2025年は多くの“エンタメ未開の地"に足を運んだ。中国内陸部の湖南省 、成都・重慶経済区 、中央アジア にインド 、そして東欧ポーランド などなど。ただそれでもいまだに足を踏み入れていない地域が、南米・中東、そしてアフリカであった。2025年に第9回TICADアフリカ会議が開催され、日系企業のなかで「アフリカにも日本のアニメ・ゲームを」という言及がなされ、昨年ははじめてこの業界から「アフリカ市場」に目を向ける発言も増えてきた。今回はアフリカ事業展開をするYoren社の仲介により2026年5月南アフリカで行われたComic-Con Capetownに参加する機会を得た。同社は以前中国におけるカードゲームのCRMシステムなどを提供している会社でもある 。果たして「日本エンタメをアフリカに」という動きはどこまでポテンシャルをもつものなのか、研究してみたい。
・前編:アニメイベント五大陸制覇。ONEPIECE・マリオに沸くアフリカは日本エンタメの“新大陸"か
・中編:世界最後のフロンティア:南アとエチオピアでみたアニメファンの消費実態
■「中国」「インド」「アフリカ54か国」、それぞれが14億人の成長国家

南アはアフリカ大陸のなかでは「超先進国」である。続くのがエジプト、アルジェリア、ナイジェリアだが、1人当たりGDPでいうと南アの半分以下。アフリカ全体からみれば人口の4%だが全体GDPの14%を担う南アは、ある意味アフリカ大陸を先進国とつなぐ架け橋のような存在でもある。だがその南アですら、アパルトヘイト後の歪な状況は前編<>で語ってきた通りだ。
世界の人口の集積地といえば、中国とインドでそれぞれ14億人。いま世界のトレンドは「成長率がカーブに差し掛かっている中国」と「これから伸びるインド」と言われるが、そこに対してインドの10倍サイズの大陸に、アフリカ54か国でこれまた同じ14億人が住んでいる。中国とインドは「隣国」であり、この二か国のライバル関係のなかで中国企業はなかなかインドには進出しにくく、おどろくほど中国の製品・サービスが浸透していない、という鎖国性もインドの特徴である。Waves編< https://gamebiz.jp/news/405386> で語ってきたように、米国がインド市場に近づいてきており、それと同じように中国はアフリカ市場に近づいてきている。
もちろん発展途上ゆえの成長率ということもある。だがGDP成長率だけみれば7%→4%と落ち着いてきた中国、いままさに7%の急成長期を迎えているインドに対して、各国の平均値でみてしまえばアフリカ大陸は3%超。途上プロセスだからといって中国やインドのように一気に急成長するには政治的な安定性、投資があつまる経済基盤やスムーズな貿易など社会的インフラがそれなりに成熟してくる必要がある。大国には違いないが、そこにベットしていくには、まだまだ欠けているピースが多すぎる。
それならば成長自体は停滞していても、同サイズのGDPをもつイギリスやフランスを開拓していくほうが…というのも一つの選択肢だろう。英・仏は人口では0.6億人と1/20なのに、GDPでいえばアフリカ大陸全体と同規模、ということになる。
インド展開にハードルの高い中国が狙いを定めるのは東南アジアや南米、そしてアフリカなどの「グローバルサウス」である。2026年5月からアフリカ諸国53か国は中国向け輸出で「関税ゼロ」となった。1か国スワジランドのみ台湾との外交関係を維持しており、台湾を認める国にはベネフィットなし、というトレードオフ付きである。アフリカ⇔中国の貿易総額は3480億ドル。これは約200億ドルというアフリカ⇔日本の20倍近い数字である。すでに先行してアジアから中国が大きな影響力をもたらしているこれらの地域に、日本が後追いでどんな影響をもちうるのか、というところが試金石である。
こうして1国1国と向き合ってみると、下図があまりにしっくりときてしまう。StockMarketでみるとアフリカ大陸は南ア以外は完全な空白地帯、地図にすらなっていない。の次には欧州があり、アジアは日本と東アジア諸国とオセアニア、でもここにはインドも中東もアフリカも南米も存在していない。「株式市場」ではかってしまうと、世界地図はまったくもって平等ではないのだ。

出典)2016、This world map shows countries scaled to the size of their stock markets
■貧困格差世界一の南ア、極めて深刻な社会不安状態の“リアル北斗の拳"
先進国として“アフリカの星"としての南アだが、今回の出張で私が痛烈に感じた課題は「貧困格差」である。格差を示すジニ係数という指標において世界ワースト1位の0.63が南アであり、2位のナミビア0.59、4位スワジランド0.54、5位ボツワナ0.53、8位ザンビア0.51、10位モザンビーク0.5、なんと南アフリカ共和国を取り囲むアフリカ南部だけで、全世界のワースト10か国の6つを占めてしまう。このジニ係数は0.4を超えると高格差国として「社会不安が起きやすい警戒レベル」(米国0.41)で世界ワースト30に入り、0.5は「極めて深刻な格差」水準として世界ワースト10にはいる。
南アは、アフリカ大陸においてもっとも経済的に成功した国(GDP4千億ドル、1人当たりGDPは6400ドルでエジプトやナイジェリアの倍以上)でありながら、世界でもっとも格差があるという非常に矛盾した状態にある。トップ10%が90%の資産を握り、人口の50%が貧困状態、全体の失業率が30%と非常に厳しい数字だが、それもまた若者の失業率60%を聞いてしまうと感覚がバグってしまう。
あらゆる数字が「壮絶さ」を物語っている。0.6というのは、たとえて言うならば“リアル北斗の拳"として無法者がはびこる凶悪な水準で、たとえば1800年前後のイギリスや帝政ロシア時代も同水準であったと言われる(南アの名誉を守るためにいうと1995~2000年あたりは0.58水準まで下がったが、2005年の6.5が最悪の水準へと悪化した、そこからは近年は0.5代にまで再び改善している状況にある)
なぜこんなに格差が放置されているのかといえば、原因は1948~94年のアパルトヘイト(人種隔離政策)だ。そもそも南アは1994年というつい最近まで「経済格差がありすぎる人種ごとに分離した社会をそのままに築いてきた」歴史がある。給与も学校教育もすべてが違っており、バスもトイレも入口すら分けられていた。このすさまじい分離は、一方では白人を「守るため」でもあったが、一方では黒人が社会的に成功するチャンスを奪うものでもあった。
この国はおおまかに3つの人種で運営されてきた。最初からいた黒人、17世紀半ばに住み始めたオランダ東インド会社の人々(ボーア人)、そして19世紀にナポレオン戦争のあとに占領して南アを植民地化したイギリス人である。もうオランダ人からは400年弱、イギリス人からは200年強という長い時間が経っていても、そこで地層のように培われてきた遺産がアパルトヘイトの助長もあって、ここ30年では到底解決しきれなかった、ということなのだ。

■南アは「もう一つのアメリカ新大陸」、100年続いた差別法が秩序を疲弊させた国
そもそも南アどころかアフリカ南部という地域全体が、(中東とつながる)北アフリカ、(欧州とつながる)西アフリカ、(インド・アジアとつながる)東アフリカと違って長い長い歴史のなかで「孤立した地域」であった。だが、大航海時代に突然世界の注目を浴びることになる。ディアスが発見した喜望峰を、ヴァスコ・ダ・ガマが経由してインドのカリカットに到着したのが1492年の出来事だ。ここに当時ユグノーとして欧州を追われたオランダ人たちが新天地をもとめて南アに移植して住みついた。
17世紀は欧州全体でもオランダの時代だった。ニューヨークはじめ、アフリカ南部・東アジアや東南アジアなどを開拓していったオランダは、16世紀にスペイン・ポルトガルで協力関係にあったイギリスを圧倒する存在となっていったが、今度は英蘭が覇権争いの中心となっていく中で、1651年から始まる英蘭戦争(第一次:1652~52、第二次:1665~67、第三次:1672~74、第四次:1780~84)の約200年にわたる戦争状態の結果として、18世紀末から産業革命を先行したイギリスが勃興していった結果である。
ケープタウン、セイロン島、マラッカなどにも触手を伸ばしていたオランダは、植民地宗主国としては未熟で、その植民国はすべからく英国・仏国の植民地に比べて現在も貧困格差や経済基盤の脆弱さに苦しんでいる。
この英蘭の利権争いの渦中にあったアメリカ新大陸だが、実は南アフリカもまた、ぴったり双子のような歴史をたどっている。まずは「奴隷解放」による混乱だ。1833年にイギリスが奴隷解放宣言を出すと、米国では北部・南部に分かれて南北戦争が起こり、1865年にようやく終結する。南アでもオランダ血筋のボーア人が奴隷解放に反対し、1839~1910年にかけて南アから北部・東部にちりぢりになって自分たちの国を建国し、そこでも黒人たちから土地を奪っていくのだ。1880~1902年のボーア戦争は、イギリスがそうしたボーア人を克服させ、南アにおけるイギリスの支配を確立させるものとなるが、それは同時に疲弊させられた大英帝国時代の凋落時代の始まりでもあった。
そこに輪をかけて混乱を大きくするのは「ゴールドラッシュ」である。米国では1848年にサンフランシスコで金が発見され、一気に大陸横断鉄道の完成と西海岸に移住者が起こったように、南アでも1866年にダイヤモンド鉱山が発見される。金・ダイヤモンドを多く保有する南アは、一気に植民地政策に躍起になる先進国たちの狩場のような状態になり、それがゆえに前述のボーア戦争も苛烈になっていく。現在も世界のダイヤモンド取引で寡占体制を敷いているデ・ビアス社はこの時期に南アに自分の名前をちなんだ「ローデシア」という国家を設立し、南アの鉱山王となったセシル・ローズが設立した会社である。
有名な南ア産のワインもゴールドラッシュのあだ花だ。サンフランシスコもゴールドラッシュがあった瞬間1848年に人口0.1万人が翌年に2.5万人爆増。そこに欧州から4万人も追加で渡航してきたときにワイン生産が始まり、いまではカリフォルニアワインの名産地となっている。これが南アフリカにも起こっていた。
セシル・ローズはアングロサクソンこそが最も優れた人種であると信じて疑わなかった。彼が1890年に制定したグレン・グレイ法こそが、アパルトヘイトの原型であり、それは1913年の英国による植民政策にもつながり、1948年の独立後に「アパルトヘイト」となって、その後1994年まで続いた。「100年続いた差別法」がこの国をめちゃめちゃにしてきた一番の理由にあり、同時に英蘭のボーア戦争も含めてオランダは当時焦土作戦やアフリカ人の居住地制限などで居住囲い込みなどで既存の社会秩序を崩壊させてしまっており、現在も南アにおいて一次産業が脆弱なのはこの100年前の戦争の影響が続いているからだ、という話も聞いた。
アフリカ、特に南アフリカという国は「小さなアメリカ史」だ。奴隷も資源利権もアパルトヘイトも、米国で起こっていた19~20世紀の火種をすべて凝縮して煮しめたような状態が、ほんのつい最近まで続いていた国なのだ。

■なぜ「ネルソン・マンデラ」が生まれたのか
負の歴史は連鎖する。セシル・ローズの差別法は1910年に「南アフリカ連邦」として独立国となった後にも引き継がれ、アパルトヘイト(人種隔離政策)となっていく。500万人の白人が土地の90%を占有し、2500万人いる黒人・インド人は残りの10%の指定された地域のみに住み、選挙権から賃金(賃金差10倍!)にいたるまであらゆる点で差別を行っていく。
1994年に初めて黒人大統領として南アを統治し、ノーベル平和賞にも輝いたネルソン・マンデラは、アパルトヘイトに対抗したANC(アフリカ民族会議)の青年部でリーダー格だった人物だ。1952年に暴動を起こした罪で逮捕、実に1990年に解放されるまで27年間も幽閉されてきた。
損なわれたものは、もう取り戻すことができない。ONE PIECE実写版でも使われたCapetown film studioはまさにこの『マンデラ:自由への長い道』(2013)を作品として残すために生まれている。27年間離れて暮らした彼の妻や4人の子供達との、1990年代に入っての感動の再会は、むしろネルソンにさらなる地獄を呼び込む。もうこの27年間の間に苦しんだ妻や子供たちは、もはや別の人間になっていた。自身も18か月拘禁され、拷問すら受けた妻は、その復讐心に燃え、政権奪取後にはいかに白人たちから土地・財産を取り上げるかばかり考えるようになっていた。白人たちに「赦し」を与えようとするネルソンのやり方は、弱腰どころか白人たちへのおもねりのようにも感じられ、妻も子供達もネルソンから心を離していく。ネルソンは家族と離れて1人で暮らす道を選ぶ。
これと同じことはアフリカ全土を巻き込んだ植民地政策と分断が生み出したものであり、1960~70年代に独立して黒人たちの手で国家運営をしていく時代においてもその負が根絶されぬまま、むしろ失政となって跳ね返ってくる。
ネルソン・マンデラが大統領就任後、待っていたのは「経済的アパルトヘイト」との戦いである。白人から土地・資本の接収を行わず、公約(企業の国有化など)を撤回し、資本主義・自由貿易路線に舵を切った。これは早期の国際社会の信頼構築をする点においてはよかったが(南アから外資が逃げなかったのはこの融和政策のお陰だろう)、逆を言えば差別的な構造にメスが入れられず、貧困層への救済が遅れ、二極化するこのヨハネスブルクの現状につながっている。
アフリカ諸国ほとんどすべてで起こっていた現象だが、独立後は経済も社会秩序もむしろ「悪化」する。南アでは「アフリカのマンハッタン」とまでいわれたヒズブロウ地区など白人たちのビジネス街に、1994年を機に黒人が殺到。かれらが不法に占拠したことでヨハネスの中心街は現在までも犯罪の温床となっている。円柱をくりぬいたような54階建てのポンテ・タワーは、超高級物件という当初の設立意図があまりに皮肉なほどに、80年代後半に白人たちや資本をもった人々が脱出し、90年代にギャングが不法占拠。その吹き抜けの中心部には14階分までゴミや死体が積みあがる恐るべきタワーとなってしまう(00~10年代に何度も大規模改修プロジェクトが立ち上がり、現在になってようやく約500世帯が暮らす「比較的手ごろで安全な集合住宅」となっている)。
急激な人口増や移民問題のなかで失業率も飢餓問題も21世紀に入ってすら解決できていない。1994年にルワンダ虐殺、そしてHIVである。1990年代に都市部で15~25%といった感染率で、性交渉などによらず母子感染でそのままエイズ保有者の温存、寿命早期化が続いている。隣国との関係性・移民問題もその課題を悪化させる一つの理由だ。ヨハネスブルクはなぜ治安が悪いのか。1人あたりGDPが$6000の南アではなく、$3000以下のジンバブエや$600のモザンビーク(ここもオランダに並び悪名高い宗主国ポルトガルの植民地だった)などから移民が殺到し、しかも仕事がない不法移民のような状態で人の流入がとまらないので治安はみるみる悪化するのだ。この人口爆発問題はヨハネスブルグ、ラゴス、ナイロビなどアフリカにおける巨大都市がすべからく苦悩している問題だ。
独立すれば、自由化すれば、よいという話ではない。「支配されていた時代」に破壊されつくした秩序や社会体系は、もう取り戻せない。その後の成長をささえるインフラが失われた状態で、それらを独力で再構築できる国は多くはない。アフリカの多くの国が独立を勝ち取っていったのは1960年代だが、実はその後同じような経路をたどる。そこに自分たちの手での国家・経済運営をしていくが思うようにいかずに光と影が交錯していくのが1970年代。そして1980年代は「再び行く手は闇に閉ざされたようだった」というのがアフリカ大陸の戦後史なのである。
■人類の起源アフリカ、決して「暗黒大陸」ではなかった中世
アフリカ単一起源説というのがある。1987年に発見された学説で、人類のDNA塩基を調べるとボツワナ(南アの北部)にいた16~20万年前一人の女性に結びついた、というものだ。人類はここから始まったと言われ、先史時代における四大文明の一つ、エジプトは紀元前3000年という気が遠くなるような遠い遠い時代から「文明」を生み出してきた。
だがそれにも関わらず、文字や建築などを残してこなかったことで研究の洗礼を浴びることなかった。アフリカは広すぎるがゆえにその統一的な国家・民族・言語のまとまりがなかったのだ。この大陸全土に2000もの言語集団が散らばっているが、その一つ一つの言語でも実は地域的なまとまりがなく分散しており、隣接集団がまったく会話できないといったことも珍しくない。それは「集住文化」がなく、一族を中心に土地や牧草をもとめて移住を繰り返してきた「収穫・収奪型文化」という特性によるものだ。
10~15世紀にはそれなりに王国というまとまりができ、社会的秩序があった。東アフリカではインド交易で栄えたジンバブエ王国があり、「海のシルクロード」で繁栄を極めていた。投下労働力に対して収穫カロリーの大きいバナナが5世紀ごろ導入されることで、この大陸が滋養できる人口規模が革命的にあがったことも大きい。サハラ砂漠も南から黄金を、北のイスラムから文明物から思想まで取り入れた「外世界とのハイウェイ」として機能しており、コートジボワールやなどの西アフリカ、そのなかでも1490年にコンゴに最初に訪れたポルトガルはその整備された官僚制に驚き、欧州にきわめて近いものを感じていた、という記述も残っている。
■資本主義の要請で「商品化された」奴隷たち
ポルトガルもまた決して強国だったわけではない。彼らが「東」を目指した大航海時代は、1453年にオスマン帝国が東ローマ帝国を滅ぼし、陸路で香辛料が手に入らなくなった商業的理由に端を発している。それと同時に十字軍の失敗以来、イスラーム勢力に怯えたキリスト教徒たちはプレスタ―・ジョンの伝説などアフリカに宗教的な結束をもとめて旅立ち、およそ1415年セウタ占領から1498年インドカリカット到達まで1世紀近くかけて東にたどり着いたのだ。イスラームが強国オスマンに閉じられ、約100年近くかけてポルトガルが模索してようやくたどりついたのがアフリカ経由のインド・東南アジアなのだ。
植民地の最大の被害大陸ともいえるアフリカだが、16~17世紀の時点では欧州がそれほど侵攻していたわけではない。当時はポルトガルとオランダが「香辛料」をもとめて経由地として使っていたにすぎず、奴隷貿易にしても違法に“乱獲する"ようになるのはしばらくたってからの話。王国やエチオピア王国などアフリカにも(文字を残さなかったので後続して語られていないが)王国はあり、そこが貿易商品として奴隷を用いていた。
この悪名高い「奴隷」制度も、実は元来アフリカ自身が内包していたものでもある。16~19世紀の間、アフリカの諸王国は「交易品」として奴隷を輸出し、欧州の国々はあくまで経済活動の取引の中で奴隷を扱っていた(もちろん王国がない場所では“乱獲"のようにコミュニティから拉致・奴隷化していた事例もある)。これは欧州も同様である。「奴隷」のスレイブは、元来東欧のスラブ人に由来する言葉だ。西欧が東欧の異人種を奴隷化させていた制度が、18世紀に新大陸で大量の労働人員を必要とした際に、「商品としての奴隷」としてそれが黒人に入れ替わっていったのだ。
しかもアフリカ内においては、そうした奴隷にも一定の人権があった。彼らは一定期間を拘束されたのちに自由民化させており、あくまで“捕虜"のように一時的なものでしかなかった制度が、大航海時代以降の世界経済に巻き込まれ、17世紀に擁護する組織も制度もない新大陸(特に中南米が過酷な労働環境だった)で、人権ごと売り払ってしまうような無制限なものに変わってしまったのだ。。
こうした歴史を紐解くと、アフリカは決して一方的な被害者ではなく、むしろ欧州とアフリカが出会ってしまい、時代の要請があって「奴隷」という制度が共同開発されたかのようにすら見える。

■奴隷輸送は18世紀、植民地化は19世紀末
だが新大陸のアメリカを巻き込む「世界全体の植民地化」は意外にも後年の話だ。18世紀までは各国が港町こそ占領しているものの、ほとんど欧州人のコロニーのようなものは作られておらず、あくまでその興味は「交易の中継地点」にあった。だがそんな欧州が「資源の収奪地」としてのアフリカに強い視点が集まるのが19世紀という時代なのだ。
18世紀後半から19世紀前半に産業革命による人材や資源確保の経済的要請によって行われ(英国がオーストラリアを1788年、ニュージーランドを1840年に植民地化)、四回にもわたるポルトガルとの戦争で(1630~から3回にわたって英国とポルトガルは戦争、なんと米ソ冷戦の42年間よりもずっと長い150年にわたる戦いの歴史)南アフリカを1780年に併合し、スペイン艦隊を沈めたナポレオン戦争後にイギリスが世界史のなかに躍進していく時代がある。
16世紀に米国に送られるアフリカ奴隷は年2000人“程度"に過ぎなかった。それが18世紀は年5.5万人と30倍近くになっている。イギリスとポルトガルが先を競うように奴隷を新大陸に送ったのだ。その数は累計で1200~2000万人(しかも平均15%が輸送中に死亡)とも言われる。向け先はブラジル4割・カリブ3割・アメリカ2割といった具合だ。これがいわゆる悪名高い「三角貿易」で北米・カリブからタバコと砂糖が欧州に入り、欧州からアフリカに廉価商品が運ばれ、そしてアフリカから奴隷が送られるのだ。19世紀に入ると英仏は奴隷貿易を急減させており、むしろその時代まで粘り続けたのは中南米の砂糖プランテーションなど労働力を過重に必要とし続けていたポルトガルやスペインである。

出典)玉木俊明『手数料と物流の全経済史』2022東洋経済新報社
この蛮行をドライブしたのはあくまで資本主義的な動機である。世界の石炭の2/3が英国によって生産され、工場労働者には子供が2/3を数えるほどになった 。産業革命で英国が世界に突出した「大英帝国化」する華々しい歴史は、もっとも人権の蹂躙と個々人からの収奪が激しかったヤバすぎる時代である。例えばイングランド銀行の年間休日数は、47日(1761)→44日(1808)→40日(1825)→18日(1830)→4日(1834)と、この期間にほぼなくなっている 。女性も児童も巻き込まれ、皆が年間ほとんど休みなく働かされ、資本家が肥え太り、労働者は貧しいまま。それが産業革命で大英帝国が世界をけん引していた渦中にあったリアルな状況で、まさに「リアル北斗の拳」的な社会情勢である。それがのちに奴隷貿易反対、児童労働の規制や就労時間規制などの度重なる工場法改正(19世紀前半)と救貧法(1834)の興りにつながっており、徐々に労使関係が整備されていくのが19世紀後半になってからの話だ。
■アフリカ争奪戦は「奴隷貿易禁止後」にむしろ過激化
だが収奪によってはやばやと世界一になった英国は、今度は「奴隷廃止例」によって、むしろ後続してこようとするポルトガルやオランダ、フランス・ドイツといった他欧州諸国がわたる橋を切り落とそうとする(1807年に英国が奴隷貿易廃止、米・仏・蘭が1815年までに追随)。それは決して「欧州人が人権意識に目覚めた」わけではない。人格ごとに管理を擁される奴隷制度が、産業革命をすでに経て欧州~新大陸~インドをつなぐ世界貿易システムを備えた英国にはむしろ重荷になり、“自由な"賃金労働者にしたほうが新時代の取引に有利だったからに過ぎない。さらに商品を売りつける対象としての「アフリカの市場化」もまた、英国人の興味対象になってくるからだ。
イギリスが主導する奴隷制度廃止は、人権を尊重する判断だったというよりも、労働集約的な需要が逓減して、機械化が完成してくる中であくまで「英国にとっては重要ではなくなったから」にすぎない。奴隷の価格も1780~1820年の間に$40から$20に半額化しており、新たな取引は奴隷→象牙となり、その象牙の乱獲を終えて象の絶滅を迎えるころに新たに発見されたのが「アフリカのゴールドラッシュ」である。
決して無尽蔵ではない。この1600~1800年はアフリカ大陸の人口が1億人だった時代だ。そこから毎世紀ごとに300~600万人といった数の奴隷が送られ、その半分以上が「事故死」していたことを考えると、この時代の欧州が生んだ世界システムの悲劇を実感せざるをえない。
そもそも18世紀になぜこれだけ奴隷輸送が加速したのか。それは今のAIにもつながる話だろう。ホイットニーの綿繰り機が発明されると、綿から糸を取り出す工程が十倍速にもなったことで、むしろ「綿花から綿をつむ」という人手の労働力がより需要されるようになる。機械の発明が資本と生産の巨大な歯車をつくり、その歯車を生み出すための人力がより必要になることで雇用需要が高騰し、足りない分をアフリカからの奴隷で埋めようというものだった 。

だがその奴隷急増が今のアフリカの貧困の根本原因ではない。むしろ世界的な産業革命のなかで先進国の競争に従属し、植民地としてただ資源を供給させられるように「植民地化」したことが、むしろ奴隷制の廃止以降こそが、アフリカの悲劇の始まりなのだ。
つまり、アフリカの疲弊の根本はこの「奴隷」にあるのではない。むしろ奴隷貿易が終わり、資源権益をもとめた19世紀後半から欧州列強が植民地化していく過程で、現地でつむがれていた社会的秩序を破壊していったことにある。1880~1910年、たったこの30年にほぼすべてのアフリカ諸国が、英・仏・蘭・独・伊・ポルトガル・ベルギーなどによって植民地化されている(ロシアは中央アジア、オーストリアもバルカン、アメリカも中米・フィリピンなどに向けて同じ動きをしていた時代)。この短期間に産業革命で社会構造が大変革期にあった欧州諸国は、武器技術から科学技術(キニーネ発見でマラリアり患後の死亡率が劇的に下がる)まで「華々しいまでの発展」を遂げており、その実、各国の国内の労働者たちは困窮にあえぎ、植民地は収奪されるままに破壊されつくしていった。
だが「アフリカに文明をもたらすのだ」という進歩史観は、単なるお題目だ。全世界に占領駐在員を派兵していた欧州諸国は圧倒的な人材不足で、結局は文明化どころか植民地からの資源収奪に終始するようになってしまった。1910年に世界で領土1割、人口2.5割、GDP6割だった「西欧諸国」(米国は入っていない)は、実は植民地を入れると領土6割、人口6割、GDP8割を握っていた 。列強11か国が世界全体の半分を経済含めて実質的に支配する、非常に凶悪な時代、それが第一次世界大戦の時代性だった。その中心にいたのがイギリスであり、フランス・ドイツ・オランダ・ポルトガル・ベルギー・イタリア・ロシアといった「列強国」であった。16世紀の大航海時代とは比べ物にならないほど、その列強国の支配のすそ野が世界の末端にまで広がっていった。

■たった30年で陥落したアフリカ各国、100年超続く“植民地時代"の負の遺産
1850年前後が世界経済においてイギリスが頂点ともいえるポジションを築いたタイミングだ。ボストン茶会事件から南北戦争などアメリカにおける利権を失いつつあったイギリスがその大陸横断鉄道とともに、新たなチャンスとして事業機会をみたのが南アフリカの金鉱山、パナマ運河、そしてアルゼンチン・オーストラリア・ニュージーランドである。
この1880~1910年ごろまでの第一次世界大戦にいたるまで「欧州諸国の植民地政策」がぐんぐんと侵攻し、まさにアフリカにおける旧権力の崩壊と傀儡政権による欧州化が進んだ(そしてこれが英国から世界にスポーツが広まり、オリンピックなどが展開されていく一番の契機でもある)。ロンドンは世界一の都市になり、7つの海に太陽が沈まぬ5つの大陸に版図をひろげた大英帝国の全世界を巻き込む資本主義体制が完成していくのだ。
これはまさに日本の江戸幕府の終焉と明治維新のタイミングである。アフリカ諸国の植民地化とその後の苦しい独立までの過程をみていると、まるで「薩長同盟のなかった江戸末期の幕藩体制」だ。正直、日本がどうなっていたかわからない。1905年に日露戦争が世界的にこれほど喝采をあびていたのかと驚くような話を、中央アジアやトルコ、中東・アフリカで聞くことがある。それはまさにこの1880~1910年の全世界の欧州諸国による植民地化のプロセスにあって、非白人としてロシアを撃退したストーリーが、圧搾のさ中にあった被植民地の人々の心にナラティブをもたらしていたのだろう。
世界が資本主義の名のもとに一体化してくると各国の「実質賃金の差」がなくなってくる。移動して移民が増え、1873~1914年の間に実質賃金の差はほとんどなくなっていった 。蒸気船で輸送が安定的に行われ、ロンドンと米シンシナティで2倍あった価格差も、この40年ほどの間に約18%の差にまで縮んでいる 。
世界にものを流通させる仕組みは産業革命以来の英国によって築かれ、これがのちに米国が踏襲していくような体制でもある。植民地のルールや制度の上に、いまも国家運営がなされている。しかもそれはたかだか100年超の歴史なのだが、植民地政策が独立まで続いていた1870~1960年代の100年の制度から、いまだ独立後50年経っても脱皮できていない。遺制が余計な重しになり、むしろそれ以前からあった王制や首領制度などの各国の秩序が「壊された」ことで復帰できない苦しみがある。アフリカの問題は全先進国が「他人事ではない」問題といえるだろう。人類史を相対化させてくれるのがアフリカという存在なのだ。
■植民宗主国のマネジメントが現在の経済格差
今回このテーマで(エンタメと無関係に)執筆しているのにはここの理由がある。アフリカを旅しながら、手当たり次第に書物を読んで、昨年マンチェスターで産業革命の興りをみて、ウズベキスタンでシルクロードが廃れ、インドが独立国家を築きながらイギリスとどんな関係性をつくっていったのかを学んできた私としては、今回の喜望峰まわりで南アもまたその(一時的な)世界的な植民地時代の流れに囚われ、その負の遺産に苦しんでいる、ということが少しでも伝わればと思って執筆している。
現在のアフリカ各国の差は、ある意味当時どの植民地の宗主国に属していたか、という力の差でもある、ということだ。本国で独裁政権が成立し、しかも植民地には初等教育しら施さなかったポルトガル領のモザンビークやアンゴラが現在もアフリカの低開発国であること、イタリア領のリビアやソマリランドがいまだ紛争状態にあること(エチオピアは対イタリアだったからこそ、その侵攻を撃退出来て独立国家が保たれたともいえるが)、こうした元植民地にくらべてみると“マシ"に思えるのが現在の英国領・仏国領である。
ポルトガル領が戦後も長らく植民地でありつづけたのも理由がある。ドイツを支持していなかったポルトガルは第二次世界大戦で制裁を受けることがなく、その専横的な植民体制は維持され続けた。インドのゴア州は武力侵攻によって「1961年」、モザンビーク・アンゴラは数万人クラスで犠牲者を出す戦争によって「1974年」に独立している。植民地も独立も、まだそれが果たされてからまだ半世紀程度しか経っていないのだ。
アフリカにおけるGDPランキングで南ア、エジプト、ナイジェリアが英国領、アルジェリア・モロッコが仏国領だったことを鑑みれば、植民地政策に教育体制整備から現地エリートを育成してのマネジメントまで取り入れた“植民地経営に慣れた"宗主国についていた地域はまだ相対的にラッキーだったということなのだろう。現状でも多くの問題を抱えた南アですら、ポルトガル・イタリア・ドイツ領のその後に比べれば、ずいぶんとその後に発展する社会基盤が残されていた。
またアフリカ諸国が独立していく1960~70年代は労働規制が強化され、ODCDを中心に労使の搾取が極力排除されていく時代だった。実はそれもまた「アフリカの成長阻害要因」と言われている。英国産業革命でも日本の明治維新・殖産興業の時代には「女性・子供などの低賃金労働」があった。だが1960~70年代はアフリカ各国の工業化・製造インフラは思いのほか割高な人件費となり、期待が外れた先進国からの投資もそれほど集まらなかったのだ。なんとも皮肉な話だ。そういった未工業化の状態に、中国などから廉価製品が普及するため、基幹産業化するまえに工業が衰退するという「負の脱工業化」が起こったのがアフリカの現状だ。

出典)宮本正興・松田素二編『新書アフリカ史』2018講談社
■21世紀になってもポストコロニアル時代にあるアフリカ
時系列も文字文化も、アフリカは我々とあまりに違いすぎる。コンゴのリンガラ語で明日は「ロビ」、昨日も「ロビ」、明後日とおとといは「ロビロビ」。すべては「今日」であり、そこから等距離で過去も未来も“今日からの距離"で図られる 。時間軸の継承や歴史といったものに重きをおく必要がなかった土地柄、アフリカはまさにその時系列における文脈やコンテクストを操る力をもたなかったがゆえに、西欧の“蒐集"文化に巻き込まれ、「暗黒大陸化」させられてしまった。
そんなアフリカに今惹きつけられるのは、決まって「明日」に魅了される人々だ。アフリカ大陸14億人は2025年25億人とインドの倍になることが予想されている。ジャックアタリは、文明がすべて西に向かっている(ローマ→英仏独→アメリカ→日本→中国)という説をとなえているが、いまは成熟化する中国からインド、そしてインドから中東・アフリカに向かっているという考え方も応用可能だろう。
いずれにせよ2010年代にエネルギー権益を巻き込む中東などの紛争をへて、アフリカは新たな資源開発国でもあり、「貧困のための援助よりも、投資へ」ということで中国を代表に各国の投資ブーム自体が始まっている。南アフリカという国は先進諸国からみたときにそうした「アフリカ投資の入り口」でもある。

出典)Newsweek、Photographs by JOHNNY MILLER
こちらはアパルトヘイトの負の象徴で、道路を隔てて右左で「家の質」がまるで違うのがわかる。左側には電気も通信もインフラが完備されたいわゆる居住地域で、右は不法占拠もふくめたスラム地域である。空港からCapetown Film Studioに向かう途中にもあるが、コロナ期に家を追い出された人々が2020代に移り住んだスラム地区もある。南アほどの“文明国"であっても、行政がそうした危機に対応できていないのだ。しかしスラム街の彼らはたくましくも電気を引き込み、パラボナアンテナをたてて映像はみているし、Wifiを通じてアニメも視聴しているのだ。
こういった世界線をみて、確信した。だから「ONE PIECE」がいま世界中の人々の心に火を灯しているのだ。「世界政府の支配と『空白の100年』」、そこに立ち向かうルフィ含めた新世代の海賊たち、という構図は、まさにこの植民地の歴史やアフリカの現状をとらえた物語なのである。
NHKスペシャル「新ジャポニズム」(2025年1月放送)ではハイパーインフレで苦しんでいたジンバブエでマンガをかいているビル・マスグさんの話が出てくる。彼の高校時代であった2000年代後半は史上最悪のハイパーインフレがおき、1ドル=12兆ジンバブエドルという水準にまで落ちた。毎時間お金の価値が下落し続けており、しかも食糧危機でお金があっても何も買えない。そんな彼がONEPIECEに救われた、と話をしている。「ロビンが叫んだ【生きたい】という台詞を、自分も泣きながら読んでいたのを覚えています。当時の自分の人生とまさに共鳴した瞬間でした」。「困ったら近所の人に借りる。困っている人がいたら貸す。みんな同じ船に乗っていたんです」 。
あまりに環境が違い過ぎるアフリカになぜアニメやマンガが届くのか。そこには直面する逃れようのない現実の「重さ」に対して、我々が同じ人間として「人間でありつづける」ための心理的な解決があるからだ。それを現実からの逃避という人もいるかもしれない。だが我々が個々人として心に秩序をもち、狭いコミュニティのなかだけでも心を通わせるストーリーがあれば、まるで緑化するようにその空間は少しずつ秩序を取り戻す。社会を変える力になる。それは宗教が人間にもたらしてきたものに近いかもしれない。日本のアニメやマンガには、その力がある。それをアフリカにおいて確信できたことは、今後の私自身にとっても大きな財産になるだろう。






▲どこのスラムでもゴミがうずたかく積み上げられ、道路沿いの原っぱでは子供たちがサッカーをしていた。裸足で。
会社情報
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- Re entertainment
- 設立
- 2021年7月
- 代表者
- 中山淳雄
- 直近業績
- エンタメ社会学者の中山淳雄氏が海外&事業家&研究者として追求してきた経験をもとに“エンターテイメントの再現性追求”を支援するコンサルティング事業を展開している。
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