、そういう経緯でテリー伊藤さんに弟子入りすることになるんですね。

今にも繋がる教えだなと勝手に思っていましたが、いつかの食事の際に「テリーさんの弟子です!と言ってもいいですか?」と改めて聞くと「いいよ!勝手にどんどん言っていいよ!」と。テリーさんは、お酒は召し上がらないですし、もちろん素面でのやりとりだったので、"よし公認だな"と今でも勝手にそう思っております(笑)。

話は逸れるようで逸れないのですが、私は誕生日が1月頭なんです。お正月と誕生日とクリスマスを同時に酒盛りされるような損なタイミングに生まれてしまって、昔から誕生日当日は予定なしということも度々ありました。それこそテリーさんとお会いして最初の誕生日のタイミングで、連日の徹夜でボロボロになって帰宅し寝込んでいた時に、突然テリーさんから電話かかってきたんです。「今日誕生日だろ?何やってる?いまからいくから20分後にコンビニ前集合な!」って。

――:ええ!兄貴ですね!?

2徹していてお風呂にも入ってないし、メイクも崩れて汚ギャルみたいになりかけてて"これは出かけるの無理だな"と思っていたんですが、後に引けず・・・(笑)。そしたら、青山あたりにあった当時の行きつけのイタリアンに連れて行って下さって。他にお客さんもいない状態で、その隠れ家でハッピバースデーでのケーキまで用意して下さって。「来年から俺にこういうことさせるなよ!誕生日くらい若い娘が一人で家にいるんじゃないよ。もう二度とやらないからな!」って。その時に泣きながら「師匠って呼んでいいですか?」ってもう一度、聞いたらOKもらったので、やっぱり弟子ってことでいいんだな!と(笑)。

――:泣きそうだ・・・なんか最近の鳥嶋さんとのやりとりにも近いですよね。

中山さんの著書「エンタの巨匠」出版タイミングの収録の後に、鳥嶋さんが“幸運にも(!)、スタジオに忘れ物をされて、そこからここまで長くやりとりをさせて頂くことになって本当に感謝していますが、その後のある会食で鳥嶋さんに真意をつかれた瞬間があって、そこでコロナ禍明けとしては初となる感電爆死を致しまして。

 

 

――:え、なんですか?

鳥嶋さんが「僕たちは、似ているかもしれないね。」と仰って。直感、ドキッとしたんですが、とっくに気がつき始めていたことでもあったので「そうかもしれません。逆にどういうところが似ていますか?」とお聞きしたら「空っぽなところ。」だと仰るんです。「あなたの方がクリエイター寄りだけどね」と。

どこかで感じていなくはないことではありましたが、自分でこれをどう消化していこうか、どう受け入れようか、果たして本当にそうなのかなど処理しきれていない状況でもあったので、でっかい杭みたいな落雷が心に突き刺さって感電死したような気持ちでしたね。そんなこと誰からも言ってもらえたことなかったなと。真意を抉るのって簡単じゃないし普通できない。また私をよく見てくれていないと分からないことでもあるなとも思って、一生忘れない言葉だなって思っています。

――:自分のためじゃなくて他人のために働いている、というところは似てますよね。しかしDr.マシリトとそんな言い合いができるほど気心がしれて、それこそNazさんの懐に入り込む力だと思いますよ。

鳥嶋さんという"知の巨人"、今世紀最強の"才能探知機"というミダス王から多くを学ぶことが今、最大の喜びであることは間違いありません。"一社に一台"、Dr.マシリト。あんな上司が会社にいてくれたら、才能たちの世界線は変わるだろうなと思いますね。

 

  

■6年間芸人の世界に身を浸す。創造と常識の間にある狂気と霊性みたいな才能の"世俗和え"

――:途中ラジオは離れてた時期があるんですよね?

ラジオの仕事に行き詰りました。「流行を生み出そう」「才能を発掘して世に出そう、よもや自分が出てその環境をつくろう」という野望があったんですが、実際にやってることは「ほどほどな正解をなぞっていく」、「昔ながらのやり方に沿うニッチめな優等生」のような感じになってしまって。"私が今一番つまらない"と。それで担当していた番組がすべて終わったタイミングで暫くラジオから離れて、5-6年くらいお笑いの世界で作家をやっていました。

――:どうやってそういう仕事を得られるんですか?

その時に、ある友人のミュージシャンに誘われて、芸人さんが経営している飲み屋に入り浸ってた時期があって。そこで出会った当時のオフィス北野所属だった芸人さんに「お嬢さん、面白いね!」と誘われて以来、いろいろとお声がけ頂いたり、私が押し掛けたりといろいろあって、お笑いライブに関わることになりました。

(結果ラジオも絡みますが、地上波ではなく)コミュニティラジオの番組をプロデュースしたり、脚本を書いたり、単独ライブのネタづくりを手伝ったり、昼まで毎日飲むと身体がもたなくて、自分用も兼ねて渋谷にエステ店を出してみたり(笑)といったことをやっていました。米粒写経の居島一平(おりしまいっぺい)さんにはとてもお世話になりましたし、影響も受けましたね。なにせ博識で忘れない病をお持ちの凄い方で(笑)。

※居島一平(1974~):ワタナベエンターテインメント所属のお笑い芸人。早稲田大学落語研究会出身で1998年にサンキュータツオを誘い「米粒写経」を結成。

――:芸人さんたちとのお仕事はいかがでした?

炎上する気がまったくないのに街角で炎上したり、炎上必須のネタをやっているのに崇拝される人もいたりと、創造と常識の間にある狂気と霊性みたいな才能が"世俗和え"にされてゴロゴロ転がっていてる変な現場が面白かったですね。奇人変人に関わるたびに興味深くて人間臭くて面白いなと。

また、しっかりセリフまで一言一句暗記してステージに立っているのに、“いつの間にかインプロになっている"という場面に清々しさを感じたり。なんていうか、「自信とは、問題の本質を理解していないときに現れるものだな」と感じたり。売れてる人も売れてない人も打ち上げが本番みたいなところがあって、とにかく打ち上げで人よりいかに面白くなるかに命を懸ける"血の繋がりのない骨肉の争い"を見るたび、この人たち全裸で生きてるよなという呆れ果てた先に見えた"自由な表現者の喜望峰"のように見えていましたね。

予定調和が壊れる瞬間に生まれるケミストリー中毒のようになっていたのかもしれません。そんなことを言っておきながら、12時間ぶっ続けで映画「ゴッドファーザー」を観賞して、お腹が空いたら蕎麦屋に行って、またその足でライブ出演とか。そういう積んだ生活を繰り返していました (笑)。


※居島一平さんと篠原勝之さんの当時のアトリエを訪問してラジオ収録。

 

■ロス/ロンドン/日本を行ったり来たり。イベント出会いからNAZWA結成

――:そうした仕事からどうやってラジオの仕事に戻ってくるんですか?

実はこの期間も、SHIBUYA-FM、block.fm、RAKUTEN-FMなど前衛的なコミュニティーラジオ局やインターネットラジオ局の番組でプロデュースしたり、出演したりといったことは続いていたんです。

その後、Zeebraさんが局長を務める日本初のHIP-HOP専門ラジオ局「WREP」の開局(2017~)もあり、まさに渋谷を中心にインターネットラジオ放送局の開局が重なった時代が到来し、第3次ネット放送ブームの波を感じていました。他にもNHKの教育関連の番組でディレクターや構成もしていましたね。まったく違う空気だったので相当浮いていたとは思いますが (笑)。

※Zeebra(1971~):1993年に日本語でのライムを確立した伝説のヒップホップグループ「キングキドラ(KGDR)」結成。1997年にソロデビュー後、Dragon Ashの「Grateful Days」に参加したり、SUITE CHIC(安室奈美恵の別名義)やEXILEのシングルなども手掛け、日本のヒップホップ史を代表するアーティスト。娘は「NiziU(ニジュー)」のメンバーのRIMA・横井里茉


※取材とラジオの仕事でベルギー・ボームで開催の「Tomorrowland」へ。

 

――:いや、やっぱり動いている量が普通じゃないですね!?

ロサンゼルスに滞在していた時期もあって、その時はその時で目まぐるしい時期でした (話すとこれも6時間かかるので今回は割愛します(笑))。ロスではロンドンに毎年里帰りしていた時期にやっていたDJを復活させて、定期的に人前でプレイしていました。その後帰国した際に、デジタルだけでなくアナログレコードでのプレイもちゃんとやりたいなと思って、渋谷のレコード番長こと、須永辰緒さんのDJサロン「インクレディブルDJs」の会員になりまして、DJとはなんたるかを辰緒さんから学ばせて頂きました。そこからは、都内のクラブプレイの機会も増えていきましたね。

※須永辰緒:日本のDJ・音楽プロデューサーで、その知識・情熱から「レコード番長」と称されることもある。1995年から渋谷宇田川町にクラブ「Oragon Bar」を開き、ジャズシンガーAkikoのアルバムなどもプロデュース。

――:パフォーマーであり、ファシリテーターであり、プロデューサーであり。こういう編集で繋ぎ合わせていくような仕事はまさしく“DJ的"だなとも思います。

そうそう、そして話を戻してどうやってラジオ中心のライフスタイルに戻るかなんですが、私のDJ師匠である辰緒さんが、地方でのDJ出演の折に左目を失明してしまうという大変な事故が起こったんです。その際に辰緒さんを励ますべく、仲間や後輩たちが企画して「くれたけBASIC」(2017年8月)というイベントを開催しました。そのイベント前後の時期に、風営法改正に尽力したアーティスト団体「クラブとクラブカルチャーを守る会(※以降、CCCC)」の当時の副会長だったWatusiさんと初めてちゃんとお話ししました。


※クラブとクラブカルチャーを守る会 (CCCC):クラブ固有の文化的価値と経済的可能性を振興し社会と地域に貢献するために、クラブ事業者とアーティストやDJが連携して自主規制ガイドラインの策定やクラブに関連する諸問題の解決に取り組み、より良いクラブとクラブカルチャーの創造を目標とする団体 (写真は、渋谷ハロウィンの清掃ボランティアの時のもの)

 

■クラブカルチャーを守る会、アクティビストとしてDJ・ダンス文化を盛り上げる役割へ

――:なんと。今や「TOKYO M.A.A.D SPIN」のナビゲーターのお二人ですが、出会いは結構最近、5年前なんですね。

たしかそのイベントの席でWatusiさんからCCCC入りのお声がけ頂いて、末席で最若手として加入することになりました。

そこからWatusiさんとNAZWA!を結成していくんですが、同時に行政や自治体との関わり合いの始まりでもあります。日本芸能実演家団体協議会 (芸団協)に加入し、DJやダンスミュージック関連のアーティストによる日本初の実演家団体である一般社団法人JDDA (Japan Dance Music & DJ Association)(※以下、JDDA)を結成します。


※コロナ禍に小池都知事と文化施設の存続と実演家支援について懇談。(2021年3月)

 

――:そうか、DJとかダンスもそもそも団体がなかったり、音事協とか音声連とかそれまでの音楽の団体の枠組みにも入ってないんですもんね。

JDDAの発足とともに9月9日を「ダンスミュージックの日」と制定して、そこを起点に毎年『TOKYO DANCE MUSIC WEEK』というイベントをやっていくんです。中山さんにも昨年こちらの一環で登壇してもらいましたね 。


※コロナ禍のフーランスの実演家、DJ、ラッパーなどへの文化支援ための
ヒアリング、要望でアーティストたちと共に文化庁を訪問。

 

NAZWA!で私NazとWatusiが『TOKYO M.A.A.D SPIN』でナビゲーターをやりはじめるのはそこから2年後、コロナ禍でのリニューアルのタイミングですね。私はそれ以前から同番組のブッキングを担当していた経緯もあり、リニューアル版の制作を全面的に受け継ぐかたちとなった経緯です。

そこから3〜4年間は、コロナ禍まるかぶりで放送していくという苦難の道のりでしたが、ライブハウス、ナイトクラブなどの文化施設支援を行ったり、番組からたくさんの企画やアイデア、書籍やイベントが生まれたり、なにより素晴らしい繋がりの数々に未来を感じることができています。

これは応援してくれているすべてのみなさま、出演者、協力者、スタッフ、ナビゲーターの全エネルギーがグツグツと熱量を帯びているからこそだと思います。今、うちの番組がFMの深夜帯で一番"活きがいい"のではないでしょうか。考え方としては、もはやラジオ番組にとどまらない"Culture3.0"イノベーション、時代や社会をつくっていきたいという現場の想いを集積した未来へつながるマルチカルチャー・ベースになっているのではないかなと自負しています。

 

 

――:最後に伝えたいことはありますか?

国内エンターテインメント業界は、3.11以降、風営法改正やコロナ禍という困難を乗り越えてきた中で、明確に見えてきたものと見えづくなったものがあると思っています。経済的な不況やここのところの円安も重なって、予算や制作費は剃られているのか中抜きされているのか (笑) っていう感じでとにかく現場に余裕がない。

インボイス制度施行も相まって、企業から仕事をもらうような立場のフリーランスにとって、国内においては冬の時代といってもいいでしょう。「40代は厳しい」と多くのクリエイターや先人の方々が言うように、いわゆる中堅世代の困窮やモチベーション低下などの所謂"惑い"が結構目立つというところが目下課題だなと感じています。なんというか成功体験がほとんどないまま、昭和や平成の「おもしろい」を基準にした破天荒でちょっと無茶なものづくりやオトナたちのやり方を遠目で子どもの頃から眺めながら、自分も大人になったら無茶して頑張っちゃえるのかな、これで飯食えるのかな、という部分を出鼻から挫かれたような感覚があるのかもしれません。

今、芸能界をはじめ、エンターテインメント業界で時代の変化によるアップデートが求められている中で、実は最もアップデートされるべきは、0から1を生み出すクリエイター、表現者たちの権利や尊厳、価値なのではないかと思うんですよね。世界から東京のカルチャーが憧れの眼差しで見られている間に、クリエイターやアーティストという表現者たち="才能"がもっと活動しやすく、羽ばたいていくための時代のアプデをしていくべきです。そのための環境や仕組み、あるいはファンドや組織などに関わっていきたいし、私がチームを率いてつくるというのもいいかもしれません。

あとはメディア改革。10代の頃から携わってきて愛着というか情というか、やっぱり品格ある日本人が世界の良心の一端を支えていってほしいというのもあるし、豊かな日本語という言語によって形成されてきた文化やコミニュケーションはもっと大切にしていきたいと思っています。メディアやマスコミのあり方はもちろん、手段ではなく目的がもっと明確化し、アプデされていけば、時代も社会も良くなっていくと思っています。

その先陣をきるような動きをラジオ含むメディアなどを通じてやっていきたいと思っています。世界とタッグを組んでエンターテインメントを盛り上げたいし、その先の未来も見たいなと。まだまだ戦っていきます!マルチカルチャーのストリート・ファイターとして。

 

会社情報

会社名
Re entertainment
設立
2021年7月
代表者
中山淳雄
直近業績
エンタメ社会学者の中山淳雄氏が海外&事業家&研究者として追求してきた経験をもとに“エンターテイメントの再現性追求”を支援するコンサルティング事業を展開している。
上場区分
未上場
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