【連載】中山淳雄の「推しもオタクもグローバル」第23回 特撮はアニメになれるのか―海外に挑戦する日本の映画監督

中山淳雄 エンタメ社会学者&Re entertainment社長
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日本映画はドメスティック―日本実写映画の海外におけるプレゼンスはアニメとは比べる幕もない。だが、映画の歴史を振り返ると、日本は20世紀の間は世界に冠する映画大国であった。そしてその栄華の時代を経験しながら、インドネシアや中国で戦隊・ライダーなど特撮の海外展開に野望をもやしている映画監督がいる。映像業界に身を投じて以来、広末涼子・北川景子といったトップ女優とドラマを撮影しつつ、戦隊シリーズから仮面ライダーまで40年以上映画・テレビドラマ一筋でやってきた舞原賢三監督である。今回、「特撮は世界を獲れるのか」というテーマに基づき、インタビューを行った。


■高齢化する500人の映画監督協会、薄給のなかで苦しい職業

――:自己紹介からお願いいたします。

舞原賢三と申します。1980年ごろから映画・テレビドラマ制作に携わり、21世紀に入ってからは『スーパー戦隊シリーズ』『仮面ライダーシリーズ』や『美少女戦士セーラームーン』等の特撮モノを多くを監督してきて、現在はフジテレビ『クロステイル~探偵教室~』が撮影クランクアップしたところです((2022年5月中旬インタビュー時点)。また、日本映画監督協会の理事もやっております。

――:日本の映画監督ってどのくらいいるんでしょうか?

日本の映画監督全員が監督協会に入会しているわけではないので、正確な数は分からないですね。ただ、自称映画監督も含めるとそうとうな数になるでしょう。中山さんが今持っているスマホのカメラは4Kですよね。解像度としては映画館のスクリーンにかけられます。実際スマホで撮影した映画もあります。そう言う意味では1億総監督かも。笑

ちなみに60歳過ぎの私でも、監督協会に行くと実はいまだに「若手」扱いなんです。日本の人口比率と比例して高齢化しています笑。

現在500名弱の所属者がいて、1/3は最後に監督した映画から長い時間がたった巨匠の監督達がいて、1/3は映画学校の講師など他の仕事を主としている人たち、現在もコンスタントに映像作品を撮り続けているのは1/3くらいといったところでしょうか。そもそも日本映画監督協会、いつごろからあるか、ご存じですか?


――:え、監督協会ですよね??どうなんでしょう、戦後に出来たとかですか?

226事件なんですよ。1936年に陸軍将校がクーデター起こしたあの日に監督協会が設立、戦時中は政府の要請により解散、復活したのが1949年。設立当初は、旧5社(東宝・松竹・東映・日活・大映)と言われる映画会社所属の監督を中心に映画監督の地位向上と映像分野の発展のために活動をしていましたが、情報交換と親善の意味もあったと思います。

その後1975年に著作権法が変わってそれまであった監督の著作権が剥奪されてしまいました。それに対抗して映画監督に著作権を取り戻すことを大きなテーマとして活動している団体でもあります。


――:一応DVDなどパッケージの1.75%で監督印税ってありましたよね?

パッケージや配信等の作品の二次使用料の事ですね。特別の契約や出資をしていない限り映画がどんなにヒットしても監督には1円も入りません。しかもその二次使用料、あくまで映画会社とテレビ局との“協定”なんですよ。実は法律として権利確保が明文化されていないんです。それが1975年の法改正時、映画会社も財政厳しかった時代なので製作側に有利な仕組みになってしまった。反対もほとんどないなかで、「監督にはとっぱらいで対価を支払う。ただし作品の“著作権者”ではない」、というのが現在まで続く制度的なスタンスなんです。


――:1975年のその法制化のタイミングで、なぜすんなり監督たちは権利を手放してしまったのでしょうか?

そのころは、社員監督として映画会社に所属していれば映画は撮れましたし、給料も悪くなかったので、それほど危機感が無かったのではないでしょうか。東大・京大に入るより映画会社に入社するのは難しいなんて言われた程、エリートが映画会社に就職する時代でしたから。


――:そして70-80年代で会社員として雇用された監督が殆どいなくなり、皆個人事業主(フリーランス)になったわけですね。支払われる出来高の給与も低くなっていくので、その後、一気に権利にセンシティブになってくるんですね。今の若い監督も協会に所属して、声を上げて権利を獲得しよう!という話にはならないものなんでしょうか?

もう新進気鋭の若手監督は自分達で会社つくっちゃってますね。そこで出資をしたり版権ごと自社でおさえたりする。なので中々若い監督が入ってくれないのが現状、それに伴い監督協会の高齢化がどんどん進んじゃうんですよ。でもね、著作権が監督に無いと、他者に勝手に映画の内容を変えられたりする可能性もあるので、要注意なんですよ。


――:そもそもなんですけど、映画監督っていくらくらいもらえるものなんですか?

うーん、映画のサイズによってまちまちですが、、、1本100万とかですかね。いっても1本300万、もっと安い場合もしばしば。しかもそれで自分で脚本まで書いたりしますからね。


――:え、えええ!かなり時間かけてますよね?ロケハンから撮影、あとの編集までいれると、制作スタッフから役者まで皆が費やす2倍くらいの時間は動かれていたイメージが。

そうですね、だから半年とか、ものによっては1年越えもありますから。それでいて、安いギャラ。監督印税が期待できるほど、パッケージもそんなに売れないですからね。親戚の子が映画監督になりたいって言ったら私はとりあえず反対しますよ(笑)


――:まじですか(笑)なぜ舞原さんは映画監督に、、、(笑)

映画産業ってピークが昭和33年(1968年)だったんです。当時は儲かりすぎてお金を段ボール箱に足突っ込んでぎゅうぎゅうに圧縮して銀行にもっていたみたいな話も聞きます。ちなみに「ゴールデンウィーク」は映画館が連休で物凄く儲かったから言い始めた言葉です。

その後テレビに制作の中心がうつりはじめて、一応私がこの業界に入った1980年頃はまだそんなに調子は悪くなかった。テレビ局で3時間ドラマを当時の金額で3億円で制作する、っていまでは考えられないほどの高予算ですよ。

最近、話題になってましたが、『ゆれる』『すばらしき世界』などヒットを飛ばしている西川美和監督が、『女性自身』で「監督は専業で暮らせない。映画の価値が低いと思わされる」と心情吐露していて、世の中に激震が走りましたね。彼女が食えないなら、一体誰が食べていけるんだ!と。そのくらい苦しい職業です(笑)。

 
■「寝ないと人間は転ぶ」―物理的に4カ月寝れない連続ドラマの地獄

――:あと映画制作のブラックな職場環境はいろいろ悪名高いですよね。

今は少しは良くなりましたよ。私が若手のころ(80年代)って、連続ドラマの撮影って1時間ドラマ13本を4カ月くらいで作るんですけど、、、寝れないんですよ、殆ど。


――:え、寝れない?さすがに数日間連続ですら不可能ですよね、人間として。

いや、ホントそのギリギリのレベルですよ。4カ月本当に寝られなかったんですから。やること多すぎて、キャスト含めた全員の弁当の発注しながら、小道具チェックして、ロケ場所の地図書きながら撮影現場もやる、みたいな感じで。当時、だいたい朝方3時ぐらいまでやってなんとか当日やることは終わって、やっと休める~となっても、もうあと2時間後にはキャストが入ってきちゃうんですよ。熟睡しちゃうとマジで起きられないので、そのまま座ったまま寝て、5時にスタジオ入りした最初の俳優さんに起こしてもらうとか。人間、そんな状態を数週間続けるとどうなると思います?


――:イライラというか、、、もうそもそも会話とか、できる状態じゃないんじゃ、、、

そう、言葉出てこないんですよ。言葉が。上司も大して寝てないんで、ピリピリして怒鳴るんですよ。「お前、アレもってこい、アレ!」「はい…アレってなんですか?」「アレ・・・アレってなんだ・・・(ぐう)」で、その瞬間で上司も眠ってるとか(笑)。漫画みたいですよね。

あと、当時はカメラがつながっている直径5センチくらいのケーブルがスタジオのそこらじゅうにはりめぐらされた。これによくつっかかるんですよ。普通の人間だと、かるく跨げばいい話なんですけど、そこに面白いくらい毎回ひっかかって毎回転ぶ。学びましたね、「寝ないと人間は、転ぶんだ」ってね。


――:いや、ちょっと不眠不休官僚とか不眠不休コンサルの話はたくさん聞いてきましたが、、、それはさすがに常軌を逸してますね。不眠不休監督って、本当に生と死の境目のような。

でもそのくらい連続ドラマの撮影って地獄だったんですが、最近やったら驚きますね。ちゃんと週1日、「撮影休暇」があるんですよ。まあその日も仕事しちゃうんで、完全には休めてないですけど。でも4カ月寝れない、みたいなことはなくなりましたね。この業界も少しは良くなりました。


――:邦画市場って1980年から2000年くらいまでずっと下がり続けますよね。90年代後半からジブリアニメを筆頭にアニメで復活してきますが、実写映像としてはどんどん厳しく、テレビ業界に人材が流出していく。この時代、どうやって映画人材はサバイバルしてきたのでしょうか?

まずバブルがはじけた時、使えない人間がクビになった。実はこれはまだ幸いなんです。早いタイミングで次の仕事に転身できましたからね。次にデキる人間が自分から辞めていく。彼らはどこでも活躍できますから、異業種・異業界でもうまくやってます。

私の世代でいま映画業界にいるのは「最後に残された」層で、私のようにどちらでもなかった人間が多い印象です。この層が、なんとか映画からテレビに、テレビから配信にと、コストカット圧力のなかでなんとか食い続けてきたというのが現在に続いている動きだと思っています。

■血を吐きながら撮影した『闘牌伝アカギ』、点1円の闇雀荘で麻雀の真実をAVから学ぶ

――:1981年に専門学校を出て映像業界に入った舞原さんは、鈴木則文監督に師事しながら助監督としてずっと映画やテレビドラマに関わり、監督デビューは1993年『マエストロ』ですね。

カチンコ※7年やってましたからね!監督デビューは早いとはいえず、下積みは長いほうだったと思います。当時、フジテレビの制作をしていた共同テレビでいくつか作品についていて、そのときのご縁でそろそろデビューしたら?と1993年に最初の監督したドラマを撮りました。
※カチンコ:Clapperboardで映像のスタートとカット時に黒板式のボードを「カチン!」と打つ役割。


――:そこから30年で30作品以上も監督されていますが、いままでで一番自分として“傑作”がつくれたと思える作品はどれですか?

うーん、難しいですね、いろんな観点があるから、、、。でも一番“燃え尽きた”作品でいうなら、1995年の竹書房さんの『闘牌伝アカギ』かもしれません。


――:それはどういった点ですか?麻雀ドラマって特殊なジャンルですよね。

はい、ある日突然「舞原、麻雀やったことある?」と言われ、「はいはい、あります。よく知ってます」といって仕事をとってしまったのが運の尽き。学生麻雀ぐらいしか知らない私は、焦ってバイトで賭け麻雀の現場に潜り込んだんですよ。ホントこの近くに雀荘があって(@インタビュー現場の早稲田大学周辺を指さして)。

ヤバイ麻雀荘なので、点棒使わないんですよ。1点=1円で、その場でお札を場にのせる。お金も1回ごとに清算。役満に振り込むとその場で4-5万払って。リーチは1千円を丸めて目の前に出す。目の前でガンガン1万円札が舞っていましたよ。


――:まじですか!すごい“闇”雀荘感ですね(爆笑)

「負け抜け」のルールでやっていて、振り込んだり、財布が空になった順に場から抜けていく。だからまわりを常に7-8人取り囲んで、誰かが抜けると誰かが補充される。まわりでは負けた人間が壁のほうで寝転がって高いびきをかいている。強い人間だけがその場に座り続けることができるんです。

ビビったのは「ちょっと、兄ちゃん、トイレいってるから、牌並べといて」とバイトだけど代わりに打たされた時です。


――:怖くて手が震えそうですね!?恐ろしすぎる。

とにかく失敗しない様に、牌を倒さないように、そそうをしないことで精一杯。ただ、映画屋の性分で、「これはいいところに居合わせた!」と映画作りのためにとにかくその瞬間の空気をつかまえよう、としました。気づいたのは、誰も相手の顔、見ないんですよ。しー――んとした静寂のなかで、全員、場の牌だけに全集中している。

手牌もバラバラに置くんですよ。ゲームみたいに、きれいに萬子(マンズ)・筒子(ピンズ)・索子(ソウズ)を数順に置いちゃうと、裏からでも「萬子の高め、低め狙ってるな」とかバレるので、とにかく自分にしかわからないようにばらっばら。

ツモって牌をみて、場を見て、牌を入れて…1つ牌を捨てるまでに撮るべきカットを数えたら「38カット」。この緊張感や動きをなんとか映像にしようとしました。


――:それ、カット多すぎですよね!?どこまでとるんですか?

ある時、竹書房の方に言われたセリフがあります。

竹:「監督、AV見る?」
舞:「・・・??み、、、見ますっ!」
竹:「あれ、インタビューとか見る?」
舞:「飛ばしますね」
竹:「飛ばす、よな。早送りして。絡みだけ見るよね?」
舞:「そうですね」
竹:「麻雀映画にとっての絡みは手牌だ!!!」

それでズガーン!と落ちましたね。一番の主題である絡みを見せないといけない。手牌をどう見せるか、そこに雀荘バイトの経験がフルで生きたんです。それ以前もヤクザものやエロを絡めたドラマとしての麻雀モノはあったんですが、純粋に「麻雀というゲームそのもの」を主題としてドラマにしたのは、あの『闘牌伝アカギ』が一番最初じゃないですかねえ。

 
――:では1カ月撮影準備前にがっつり麻雀漬けなり、撮り方を考えて撮影に臨まれたんですね。そこまで本気だと確かに作品としても全然違うものができそうですね。

必死ってよく言うじゃないですか?必ず死ぬって書いて。本当にあのときって必死だったんですよ。たぶん撮影終わったら死ぬかもと、思いながら撮っていた。

実際、撮影中に血を吐いたんですよ。「カット!」って言った瞬間にゴポッと胃からこみあげてきて、そのまま吐血した。ゴフッて感じで。胃に穴が開いてたんですよね。でもそのまま、撮影続行でした。そのくらい、当時全身全霊をかけて、あの雀荘の緊張感を生で伝えるようにいかにこの作品を残すか、と命かけて撮ってました。


――:そうした経験はそのままその後の作品につながっていくものなんですか?

テーマも全然ちがいますからね。そのまま使えるわけじゃないんですが、ただ「あれだけやれたんだから、もうなんでもできるよね」と覚悟がつく感じですね。でも、もうあんな撮り方は2度とできない。


■広末涼子・北川景子・檀れい、輝く女優たちと戦隊・ライダーから教わったこと

――:本当にいろいろな作品を撮影されてますよね。逆に苦手だったり難しかったものは?

2003年『美少女戦士セーラームーン』(2003-04年、東映・東映AG・電通・中部日本放送)は最初自分にはまったく向いていないと思ったんですよね。男性俳優だったら思い切り指導しても遠慮なかったんですが、うら若き女優さんばかりで、かなり気を使いました。実は結構面白くとれて。火野レイ役の北川景子さんも役にぴったりでしたね。

麻雀の時もそうですが苦手だと思っても、やってみるもんですよね。これだけ原作がすごい作品だと、ふつうに映像をとっても原作の劣化版にしかならない。そうした中で武内先生に信頼して頂けたというのもあって、良い作品がとれたかなと思います。


――:やっぱり女優さんってすごいんですかね?

凄いですよ!『木曜の怪談 悪霊学園』(1997年、フジテレビ)のときに主演女優は広末涼子さんでしたが、本当に、びっくりするほど、輝いてました。スタジオ入りで待っている時に、遠くから車を降りて撮影所に向かってくるんですが、人ごみの中でもすぐわかるんですよ。あ、広末さんがきたなって。輝いてますから。

「華がある」ってよく言いますけどね。いろんな女優さんを見てきて思いますし、あのときの広末さんは本当にオーラが凄くて、きっと生命力が強いんだなあと感じました。


――:『クロステイル』の檀れいさんも、拝見していてもすごい存在感を感じます。

本当にそうですね。若手俳優が多い中だから、彼女が現場を引き締めないとっていう役割だからだと思うのですが、撮影現場でも彼女の演技の思い切りの良さが派生して、ほかの役者さんにもすごく影響を与えています、


――:ある意味華やかな俳優さんたちとの世界から離れ、2000年代に入ってからは一転して、戦隊やライダーを担当されるようになります。その時期はどんな感じだったんですか。

正直に告白すると、最初は腐ってたんですよ。もう2000年代に入って、撮影費もどんどん削られて、撮りたいものもとれない。そんな時、プロデューサーから戦隊シリーズの仕事を頂いて、まあやってみるかと『百獣戦隊ガオレンジャー』(2001年 - 2002年、東映)からはじまります。東映特撮は独特の“ムラ社会”のようなものがあって、僕のような新参者があとから入っていくのは結構珍しかったんです。

当時は「ジャリ版(※子供向けのチープな作品というニュアンス)」と言われていて、映画や一般のドラマから低い地位と思われていて、自分の中でもモヤモヤしたものが有りました。でも中澤祥次郎チーフ助監督(現在はバリバリの監督です)と飲みに行って、「特撮って面白いところ、どこなの?」と聞いた時、迷いの一切ない瞳で「照れずにカッコいいところを撮れるところですよ!」と言ったんです。これはカッコいいな!と。自分もこうやって誇りをもって、特撮の一番面白いところを表現したい!もっと良くしたい!って思いました。

変身したり、玩具をうまく差し込んだり、制約も多いんですが、うまくそこの文脈にのせて、自分なりに泣ける話などちょっとずつアレンジしていくうちに、一部では「特撮ヒーローモノの監督」と呼ばれるようになりました。


――:仮面ライダーも撮られてますよね?

はい、戦隊とライダーは当時はそれぞれ独自のスタンスで、スタッフの行き来があまり無かったので、両方とも撮影していた監督は珍しかったはずです。『仮面ライダー電王』(2007年 - 2008年)から始まり、キバ、オーズ/OOO、ウィザード、ドライブと結局2010年代半ばまで仮面ライダーを撮ってましたね。僕の作品で一番売れたものというと、この電王かもしれませんね。テレビだけじゃなく映画も撮らせてくれましたから。


――:特撮といえば東映さんですが、お付き合いってほとんど東映さんになるんですか?映画業界でいうとこの2010年代は東宝さん一強というくらい、東宝も強かったですが。

東宝さんでも『超星艦隊セイザーX』(2005年 - 2006年、東宝・テレビ東京)を撮りましたね。川北紘一さんという「東宝特撮の天皇」と呼ばれる人がいて、とにかくものすごい辣腕なんです。平成ゴジラの特撮監督をした方と仕事をご一緒できると興奮しました!

そんなに撮影予算も無いはずなのに、ここまで出来るんだ!とにかく東宝伝統の巨大戦が素晴らしかったですね!


■前世のせいで紆余曲折、米国→インド→インドネシアでの特撮撮影

――:舞原さんの作品群をみると、下記のようなヒストリーだったのかなと認識しています。

80年代:下積み時代
90年代:テレビ局でドラマ作品撮影
00~10年代前半:映画会社で特撮撮影
10年代後半:特撮の海外化


――:そもそも、なぜこの5-6年を海外に焦点を絞られたのかをお伺いしたいです。本来的には日本の映画監督ってドメスティックなものですよね。

まあ、人によって考え方が違うと思います。私の場合、海外はアジア中心に活動していますが、最初はハリウッドだったんですよ。アメリカのスタジオにツテがある人と出会って、この機会にアメリカで映画を撮ろう!と。調子に乗って以前からやりたかった「恋愛映画」を提案したんですが、現地で実績のない日本人監督が撮った恋愛モノなんて米国でウケるわけがない。あなたの武器は何ですか?と言われ、特撮モノなら行けるかもと思いました。

当時既に米国では日本の戦隊ヒーローものを再構成した『パワーレンジャー』がありましたが、私から見ると日本の良さもアメリカの良さも充分に発揮されていないような感じを受けました。現地で一から作ったら日本の戦隊ものでもない、アベンジャーズでもない新しいものが作れるのではと、企画を始めました。


――:戦隊シリーズは米国で『パワーレンジャー』として90年代に米国中を席捲したポケモン前の大ヒットシリーズでしたしね。バンダイもその当時にロサンゼルス・トーランスで“パワーレンジャー御殿”といわれる自社ビルを建てました(現在は売却済)。2010年代前半当時、確かに勝負したら絶対面白いと思うのですが、、、

 
ただそれが、途中でプロデューサーの降板もあって頓挫してしまって。せっかく英語で企画書もつくったわけだし、そのままアクション好きのインドにもっていこうとなりました。早速コーディネーターと一緒にインドの財閥に営業にいったんですよ。そしたら・・・インドだと普通なんですかね?お偉いさんがずっと仏頂面で全然のってこなくて、最後に口を開いたと思ったら「俺は乗れない、なぜなら・・・こいつの前世が気に入らないからだっ!!」って。


――:前世!?それ、どうしようもないですね。

生まれた瞬間に詰んでましたね。私はインドで現世中は撮影できないという運命に(笑)。インドからガックリと落ち込んで帰ってきたら突然「インドネシアで特撮ヒーローモノを撮りませんか?」と全く別の方から声がかかり、とあれよあれよという間に流転していって。実はインドネシアの最大手のテレビ局集団の会長の息子さんが戦隊・ライダー大好きだったのです。

石ノ森プロや伊藤忠商事、バンダイなどがタッグを組んで、かなり鉄壁の布陣で、特撮作品が決まりました。日本の戦隊の輸出は商標の問題もあったので、これはインドネシアのオリジナルヒーローをつくってしまおうと、「BIMA-X」を作ります。インドネシアの長い歴史のなかでも、これが最初のオリジナルIPなはずです。


――:ネシアってキャラクターないですもんね、、、番組も買ってばかりですし。

インドネシアだと、「コンテンツは買うものだ」と言うのが頭からあるんですよ。Disneyを代表とする北米・欧州の映像メーカーが安い金額でどんどん途上国に入れている。それで良質なコンテンツが次から次へと変わるんですよ。『スターウォーズ』シリーズでも1週間で上映終わっちゃったりするんですよ。そのくらいジャブジャブで大量の北米映像コンテンツがどんどん入って、高頻度で抜けていく。これも北米ハリウッド系の新興市場開拓の一手なんでしょうね。


――:インドネシア初の国産ヒーローBima-Xが『SATRIA HEROES REVENGE OF DARKNESS』として制作されます。2016年当時、私もシンガポールのバンダイナムコスタジオにいて、アプリゲームでもずいぶん盛り上がっていたのを覚えています。

人気はすごくありました。映画としてもうまくいったのですが、ただそれに後続する玩具が売れたのかというと、やはり60-70年代の日本のように可処分所得の問題もあって、映像をずっと制作しつづけられるほど、消費額が伸びない。ということで、コンスタントには継続制作できないけれど、すこし時間間隔をおきながら、ちょっとずつ制作するという形で、こちらのシリーズもまだ残っております。


――:その後、特撮の中国展開も手掛けられましたが、、、実現しなかったのが本当に残念です。

いいところまでいったんですけどね。中国のテレビ局がバックについて。残念ながらコロナで途中でプロジェクト中止になってしまって、中国での特撮ヒーローづくりは現在中断しています。


■ハリウッド式で台頭する中・韓映画―滅びゆく日本映画文化をどう救えるか

――:映画監督が1本100万という話がありましたが、13.5億円の制作費をかけた『パラサイト』がアカデミー賞を受賞し、24億円制作費の『イカゲーム』がNetflixで視聴トップ作品となりました。韓国映画はそこらへんの相場も違うのでしょうか?

違いますね。中国も韓国も映画作りはハリウッド型に寄ってきています。脚本にもきっちりお金をかける。映画ではこういう言葉があるんです。「1すじ(脚本)、2ぬけ(ロケ場所)、3しぐさ(演技)」、そのくらい脚本が最初でもっとも映画のクオリティーに重要なところ。日本では一人の脚本家、多くても2、3人程度で書きますが、、中・韓ではダイアローグ専門でセリフだけ書く脚本家とか、時間もかけて管理分業体制でつくるようになってきました。


――:脚本の書き方も一度みたときに全然違うのに驚きました。

日本の脚本は省略の美(笑)と言うか、基本ト書きとセリフしかない。“行間を読め”と言われます。配役がそのときに何考えて、どういうシーンでどんな表情でこのセリフを言っているのか。だから監督の裁量が大きくて、その行間を読んで自分なりに解釈したものでつくる。

米国式は違いますね。感情の機微まで全部脚本に書いてある。「男は悲しくて天井を見上げながらたばこの煙を吐く。煙は男の心をなぞるようにうねりながら消えて行った」なんて、心理描写まで事細かに指定してある。様々な人種や考え方の人が読んでも分かるようにしているんだと思います。脚本に対する考え方が違いますね。


――:ゲーム制作も全く同じです!仕様書がめっちゃ細かい北米に対して、日本は「ざっくり書いたから、あとはいい感じに仕上げてくれ!」みたいな、まさに行間を読む仕様書ですね。

アメリカの監督には大抵編集権がありません。役者も慣れたもので同じシーンを別アングルから撮影するために何度も芝居する。いかに同じシーンを大量のカットを量産できるかというマスプロダクションに力を入れています。それを今度は編集の専門家がつなげて、ベストなストーリーにしていく。だからあとからローカライズなどといったときにすごく応用の幅がある。分業でつくられる米国映画は、天才的にローカライズがうまいので、どの国にも合うように映画を再構築できる。

日本ですと時間が無いこともありますが、監督の頭の中で行間をよみまくったうえでのワンストーリーで編集がつなぎこまれているので、あとからの改変・追加などが難しいんですよね。現在、中国は自国だけで映画業界がペイできます。これがハリウッドのように外にバンバン出て行くようになると、世界での日本の映画市場は増々厳しくなりますね。


――:90~00年代の日本にお金があった内にテレビ局・映画会社が積極的に海外にでていけなかったことに課題があるような気もしています。そのくびきが今も日本の「未来への期待感のなさ」につながっている。

まさにそう思います。国内が洋画に圧倒されて邦画自体が厳しかった時代が有り、現在では邦画が盛り返していますが、どうしても「守り」に入ってしまって、なるべく安全なほう安全なほうにいったのがこの時代でした。

例えば、学校を出て映画産業にもぐりこんで運よく監督になったとしても、貧すれば鈍するような制作のなか、少しでも安定した収入を得るために映画学校の教職を得て生活を維持する。そうした縮小均衡な市場で、そこの生徒にとっても「そもそも教師をしている映画監督が金持ちでもなく、華やかに活動もしていない」。だったら夢を持てないですよね。という未来のなさが、いま直面している問題です。


――:どうしたらよいと思いますか? 日本の映画関係者としては、今どのように、この現状に取り組むべきなのでしょうか?

まず人材作り。すなわち金です。身もふたもない言い方ですが金の無いところに人は集まりません。韓国が映画産業で成功しているのは、国として映画を輸出産業として位置づけ、計画的な人材育成と、映画業界に対する総合的なバックアップをしているからです。

日本も今すぐこれを見習わなければ手遅れになってしまいます。今やらなければいずれ日本の映画産業は先細りして行くでしょう。

そして、海外への進出。日本はコンテンツの宝庫です。これを放っておくのはもったいない!日本の文化や技術をもって、「原作」でも「監督」でもピンとしてお金があつまるアジア圏で世界を狙える映画作りができるかどうか、そういうところから始めるのも良いと思います。


――:人材と金、そして海外展開。これは他のコンテンツ業界も全く同じですね!北米やアジアからも日本の映画は求められているのでしょうか?

少なくともゴジラやウルトラマンを撮りたいというハリウッドの一線級の人材はまだまだいます。特撮をもっていこうとするともろ手をあげて歓迎してくれる各国の最大手のテレビ局がいる。意外な意思決定者が、いまも日本コンテンツの大ファンだったりする。そうした「余波」が残っているうちに、ピンとしても企業としても海外に出ていく歩みをとめていはいけない、と思います。


――:舞原監督としてもこれからの目標はありますか?

私の場合だったら「特撮ヒーロー番組」をノウハウごと輸出し、継続可能な産業にする。インドネシアで出来たことを、中国、タイ、ベトナム…と広げてゆき、アジア版アベンジャーズなんて面白いですね!

と言いつつ現在、コロナ禍で中々海外に出られ無いので、海外進出の準備と並行して新しいジャンルにも挑戦していきたいと思っています。

あとAR・VR・XR・メタバースの中で映画やドラマはどう変化するのか?というところにも興味があります。今のところ、残念ながらこれらと映画はあまり相性が良くありません。しかしブレイクスルーするために日々勉強しています。映画監督と先端技術のコラボに興味のある方はご一緒にいかがですか?笑

 

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