【連載】日本発コミュニティマネジャー村上雅彦。ゲーム開発会社、BitSummit運営から東急クリエイション拠点まで…中山淳雄の「推しもオタクもグローバル」第91回

中山淳雄 エンタメ社会学者&Re entertainment社長
/

常々日本には「コミュニティマネジャー」という人材が足りないと思っていた。欧米では『Call of Duty』擁するActivision Blizzardや『League of Legend』擁するRiot Gamesなどで「ファンを集めて、盛り上げる」という役割で高給のコミュニティーマネジャーポストがバンバン募集されていた。かたや日本のゲームとなると「CS(カスタマーサポート)担当」としてほぼバイトのようなクレーム対応の仕事が多かった。そうした違いを北米ゲーム業界で感じていた私としては、日本型コミュニティマネジャーとはどういうものかを長年探し続けてきた。そこで出会ったのが若かりし頃アメリカを放浪し、VRゲームでアワードを受賞し、自分のゲーム開発会社をマネジメントしながら、BitSummitの運営から東急のShibuya Sakura Stageなどで代表理事なども兼任する村上雅彦氏だ。今日本のインディーゲームの状況などを伺いつつ、日本におけるコミュニティマネジャーとはどういう型なのか、ということについて考えてみたい。

 

【主な内容】
任天堂城下町で育つ開発者たち。パルワールドやサクナヒメなどインディーゲームが今熱い理由
アーティストとしてアメリカに居着いた9年間、日米アート教育の違い
VITEI BACKROOMの社長時代。VRゲーム“ナンパ"でプレステVRへ展開
「クリエイターのコミュニティ醸成」に人生を賭ける。クリエイティブになれる環境・構造をつくる試み

 

■任天堂城下町で育つ開発者たち。パルワールドやサクナヒメなどインディーゲームが今熱い理由

――:自己紹介からお願いいたします。

Skeleton Crew Studioの村上雅彦です。よろしくお願いします。

――:BitSummitの実行委員のお一人とお伺いしております。

そうですね。私自身は3回目の「BitSummit2015」から運営に参加しています。最初は単なる出展社だったんですが、2014年に『MODERN ZOMBIE TAXI DRIVER』というゲームで大賞をいただいたこともあり、何か運営側でもサポートしたいと思って2015年から委員会に入りました。

――:いまや2万人以上が集まり日本における最大のインディーゲームの祭典になったBitSummitですが、10年前にたった1社が始めたんですよね?

キュー・ゲームス(QG)のディランさんが始めたものですね。BitSummitは2013年にイベント会社にも頼らず、QG社が1社で始めたんですよ。5名の社員だけで集めてみたら、最初から30社も出展社が集まり、200人も来場するような騒ぎでした。ただそうはいっても最初は手ごたえもよくわらかなくて、「これ、やった意味あったのかなあ」と言うような状態だったと聞きます。

※キュー・ゲームス社:1982年からあった英国Argonaut Gamesと任天堂と協業で『スターフォックス』(1993年にスーパーファミコンで発売された3Dシューティングで約300万本売れた)シリーズを創ってきた天才プログラマであるディラン・カスバート氏が(任天堂にも常駐して働いていた)、2001年に京都で立ち上げた会社(アルゴノートは2004年に倒産)。1990年に来日したディラン氏は当時17歳で、彼が作った3Dエンジンに興味津々だった任天堂の約30名もの開発者たちに囲まれ、その1人が宮本茂氏であった。

 

――:村上さん自身はどうしてBitSummitとかかわりがあったんですか?

僕が勤めていたヴィティ(VITEI)という京都のゲーム開発会社が、キュー・ゲームスと兄弟会社のようなところだったんですよ。同じ『スターフォックス』を開発していたジャイルズ・ゴダード(Giles Goddard)さんが2002年に京都にきて設立しているんです。キュー・ゲームスはその後ソニーとの仕事を増やしていたので、むしろ『シータ』(2007年、ニンテンドーDS)や『スティールダイバー』(2011年、ニンテンドー3DS)など任天堂と共同開発を続けていたのはVITEIのほうなんです。

だからジャイルズさんと主催者のディランさんがすでに友人の状態で、社員である僕がBitSummitに遊びに行っていた、という感じですね。僕もアメリカのゲーム業界をちょっとみていた関係もあって「日本のクリエイター達もこんなに元気なんだ」と思ったのを覚えています。

※ヴィティ社:1990年にディラン氏とともに3Dゲームを開発するためにArgonaut Gamesから派遣された3人のうちの1人であったジャイルズ・ゴダート氏(当時18歳)が2002年に京都に設立した会社。『スティールダイバー』は2004年にE3で出品していたところから宮本茂氏に(声をかけられ推敲を重ねながら2011年にリリース)。

――:こうやってみると、キュー・ゲームスにしてもヴィティにしても、任天堂ってあれだけ大企業になっても様々なインディーを育ててきたんですね。『ポケットモンスター』だって1989年に社員2名だったゲームフリークと膝つきあわせて宮本さんが企画をたたいて、、6年かけてようやく1996年に出たわけですから

そういう意味でも、「京都でインディー開発者の祭典をやっている」歴史的な意味がありますよね。

我々はインディーであることを忘れないためにもう10年たって規模も大きくなってますが、いまだに長机を並べただけのコミケのようなスタイルでやっています。「インディースピリットを忘れない」をポリシーにしています。クリエイターであればお金持ちだろうと貧乏だろうと同じなんです。

――:どんどん豪華になる東京ゲームショーと違うところですよね。しかし、もう10年なんですよね。以前大阪のPLAYISMさんもインタビューしましたが2010年代前半は「インディー砂漠」とも言える状況でした 。こうしてみるとSteamが爆発する2017年ごろから連動するように来場者も爆発していますね。

インディーゲームという言葉自体がちゃんと普及していくところに、BitSummitも貢献できたかなとは思いますね。

――:もう今年で言うとやっぱり『パルワールド』(2024年1月19日、発売後5日間で800万本売り上げ、Steam同時接続は歴代2位の200万人越え)が全てを変えてくれました。

間違いないスター作品ですよね。溝部拓郎さん(開発元ポケットペア社長)もこの界隈の人ですよ、以前Bitsummitにも出してくれていました。だから僕からすると「ようやく日本で世界中で騒がれるヒットが出たのに、なんでもっと応援しないのかな?」って感じですよ。日本からインディーの面白いゲームが出た、ということで海外からもこれだけ注目を集めているのに。

――:なんか日本の体質が出てますよね~。だからいつも周りに気を遣ったゲームになりがちな国なのに・・・BitSummitで生まれたヒット作品もあるんですか?

『天穂のサクナヒメ』(2020年、当初3万本目標だったが累計100万本が売れた)とかもそうですね。BitSummitで出していたえーでるわいす(開発会社)さんをマーベラスさんが面白いと見出して、そこから企画がたちあがった、と聞いてます。

  

■アーティストとしてアメリカに居着いた9年間、日米アート教育の違い

――:村上さんはいつごろからアートのお仕事をされてたんですか?アメリカに長く行っていたとお聞きしてます。

滋賀県生まれで、昔から絵を描くのが好きだったので大阪芸術大学の専門学校に進学したんです。在学中に西海岸のアートに影響を受けて、ちょっと3カ月アメリカに足を延ばしてみるつもりだったんです。そしたら結果的に9年間いることになりました。

――:ずいぶん長居しましたね!大学の交換留学とかですか?

いや、本当に何も決めずに3カ月滞在しようとオープンチケットで行っただけなんです。初めて足を踏み入れたら、「この国すごくいいな。このままいたいなあ」と思うようになってしまって。なんとなく現地の駐在員の方と仲良くなって、そのベビーシッター(ホントは就労ビザじゃないから、ダメなんですが!)みたいなことをしてお小遣いを稼ぎながら、居着いてしまったんです。

――:いや、それ才能ですよ。あんな物価高い国でそんなに長いこといれないですよ。

途中からは学生になりました。最初のほうに9.11が起こって、あ、もうこれは帰国しなきゃダメなやつだと思ったんですが、速攻で免許を取りに行って最低限身分証としての免許は確保しつつ、現地で知り合った人が大学の事務員だったんですよ。それで絵を描いて見せたら、推薦してScolorship(奨学金)通しておいたから1セメスター(1学期)くらい通ってみたら?と言われた先が、Academy of Art University(AAU)でした。

※Academy of Art University:1929年にサンフランシスコで設立された生徒数約1.8万人の米国最大規模の美術大学。

――:そんなにスルリスルリと知り合いづてでいけるものなんですね。村上さんのアーティストとしての腕は米国でも通用するものなんですか?

日米で美術の教え方も対照的でしたね。日本って体系的に教わることがあまりないんですよ。まずは精神論から始まって演習・演習と自分なりの作品づくりをとにかく回数をこなす。でも米国はとにかくロジカルで、最初に色の色相環みせられてセオリーから入ったり、人体のアナトミーを全部頭に入れるところからスタートです。日本で方向性もわからないままにトレーニングさせられ続けていたから、むしろアメリカの教育のやり方も楽しくて。

――:アメリカのほうがその分よいアーティストを生みやすいんですか?

それはそうとも言えなくて、今となってはそのハイブリッドが必要だよな、と思います。米国は米国で体系立てすぎて技術から学ぶので、皆同じようなパターンにハマりやすいんですよ。日本のほうが身体で覚えながら色々試すのでそれはそれで新しいものも生まれやすいんです。

でも厳しかったですね。もう3回遅刻するとFail(落第)するような厳しい大学で、もう9年間在米時代は、常に僕は2時間睡眠でしたよ。学業にバイトに仕事にっていろいろやっていたのもありますが。

――:どういうところで日本の学生は有利不利があるんですか?

やっぱり英語力ですよね。アートってコンセプトを創るんですが、最後それを先生に講評もらうときに「プレゼンテーション」があるんですよね。

もちろんArtはなんでも作っていいというのはあってもFundamental(基礎的)なものでの「正解」はあるんですよ。それを外しているとそもそも講評のときも素通りです。だから基礎を組み合わせて自分なりの表現を創る。ただその時に作品の技術的な上手い下手はなんとかなっても、そのコンセプトをプレゼンテーションするのが僕とか日本人学生は厳しいんですよね。だから量で圧倒しなきゃと皆が1個つくるところを3個作ったり。

――:『ブルーピリオド』でハラハラしながら勉強しました。教授めっちゃ怖いですよね。

ただ一発勝負ってわけじゃないんですよね。ちゃんと最初の週はコンセプトをつくって見せて、次に軽いラフと方向性でサムネイルと言われるものを10個くらい出してみてもらって、次にラフスケッチ、カラーコンポジション、ほぼ本番に近い作品状態、そして最後の最終段階と何段階も見てもらっているから教授と生徒の間にも「約束が積みあがっていく」感じです。その約束を守らずに途中で外れると、やっぱり素通りです。自分の作品を前に何のコメントもなくスキップされたときの気持ちは・・・もう表現しがたいですね。

そういう意味では学生のうちから「プロ」として見られているなという緊張感はあって。それで毎日2時間睡眠、ですよ笑。

――:あーそれはなんだか論文執筆の過程と同じものがありますね。でもアートスクールも他の米国大学と同じで課題ツメツメなんですか?MBAなんかも学費も高いので2年間で卒業しないとというプレッシャーも強いんですが。

単位制で別に4年間できっちり卒業するものでもないから、僕自身は休学なども組み合わせながら現地でコンセプトアートの仕事をしたりしていました。だんだん仕事をしながら自分の特性が分かってくるんですよ。自分はゼロイチじゃなくて、とあるゲームのコンセプトアートを描いてくれとか、ゴールや目的がはっきりしているほうが性に合っていた。

   

■VITEI BACKROOMの社長時代。VRゲーム“ナンパ"でプレステVRへ展開

――:9年間アメリカにいて、どのタイミングで帰国されるんですか?

リーマンショックがあった後の2009年です。当時はリストラの嵐が吹き荒れているなかで、同じ実力があったとしても日本人である自分がアウェーであるアメリカで生き残っていける勝算が見えなくなっていたんです。街中にもホームレスが増えて。それでさすがにもうアメリカにい続けるのは難しいなと思って帰国したんですが・・・日本も日本でだいぶ不況になっていた印象でしたね。ものづくり企業が自信をなくしていて。

ただ大阪だけじゃなくて東京も含めて方々で就職活動していたんですが、もうアメリカに染まり切っていた僕としては日本人としてのお作法が失われているわけですよ。なんか建前的なやり取りが上手くできなくて、きっと態度もアメリカかぶれで悪かった様な気もします。そこで出会ったのが、イギリス人が社長をしている京都の会社VITEIです。そこから初めての京都暮らしです。

――:VITEIではどんなことをされてたんですか?

2009年に入社した時は5人くらいの小さな会社でした。社長が外国人だった事もあり、アメリカ帰りの僕もすんなり溶け込むことができました。それがだんだん増えてきて、最終的に退社する2016年には30人くらいになってました。

僕は決められたプロジェクトをかっちり進めるよりも、有志を集めて勝手にR&D的なプロジェクトをクリエイティブに色々やってみるが好きだったんですよね。だからVRゲームを作っていたんです。2013年ごろでしょうか?

――:それもめちゃくちゃ早いですね!?VRゲーム元年が2016年、FacebookがOculus買って話題集めはじめたのがそもそも2014年ですよね?

そうなんです。インディーゲーム界隈にも顔を突っ込んでいたので当時からVRは追いかけていたんですよ。それでできたのが『MODERN ZOMBIE TAXI DRIVER』です。街中でタクシーを運転していると乗ってくるお客さんが全部ゾンビで、急停車するとそのゾンビがガンガンにフロントガラスにぶつかったり、車から飛び出してしまうようなゲームです。いわば『Crazy Taxi』のOculus版ですね。

ラグドール物理といって、アニメーションじゃなくて物理演算でキャラクターを動かすもので、まだVRもほとんど普及してなかったのでGDC(毎年3月にサンフランシスコで行われるゲーム開発者たちの祭典)に一番安いチケットで入って、並んでいるお客さんにプロトタイプ版をプレイしてもらったりしました。

――:え!ゲリラ的にプレイしてもらうんですか!?物凄い売り方しますね!?

ブース出すお金もなかったですしね笑。ホントに「ゲームしませんか?」って世界中から集まった開発者をナンパしているようなものです。そうしたらその中にソニーコンピューターエンターテイメント(SCE)でPSVRの構想検討チームの人がいて。面白いからプレステでVRゲーム出さないか、と。それでサンタモニカスタジオと一緒に開発していったんです。

――:スゴイ成功例ですね。その売り方できた時点で革新的かもしれない。GDC2014ですよね。僕もいましたよ、ソレ笑。続編は作らなかったんですか?

いや、それが一緒にPSVRで作っていたチームが2016年4月にSCEからソニー・インタラクティブエンタテイメント(SIE)に整理統合される少し前に連絡つかなくなっちゃうんです。日本のSIE担当者から「あの大賞とったゲームってどうなったんですか?」って聞かれるくらい、担当者もチームもまるごと転職してしまったり組織再編の中でIPをどっちの会社がもっているんだっけ?もよくわからなくなってしまって。

――:いやー外資あるあるですね。チームの権限が強い反面、リストラや組織再編タイミングでR&Dモノが一掃されたりしますよね。

まあでもそれがBitSummitアワードで大賞を頂いて、その後のキャリアにつながっているわけだから結果オーライですよね。

――:村上さんはどういう立場で作られているんですか?プランナー?

僕自身はアーティストでデザイン部分を担当するんですが、そういう“部活"を勝手にやっているうちに会社になっちゃうんですよ。VITEI Backroomという子会社で、出世なんて興味なかった僕が初めて社長をやらせてもらいました。自分でPL責任をもって会社を運営するという経験をしたことで、これまで考えもしなかった「起業」という選択肢が出てきたんです。

でも1クリエイターが社長をやるのって難しいんですよね。数字見たり、営業したり、契約まいたりしながら片手間にアーティストもやるんですが、そうなると現場でどんどん進行しないといけない中で僕の担当部分がボトルネックになる。そして「社長」という肩書がつくと、自分が描いた自体も微妙だなと思っていてもだんだん批判を受けることがなくなってくる。そうしたことがあって、徐々に現場から離れ、社長業に専念するようになりました。

  

■「クリエイターのコミュニティ醸成」に人生を賭ける。クリエイティブになれる環境・構造をつくる試み

――:BitSummitも運営に入って3年目の2016年、ちょうど『Zombie』のゲームプロジェクトがSIE再編の最中で終了していくなかでご自分で起業されます。この会社名はどういう意味があるんですか?

Skeleton Crewっていうのは船乗りの用語で、「少数精鋭」みたいな意味なんです。今は27名社員もいますがほとんどが海外の出身者ですね。しかもはじめて日本に来ましたという海外の開発者などを受け入れることも多くて、「日本に慣れてもらう」ためのエントリーの仕事などを多く受けていたりします。

――:なかなかのサイズですね!30名規模のゲーム会社をやりながら、Bitsummitの仕事というのは副業的な感じになるんですか?

いや、どちらも同じくらい力入れてやってますよ。実はそれだけじゃなくて食としてのレストランや酒蔵のアドバイザーやってたり、インバウンドの富裕層の遊び場づくりとか色々やっているんです。大きなものだと、この「渋谷あそびば制作委員会」というのを東急不動産さんと一緒にやってます。

2024年7月に渋谷駅南口で駅直結30秒のところにShibuya Sakura Stageというランドマークビルが出来るんですが、その中で「404 Not Found」(サイトのエラーページで表示される記号)という名前を使って、ゲームクリエイターの遊び場を作ってます。

 

――:おおー委員会見ると見事に専門が散らばってますね。こういう案件はどうやってアサインされるんですか?

人づてなんですよ。最初は東急さんで1つのフロアを食とかクリエイティブなものに開放しようとして小川弘純さんが食のプロデューサーとして色々な飲食店を誘致していたんです。小川さんと、友人の伝手で知り合うキッカケがあり、東急不動産が渋谷でゲームを起点に盛り上げて行きたいという事で、村上に白羽の矢が立ったんです。

ゲームで街を盛り上げるためには、ゲームコミュニティーだけで盛り上がっても新しい事は起きないと思い、アート方面の石川武志さん、クリエイティブの松倉早星さん、音楽の庄司明弘さん、などの様々なジャンルのプロデューサーにお声がけをして、渋谷にインディーゲームのクリエイターを集めるために力を貸して欲しいと呼びかけたんです。そんな仲間達で、一般社団法人を立ち上げ、色んなジャンルの大人から遊び方を学べる「404 渋谷ゲー術大学」みたいな企画を立ち上げ、今絶賛進めているところです。

 

――:なんと。しかも小川さんと並んで「代表理事」なんですね。こういうのってお金目的だと割に合わないこと多いですよね。村上さんのモチベーションはどういうところにあるんですか?

別に公共心とかボランティア精神がとかじゃないんですよ。「なんかやらないと気持ち悪い」という本能に近い感覚なんですよね。本来インディーって利益主導で動くものじゃなくて、面白いからやってますよね。

可能性の塊のようなインディークリエーターがバラバラに散らばっている状況がとても気になるんですよ。じゃあオープンにして、風通し良くして、情報交換しながら一緒にやってスゴイもの作ろうよ。そういうコミュニティづくりにつなげていくことを、Skeleton Crew Studio の法人としても、BitSummitのような社団法人にしても、個人としてもお手伝いしているというだけです。

――:こういうのって逆に不動産会社とか広告代理店だとできないものなんですか?

意外に不動産ディベロッパーがコンセプトつくっていることってそんなに多くないんですよね。ビルは建てたんだけど、そのフロアどうしようか、ってあとから考える。それで代理店に依頼すると、そちらはそちらでお付き合いしているクライアントを配慮したものになるので「丸くなった」よくわからないものにおさまりがちなんです。そういうのはしがらみがなくて、しかも個人クリエイターで面白い人と繋がっている僕のような中立的な人間のほうがうまくいきやすいみたいです。

ものをつくる以前に「ものづくりの環境を整える」ことってすごく重要なんですよね。でも皆最終的なアウトプットにしか興味なかったりする。だから結果が出やすくなるような仕組みづくりを僕らが考えるんです。

――:しかもこういうのって「スーパーなクリエイター1人」を呼んで、あとはその人の周りにいる人を泥縄式に、というのも多いですよね。

僕はFine Artの世界にもいたので比較すると、ゲーム産業のよさってメインの人じゃなくてもちゃんと仕事があることなんですよね。全員がステージにたっていなかったとしても、エンジニアもデザイナーも皆裏方としての仕事がある。これだけ多くのクリエイティブに関われる人をたくさん雇用できているという意味でゲーム業界の存在意義は大きいですよ。

構造があるから幸せなクリエイティブの世界にたくさんの人がいられる。でも同時にその構造があるがゆえに、搾取もされるんです。いいもの作れる人が、兵隊のように安月給で埋没させられちゃったりもする。その均衡点となるような、クリエイティブな人たちの「場」づくりを目指したいと思ってます。

――:とてもわかります。作品や利益を求める方向性が個人の最適とズレていく瞬間はあります。村上さんの場合は、それがどこまでいっても「個人」なんですね。

僕自身がやっていることって、全部「クリエイターのコミュニティ醸成」なんですよ。Skeleton Crew Studioという会社もありますが、これって会社の形態はとってますけど「会社のために」じゃなくて「関わるクリエイターのために」の組織形態なんです。チームとして誇れるようなプロダクトを作りたいという気持ちもありますが、それ以前に個々がちゃんと食えて、生き残れる組織に、ということで受託の仕事も色々やっています。プロダクトファーストになりすぎると、今度はその作品・タイトルを生かすために個人やそのキャリアが埋没させられたりするんですよね。

無名の人たちにチャンスがない、という構造が問題なんだと思ってます。『パルワールド』もその前の作品をポケットベアが作ったときに何十社というパブリッシャーから断られてますよね。高額な開発費の勝負になると、そうしたノンブランドな人・チーム・会社にチャンスがまわってこなくなる。そこに機会と仕事をまわす、ということをSkeleton Crew Studio でもBitSummitでも、これからShibuya Sakura Stage でもやっていこうと思ってます。

会社情報

会社名
Re entertainment
設立
2021年7月
代表者
中山淳雄
直近業績
エンタメ社会学者の中山淳雄氏が海外&事業家&研究者として追求してきた経験をもとに“エンターテイメントの再現性追求”を支援するコンサルティング事業を展開している。
上場区分
未上場
企業データを見る